深淵の愛
１.
「遼牙様！ 一大事でございます。陛下がっ………」
「父上が？！ 父上がどうしたというのだ！」
「は、はい。水門の視察中に倒れられて……」
「何だとっ？ 場所はどこだ。私がすぐに向かう！」
「ああ、お待ちください、遼牙様、遼牙様っ―――」
「あちらが黒鴉（こくあ）城でございます」
「………うむ」
案内人の言葉に相槌を返し、教えられた方角に視線を向ける。灰色の曇天に浮かび上がる黒いシルエット。城の形が鴉に似ているからこの呼び名が付いたわけではなく、ただ周辺の森に鴉が多いという理由でこのように呼ばれるようになったらしい。
もちろん遼牙にとってはどうでもいいことだった。彼の心を支配しているのは、紫衛那城で伝染性の熱病と闘っている父への想いと、これから訪れる城の主人に対する嫌悪。ただそれだけだった。
本当は、父の傍にいたかった。アム・アザゼルの女性を愛し、自分に影道という過酷な宿命を背負わせた父に対し、幼い頃は憎しみに近い感情を抱いていた。
しかし成長するにつれて、父がどれほど母を愛していたかを、そして自分に対してどれほど負い目を感じているかを知った。
さらに、父がこれまで行ってきた様々な改革、国家事業について学ぶにつれて、治世者としての才覚と実行力に深い尊敬の念を抱くようになった。
そして今では、自分は誰より父を愛していると何のためらいも含みもなく言うことができる。だからこそ、生死の境で必死に闘っている父の傍にいたかった。
しかし自分は、そんな感傷に溺れていい立場の人間ではない。それは遼牙も分かっている。父亡き後、紫衛那国民の安全と財産を守るという重責が待っている。
だからこうして、側近の忠告を容れて断腸の思いで城を離れたのだ。伝染性の病いから逃れるため。
とはいえ、城を離れてまさかここに来る羽目になるとは思ってもいなかった。聞けば、父の末弟である嵯我、通称黒鴉の宮が、ぜひ我が城にと申し出てきたとか。
先に聞いていればもちろん遼牙は拒絶したが、彼が知ったのは全てが決まってからだった。
病原菌は待ってくれない。一刻も早く城を出る必要に追われているこの状況で、今さら強く異を唱えることなどできるはずもなかった。
仕方なく承諾したのだが、こうして城に近付くにつれて後悔の念がより重くのしかかってくる。
四人の叔父たちにとって、影道である自分が紫衛那国の後継者であるという厳然たる事実は許し難く、何かにつけて文句や言い掛かりをつけてくる。が、それは遼牙にも理解できなくはない。
影道が国家元首となるには、中央神殿庁が突き付ける様々な条件を呑まねばならない。つまり、国の主権が堂々と侵害されるということだ。これは独立国家として屈辱以外の何ものでもない。
遼牙も嘗ては、叔父の誰かに王位を禅譲して、自分は小さな屋敷にこもって晴耕雨読の生活をしたいと考えていた。それが国家のためでもあると。
しかし父が国のために身を削って働くのを見ているうちに、父の仕事を引き継いでさらなる発展のために尽くしたいと考えるようになったのだ。
しかし彼、嵯我だけは、そういった憤りとは異なる感情を遼牙に抱いていた。
もともと嵯我という人間は天性のエピキュリアンで、政（まつりごと）の類いには全く関心を持っていなかった。神殿庁の官僚の娘を妻に迎えたのも、そうすれば多少の放埒や背徳的行いも上の力で揉み消してもらえるだろうとの計算があったからだ。
地位も名誉も要らぬ、但し金は欲しい。己れの五感を悦ばせるためには、どんな散財も厭わない男だった。
そんな彼が今一番欲しているもの。それが遼牙だったのだ。
これまで甘言を弄して近付いては、何度もその身体を手に入れようとした。力づくで犯そうとしたことも、幾度となくあった。
もちろん遼牙はそのたびに敢然と撥ね付けたが、そういった気高き振る舞いが嵯我をますます煽り立て、御し難い欲望の虜囚としたことは間違いない。
加えて、成長するにつれて遼牙はますます美しく、妖しく、その存在自体が媚薬の如き甘い瘴気を発していた。
天性のエピキュリアンならば、是が非でも手に入れたいと望むだろう。香気漂う身体を嬲り尽くし、屈辱を味わわせ、獣めいた痴態を眺めたいと望むだろう。
今こそその好機と、嵯我が手ぐすねひいて待っているだろうとは、容易に想像できた。
しかし遼牙もじきに十八歳を迎える。もはやか弱き子供ではない。自分さえ注意を怠らなければ、叔父の思い通りになることはないだろうと考えていた。
そう、遼牙は見くびっていたのだ。嵯我という男の卑劣さと、快楽への貪欲さを。
「待っていたぞ、遼牙。兄上の病状については心からお見舞い申し上げる。お前も辛いだろうが、我々にはどうしようもない。ともかくここにいる間は我が家だと思って遠慮なく過ごしてくれ」
ここまで感情のこもらぬ見舞いの言葉も珍しい。社交辞令と呼ぶのもおこがましい、無機質な単語の連なりに過ぎなかったが、それでも遼牙は丁重に礼を述べた。
「ありがとうございます。暫くお世話になるかと思いますが、よろしくお願い申し上げます」
「はは、ずいぶんと他人行儀な挨拶だな。まあいい。私の妻を紹介しよう」
嵯我は傍らに妻を呼んだ。
「妻の寧々（ねね）だ。世間知らずのお嬢さんだが、気立てはいい。私には少し物足りないがな」
冗談のつもりだろうが、誰も笑う者はいない。遼牙は優雅に一礼して、「お世話になります」と応じた。
「あなたが……遼牙？ 影道の………」
「おい、未来の国王に向かって失礼なことを言うな」
妻の惚けた呟きを咎めて、「済まんな」と詫びる。もちろん、本気で妻の無礼を咎めているわけでも、謝罪しているわけでもない。ただ面白がっているだけだ。
しかし遼牙は気にした風もなく、首を振って「けっこうです。事実ですから」と淡々と答えた。一方、嵯我の妻、寧々は、まだ呆然とした様子で遼牙に見入っている。
嵯我には妻の驚きが理解できた。彼女の父親は、神殿庁の高級官僚なのだ。幼い頃からアム・アザゼルがどれほど下劣で醜悪な種族であるか教え込まれてきた。
そんな下等な生き物とのハーフである影道についても、相当の偏見を持っていたはず。どんな醜い人間かと思っていたら、磨き抜かれた黒曜石の如き美しい若者が現れたのだ。驚くなという方が無理だろう。
「長旅で疲れただろう。部屋は整えてある。暫く身体を休めるといい」
「はい。ではお言葉に甘えて下がらせていただきます」
遼牙は軽く一礼すると、叔父夫婦に背を向けて部屋を後にした。二人分の濃厚な視線を背中に感じつつ。
それから三日が経過した。紫衛那城から毎日届く父の病状は思わしくなく、日に日に深刻さを増していることが、遼牙を心配させまいと気を遣って認められた文面の下からにじみ出ていた。
自分が帰城してもどうしようもない、何の役にも立たないことは明白だが、父が一人で苦しんでいるというのに、自分だけ安全なところに隔離されている現状には、やはり身悶えするような苛立ちを覚えてしまう。
それでも、自分が健やかであることが紫衛那国のため、父のためなのだと言い聞かせ、何とか耐えていた。
遼牙が現状に耐えられたもう一つの理由、それは嵯我が全く近寄る素振りを見せないことだった。
食事の時などは顔を合わせたが、それ以外で余計な接触を試みることはなかった。最初はそれなりに警戒していた遼牙だったが、叔父はもう自分に興味がなくなったのだろうと結論付けた。そしてここに来たのは正解だったと思うようにすらなった。
もし他の叔父の屋敷に引き取られていたらきっと、毎日のように嫌味や皮肉を投げ付けられていただろうから。
しかし、四日目の夜に“それ”は訪れた。背徳の奈落へ繋がる扉が、突如として遼牙の眼前に開かれたのだ。
その夜、早めに床に就いた遼牙は小さな灯りをともし、読書に耽っていた。すると部屋の扉が控え目に叩かれ、外から名前を呼ばれた。
こんな時間に何用かと不審を覚えたものの、遼牙は取り敢えず床を離れて呼び声に応じた。
「何の用だ？」
「夜更けに申し訳ございません。奥方様が、遼牙様に内密にご相談したいことがあるのでご足労いただけないでしょうか、と」
「奥方が？」
嵯我の妻が、自分に何の相談があるというのか。相談を持ちかけられるほど親しくないどころか、まともに会話を交わしたのも数えるほどしかない。
「明日では駄目なのか？ こんな時間にご夫人の部屋を訪れるのは憚られるが」
「それが……相談というのは他ならぬ旦那様のことで。日のあるうちは旦那様の監視の目がありますので、内密な相談はこの時間でなければ不可能でございます」
「なるほど。しかし私のような若輩者が、夫婦間の問題に口を挟むのも……」
「奥様には、他に頼れる方がいないのです。お話だけでも聞いていただけないでしょうか」
ここまで言われて断るのは、逆に無礼というものかもしれない。相談というよりは、恐らく愚痴のようなものだろう。話すだけで気持ちが楽になるということも大いにある。
「分かった。話を聞くだけで構わないのであれば」
遼牙は夜着の上に長衣を羽織ると、部屋の外に出た。そして侍女の後に付いてゆく。
「こちらでございます。さあどうぞ、中へ」
「うむ」
室内は女性らしい繊細な装飾の家具で統一されていた。しかしそこに彼女の姿はない。
「奥様は、あちらの部屋でお待ちでございます」
侍女が指し示した奥の扉を見て、遼牙は眉をひそめた。今自分がいる部屋は、客などを招いて談笑する公的なスペースだろう。しかし奥の部屋は私的な場所に違いない。遼牙は侍女の方を振り向いて、
「済まんが、奥方をこちらに呼んでくれないか―――」
しかし、遼牙を連れてきた侍女の姿はすでになかった。これで自分の仕事は終えたとばかりに、早々に自室へ下がったのだろう。
遼牙は苦い溜息と共に、奥の扉へ近付いた。軽くノックをして、
「遼牙です。ご相談があると伺って、参りました」
しかし中からの応えはない。もう一度扉を叩いたが、返ってくるのは沈黙ばかり。
遼牙は一瞬迷ったが、扉を開けて中に一歩踏み込んだ。すると突然腕を強く引かれ、何が何だか分からぬまま倒れ込んだ。
「うわっ」
倒れると同時に、動物性の濃厚な香りが鼻孔にねじ込んできた。
「何をする！」
遼牙は鋭く叫んで立ち上がろうとしたが、細く嫋やかな腕が腰に巻き付いて動きを封じられた。
「大きな声を出さないで。夫に気付かれてしまいます」
耳許で囁くその声は、確かに嵯我の妻のものだ。しかし情事への期待からか熱っぽく掠れており、耳にかかる吐息も熱く爛れていた。
遼牙は細い肩を掴んでぐいと押し返し、努めて冷静な声で追及した。
「一体何のつもりです。身体を離しなさい」
しかし遼牙の声が届いていないのか敢えて無視しているのか、首筋にうっとりと顔を寄せて、
「待ってたのよ……来てくれて嬉しいわ………」
そして遼牙の夜着を解こうとする。極力乱暴なことはしたくなかったが、こうなっては仕方あるまい。遼牙は彼女の手首を掴んで引き離し、
「これが、貴女の“相談”ですか？」
皮肉を込めた言葉も彼女には通じないのか、「ええ」と無邪気に頷いて、
「そうよ。夫婦と言っても名ばかり。あの人は夜な夜な屋敷を出て、卑しい商売女や男娼と愉しんでばかり。私には触れようともしない。ええ、分かっているわ。あの人が欲しかったのは私の家名。中央官僚との血縁関係。私のような詰まらない女になど、愛情を注ぐはずがないと。でも―――」
彼女は自由な方の手で遼牙の頬を、顎を、胸を愛撫し、
「でもいいの、あなたが来てくれたから。何て綺麗な子。大丈夫、夫には絶対にバレないわ。私はね、厳格な宗教教育を受けて育ったの。そんな種族主義者（レイシスト）が、あなたのような影道と姦通するなんて想像もしないはず。だから心配しないで。存分に愉しみましょう」
いつも嵯我の後ろで静かに控えていた貞淑そのものといった女性と、同じ人物とは思えない。ずっと抑え込んでいた肉慾が一気に吹き出たのだろう。
爛々と輝く瞳や紅潮した頬、熱い吐息全てが情慾で沸き立っていた。片手で器用に遼牙の夜着を解き、肌に手を滑らせる。しかし、
「やめなさい。私が穏やかに命じているうちに。女性に乱暴な真似はしたくない」
遼牙の毅然たる制止が、彼女の爛れた頭に僅かな理性を呼び戻した。ぴたりと手を止め、それでも淫笑は収めず、
「大丈夫。夫にはバレないと言ったでしょう？」
「そういう問題ではない。これは私に対する侮辱だ。恥を知りなさい」
もし遼牙がもう少し人生経験を積み、女性の扱い方を心得ていたなら、このような冷徹な態度は取らなかっただろう。女性としてのプライドを傷付けないよう配慮しながら、巧く宥めすかして切り抜けたに違いない。
しかし、誘惑を撥ね付けられた女性の逆恨みがどれほど恐ろしいものかまだ知らない遼牙は、自分の感情に忠実に振る舞った。
彼女の身体を強く押し返してベッドから下り、冷ややかな目で見下ろす。そして無言のまま乱された夜着を直すと、まるで穢れを拭うかのように身体を払った。
「夫婦間の諍いに、私を巻き込まないでいただきたい。では、これで」
短い言葉に大いなる侮蔑と怒りを込めて叩き付けると、呆然とする彼女を置いて部屋を後にしたのだった。
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