〜日向兄弟の憂鬱〜

「宗一郎、いますか？」
「おお、勇人か。どうした？」
「ちょっと休ませてもらいたいのですが……」

保健室に現れた日向は確かにやつれた表情で、足取りも覚束なかった。とはいえ、それはここに足を踏み入れてからのこと。
他の生徒たちにとっては、いつも通りの日向。柔和な微笑みと透き通った美貌という、本来なら他人を惹き付けるはずの個性で壁を作って他を圧倒する、近寄り難い完璧な生徒会長だった。

そんな日向が唯一、消耗した脆い自分をさらけ出すことができる場所がこの保健室。そして滅多にないことではあるが、微かな弱音を吐くことができる人物が、保健医である彼、日向宗一郎（そういちろう）だった。




宗一郎は日向の兄で、今年２７歳になる。兄とはいっても母親は違う。日向の父と宗一郎の母は、学生の頃から将来を誓い合った仲であったが、日向家の意向という強大な権力の意志には逆らえず、正式な婚姻関係を結ぶことはできなかった。

しかし日向の父は、すでに生まれていた宗一郎を早々に認知し、家督を継がせることはできないものの、将来に渡って愛情を注ぎ、援助を与えることを約束した。そして実際、それを忠実に実行したのだ。

だが、日向の父がみせた誠意は思わぬ悲劇を誘発した。正妻である日向の母親はこの事実に耐えられず、徐々にではあるが精神のバランスを崩していったのだ。

恐らく、彼女は余りに純粋で、夫を愛し過ぎていたのだろう。日向家の財にのみ執着しているような女であれば、懐柔策はいくらでもあったに違いない。しかし彼女が欲したのは、夫の唯一の愛だった。宗一郎の母がいる限り、それを我が物にすることはできない。

そして彼女の狂気はひっそりと、誰にも気付かれぬうちにその触手を伸ばし、息子である日向を絡め取っていったのだった。

母親の狂気に呑み込まれる寸前に、ようやく周囲の人間が異常に気付き、日向はその歪んだ世界から救出されたのだ。が、その後遺症はいまだ彼の精神に深い根を下ろし、昼となく夜となく、正常であろうとする意志と努力を嘲笑う。日向は常に、境界を彷徨っていた。

それゆえに宗一郎は、弟に対して強烈な負い目を感じていた。自分と母親のせいで死ぬより辛い苦しみを味わい穢れを背負い、しかも、日向家当主としての重責を担わねばならない。

何事も自由に、自分の意志で決められる兄。対して、進学先や就職先、そして恐らくは結婚相手さえも予め決められている弟。

宗一郎は、この自由が弟の犠牲の上に成り立っていることを強く自覚していた。何か償いをしなければ。たとえ微力であっても、弟の幸せのために尽くそう、そう決意した若き宗一郎は、大学で精神医学を学んで臨床心理士の資格を取った。そして父親に頼み込んで蒼薇学園の保健医となり、陰ながら弟を見守ることにしたのだった。
いずれ必ず、弟の哀しい病いを癒してやるのだ、そんな決意と共に。




「……どうした、最近ずっとだったが、今日は特に顔色が悪いな」
「ええ。昨年度の決算報告書をまとめるのに苦労しまして。書記がいなくなってしまったので、余計に手間がかかってしまいました」

それだけが理由ではないことを知らぬ宗一郎ではない。しかし本人が自覚していないならともかく、痛いほどの想いを持て余しているほどなのだから、敢えて指摘するまでもないだろう。余計な干渉は、何の成果も生まないのだ。

「今ちょうど誰もいないから、休んでいけ。生徒が来たら、ベッドはいっぱいだからと言って追い返すから安心しろ」
「いつも済みません。生徒会室は落ち着かなくて……」

誰もが、生徒会室は日向のプライベートルームだと思っていたが、あそこも彼の“場所”ではなかった。唯一寛げるのは、人のいない保健室。宗一郎が番人よろしく、日向の孤独と安らぎを守ってくれる。

保健室には、ベッドが４つあった。その１つに横たわると、宗一郎が白いカーテンを引いてくれた。日向はほっと息をつき、浅い微睡みと戯れる。愛しい人の微笑みを思い描きつつ。




―――それからどのくらい経っただろうか、心地よく揺蕩う意識の隅で、聞き慣れたチャイムが鳴った。授業の開始を告げるものなのか、終了を告げるものなのかは分からない。ともかく日向はゆっくりと目を開け、そのまま暫く無為な時の経過を楽しんだ。

その時、カラカラと保健室の戸を開ける音が聞こえた。そして、

「宗一郎せんせい……少し休ませてもらってもいいですか？」
「秋原……ずい分辛そうだな。うーん、今ベッドは塞がっているんだ。そこのソファを整えるから、悪いがそこで横になっててくれるか？」
「はい……すみません。お願いします」

―――そっ、宗一郎！　いいんですよ、彼ならっ。ああ〜、なんて気が利かない男なんだっ

日向の切ない叫びなど届くはずもなく、白いカーテンは無情にも二人の間を遮ってはたはたと揺らめく。そうしている間にも、宗一郎は寝やすいようにソファを整えてしまった。

今日向が起きていって、ベッドは空いてますよ、と言うのは余りにも気まずい。仕方なく日向はそのまま寝ることにした。しかし耳だけは自然と二人の会話を追ってしまう。

「秋原、緩い鎮痛剤があるが、飲むか？」
「あ……いえ、大丈夫です。少し休んでいれば―――」

宗一郎は溜め息をつき、

「秋原、お前もう少し自分の身体を大事にしなくちゃ駄目だぞ。月曜日に、こうしてフラフラの状態で保健室に来るの、これで何度目だ？　いくらなんでもひど過ぎる。他人の恋愛に口を挟む趣味はないがな、嫌なことを嫌と言えない関係では長続きしないぞ」
「宗一郎せんせい、僕は―――」

純が反論しようと口を開いた時、保健室の戸が荒々しく開けられて、諸悪の……否、純の疲労の原因が飛び込んできた。

「純っ、大丈夫かっ？　倒れたと聞いて―――」
「尭村っ、ここは保健室だぞ。静かにできんのか」

が、宗一郎の叱責を見事に無視して、尭村は純の傍に駆け寄る。

「なんでこんなとこに寝かされてるんだ。ベッドはっ」
「ベッドは全部塞がってるって。尭村さん、僕は大丈夫ですから……」
「塞がってるぅ？　誰だよ、こいつを押しのけて堂々と寝てる奴はっ」

放っておいたら、寝ている人間を本気で蹴り飛ばしかねないのだ、この男は。宗一郎もそれは重々承知していたから、少し慌てて尭村を呼び止めた。

「尭村、ちょっと待てっ。ちょうど良かった。お前に話がある。今もちょうど秋原に言っていたところなんだけどな、こんなことを続けていたら、秋原の身体が壊れてしまうぞ」
「なっ、なんだよ、いきなり……」

宗一郎の真剣な口調に、さすがの尭村も動揺を見せた。

「アレは、される側の方が負担が大きいということぐらい、お前にも分かるだろう？　秋原を見ろ。明らかに寝不足の青白い顔で、ふらつきながらここに来ることが今まで何度あったか」
「そんなに……しょっちゅうあったのか……？」

軽い驚きと不安で、眉をたわめて純を見つめる尭村。純は何と答えてよいか分からず、「いえ…あの…」と曖昧な呟きを漏らすだけ。

「ほら見ろ。お前は一番大切なことが見えてないじゃないか。恋人の体調を気遣うこともせず、ただ自分の欲望のままに―――」
「違うっ、俺はこいつのことを―――」
「愛しているから、ってのは言い訳に過ぎないぞ。そうやって気持ちよく自分を欺いているだけだ。押し付けるだけの愛情は実を結ばない。現に秋原は、身体が辛いということをお前に言えずにいるじゃないか。これが対等な関係だと言えるか？」

尭村は何も言い返せない。「それでも俺はこいつを愛している」という言葉が喉元まで出かかったが、純が身体の不調を自分に黙っていたのが気にかかる。
確かにそうなのかもしれない。自分は、愛情を免罪符にして欲望を押し付けているだけなのかも―――

「宗一郎せんせい、それは違うんです」

純はいつの間にか起き上がってソファに腰掛け、真摯な眼差しを宗一郎に向けている。そして静かに口を開く。

「それは全て僕が望んでいること、僕が欲しているものなんです。尭村さんは一生懸命、それに応えようとしてくれている。一方的な押し付けなんかじゃない。僕はいっつも不安がってて、怯えているから、それを呑みこんでしまうくらいの強くて深い愛情で浸してくれないと、すぐからからに乾いて崩れてしまうんです」

口調は穏やかだが、ひとつひとつの言葉に強い想いが込められているのが分かる。宗一郎も尭村も、ただ黙って純の声に耳を傾ける。

「不安なのは、尭村さんを信じていないからじゃありません。僕は……僕は自分が信じられない。自分が、愛される価値がある人間だと信じることができなくて……。尭村さんと一緒に夜を過ごした後でも、朝、目を覚ますまでは不安なんです。“おはよう”って笑いかけてくれてやっと、ああ、まだ大丈夫、まだ嫌われてないんだ、って」
「純っ」

尭村は堪らず名前を呼ぶ。苦しくて切なくて、言うべき言葉が見つからない。ただ名前を叫ぶしか。
しかし純は、その叫びに込められた想いの全てを受け取ることができた。見る者に敬虔な感情すら起こさせるほどの綺麗な微笑みを浮かべて、

「だから、いいんです。身体が辛いのなんか平気。身体の傷とか痛みは、放っておけばいつかは消えるでしょう？　でも、宗一郎せんせいなら分かるはずです。身体以外に受けた傷は、放っておいたら余計に深くなるものだ、って」
「……その通りだ」

純はにっこり笑って、尭村の手をそっと握る。

「僕なんかがこんなに幸せになれるなんて夢みたい。全部尭村さんのお陰です。……大好き」

尭村は夢中で華奢な身体を抱き寄せて、髪に耳に肩に唇を押し付ける。もうどうしていいか分からない。気が付けば、うわ言のように純の名前を繰り返していた。純は背中に腕を回して、子供をあやすように優しく撫で、

「尭村さん……身体が辛かったの黙っててごめんなさい。でもホントに平気だから、心配しないで。もっと……もっと愛して………」
「愛してやる……純、愛してやる………」

宗一郎は、温かな溜め息と共に、苦い笑いを漏らした。やれやれ、俺の取り越し苦労だったか―――

「純……じゃあ早速、今度は腰が立たないぐらい激しいやつな。楽しみにしてろよ」
「え……あの、そういう意味じゃなくて……えっと………」
「なんだ？　もっと愛して欲しいんだろ？　何なら新記録に挑戦してみるか」

心底楽しそうに笑う尭村。宗一郎は、カーテンの向こうに日向がいるのも忘れて、

「尭村ぁっ、お前は何にも分かってないじゃないかっ。いい加減に秋原の気持ちを―――」
「うるせ。お前には関係ねえだろ。お前は日向だけ構ってりゃいいんだっ」
「俺は全生徒の健康を預かっているんだっ」

二人は純の宥めも無視して喚き合っている。しかし日向には、尭村の本心が分かった。カーテン越しに聞いていたにも拘わらず、いやだからこそ、ふざけた口調の奥に宿る強い想いを、純への愛情を聞き取ることができた。
あんな風に茶化して言ってみせるのは、ただ照れているだけなのだ。嬉しくて照れ臭くて、だからつい苛めてしまう。小学生並みの感情表現。

―――こういう場面に居合わせるとは、私もつくづく運が悪い

二人のどこか楽しげな罵り合いは終わったらしく、尭村は純を連れて部屋を出て行った。これから、いつもの場所、二人の場所でいちゃいちゃするのだろう。もう嫉妬にも疲れてしまった。

「勇人……起きてるか？」

宗一郎がカーテンからそっと顔を覗かせて、こちらを窺っている。

「起きないはずないでしょう？　あんな大声で」
「いや、すまん……その、少しは休めたか？　具合はどうだ？」
「お陰さまで、ますます気分が悪くなってしまいました。もう少し休んでいってもいいですか？」
「もちろん、構わんよ。いや、済まなかった、本当に……」

謝られると余計に惨めになるんですけどね、という皮肉を呑み込んで、日向は黙って横になった。
今聞いたことは記憶の隅に押しやって、今度こそ存分に無為の時間を堪能して―――

「すいません、宗一郎せんせい〜、休ませてください……」
「なんだ、藤崎……まさかお前もか………」
「お前も、って何ですかあ？　ま、どうでもいいから緩い鎮痛剤くださいよお」
「……分かったから、そこに横になってろ」

その時、保健室の戸が荒々しく開けられて片瀬が飛び込んできた。

「薫っ、大丈夫か？　倒れたと聞いて―――」

デ、デジャブか……。宗一郎は額を押さえて唸った。この学園は……。

「何しに来たんだよっ、圭祐っ」
「何だその言い草は。俺は心配して―――」
「心配するくらいなら、あ、あんなことするなあっ！」
「何だと？　物欲しそうな眼で“お願い”してきたのは誰だよ」
「お前が朝っぱらからさ、触ってくるからだろっ」
「朝っぱらから勃ってのは誰―――」
「ばかーっ、あれは生理現象なんだぁっ！」

カーテンを隔てた日向兄弟は、二人同時に溜め息をついた。




その後、週一回の全校朝礼で―――

「あー、ここで保健医の日向先生から、ひと言お話があるそうです。ちゃんと聞くように。では、よろしくお願いいたします」

宗一郎は白衣の裾をひらりと閃かせて壇上に現れた。そしてマイクを掴むと、

「お前らぁ、セックスはほどほどにしろよっ」

一部の生徒はにやにやと笑い、大部分の生徒は口をポカンと開け、校長教頭を始め教師たちは皆のけぞる。が、保健医としての使命感に燃える宗一郎はさらにヒートアップして、

「いいかっ、翌日の日常生活に支障をきたすような激しい行為は慎め。誰とは言わんが特に２年男子っ。よおく肝に銘じておくように。分かったなっ」

「はあーい」というふざけた返事が数箇所であがったが、宗一郎はそこを壇上から睨みつけると、マイクを置いて颯爽と去っていった。

後のフォローを任された教頭は半泣きの表情で「た、大変貴重なお話でした」と言い、その日の朝礼はいつもより早く終了となったのだった。




「宗一郎先生、言ってくれるよなあ。なっ、尭村」

森下はにやにや笑いながら、尭村にすり寄った。

「全校生徒の前であんだけ言われりゃなあ……お前、どうするよ？」

が、尭村は不審げに眉根を寄せて、

「何の話だ？」
「何のって、今朝の朝礼だよ。宗一郎先生が言ってただろ。セックスはほどほどに、って。お前、聞いてなかったのかよ」
「聞いてた。けど、あれって俺のことなのか？」
「………」

恐るべし、尭村。森下は、この旧友の凄さを今さらながら見せつけられたように思えて、軽い眩暈を禁じ得なかった。（Fin）

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