柘榴氏の憂鬱
＜第九話＞・最終話
きっかけは何だったろうと考えれば、やはりあの夜だったと言わざるを得ない。柘榴氏がルールを侵して初めて僕の部屋に上がり、性の快楽に狂喜した夜。
あれ以来、徐々にだが柘榴氏に変化が表れ始めていた。この表現を使うのはためらわれるが、仕方がない。それは衰弱と呼ぶに相応しい負の変化だった。
体重が落ちたのだろう、頬は痩せて顎が尖り、眼球の周囲は窪んでほの蒼い影を帯びた。もともと白かった肌はさらに透き通って、皮下の微細な血管が浮き上がり、呪術的な装飾めいて得も言われぬ淫靡さを漂わせた。
そして柘榴氏の柘榴氏たるゆえんである眸も、色こそ変わらないものの、艶や輝きの質は確実に落ちていた。
僕はその原因について思いを巡らせたが、答えはすぐに出た。吸血量の不足、それ以外に考えられない。
もちろん足りないといえば僕が提供する分だけでは圧倒的に足りないし、不足分は供給所から送られるジャンクフードで補えるのだろう。
しかし、美食に慣れてしまった舌はそれを受け付けず、欲望の暴走に振り回された結果、斯様な衰弱を晒すことになったのだ。
僕がこのような考えに至ったのには、もうひとつ理由があった。吸血を終えた彼が、性交の途中で再び咬み付こうとして我に返り、必死にこらえるのを幾度も目撃したのだ。
そういえば、まだ血の提供を始める前、地下の喫茶室で彼に無防備に接近したことがあった。すると彼は素早く僕から遠ざかり、欲望の高まりを抑えるため精神を集中させたのだった。
生き餌との密な触れ合いは飢えを加速させる危険性を孕んでいると、彼は先験的に知っていたのだろう。性欲と食欲は直結しているということを。
『ちょっとしたきっかけで飢えを抑えきれなくなる』と彼は言っていた。彼の紳士的で他人行儀な態度は、自分の欲望をコントロールするためだったのだ。
この答えに至って、僕がなすべきことはただひとつだった。ある夜、お決まりの吸血が終わってから、僕は徐に切り出した。
「柘榴さん、あなたは慢性的な飢えに苛まれているのではないですか？」
僕の問いに、彼は苦悩に満ちた沈黙を返した。それは、どんな答えより強力な肯定の証だった。僕は頷いて、
「提案があります。もう少し吸血量を増やしてはいかがでしょうか。あるいは回数を増やすとか」
僕の提案を、彼は必死の形相で拒絶した。
「それはいけません。一度ルールを破ってしまったが最後、欲望の奔流は堰を切ってあなたに襲いかかるに違いない」
「僕は構いません。いえ、むしろそれを望んでいるのです」
「際限なき欲望ほどおぞましいものはない。私は畜生の道に堕ちたくありません。それに、あなたは我々の“飢え”というものを甘く見ている。私は文字通り、あなたを……殺してしまうかもしれないのです」
その言葉を彼が使ったのは初めてだった。その時、僕は恐怖しただろうか。答えは否だ。絶頂にも似た陶酔に惑溺し、恐怖など感じる隙もなかった。
彼に全身の血を吸われて干涸び、息絶えたその瞬間、僕の愛は完全なものになる。そして僕は彼の中で生き続ける。
「覚悟はできています。何度も言ったはずです。僕はあなたのために生きるのだと。ですから―――」
「では私は、私はどうやって生きればいいのですか！」
僕の前で初めて声を荒らげた彼は、張り詰めた空気を撹拌するようにゆるりと頭を振り、
「万が一、私の欲望があなたを殺してしまったら……私は……私はっ……」
言葉にならぬ部分に、彼が抱えている葛藤の深刻さが表れていた。ここに至ってようやく、僕は気付いた。
「柘榴さん、あなたは僕のことを……」
「はい、愛しています。あなたには分かるはずです。この愛が孕む危険性が」
彼は目を伏せて、自分の白い手のひらを見つめながらぽつりと呟いた。
「私の愛は、食欲と切り離すことができないのです。愛せば愛すほど、血を求めてしまう。そしてその挙げ句……」
柘榴氏は唇をぎゅっと噛み締めて、続くはずの言葉を閉じ込めた。口にしたらそれが現実化してしまうと言わんばかりに。やがて、徐に口を開き、
「これは……罰ですね。多くを求めすぎた罪に対する罰だ。与えられた食糧だけで満足すべきだったのに」
「それは違う。愛せば愛すほど貪欲になってしまうのは、あなただけではありません。嫉妬、執着、所有欲……そういった諸々の『魔』に囚われて、人はゆっくり狂ってゆく。愛は全ての人間を魔物にするのです」
僕はそう言って、彼の髪に指を滑り込ませた。そして頭を掴んで引き寄せ、先刻の吸血痕が残る首筋に、鴇色に潤む彼のためだけの秘部に優しく誘導した。
彼の頭は従順に傾き、吸血の先触れである熱く湿った吐息が肌を撫でる。血流は速まり、再び血液が嬉々として首筋に集う。彼に吸われるために。彼の糧となるために。
さあ、早く吸って、吸って、吸って。ルールなんて気にせず、思うがまま飢えを満たして―――
突然、内なる何かに弾かれたかのように、柘榴氏は顔を離した。そして荒い呼吸を隠そうともせず、僕を哀しげに見つめ、
「今夜は……もう帰ります」
「なぜですか？ いつもはもっと……」
未練がましく問いかける僕に、彼は黙って首を振った。そして立ち上がり、一度も振り向くことなく僕の部屋を後にした。
パタン、と音がして扉が閉まると同時に、首筋の吸血痕から生温い液体が染み出し、首筋を伝って鎖骨の窪みで留まった。逸る血液の勇み足。彼の糧になるはずだった血は、行き場を失って戸惑っている。
「ちゃんと舐めて……ねえ……」
いつだったか、同じように染み出した血を彼がもったいないと言って丁寧に舐め取ってくれたことがあった。どれほど嬉しかったか。なのに今は外気に触れて、醜く凝固しようとしている。
僕は素早く指先で拭い、行き場を失った可哀想な血を舐めた。と同時に涙がぽつりとこぼれ落ちた。可哀想な僕の血―――
その翌週。柘榴氏は約束の時間になっても現れなかった。僕は幾度も携帯電話に手を伸ばし、そのたびに強い意志で引き戻した。
そう、約束の時間に遅刻するなんてよくあること。これまでの彼が、時間厳守すぎたのだ。電車が遅れたのかもしれない、途中寄った店につい長居してしまったのかもしれない、しつこいセールスに遭遇したのかもしれない。可能性は幾らだってある。
これが彼自身の意思による遅刻ではない以上、こちらから電話する必要はない。
果たして、柘榴氏はやって来た。呼び鈴が鳴るのを耳にした途端、僕の身体は安堵のあまりだらしなく弛緩した。
生まれたての子馬みたいにぺたんと座り込んでしまったが、何とか立ち上がって玄関まで駆けた。そして扉を開けると同時に、この一週間を彼がどのように過ごしてきたか悟った。絶え間ない飢えは身体を、葛藤は精神を削り、恐るべき衰弱をもたらしたのだ。
優雅にして獰猛な肉食獣の面影はなく、やつれ青ざめた顔は生きることに疲れた草食動物のようだ。
柘榴の眸に輝きはなく、濁った菲膜が表面を覆っていた。眼球全体がふやけたように膨らんで、今にも眦からこぼれ落ちそうだ。柘榴は腐爛の途上にあるのだろうか。
僕は唇をきつく噛み締め、嘆きの叫びを閉じ込めた。今、僕に必要なのは言葉ではなく、極限の行為なのだ。
そうだ、もう一度彼を甦らせるため、僕は身体中の血を捧げよう。首筋に自ら爪を立て、皮膚を引き裂き、血管をちぎり、血を、血を、血をぶちまけて―――――
「月深さん、お別れに参りました」
妄想上の血で染まり上がった脳裏に、彼の凛乎たる声が響いた。それは、衰弱を晒した外貌からは想像できないほど、強い力を秘めていた。
「それはどういう……意味ですか？」
ああ、首筋が疼いている。早く彼に咬まれたいと。なのに彼は、僕に近づこうともしない。
「あなたからの提供を受け続けていたらいずれ、私は欲望を制御できなくなる。本能の奴隷となって、ひたすら飢えを満たそうとするでしょう。そうなってからでは遅いのです。ですから―――」
彼の言葉は、途中から耳に入らなくなった。僕はただ、決定的な喪失感に打ちのめされた。
「あなたも……僕を捨てるのですか？」
「月深さん……」
「また僕は……失敗したの……？」
どこからか、カラカラと乾いた音が聞こえる。何もない、虚ろな容れ物と化した僕の中を風が吹き抜ける音だ。そして眼前には、壊れた『愛』の残骸が堆く積み上がっている。
「月深さん、あなたの責任ではありません。非は私にある。ですからどうか、自分を卑下しないでください。あなたとともに過ごしたこの数カ月は、私の人生でも最良の時間でした。本当に幸せだった。ありがとう」
「僕も……幸せでした。あなたに求められて、あなたのために生きることができて。でも、もっともっとたくさん吸ってほしかった。あなたの飢えを満たしてあげたかった。あなたの孤独を癒してあげたかった。できることならずっと、あなたの傍にいたかった……」
想いが言葉になって次々と溢れ出る。彼はその全てを聞き届けてくれた。
「月深さん、ありがとう。あなたを愛しています。でも……私のことは忘れてください」
忘れられるはずがない！―――ちぎれんばかりの叫びを、僕は喉の奥に押し込めた。僕が彼のためにしてあげられることは、別れを冷静に受け入れることだけ……
「柘榴さん、最後に……キスしてください」
ささやかな願いだったが、彼にとっては拷問に近いものなのだろう。一瞬、苦しげに眉を歪めたが、頷いてくれた。そして、僕の首筋を見ないよう注意しながら顔を近づけ、唇を重ねた。
柔らかな感触、甘く湿った吐息、髪の匂いを記憶にすり込み、さらに舌を差し入れて、これまで何度も僕の皮膚を裂いた牙を愛撫した。
もう、これがもたらす灼けるような痛みに悶えることはないのかと思うと、涙が溢れて止まらなかった。
「月深さん、さようなら。お元気で……」
ありきたりな別れの言葉を残して、彼は背中を向けた。僕は僕の中の空虚に耐えられず、その場によろめき倒れそうになった。が、何とかこらえ、去りゆく彼を部屋の窓からじっと見下ろした。
その時、空虚なはずの僕の中で、何かが明確に鼓動を刻むのを感じた。僕はそれに突き動かされるまま部屋を飛び出し、柘榴氏の後を付けていった。
彼は真直ぐ井の頭公園に向かい、迷わず奥に進んでゆく。外灯はまばらで月も出ていない闇の支配下にありながら、僕は彼の黒いシルエットを見失うことはなかった。それは当然と言えば当然だった。今は僕が追う側であり、夜に棲む者なのだ。
どこをどう歩いたか分からないが、確実に空気の質感は変わっていた。公園の最奥部はひんやりと湿っていて、土や草の吐く息で生臭く淀んでいた。
ここは本当に、あの井の頭公園なのだろうか。車の走行音も若者の喚声も何も聞こえない。木々のざわめきと自分の呼吸と、草を踏むかすかな足音が全てだった。
やがて、前方に青白い建物が見えてきた。住宅にしては窓が少ないが、工場や倉庫のようでもなさそうだ。周囲は真っ暗だったが、柘榴氏が向かった狭い通用口だけはぼんやり明かりがともっていた。
息を殺してそっと近づくと、柘榴氏がカードらしきものをポケットから取り出して、扉の上部に翳すのが見えた。カードに記載された名前を僕は記憶に留め、彼が建物の中に入るのを見送った。そして建物の周囲をゆっくり歩いてみることにした。
とはいえ、周囲には重厚な柵が巡らされ、建物を遠巻きに眺めることしかできない。それでもとにかく一周してみようと暫く歩いていると、建物の正面に出た。がっちり閉ざされた正門の傍らには、建物の名称が記されていた。
それを見た僕は、全てを悟った。首筋に散った吸血痕が、再び熱く疼き出した。
『はい。K××総合病院メンタルケアセンターです』
「恐れ入りますが」
『はい』
「そちらに比企貴弘という男性が入院してますね？」
『患者さんについて、外部の方からのお問い合わせには一切お答えできないことになっております』
「外部の者ではありません。ごく親しい者です。彼が実際に入院していることも知っています」
『……ご用件は何でしょうか』
「僕はこれまで、何度も彼に首筋を咬まれました。痕もかなり残っています」
『………』
「安心してください。被害届など出すつもりはありません。ただし、こちらの要求を呑んでいただければ、の話ですが」
『一応、お伺い致します』
「金銭など要求しませんよ。ただ、彼との面会を許可してください。いつでも自由に会いに行けるようにしてください」
『それは……』
「これまでは、週に一度しか会うことができませんでした。週に一度しか、外出が許可されていなかったからでしょう。でも僕はもっと会いたい、彼に会いたいのです」
『……今すぐお答えすることはできませんが、主治医に相談はしてみます』
「分かりました。いいお返事お待ちしてます―――」
白くぬらぬらと輝くリノリウムの床には、汚れも剥色も瑕もない。それは廊下を挟む壁も同じだ。
多少あやふやな記憶だけれど、こういった場所では、ちょっとした床の染みや壁紙の反復模様が自分を監視する眼だとか神からの指令だとか、或いは悪魔による反創世（ネガ・ジェネシス）の始点になってしまうのだと聞いた覚えがある。如何にもありそうな話で、如何にも胡散臭い。
確かにこの完璧な白さに違和感を覚えなくもないが、それは白さ自体が異常だからではなく、幽閉、陰惨、不衛生、鉛色の格子、薬漬け、廃人の巣など、ステレオタイプなイメージとあまりにも懸け離れていたからだ。違和感の原因は、僕の偏見にあるのだ。
事実、さっき話した彼の主治医は、穏やかな好人物だった。こちらが求めるまま、彼について色々聞かせてくれた。
尤も、僕に警察へ駆け込まれては困るという理由で特別待遇しているだけなのだろうけど。
主治医の話によると、柘榴氏は生まれた時から犬歯が生えていたらしい。地方には、そういった赤児を『鬼子』として忌む習慣が残っており、そのせいで柘榴氏は親に捨てられたということだった。
物心ついてそれを知った柘榴氏は、己の犬歯を『魔』の証と考え、やがて吸血幻想に呑み込まれてゆく。自分は人の生き血を啜る人外の存在だと思い込み、自ら拵えた精緻な物語の中で『吸血人』として生き始めたのだ。
これまで誰彼構わず咬み付くようなことは決してしませんでした、と白髪の主治医は語った。彼は『理性ある吸血人』として振る舞うよう、日々努力していたのです、と。
それは僕にも分かる。日増しに高まる飢えを必死に抑えんとしていた彼の葛藤は本物だった。このままでは欲望を制御できなくなると言って、僕の元を去っていった彼の苦悩は本物だった。
たとえ妄想世界の中であっても、彼の僕に対する愛は本物だった！
主治医は僕の首筋に散った吸血痕を痛ましげに見つめながら、あなたは本当にそれを望んでいるのですか？ と訊ねた。僕はすぐさま頷きを返し、彼の恋人であると同時に生き餌となることは僕の悦びなのです、彼の作った物語の中の登場人物にすぎないとしても、と答えた。
主治医は分かりました、と力なく応じ、誓約書を取り出した。僕はそれに素早くサインし、代わりにいつでも施設に入館できるIDカードを受け取ると、主治医の元を辞去して彼の個室があるフロアに向かったのだった。
きっちり閉じられた扉を軽くノックすると、中から「はい」と返ってきた。そして訪問者を確かめることなく扉が開けられた。
目と目が合うと同時に、柘榴氏の赤黒い虹彩が驚きに収縮する。僕はふわりと笑い、
「白い服もよく似合ってますよ。でも僕はやっぱり、黒い服の方が好きですが」
そう言って彼に近づき、染みひとつない白い襟をそっと撫でた。彼の身体や吐息からいつも漂っていたのはローズマリーの香りではなく医薬品の匂いだったのだと、僕は今さら気付いた。
「中に入ってもいいですか？」
僕の問いにぎこちない頷きを返し、柘榴氏は室内に招いてくれた。そして扉を閉めると、再び向かい合って濃厚な視線を交わらせる。やがて僕は想いを込めて、
「あなたを愛しています。僕の全てはあなたのものです。僕の心も、身体も、血も」
「月深さん……」
「怖がらなくていいのです。僕は絶対に死にません。生き続けて、あなたに血を提供し続ける。だから僕を信じて、好きなだけ吸ってください」
僕の決意が伝わったのか、柘榴氏はそろそろと両手を伸ばして僕の頬から唇、顎、そして首筋を撫でた。まだ躊躇しているようだったが、唾液を嚥下する生々しい音にこそ、彼の本心があった。
「私も……愛しています、月深さん……」
秘めやかな告白とともに彼の顔が近づき、消えかかった古い吸血痕に犬歯が沈んでゆく。待ち焦がれていた灼熱の痛みが全身を貫き、僕は歓喜の涙をこぼした。もう二度と手放すまい。この愛しい“獲物”を。
そう、たぶん僕こそが、魔物なのだ―――――
（Fin）
※最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。
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