First Sweet Valentine
３.
「ちょっと待ってろよ、今呼んでくるから」
片瀬はそう言って二人を廊下に待たせて、純のいる教室の戸を開けた。
「悪い、秋原はいるか？」
珍しい来訪者に敏感に反応したのは、当事者である純より寧ろ直の方だった。ぱたぱたと一目散に駆け寄って、好奇心丸出しの大きな瞳をくりくりさせ、
「おおお、片瀬せんぱいっ。どうしたんですか？ めずらしー」
片瀬は思わず苦笑を漏らし、もう一度「秋原はいるか？」と訊ねた。下級生の教室を訪れることなど滅多にない片瀬が突然現われて、教室内はにわかにざわつき始めた。
もっと間近で見ようと、次々と生徒たちが近寄ってくる。密かな憧れを抱いている者も多いようで、うっとりと目を細めて見入る者まで。
しかし、そんな不穏な空気を気にも留めず、直の後ろからちょんと顔を出してきた純に「ちょっといいか？」と声を掛けた。純はぱちぱち瞬きして「はい」と頷き、片瀬の方へ近付こうとした。その時―――
「うわぁぁーーーい、純たぁん！」
聞き慣れた声ではあるけれど、ここで聞こえるはずのない声が響き渡った。と思ったら片瀬の足許を何かがすり抜けて、教室の中に飛び込んできた。それは言うまでもなく―――
「ゆ、ゆきひとくんっ？！」
雪仁は純の身体に抱き着いて、嬉しそうに顔をすりすりさせる。対して純は半ば条件反射的にその頭を撫でながら、戸惑いに揺れる声で質す。
「ど、どうしたの？ こんなところに……」
「その子、お前に会いに来たみたいだぞ」
片瀬と薫も教室の中に入ってきて、ごく簡単に事情を説明する。すると純は驚きを隠せない様子で、
「ええっ？ 一人で？ 雪仁くん、幼稚園から一人でここまで来たの？」
「うんっ」
「一体どうやって……」
ここで、疼く好奇心を抑え切れなくなった直が割り込んできた。
「なあなあなあ、この子何なんだ？ ていうか、どっかで見たことあるような気がしなくもないんだけど」
「あ、やっぱり？ 俺もそう思ってたんだぁ」
同意する薫と顔を見合わせて、うんうん頷き合う。すると秀が横からぬっと顔を突き出して、
「そういや、尭村さんに似てねえか？」
薫と直は同時に「そうだ！」と声を上げた。
「そうだ、尭村さんに似てるんだ。何となくだけど」
「うんうん。ま、尭村よりはずーっとかわいいけどなっ」
そう言って笑った二人だったが、急に黙り込んでしまった。額に重苦しい翳を落とし、
「ま、まさか……尭村さんの隠し子？」
「くっそお、あいつッ。なんてヤツなんだっ。締め上げてやる！」
勝手にヒートアップし始めた二人を、純は慌てて宥めた。
「ち、違いますっ。この子は桐生雪仁くん。尭村さんの従兄弟です」
「いとこぉ〜？ なぁ〜んだ」
「なぁんだ、はねえだろ」
秀は呆れたようにそう言って、純にぎゅっと抱き着いたままの雪仁を上から見下ろした。そして頭を撫でようと手を伸ばしたが、何故か雪仁に睨まれてしまい思わず手を引っ込める。片瀬はにやりと笑って、
「お前、敵視されてるみたいだな。子供の洞察力ってあなどれねえよな」
「う………」
返す言葉もなく、秀はそっとその場を離れた。片瀬は改めて雪仁に向かい、
「ほら、渡すものがあるんだろ？」
雪仁はこくんと頷いて純から離れ、胸に抱いていた赤い箱を純に差し出した。
「純たんっ、これあげる！ ばれんたいんだよぉ」
「え？ バレンタインって……」
「知らないの？ ばれんたいんは、すきなひとにチョコをあげてこくはくする日なんだよぉ。だからはい、純たん。だいしゅき！」
目の前に差し出された赤い箱をじっと見つめ、
「雪仁くんが……僕のために買ってくれたの？」
「うん！」
「それでわざわざ……持ってきてくれたの？」
「うん！」
純は両手で恭しく受け取った。雪仁の体温が移ったのか、箱はほんのり温かかった。いや、体温ではなく雪仁の想いが移ったのかもしれない。
純は綺麗にラッピングされた箱を胸に抱き締めて、
「ありがと、雪仁くん。嬉しいよ」
輝くばかりの笑顔を浮かべる。雪仁は興奮した面持ちで顔を真っ赤に染め、
「あのね、純たん。このチョコにはずっとえいえんにしゅきって書いてあるんだよぉ」
「うわあ、ほんと？ ね、見てみてもいい？」
雪仁は笑顔全開で頷いて、「だいしゅきー」と言いながらくるくる回った。その場にいる誰もが目を細めて、二人のほのぼの温かなやり取りを見守る。
純は丁寧にリボンを外して包装紙を剥がし、平らな箱のふたを開けようとした。その時、
「お前ら、何やってんだ」
不機嫌を隠さぬ低音が割り込んできた。純は思わずびっくぅんと飛び上がって、
「あ、尭村さん……」
おそるおそる上目使いで見上げる。尭村はどかどかと大股で近付いて、
「こら、雪仁。母ちゃんから電話があったぞ。お前、幼稚園を勝手に抜け出したらしいな。怒られても知らねえぞ」
しかし雪仁は果敢に見返して、
「ママなんかこわくないもん！ 純たんにしゅきーって言うほうがだいじだもん！」
「マセガキが。いっつも言ってるだろ？ 王子様は一人だって」
「ぼくが王子様になる！ なるひとおにーたんは純たんをいじめてばっかだから、王子様しっかくだもん」
「……ぶっ、確かにその通り」
心の中の呟きを思い切り声に出してしまった薫。案の定尭村に凄い目で睨まれてしまい、慌てて目を逸らした。
「ね、純たん。チョコ見てー」
「あ、そうだったね。よおし、雪仁くんがくれたチョコ、楽しみだなあ」
尭村の機嫌を横目でちらと窺いつつも、笑顔で箱を開けた。途端に、濃厚なカカオの香りがたちのぼって鼻孔を甘く刺激する。が―――
「あっ………」
純は思わず声を上げて、箱の中身を見つめた。チョコレートは、確かにあった。大きなハート型のビターチョコレート。
しかしその表面はどろどろに溶けて、白いものが流れ出していたのだ。
「純たん、どうしたの？」
「う、ううん。何でもないよ……」
きっとここには、ホワイトチョコで文字が書かれていたのだろう。しかし雪仁がずっと胸に抱いていたせいで温まり、チョコが溶け出してしまったに違いない。
「えいごだけどね、ずっとずっとしゅきって書いてあるんだよお」
雪仁は得意げにそう言って、純が呆然と抱えたままの箱を覗き込んだ。が、目に飛び込んできた光景が理解できず、ぽかんと口を開ける。次の瞬間、無邪気な笑顔が音をたてて凍り付いた。
「な、なんで………どして…………」
雪仁には読めないけれど、買った時には確かに文字が書いてあったはず。なのに―――
「ゆ、雪仁くんっ。ありがとう。ちょっとチョコが溶けちゃったみたいだね。でも―――」
「ぅっ………ぅぇっ、ぇぇっ…………」
喜びと興奮で紅潮していた顔は、さらに赤みを帯びてくしゃりと歪んだ。と思ったら両の瞳が涙に覆われ、小鼻がひくひく膨らみ―――
「ぅっ………うわあああああーーーーん、ああああーーーーん」
「雪仁くんっ」
限界まで口を大きく開け、声帯を絞って号泣するその姿は、悲しみに潰されまいと必死に抵抗しているようにも見えた。破壊的な泣き声が響き渡ったが、その場にいる誰もが嫌な顔せず、雪仁の悲しみに同調した。
「ぼくの………チョコっ………純たんにずっとずっとしゅきって………うわああああん」
どろどろに溶けて、流れ出てしまった一途な想い。一生懸命だったからこそ、その反動は大きかった。
薫には、雪仁の悲しみがよく解った。慰めてやりたいけれど、何と言っていいか分からず唇を噛み締める。すると純は雪仁の前に膝をついて顔を覗き込み、
「雪仁くん、ありがとう。ほら、チョコが柔らかくなってる。食べやすいように、雪仁くんが温めて柔らかくしてくれたんだね」
「んぇっ、ふぇっ………」
「ね、雪仁くん。ここには何て書いてあったの？ もう一度、雪仁くんのお口から聞かせて？」
雪仁はごしごし目をこすり、嗚咽を呑み込んだ。そして肩を激しく上下させながらも、はっきりした声で、
「ずっとずっと、えいえんに純たんがしゅき、って……」
「ありがとう。僕も大好きだよ」
雪仁は豪快に鼻をすすり上げ、力強く頷いた。何度も何度も。
「ったく、しょうがねえな」
舌打ちと共に、呆れたような呟きが降ってきた。二人のやり取りを黙って見ていた尭村だったが、いきなりぬっと手を伸ばして雪仁の身体を抱き上げ、そのまま肩車した。
「ほら、行くぞ。純と一緒にチョコレート食うんだろ？」
尭村の頭の上で、雪仁は驚いたように大きく瞬きをした。が、肩車されたのがよほど嬉しかったのか、興奮した面持ちで足をぱたぱたさせる。
「こら、はしゃぐな。落ちるぞ」
「高いよぉ、なるひとおにーたん」
「分かった分かった。ほら、純も行くぞ」
純は笑顔で頷いて、二人と共に教室を後にした。その後ろ姿を見送りながら、片瀬は「まるで親子だな」と笑う。
薫も、一緒に笑おうとした。しかし何故か笑顔にならず、喉の奥から込み上げる熱いものに翻弄され、唇をきゅっと噛み締めた。
―――純たんにチョコレートあげてね、それでずーっとだいしゅきってこくはくするの！
誇らしげにそう言った雪仁の、赤く染まった丸い頬を思い出す。
「はは………俺ってほんとにバカだ、ガキだ………」
あんな小さな子が、大好きな人に想いを伝えたい、チョコレートをあげたいと一生懸命行動を起こしたのだ。自分の感情や気持ちを偽らず、素直にそのままぶつける姿はとても眩しく見えた。なのに自分ときたら………
―――恥ずかしいとかカッコ悪いとか、外聞ばっか気にして………
「薫っ？ どこ行くんだ！？」
教室を飛び出し、突然駆け出した薫。片瀬は慌ててその後を追い掛ける。すると薫はくるりとこちらを向いて、
「俺、今日はもう帰る！ 圭祐、また後でなっ」
そして片瀬の返答も聞かず、凄いスピードで走り去っていった。
―――よおっし、あの「手作りトリュフキット」を買うぞ！
遠くから目当ての商品に狙いをつけ、一気にカタをつけるべく頭の中でシミュレートする。ここはスーパーの中に設けられたバレンタインコーナー。みんなもっと早く買って準備しておくのか、売り場は閑散としていた。
薫はほっと安堵の息を吐き、だだっと駆け込んで「トリュフキット」をわしっと掴み、そのまま一気にレジへ。若い女性やお喋り好きそうなおばさんではなく、ぶすっとして愛想のない女性が担当しているレジを選んだ。
なるべく顔を見られないよう俯き加減で財布を開け、代金を払おうとする。するとレジ係の女性はトリュフキットをじっと見て、
「生クリームはあるの？」
「え、えっ？」
「これ、生クリームとか自分で別に用意しなくちゃいけないみたいね。買わなくて大丈夫？」
そこまで考えていなかった。これさえ買えばトリュフが作れると思っていたのだ。薫は「買わなくちゃ」とあわあわする。レジの女性はぬっと手を突き出して棚を指差し、
「ほら、あの右から二番目の列が乳製品のコーナーだから。あと、ラム酒を入れたらコクと風味が出てもっと美味しくなるわよ」
「はいっ、買います！」
「ラム酒はケーキ材料のコーナーにあるわ。右から四番目の奥」
薫は急いで棚を回り、目当てのものを持ってレジへ戻ってきた。女性は無言で頷いて素早く会計を済ませ、袋に入れてくれた。
そして相変わらずぶすっとして無愛想ながらも、一言「がんばってね」と添えて袋を渡してくれた。
「ありがとうございます！」
胸の奥がほんわか温かくなるのを感じながら、薫は笑顔でお礼を言って店を後にしたのだった。
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