双逢鬼―「雪華鬼」続編―
序章
虚ろ鬼 百人殺せば地獄堕ち 夜叉となりて鬼禍を招かん―――
＜第一の情景＞
「お願いでございます、宗幻（しゅうげん）様！ この子をお見逃しくださいっ。どうか御慈悲を！」
「慈悲だと？ 血迷うたか劉幻（りゅうげん）。そやつは鬼。鬼は人に仇なすおぞましき魔物。忌むべき仏敵。我らの手で封滅するより他ないのだ」
「ですがこの子はまだ幼い。全ての記憶を封じれば、この先人間として生きてゆくこともできるはずですっ」
「黙れ黙れぇっ！ お前と下らぬ問答をしている時間などない。その者を渡せ。どうしても渡さぬと言うのなら……」
大阿闍梨宗幻がちらと目配せすると、周囲の暗闇から鎗を構えた複数の僧兵が現れ、あっという間に劉幻を取り押さえた。その腕の中で震えていた少年は宗幻の前に引きずり出され、そして、
「ナウマクサマンダ バサラ ダン カン」
鬼調伏の秘呪、不動明王呪とともにその柔らかな身体に仏具を打ち込まれ―――
「ギャアアアアアアッッ」
地獄の業火を想起させる赤黒い焔に包まれ、断末魔の叫びをまき散らしてゆっくり崩れ落ちた。劉幻の目の前で。
「かっ、迦陵ーーーーッ」
愛しい少年の名を叫び駆け寄ろうとしたが、無慈悲な僧兵の拘束に身動きすら不可能だった。
「う、お、お、お、おおおおおおお………」
劉幻は獣の声を発しながら、魂が狂気に侵されてゆく甘美な感覚に酔うた。
＜第二の情景＞
今にも消え入りそうな儚い鬼気を辿って歩き続け、ようやく“それ”を見つけた。
翠翹のごとき黒髪に雪華を想わせる白い肌、高貴な美貌。何故か白拍子の格好をしているが、装束には赤黒い染みがべったりと付着していた。しかもその全てが長い時の経過を物語るように薄汚れている。
旅人はもちろん、修験者ですら足を踏み入れぬ剣山の岩陰に倒れているこの少年の素性は分からない。恐らく長きに渡りこの場所で倒れ伏したまま、静かに死を待っているのだろうということ以外は。
しかし劉幻には、これこそが自分が探し求めていたものに違いないという直感があった。
そっと手を伸ばし頬に触れてみる。濃厚な死の冷気が指先に伝わるが、もちろん死んではいない。
鬼は自ら死を選ぶことはできない。どんなに飢えても、どんなに血を流しても、異形の存在である鬼が人と同じ理で死ぬことはできないのだ。
「……さあ、目を覚ませ。虚ろ鬼よ」
強力な言霊を含んだ囁きに、少年は僅かながら反応した。
「目を覚ませ。そしてお前の名を答えよ」
少年は目を開けた。死人のように濁った瞳。その奥底で蠢く絶望の澱は、そのまま奈落に繋がっているに違いない。
「お前の名は？」
同じ問いに、少年は固まりかけた舌を震わせて答えを紡いだ。
「なまえ……わからない……」
「なるほど。まさに虚ろ鬼だ」
劉幻は至極満足げに頷いた。そしてもう一つの問いを差し出す。
「では、お前の望みは何だ？」
すると少年の膿んだ瞳はみるみるうちに澄み渡り、目の縁から涙がひと筋こぼれ落ちた。
「ぼくの……のぞみ………」
すぐに答えは出てこないだろうという劉幻の予想に反して、少年は迷う間もなく答えた。
「もういちど……あいしていると………」
「愛していると？」
「もういちどだけ……いってほしい………」
聞く者の胸を締め付ける切ない哀訴だったが、劉幻が心動かされた様子はない。にぃっと唇を歪め、酷薄な笑みで口許を汚し、
「相分かった。よく聞くがいい。お前の名は迦陵（かりょう）だ。そしてお前の望みはこの劉幻が必ず叶えてやろう」
そう言って、少年に向かって手を差し伸べた。心眼の利く者ならば、その手から邪悪な陰翳を帯びた黒い磁力のようなものが放出されるのが見えただろう。
少年はその見えざる力に引き寄せられるかのように腕を伸ばす。自分が誰なのか、誰の愛を欲しているのか思い出せぬまま。
そして二人の手が触れ合った瞬間、新たな惨劇への幕が開けたのだった―――
＜第三の情景＞
男が指定された部屋に入ると、生絹（すずし）の几帳で隔てられていた。室内には得も言われぬ芳香が漂い、早々と夢見心地になる。あの向こうに愛しいお方がいらっしゃるのかと思うと、自然と鼓動が速まる。
「か、迦陵様、今宵は閨勤めの思し召しを頂戴いたしまして、まこと光栄に存じます。俺……わ、私は鬼無里（きなり）から参りました―――」
「ねえ、早く。早く来て」
いきなり几帳の向こうから甘えた声で呼びかけられ、男は有頂天になった。それまでの恭しい言動を自ら蹴散らすような歩みで奥に進み、帳をめくり上げる。
そこには一組の布団が敷かれ、愛しくて愛しくて夢の中で幾度も抱いた美少年がしどけなく足を崩して座っていた。
舞台の上で桜の精として、伝説の白拍子として舞っている時とはまた異なるその艶やかさ、匂い立つような美しさに、男の獣慾は一気に沸騰した。
「迦陵様っ」
剥き出しの欲望を鼻面にぶら下げて、男は布団の上に飛び乗った。そして少年の躰を組み敷き、夜着の衿に手を掛けて力任せに引きずり下ろす。
露わになった柔肌は淡雪のように白く、甘露のような蜜香を漂わせて男の五感を高ぶらせた。
原始的な欲望に支配されるまま、男は柔らかな唇に吸い付き、生まれの卑しさが分かる粗暴な手付きで素肌をまさぐる。すると迦陵と呼ばれた少年は「ああ、」と感極まった声を上げ、
「これからも……ずっと傍にいてくれる……？」
男は乱暴な愛撫を続けつつも、辛うじて人間らしい言葉を返した。
「もちろんです。ずっと傍にいますよ……」
少年ははらはらと涙と流し、
「ああ……逢いたかった……もう離さないで……愛していると言っ…て……」
その儚い風情に愛しさが募り、男は少年の躰をきつく抱き締めた。そして正面から顔を見詰め、
「愛しております、迦陵様。決してあなたを離しませ―――」
男は途中で言葉を呑み込んだ。少年の唇がわなわなと震えるのを見たからだ。瞬きもせず大きくせり出した瞳からは先刻までの艶めく風情は消え失せ、代わりに怒りと哀しみで重く昏く撓んでいた。
「ちが……う………」
男は我が耳を疑った。まさか今の声が、目の前にいる愛しいお方の唇から出てきたというのか。この奈落の底から響くような、重い闇をまとった声が。
「おまえ………ではない………」
「迦陵さ―――ひっ……ひぃぃぃッ」
男は恐怖に引き攣った悲鳴を上げて、腕の中の“もの”を突き飛ばした。そう、それはすでに迦陵と呼ばれた少年ではなかった。否、人間ですらなかった。ここ鬼無里にいるはずのない、いてはならない異形のもの。即ち―――
「おっ……鬼……………」
額は爛れて捩じれた二本の角が生え、耳元まで裂けた口からは鋭い犬歯が伸び、虹彩の縮まった眼球は微細な血管が浮き出て爛々と輝く。艶やかな黒髪はずるずると伸びて、畳の上に複雑怪奇な文様を描いた。
男は尻をついて座り込んだまま、駄々を捏ねる子供のように手足をばたつかせ、意味不明な言葉を喚いた。立ち上がって逃げ出すとか、助けを呼ぶという合理的な道を探すより先に、初めて鬼を目にした恐怖で頭の螺子が飛んでしまったのだ。
「おまえは……ちがう……おまえは……おまえは…………」
白無垢の寝着をまとった鬼はゆるりと立ち上がり、双眸に瞋恚の炎を宿して男を睨めつけた。
凄まじい鬼気にあてられた男はもはや暴れることもできず、その場に硬直してじきに訪れる死の瞬間を待つ。やがて鬼は腕を振り上げ、鋼のような鉤爪で男の躰を斜めに裂いた。
男は「ぐぎゃ」と潰れた悲鳴を上げ、鮮血を吹き出しつつ仰向けに倒れた。深く裂かれた腹からは、新鮮な臓物が溢れる。人の感情とは面妖なもの。死を覚悟した瞬間、男は恐怖から解放され正気に返った。
急速に近づく死の跫音に耳を傾けつつ、血塗られた視界に呆然と佇む鬼を眺める。それは確かに化け物だったが、置き去りにされ途方に暮れる幼子にも見えた。
「ちがう……どうして……どうしてぇ………」
裂けた口を震わせて、鬼は呟く。どうして、どうして、と。そして赤く濁った眼から透明な涙が溢れるのを見ると同時に、男は事切れた。
「そばに……いて………ずっと……ずぅっと………」
しんと静まり返った室内に、鬼の声だけが谺する。それから暫くの静寂を経て、室内の様子を窺うように襖が外から僅かに開けられた。そして、
「………十七人目。あと八十三人」
邪悪な役小角（えんのおづぬ）が呟いた。
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