柘榴氏の憂鬱
＜第七話＞
それからの僕は、ひたすら健康に留意して日々を過ごすようになった。規則正しい生活、バランスのとれた食事を心掛け、変なウイルスや細菌を体内に入れないよう細心の注意を払った。僕の身体も血液も、もはや僕だけのものではないのだから。
そして、最初の提供から一カ月が経過した。その間、生活に目立った変化もなく、僕が淡々と首筋を供じ彼は無言でそれに歯を立てる契約の夜が四度訪れたがゆえに、一カ月という日の経過が正しく把握できているようなものだった。
しかし生活に顕著な変化はないものの、彼と逢うまでの一週間という時間が、徐々に僕を圧迫するようになっていった。
たわんでいるのは時間だけではない。血液も僕の体内で行き場を失っているように思えた。
一度、もう少し吸血量を増やしてくれないかと提案してみたことがあった。すると彼はすぐさま首を振って却下した。今の摂取量が、僕の身体に支障が出ないぎりぎりの量ということらしい。
しかし僕には到底そう思えなかった。彼への血の奉仕を始めてからの方が、ずっと体調がいいのだ。
健康管理に気を使っているせいもあるだろうが、これまでにないほど身体は軽く、髪も肌も眸もほどよく潤ってしっとりとした光沢を放っている。頬にはほんのり赤みが差し、カサつきがちだった唇も果実のようにみずみずしい。
この変化に誰より驚いているのは僕自身で、必要とされることが僕にとってどれほど重要な糧であるか、今さらながらに思い知ったのだ。
僕の変化がもたらした唯一の難点は、男女の別なく言い寄られる機会が増えたことだ。
僕は柘榴氏の恋人ではないのだから、別に誰と付き合っても問題はないはず。でも全くその気が起きず、むしろ煩わしささえ感じてしまうのは、あの一週間に一度の契約の夜だけに心を砕いていたいからだ。
他のことは何も考えたくない。恋人なんて邪魔なだけ。だから僕はそういった誘いをことごとく無視してひたすら体調管理に努め、首筋の肌を美しく保ち、血を眈々と蓄える。それが僕の幸せな日常だった。
僕は今確かに、彼のために生きている。
木々の間を駆け抜ける夜風に乗って、秋の気配が届き始めた頃だった。僕は通い慣れた道を急いでいた。約束の時間が迫っていたのだ。
いつも大学の講義が終わってからいったん帰宅し、シャワーを浴びて身体を清めてから公園へ向かう。しかし今日は人身事故があったらしく乗った電車が止まってしまい、時間配分が狂ってしまった。
それでも、一日の汚れを肌に付着させたまま彼に逢うのはどうしても嫌だった。僕はいつものように身体を洗い、身仕度を整えてから家を出た。そのせいでかなり急がねばならなかったが、ぎりぎり遅刻することはなさそうだ。
僕は安堵しつつも歩みの速度を落とすことなく、闇に湮むベンチに向かっていた。その時、
「あれぇ？ 晶人？ 晶人じゃねえか」
背後から男の声がしたけれど、もちろん無視して進む。するといきなり腕を強く掴まれた。
「おい、無視することねえだろ。いくら昔の男だからって」
僕はいらいらして腕を振り払おうとしたが、男の力の方が強かった。仕方なく立ち止まり、目線を合わせる。
僕はもう『晶人』などという人間ではない、そんな過去の名前を持ち出さないでくれと言おうとしたけれど、理解はされないだろうと思って呑み込んだ。
「偶然だなあ。あ、そういやお前この辺に住んでたんだっけな」
「あの、すみませんが急いでますので」
こんなところで、昔付き合っていた男と無駄話をしている余裕はない。もうすぐ約束の時間になってしまう。
「へえ、公園で逢い引き？ ずいぶんと風流なんだな」
「そんなんじゃありません。では、本当に急いでいるので」
今度は腕を振り払うことに成功した。僕の頭は一刻も早くあの場所に到着することばかりを考え、それ以外の状況判断を疎かにしてしまった。再び大股で歩き出すと、後ろから男が付いてくる。それに気付いた時、僕は自分の失策を悟った。
「お前、すげえ綺麗になったな。俺と付き合ってた時と、目の輝きが全然違う。なあ、今は男いるのか？」
どのように答えたら興味を失ってくれるか考えている間に、男は勝手に話を進める。
「俺は当時ガキだったからさ、お前の愛情とか献身を受け止めきれなかったんだよ。けっこう酷いこと言ったよな。うざいとか重いとか」
覚えていない。というか、そんな言葉これまで付き合ったほぼ全員から言われている。
「でも別れてみて思ったんだよ。お前くらい重くねえと、俺はふわふわ飛んでいっちまう。事実、お前と別れてから腰を落ち着けて誰かと付き合ったことがない。なあ、晶人。もう一度やり直さねえか？」
もう躊躇している余裕はない。約束の時間はわずかに過ぎている。あの場所はもうすぐそこだったが、この男を連れて行くわけにはいかない。僕は立ち止まって男を見上げ、
「どこまで付いてくるつもり？ 僕は大通りに出る近道で公園を抜けて行くだけなんだけど」
「さっきの答え、まだもらってねえけど」
「ああ、そうだったね。お断りします」
僕はぴしゃりと叩き付けて、冷ややかに見返した。すると男はにやりと嗤って、
「お前、本当に変わったなあ。昔はただの綺麗な置き物だったのに。なかなかいいぜ、その目付き。夜行性の獣、って感じで」
馬鹿な男。本物の獣はすぐ近くにいるというのに。
「もういいでしょう？ あなたに付き合っている暇はないんです。早く行ってください」
すると男は、僕の苛立ちを楽しむように嗤って肩を竦め、
「俺も同じ方に行くところなんだよ。奇遇だな」
どうしよう、僕は頭を巡らせた。このまま公園を抜けて大通りに出たとしても、彼はずっと付いてくるかもしれない。柘榴氏に携帯で連絡することも考えたが、相手についてしつこく詮索されるのは目に見えている。
「どうやって俺を追い払おうか迷ってるのか？ ん？」
男はそう言って、いきなり僕を抱き寄せた。そのじっとり汗ばんだ身体は、僕の嫌悪感を煽るのに十分だった。
思い切り腕を突っぱねて逃れようとすると、男は下品な舌打ちとともに力任せに僕の身体を押し倒した。その拍子に右足首をひねったらしく、激痛に声も上げられず、草むらの上で男のされるがままに。
ベルトを外されジッパーを下ろされ、下着の奥に無理やり手を突っ込まれる。性器を握り込まれた瞬間、込み上げる吐き気をこらえて大声で喚いた。すると間髪いれず大きな手のひらで口を塞がれた。
「いいぜ、お前。すごくいい。昔付き合ってた頃は、俺がどんなに酷えことしても無表情で受け入れてたもんな。正直つまんなかったぜ。俺としては抵抗して暴れて、噛み付きそうな目で睨んでほしかったのに。今みたいに」
だったら死ぬ気で抵抗してやる。こんな男の“餌”になるのはご免だ。僕は右手をぎゅっと握って、男の鼻柱目掛けて打ち込もうとした。
その時、僕らの周囲を一陣の風が駆け抜けた。次の瞬間、僕の身体は自由を得た。何がなんだか分からぬまま急いで起き上がると、黒い影に囚われた男が顔面蒼白で四肢をばたつかせていた。今にも眼球がこぼれ落ちそうなほど激しく目を剥いて、口から泡を吹いている。
僕はようやく、何が起こったのか朧げながら悟った。誰かが男を背後から拘束し、腕を首に回して強く締め付けているのだ。その黒衣の人物とは―――
「柘榴……さん……？」
疑問形になってしまったのには理由がある。月が隠れひときわ濃度を増した闇が、かの人の顔を覆っていたからだ。
しかし雲が流れ、再び月が闇を照破してもなお、僕は確信が持てなかった。なぜなら―――
「ああ……」
月華を浴びた白皙の面て、その整いすぎた輪郭や鉱物めいた冷ややかさは、間違いなく柘榴氏その人だ。しかしその双眸は、これまで赤と黒が平和に共存していた柘榴色ではなかった。
それは、わずかな淀みもない真紅。新鮮な血溜まりの色。闇の中でぬらりと輝き、僕を真直ぐ射抜いた。
やがて血色の瞳孔がゆっくりと絞られ、紅の点に凝結する。恐るべき人外の眸。この時初めて僕は、彼に対し理性を超越した恐怖を抱いた。
思わず目をつぶり、視界から紅い眸を駆逐する。もちろん、もう逃げられないことは分かっている。網膜に灼き付いた真紅の輝きが滅えることはないだろう。あらゆる闇に潜んで、僕を監視し続けるに違いない。
「月深さん、立てますか？」
頭上から降る柔らかな声に、僕はのろのろと反応した。目を開けて顔を上げると、柘榴氏がすぐ目の前で心配そうに眉をたわめていた。彼はいつもの、黒と赤のせめぎ合いが美しい柘榴の眸で僕を見つめている。
「あ、あの……ごめんなさい、約束の時間に間に合わなくて……」
僕の謝罪を、彼は苦笑で受け止めた。
「何を言っているのですか。こんな大変な目に遭って。ところで、あの男は一体……」
「僕が……以前付き合っていた男です。偶然出遭ってしまって」
「ああ、なるほど。それでよりを戻そうと迫られたのですね。あなたの美しさに目が眩んでしまったのでしょう」
彼はそう言って勝手に納得すると、僕の前に膝をついた。
「あの、柘榴さん……まさかあの男を殺し―――」
「はは、まさか。気絶してもらっただけですよ。さ、服を直して。立てますか？」
言われて初めて、下穿きが下ろされたままだったことに気付いた。慌てて直して立とうとしたが、右足にずきんと痛みが走って思わず呻きが漏れる。
「おや、右足ですか。ちょっと失礼」
柘榴氏のひんやりした指が、右の足首に触れた。彼は「ふむ、」とうなって、
「捻挫のようですね。無理して歩かない方がいい」
そう言うが早いか僕をふわりと抱き上げた。
「このままあなたの家までお送りして、簡単な手当てをして差し上げたいのですが……」
彼が家に来てくれる、それだけで僕は有頂天になった。が、対照的に彼は眉根を寄せ、
「あなたの家の場所を知るのは、ルール違反ですね」
ああ、そうだ。確か最初に、そんなルールを決めていた。これは僕のためというより、柘榴氏が自分の欲望を制御しやすくするためのルールだった。僕の住んでいる場所を知ってしまうのは、彼にとって非常に危険なことなのだ。それは僕にも理解できる。しかし、
「ルールには例外がつきものです。僕は今夜、あなたに来てほしい」
僕は自分の想いを率直に伝えた。彼はかすかに身じろいだが、やがて諦めたように頷き、
「これも……私に課せられた試練なのかもしれませんね。分かりました。伺いましょう」
そして僕を抱いたまま、公園を後にした。
柘榴氏が僕の部屋にいる。夢でならたまに見た光景だけれど、やはり現実の質感とは比べものにならない。ソファの上にそっと横たえられた僕は、熱を帯びた頭を必死に働かせて、彼の姿を脳裏に灼き付けた。
「取り敢えず、湿布を貼って冷やしておきましょう」
彼はそう言って、かすかな腫れを見せる僕の足首に湿布を貼り、上から包帯を巻いて固定した。
その出来映えに満足した様子で頷くと、次に僕の手を取って傷を確かめた。押し倒された拍子に木の枝でこすってしまったらしく、手首の辺りに血がにじんでいる。
「消毒……しなければいけませんね」
ああ、彼の声は力なくふるえていた。内心の葛藤がこれほどまで露わになった声というのを、僕は聞いたことがない。彼の胸は今、二つに引き裂かれているのだ。獣の側と人の側に。
眉間に深く刻まれた皺にも、それがありありと表れていた。端整な顔が悩ましげに歪むさまは、ひどく劣情をそそる。
「舐めて……くれませんか？」
僕の言葉に、彼は咎めるような眼差しを向けた。しかしそれも玉響のこと。彼は僕の傷ついた手を恭しく両手で支えると、ゆっくりと唇を近づけた。そして紅い舌をとろりと這わせて、すでに凝固しつつある血を舐め取った。
「ぁっ………」
神経を逆撫でるようなちりちりした痛みが傷口から波紋のように広がったが、それは表層的な感覚に過ぎなかった。痛みのさらに奥深くで秘めやかに息づく快感こそが、僕の心身を深層で支配していることはもはや言うまでもない。
いや、痛みこそが快楽を増幅させる媚薬なのかもしれない。確かに、彼の牙が頸に刺さる瞬間の痛みは、僕を幾度となく昂らせた。
「ふっ、あ……あ、ん………」
気が付けば、柘榴氏は舌を触手のように蠢かせて一心に僕の傷口を舐めていた。それはすでに、“手当て”というより“食事”だった。僕は自由な方の手でシャツのボタンをぷちぷち外し、頸から胸まで露わにした。
「そういえば……食事がまだでしたね」
僕が指摘すると、柘榴氏はようやく手首から顔を上げた。そして、僕の喉元から胸まで熱い視線をじっと注ぐ。僕は今、生き餌としての自分を痛いほど自覚していた。
首をわずかにひねって頸動脈を見せ付けると、彼の喉仏が大きく上下した。僕に対する欲望のあからさまな表現には、普段の彼が周到に隠している獣性が漲っていた。
そう、それは血への渇望だけではなかった。僕の素肌に注がれる視線は、情交に対する濃密な欲望で嫌らしく漣（なみう）っていたのだ。
何を躊躇する必要があるだろうか。僕は疾うに彼の所有物なのだ。あらゆる原始的な欲望の受け皿なのだ。僕は黙ってズボンと下着を脱ぎ、生まれたままの姿を彼の視界に晒した。
僕の意図をすぐに察したのだろう、彼はしばし考え込んだが、やがて僕の身体をふわりと抱き上げた。
「寝室はあちらの部屋です。あなたにとってはダイニングでしょうが」
僕がそう言って扉を指差すと、彼は淫靡な毒のこもった嗤いを漏らして頷いた。
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