可愛い（犬）の夏休み・2013
前編
「嘘だろ……」
酷な現実を直視できない真琴は、呆然と呟くしかできなかった。
「こんな時に……」
あまりのショックに言葉が続かない。大きく息をついてから頭をぶるっと振り、
「こんな時に、クーラーが壊れちまうなんてっ」
限界まで設定温度を下げても、なまぬるい風がへろへろと出てくるばかり。おまけに、ウィンウィンと怪しげなモーター音を奏でている。どうやら、瀕死の状態のようだ。
猛暑の東京をクーラーなしで凌ぐのはかなり厳しい。真琴はすぐさまカスタマーセンターに連絡して修理の依頼をした。しかし修理依頼が立て込んでおり、早くても明日の夕方になるという。
「ま、仕方ねえか」
今日一日の我慢だと自分に言い聞かせ、クーラーなしでなるべく涼しく過ごす方法に頭を巡らせた。
まずは全ての窓を全開にして風通しをよくして、ラグは剥がしてフローリングをむき出しにする。それからＴシャツ＆短パンの涼しい格好に着替え、やや伸びてきた襟足の髪は少し高い位置でまとめて輪ゴムで留めた。
「まあ、こんなもんか」
焼け石に水、という常套句が浮かんだが仕方がない。どうしても暑くてたまらなくなったら水風呂でも浴びればいいと自分に言い聞かせ、ちらと時計を見ると、ちょうど昴の自主トレが終わる時間だった。
昴が所属するJBリーグは夏のオフシーズンで試合はなかったが、十月の開幕に向けての身体つくりという重要な時期でもある。昴は毎日トレーニング施設に通い、汗を流して帰ってきた。
そんな昴に、スタミナがつくのはもちろん、夏バテしないよう栄養にも気を配った食事を作るのが、真琴の夏の日課だった。
しかし今日は状況が状況だ。真琴は昴の携帯に電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴り、
『はいっ。真琴っ？』
「お、おう。自主トレは終わったよな。今大丈夫か？」
『うん、もちろん！ 真琴から電話もらえるなんて嬉しい』
「何だよ、大袈裟だな。つうか、今朝会ったばかりじゃねえか。遠距離恋愛中でもあるまいし」
この言葉が周到な照れ隠しであることは、真琴も自覚していた。昴の気持ちは、聞かずとも分かっていたのだ。
『うん。でも真琴からもらえるものなら、電話だって嬉しいんだ』
ストレートな、あまりにストレートな感情表現に圧倒され、真琴は言葉に詰まってしまう。「そ、そうか」とようよう返した時には、首から上が火照って熱を発していた。くそ、ただでさえ暑いのにと声に出さず悪態をついたが、唇は悪態に相応しくない甘い曲線を描いていた。
「あ、それで用件なんだけど。お前今日はこっちじゃなくて自分の家に帰れ」
真琴は続けてその理由について説明しようとした。しかしそれに先んじて耳に届いたのは、『そ、そんな……』という深い絶望に彩られた嘆きだった。
『自分の家に帰れだなんてっ……も、もしかして、俺が四六時中べったりくっついてるのが暑苦しいとか……』
おう、分かってんじゃねえかと思わず言い返しそうになったが呑み込んで、「そうじゃねえよ」と穏当に返した。
「じゃなくて、クーラーがぶっ壊れたんだよ。修理が来るのは明日の夕方だから、帰ってきたら蒸し風呂状態だぞ」
自主トレでへとへとになって、シャツが絞れるほど汗かいたのに、こんな暑い部屋では疲れも取れないだろう。そう思っての提案だったのだが。
『なぁんだ、そんなことか。大丈夫だよ。汗はかき慣れてるし』
「いやでも熱中症になったら───」
『大丈夫大丈夫。真琴と一緒なら、蒸し風呂でも灼熱地獄でも大歓迎だ。じゃ、真っ直ぐ帰るから』
妙に浮き立った声でそう言って、昴は電話を切った。
「……あいつが帰ったら、室温さらに上がりそうだな」
真琴は溜め息混じりに呟いた。
途中、コンビニに寄ってアイスを買った。身体を中から冷やすことで、少しでも涼を感じることができればという昴なりの心遣い。
「クーラーが壊れたぐらいで、一緒に過ごせる貴重な時間を放棄するわけないのになあ」
思わずしみじみと呟いてしまう。もちろん、昴の体を気遣ってのことだとは分かっている。でも、時間は無限ではないのだ。真琴とともに過ごす時間を一分一秒でも無駄にしたくないというのが、昴の切実な本心だったのだ。
真琴のマンションに着いた昴は、一応周囲に誰もいないことを確認してから、玄関の扉を開けた。そして「ただいま」と声をかけると同時に、むわっと重苦しい温気が顔を覆った。真琴の言った蒸し風呂状態というのは、大袈裟ではなかったらしい。
重量すら感じる熱気に圧されて思わず後ずさったが、「おう、お帰り」といつもの挨拶で迎えてくれた真琴のいつもとは違う出で立ちに、反射的にぐんっと前のめりになった。
「ま、まこ……その格好……」
「ん？ ああ。涼しさを追求したらこうなった」
さらりと答える真琴には、昴が何にそんな動揺しているか分かっていないだろう。あちい、あちいとぶつくさ言って顔をあおぎながら、裸足の足をぺたぺたいわせて部屋に戻っていった。
昴は慌てて靴を脱いでその後を追いかける。真琴はすでにキッチンで、何やらごそごそやっていた。その後ろ姿に、昴は今日二度目の前のめり。
「ま、真琴……」
教師という職業柄なのか、厳格な父親の教育の賜物なのか、真琴は普段家にいる時も決してだらしない格好はしなかった。風呂上りに下着姿でだらだらするなんて言語道断。夏でも短パンなど穿かずに、フルレングスのジーンズを着用していたのだ。
ゆえに、この下着と見まごうばかりの短いパンツ姿がどれほどのお宝映像か。昴は瞬きなどするものかと両目をギンギンに開いて、網膜に灼きつけようとした。
パンツの裾から伸びた脚は思わず頬ずりしたくなるほどの脚線美で、この脚からえげつない金的や破壊力抜群の回し蹴りが生まれるなんて誰が想像できるだろう。
そして視線を上に移せば、初めてまじまじと見る真琴のうなじ。もともと色は白い方だが、日に当たらないせいか際立って白く、透き通るような透明感がある。
髪を輪ゴムで留めるという無頓着さは真琴らしいが、ほつれて首筋に張りつく後れ毛や、かすかに汗ばんだ肌の光沢には、匂い立つような色気があった。
そんな細部まで舐め回すように眺めていると、調理器具を取ろうとしたのか真琴が軽く屈んだ。するとその拍子に、短いパンツの裾から丸いものがぷりんとこぼれた。
それがどれほど柔らかく且つ張りがあるか疾うに知っているはずなのに、思いがけず目にしたその曲線、肌のみずみずしさに、昴は呆気なくノックアウトされてしまった。
「ん？ どした？ 昴」
背後から届く濃い電波に気づいたのか、真琴はくるりと振り返って無邪気に訊ねた。昴は「暑くてぼーっとしてた」と誤魔化して、
「俺、ちょっとシャワー浴びてくる」
「ああ、それがいい。スイカ切っておくから。一緒に食おう」
昴はかくかく頷いて風呂場に飛び込んだ。そして冷たいシャワーを浴びながら、下半身に溜まりつつある不穏な熱を自らの手で解放したのだった。
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