快楽の枷
＜I＞
「う〜ん、困ったなあ」
撮影スタジオの奥で、カメラマンがパソコンを眺めながらうなっている。困ったと言いながらあまり切羽詰っているように見えないのは、口元に微苦笑が浮かんでいるからだろう。事実、結城が声を掛けると、目尻に皺を刻んで微笑んだ。
「須崎さん、どうしました？」
須崎はスチール専門のベテランカメラマン。結城が新しく立ち上げた「Ｍ＋」の姉妹ブランドとなる「Ｍ＋innocent」で、専属契約を結んでいる。
この業界では珍しく、穏やかで尖ったところがない。日常の自己演出で個性を誇示するのではなく、作品で語るタイプのフォトグラファーだ。技術経験ともに申し分ない実力者であることは、言うまでもない。結城自ら指名したのだから。
「ああ、結城先生。ちょうどよかった。見てくださいよ、これ。こっちが前回撮影したやつで、これが今日撮影分。ぜんぜん違うでしょ？ はは、参ったなあ」
須崎が何に“参って”いるのか一目瞭然だった。モニターに映し出されているのは、夏野を撮影したものだ。精確に言えば、Ｍ＋innocentの専属となったモデル『NATSU』のバストショット。
これまでＭ＋では、決して笑わぬ人形モデルが必要とされた。対して、夏野が新たに専属契約した新ラインでは、純粋な感情を源泉とする無垢な微笑みが重要だった。それは、ブランドの基本コンセプトにも通じるものだからだ。しかし、
「夏野君、三日前に撮ったのはこんないい笑顔できてるのに、今日は何ともまあ。淋しさをこらえて必死に笑ってます、て感じでしょう？ 正直だなあ、ほんとに」
困惑を通り越して呆れを通り越して、さらに諦めを通り越して微笑ましい。須崎の口調からはそんな感情の変遷が感じ取れた。
「逢沢さんは、今日からニューヨークでしたね。一週間の予定でしたっけ。こりゃ、一週間は無理だな。他のモデルを先に撮った方がよさそうだ」
「ええ……そうですね……」
結城はモニターに視線を据えたまま、上の空で応えた。須崎は不審を感じたのか、「どうしました？」と訊ねたが、結城は無言のままだった。ただ、微動だにせぬ双眸が真っ直ぐ夏野を射抜く。二つの対照的な笑みを。
ひとつは、すぐ目の前にいる大好きな人に向けた至上の微笑み。もうひとつは、大好きな人の不在により憂愁の色に閉ざされた笑み。
確かなのは、そのどちらにも結城は干渉していない、干渉できないということだ。夏野を微笑ませるのも、夏野から微笑みを奪うのも、鷹志ただ一人。
結城の頬が、かすかに痙攣した。そして自問する。僕はショックを受けているのか、今さら。そう、今さらだ。分かりきったことではなかったのか。動かしがたい現実からひたすら目を背けて、儚い希望にすがっていただけ。
ただ、その現実をあまりに鮮やかに見せつけられたせいで、これ以上自分を誤魔化しきれなくなっただけのことだ。
そう、これが現実。今までもそしてこれからも、自分は夏野にとって“優しくて頼れる結城先生”というぬるい存在でしかない。あの黒水晶の瞳を歓喜に沸かせることも、哀しみに曇らせることも自分にはできない。
「……そろそろ腹を括る時かもしれないな」
「結城先生？ 今何と？」
「いえ、何でもないです。そうですね、須崎さんの言う通り、逢沢君が帰国するまで彼の撮影は一時中断しましょう。スケジュールの組み替えは、そう面倒ではないですから」
須崎は一も二もなく賛同して、アシスタントとの打ち合わせに行った。結城はパソコンの前に座って先刻の画像を呼び出すと、全て削除した。そして誰にともなく呟く。
「愛情が届かないなら、残された方法はひとつだ。覚悟するといい。悪いのは、君なんだから」
「結城先生、本当にすみません……僕のせいで撮影が……」
高級車の助手席にちんまり座った夏野は、ひたすら肩をすぼめて謝罪を繰り返した。そんな萎縮を見せる夏野とは対照的に、隣でハンドルを握る結城は鷹揚に笑う。
「はは、いいって。逢沢君がいるからこその笑顔だということは、僕も含めスタッフはみんな知ってる。その上で専属モデルをお願いしてるんだから、気にすることはないんだよ」
「はい、でも……」
「それに、スケジュールに空きができたからといって遊んでるわけじゃない。こうしてちゃんと協力してもらうんだから、そんな縮こまる必要はないよ」
「そう、ですね。がんばります！」
ようやく少し浮上した夏野に、結城は優しく微笑んで頷いた。
鷹志が新ブランドの発表イベントでニューヨークに発ったのは今朝のこと。俺がいなくてもちゃんと笑顔を見せるんだぞと言い置いて、大きな手で頭をふわふわ撫でてくれたのも今朝のこと。
その時は神妙に頷いて、たか兄ちゃんがいなくてもしっかりやろう、僕は専属モデルなんだからと自分に言い聞かせたのだが、いざスタジオに入って鷹志のアシスタントにメイクしてもらい、スタンバイすると、見事に顔が固まってしまった。
笑顔を見せようという意思はあるのだが、笑い方が分からない。夏野は記憶を頼りに何とか顔を作ったが、とても“笑顔”と呼べるような代物ではなく、早々に諦めざるを得なかった。
誰よりも結城に対して申し訳なかったが、当の結城は叱るどころか「大丈夫、大丈夫」と宥めてくれる始末。撮影も、鷹志が帰国するまで延期にしてくれるなど至れり尽くせりで、まだ特別扱いに慣れていない夏野はどうしていいか分からずひたすら頭を下げ続けたのだ。
すると結城は、撮影を延期した分、自分の仕事を少し手伝ってほしいと言ってきた。自分ごときに結城の手伝いができるのだろうかと夏野は不安を覚えたが、迷ったのは一瞬。迷惑を掛けてしまった分を少しでも取り返すんだと意気込んで、結城の車に同乗したのだった。
「あの、結城先生。どこに行くんですか？」
てっきり、Ｍ＋の本社ビルに向かうと思っていた。しかし気づけば車は高速を走っている。しかも景色が違う。緑の深さが、都心からかなり離れてきたことを物語っていた。
「ん？ ああ、僕の別荘だよ」
「ふわあ、別荘……」
セレブな香りのする単語に、夏野は思わず溜め息をこぼす。結城はくすっと笑い、
「うん。簡易スタジオがあるんだ。そこでフィッティングとテストショットを兼ねて、新しいラインのコンセプトを一緒に考えたい。協力してもらえるかな」
「はいっ、もちろんです！」
やる気全開で答える夏野を、結城は笑みを浮かべたままちらと横目で眺めた。
「うわあ、木の香り……」
結城の別荘は、外観こそ彼らしくシンプルモダンなデザインだったが、木材をふんだんに使った内装は温かみがあって、緊張気味だった夏野の心は少しほぐれた。
「少し休んでから始めるかい？」
「いいえ、すぐでも大丈夫です！」
「はは、すごいやる気だね。それじゃあ、荷物を置いてこっちに来てくれるかな」
結城に連れられて入った部屋は窓がなく、大きなマットレスと鏡、スタンドライト、そしてキャビネットがぽつんと置かれていた。
これがさっき言っていた簡易スタジオかなと思いつつ、それにしては機材が少ないなあと夏野は首をひねった。
「はい、それじゃ早速これに着替えてもらえるかな」
結城から渡された服を広げた夏野は、驚きに言葉を失った。それはワンピースだったが、素材はやや光沢のある薄緑のシフォン。鉱石というより、かげろうの翅を想わせる。
しかも一枚仕立てで裏地が付いていない。これ一枚では、服の態をなさないのは明らかだ。
「夏野君？ どうしたのかな」
「え？ あ、いえ、あのっ……これはその、どうやって着たらいいのでしょうか」
結城はきょとんと目を見開いて首を傾げ、
「どうやって、とは？」
「え、えと、これは一枚で着るものなのでしょうか。それとも何かの上に羽織るというか……」
「これはワンピースだよ。確かにちょっと透けるけど、いつも僕の服を着てるのと同じ感覚で身に着けてほしいな」
ちょっと透けるレベルではないのだが、夏野は頷くしかなかった。そういえば以前、外国の有名なファッションショーで上半身を露出した服を見たことがあった。乳房を堂々と晒し平然とランウェイを歩くモデルを見て、リアルクローズの対極にあるオートクチュールの奥深さを痛感したのだ。
「分かりました。えっと、それじゃ……」
夏野は周囲をきょろきょろ見回したが、身を隠すような場所はない。かといって、違う部屋で着替えさせてくださいと言うのも変だろう。仕方なく、その場で脱ぎ始めた。
結城の視線が気になったが、意識しすぎだと自分に言い聞かせ、パンツ一枚の下着姿に。そしてかげろうのワンピースを身にまとった。
それは確かに、着るというよりまとうという表現が相応しい。オフショルダーで、細いリボンが交差した背中のデザインは繊細。ややローウェストの切り替えしから広がるスカートは膝が隠れるくらいの長さだ。
着用感はないに等しい。もちろん身体の線や下着の線も全く隠れない。ちらと視線を落とすと、色はもちろんその輪郭までくっきり透けた乳首がつんと尖っているのが見えた。
「あ…の、結城先生。これでいいでしょうか」
着替え終わった夏野が正面を向いておそるおそる訊ねると、結城は一瞬息を呑んだように固まった。が、すぐに「ははっ」と陽気に笑う。どことなく芝居がかった笑いだった。
「夏野君、それはおかしいよ。下着が丸見えだ」
「え？ あ、はい。そうですね……」
「うん。下着も脱がなくちゃ。この服の美しさを表現することはできないよ」
夏野は軽い恐慌状態に陥った。結城が新ブランドやデザインにかける情熱はよく分かる。主役は作品で、モデルはあくまで服を美しく見せるための添え物に過ぎないことも。
でもモデルだって人間だ。感情がある。感情があれば羞恥もある。
「夏野君？」
夏野のためらいが理解できないとばかりに、結城は首を傾げている。おかしな話だが、この時夏野はあらためて、結城は“天才”なんだと思った。常人には理解できない独自の感性、独自の倫理、独自の世界を持つ天才。
そんな彼に協力すると決めたからには、自分も“常識”を捨てて彼の世界に飛び込む覚悟を持つべきではないか。それに、ここには自分と結城以外に誰もいないのだ。
「すみません、すぐ脱ぎます」
夏野は意を決して下着に手を掛けたが、やはり羞恥のかけらが残っていたようで、たまらず後ろを向いた。そしてするすると下着をおろし、まずは右足、次に左足を抜いて完全に脱いだ。
下着はきちんと畳み、マットレスの脇にそっと置く。一連の動作中、背後から粘つくような視線を感じ軽く震えたが、気のせいだろうと軽く頭を振って不快感を追い払った。
「結城先生、準備できました」
夏野は努めて業務的な声を出した。これは仕事だと思うことで、羞恥を抑え込もうとしたのだ。結城は頷いて、
「うん、オッケー。それじゃそのマットレスの上に。あ、寒くないかい？」
いつもと変わらぬ口調、いつもと変わらぬ気遣い。夏野はわずかだが落ち着いた。そう、これは仕事なんだから、変に意識する方がおかしいんだ。結城司郎のデザインは、時に現代アートとも呼び得るほどの前衛性を帯びる。きっとこの服も、何か明確なコンセプトのもとにデザインされたものなのだろう。自分には理解できないだけで。
夏野は言われた通り、マットレスの上に上がった。すると、傍らのスタンドライトから照射される白い光が服を透過し、夏野の肌をじかに照らした。
それは途端に生々しい光沢を帯び、夏野は耐えられず目を逸らす。しかし結城の指示は、言葉こそ柔らかいが容赦なかった。
「それじゃまず、軽く脚を開いて立ってごらん。目線はこっちだ」
いつの間にか結城は小型カメラを手にしていた。夏野は前を隠したくなる衝動を何とか抑え、指示に従う。
「うん、いいね。次は膝をついて。脚はもう少し開いた方がいいかな」
その通りの姿勢をすると、視界を淡いピンク色のものがちらとかすめた。言うまでもない、それは夏野の性器。照明を浴びたことで、半透明の薄紗の下からうっすら浮かび上がっている。
「ほらほら、目線はこっちだよ」
「は、はい」
今目にした光景から努めて意識を剥がし、夏野は必死にレンズを凝視した。何度かシャッター音が響くと、結城が近づいてきた。そして夏野の前に膝をつき、顎に指を掛けてそっと上を向かせる。
「顔が赤いね。恥ずかしい？」
夏野は正直に頷いた。
「はい、恥ずかしいです……」
すると結城は目を細め、
「それでいいんだよ。そういう表情が欲しかったんだから」
夏野は少しほっとして、ずっと気にしていたことを訊ねた。
「あの、僕、メイクしてないのにいいんですか？ 結城先生の服のイメージ、壊してませんか？」
すると結城はなぜか、不機嫌そうに眉をたわめた。
「メイクなんて必要ない。君はそのままでいいんだ。本当は、普段の撮影だってメイクなしでいい。邪魔なくらいだ」
何が結城の癇に障ってしまったのか分からず、夏野は首をすくめて謝るしかできない。
「ご、ごめんなさい、あの、僕……」
「……いや、夏野君が謝ることじゃないよ。さ、続きだ。あと少し頑張れるかな？」
「はいっ」
結城は夏野の意思を確認するように頷くと、スカートの中に手を入れて股間のものに触れた。それがあまりに自然な動作だったので、夏野は逃げもせず声も上げず、ただされるがままぽかんと見下ろした。
しかし結城の手がちょっとした戯れの域を超えて、夏野の性器に確かな刺激を与え始めると、さすがに受け入れることはできず抗議した。弱々しい抗議だったが。
「結城せんせい……あの、や、やめてください……」
「ん？ なんでだい？」
「なんでって、こんな……ぁっ、や、ん……」
意図に反してひくんと腰が揺れる。昨夜、身体の芯に繰り返し刻まれた快楽の残り火が、この刺激によってちらちらと火花を散らし始めていた。
そう、昨夜は鷹志がニューヨークに発つ前の最後の夜。会えない一週間分ヤるからなと凄まじい前置きをして、その宣告通り何度も責め抜かれたのだ。
正直、まだ尻の奥に異物感がある。ほぼ一晩中突き刺さっていた鷹志の楔、その存在感は去りし後も絶大で、思い出すたびに勝手に粘膜が収縮してしまう。そんな状態で刺激を与えられたら──
「も、やめてくださ……あ、あっ、」
夏野は結城の両肩に手を置いて、首を振りつつ懇願した。すると結城は、夏野のペニスをしごいていた手を止め、耳元に口を寄せ、
「協力してくれるんじゃなかったのかな？」
柔らかい口調の中に咎めるような響きを感じ取った夏野は、唇をぎゅっと噛み締め耐えた。夏野の決意を感じ取ったのか、結城は「夏野君にもプロ意識が芽生えたようだね」と称賛した。そして背後に手を回し、背中で交差する細いリボンをほどく。
必然、バスト部分が緩み、布がずり落ちた。凹凸のない夏野の胸が露わになると、待ち構えていたように結城の手が伸び、桃色のかすかな突起をつまんだ。
「あ…ん！」
指と指の狭間で、それが硬くしこってゆくのが分かる。結城の指戯は巧みで、芯に溜まった熱を溶かすように乳輪ごと揉みほぐす。夏野の胸はあっという間に色づき、二次性徴前の少女のようにかすかな膨らみを帯びた。
「ひあ！ ゆ、結城せんせっ……！」
胸に痛いくらいの刺激がともったと思ったら、結城が乳首に吸い付いていた。乳輪に歯を立てて甘咬みし、コリコリに勃った乳首を舌先で強めに押し潰す。と思ったら舌の表面を押し付けてざらざら舐め回す。その全てが甘痒い快感を生み、夏野は腰と太ももをぶるぶる震わせて悶えた。
「ああ、凄いよ、夏野君。こんなに溢れてきた」
何が？ と問うまでもなかった。それは既に性器を伝い、握る結城の手を伝い、内股をしとどに濡らしていたのだ。
「これならローションは不要だな」
結城は誰にともなく呟くと、濡れた指を後ろへ滑らせた。双丘の谷間をまさぐり、窄まりの襞をあやすように愛撫する。
「だ、だめぇ……結城せんせっ、お願い、そこは……ぁ、ぁぁ……」
夏野の懇願も虚しく指が挿入され、尻の中をぬるぬると行き来する。時折指先で引っ掻くように刺激され、そのたびに夏野は結城の肩にしがみついたまま全身を痙攣させた。しかし快楽の支配が強まるにつれて力が抜け、夏野は座り込んでしまった。
「おやおや、しょうがないな。そのままでいいよ」
結城はそう言って、夏野の膝に手を掛けぐいと開かせた。
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