Under The Cherry Tree
―桜の樹の下には―
３.
「なあ、桜………」
翌朝、まだ早い時間に目覚めた二人は、取りとめのない睦言を交わしては無為のひとときを愉しんでいた。
逞しい胸に頬を預け、じかに伝わる温もりに憩う。ずっとこうしていられたらいいのにと思いながら、そんな行き過ぎた望みに罪悪感を持ってしまう。
純は自分を戒めつつ、「なんでしょうか」と尭村を見上げた。
「お前の……名前が知りたい。源氏名ではなく本当の名前を」
「そ、それは……」
純はそのまま絶句した。その沈黙を拒絶と受け取った尭村は、ゆっくり身体を起こして純の上にかぶさった。
「教えられねえ…か」
「ごめんなさい、成仁さま……怒らないで………」
胸の前で手を組み、すがるように見上げる純の額に口付けを落とし、頭を優しく撫でる。
「怒ってねえよ。ここの…規律なんだろ？」
純は頷いたが、名前を教えられないのは規律のためではなかった。尭村なら、自分は桜姫の本名を知っているなどと言い触らしたりしないだろうし、それに何より、尭村のためなら規律を破ることなど何でもなかった。寧ろ誇りすら覚えただろう。
純が名前を教えることを躊躇したのは、このまま尭村に惹かれてしまうのが恐かったから。あの艶めいた低音で「純……」と囁かれたりなぞしたら、自分はどうなってしまうか分からない。
身体も心も委ねてしまいたいと思えるような人にこれまで出逢ったことはなかったけれど、そうなることの恐さは承知しているつもりだった。
所詮は客と娼婦。一線を越えてしまった時に傷付くのは、間違いなく自分の方なのだ。
「桜、悪かった。今のは忘れてくれ」
尭村は真摯な声で詫びた。まさかここまで辛そうな顔をされるとは思っていなかった。たった二度閨を共にしただけで舞い上がり、過分な要求をした己れの軽率さを呪った。しかし、
「いいえ、成仁様は悪くありません。悪いのは―――」
傷付くのを恐れているこの僕なのです―――純は声に出さず呟いて、尭村の胸に抱き付いた。
それから尭村は幾度も桜姫を買った。尭村の行動は他の常連客たちにも徐々に知れ渡り、九割方やっかみと羨望であろうが、「若造の分際で…」「女から巻き上げた金をつぎ込んでいるらしいぞ」などいう囁きが、待合所などで交わされるようになった。
しかし当人は意に介さず、嬉々として桜姫の許へ通った。逢瀬の回数を重ねるごとに二人の情交は激しさと甘さを増し、明け方まで休みなく睦み合うこともあった。
尭村はよく苦笑を漏らしながら「俺の方が溺れちまいそうだ」と呟いたが、それは彼の偽らざる本音でもあったのだ。
しかし、尭村の独占状態は終焉を迎えようとしていた。純の昔からの得意客である朱雀公が、外遊から帰ってきたからだ。
朱雀公は新政府の大臣職を務める政治家で、財閥の長でもあった。そんな人物が執心する姫を奪い取るなんてできるはずもない、これで尭村も諦めるだろうというのが外野連の見解だった。
案の定、朱雀公は帰国すると家にも寄らず、真っ直ぐ純の許を訪れて久しぶりの柔肌を味わった。相変わらずの美貌を賞翫し、とろける花びらに陵辱の限りを尽くして堪能したのだが、ことを終えて部屋を後にした朱雀公の心には暗雲がたちこめていた。
何故なら愛しい桜姫の瞳には、恋する者の特徴である不穏な熱情が宿っていたから。それが自分へ向けられたものかもしれぬという期待を抱くには、朱雀公は己れを知り過ぎていた。経験を積み過ぎていた。
そして、その熱情が誰に捧げられたものであるのか知るのに、そう時間は掛からなかった。
「桜姫、今宵は政府の要人が集う宴席へのご召命を賜っております。少し早めにお仕度を」
「承知いたしました」
純は暗い気持ちを押し隠して、努めて平静に答えた。政府の要人ということは、朱雀公も当然列席しているだろう。そして宴の後は、彼の相手をせねばなるまい。そろそろ尭村が来てくれる頃合だというのに―――
純は半ば投げやりな所作で身支度を始めた。枝垂れ桜の手描き友禅が施された着物に袖を通し、桜色の総絞りの地に黄金の胡蝶を手刺繍で描いた打掛を羽織る。
いつも見慣れているはずなのに、仕度を手伝う女郎はその美しさに息を呑んだ。
「そろそろ参りましょう」
女郎に手を引かれて、純は廊下をしずしずと進んだ。やがて、男たちの野卑な笑い声が聞こえてきた。既に他の姫たちは宴席に侍っており、華やかな空気が襖越しに伝わってくる。
純はいつものように衝立障子の後ろに平伏し、そしてゆっくり顔を上げた。
―――成仁さま………
いけないとは知りつつも、つい目がそちらを追ってしまう。政府の要人しかいないはずの宴席に、尭村が列なっているのだ。こういった席が嫌いなのか、憤然とした仏頂面で酒を呷っている。
「何と美しく可憐な………」
初めて噂の桜姫を見ることのできた者も多いらしく、そこかしこから賛嘆の溜め息が沸き上がる。しかし尭村は仏頂面を崩さず、純の方を見ようともしない。
そして当然のように朱雀公が純を傍に呼び寄せ、腰に腕を回して独占する体勢に入った。それでも尭村は眉ひとつ動かさず、酒を口に運び続ける。
彼の左右には藤姫と桔梗姫がぴったり寄り添って、頬を赤らめてうっとり見上げながら競って酌をしていた。そんな尭村の堂々たる振る舞いが癪に障るのか、こそこそと陰口を叩く声が耳に入ってくる。
「洋行帰りの若造が……。学問はあるかもしれんが………」
「帝のご落胤だという噂もあるぞ。だからあの若さで要職に就けたのだと………」
「ふん、どうせ妾腹だろう。どんな血が流れていることやら………」
純はきゅっと唇を噛み締めた。知らなかった、成仁様が……。
この高級遊郭に通えるのだから相当の家柄出身だろうとは思っていたが、そこまで将来を嘱望されている方だとは。しかも帝のご落胤だなんて。いずれは立派な家柄の美しい婦人を娶って、幸せに―――
「桜よ、何を塞ぎこんでいるのだ」
純ははっと我に返ると、霞のごとき淡い笑みを浮かべて首を振った。そして空の猪口に酒を注ぐ。
朱雀公はそれ以上何も言わず一気に流し込むと、腰に回した手を裾から滑り込ませて純の素肌をまさぐった。
「朱雀様………このような場所では……………」
純は控え目な抗議を送ったが、朱雀公は冷たい目で見下ろしてくるだけで一向にやめようとしない。太ももを撫で、柔らかく温かな内股をなぞる。
「ぁ………朱雀さま……どうか……………」
公の胸に凭れ掛かり、この上なく甘い声で哀訴する純を鼻先で嗤い、
「あの男に見られたくない、か？」
純は肩を強張らせると、ゆるゆると顔を上げて朱雀公を見つめた。その双眸には明らさまな驚きの色が。公は馬鹿にしたように口許を歪めると、
「儂（わし）を甘く見ん方がいいぞ。桜よ、お前の心裡など全てお見通しなのだ」
「な…んのことでございましょう………」
「ほう。いつの間にとぼけるなどという芸当を覚えたのか。面白い」
朱雀公は囃子方を呼んで耳打ちした。そして純に向かって舞いを乞うた。
「桜挿頭（さくらかざし）の舞を見せてくれ」
純はとても舞を披露するような気分ではなかったが、このまま朱雀公の傍にいて嫌らしい追及を受けるよりはずっとましだと思い直して、素直に頷いた。
舞台に上がり、囃子方の奏に合わせてゆったりと舞う。
この＜桜挿頭の舞＞は、ある美しい舞姫が逆賊として捕らえられた恋人の助命を乞うために舞ったとされるもので、純の得意とする演目だった。
伝説の舞姫は衣裳も小道具もない中、満開の桜を手折ってそれを翳し、見事に舞って帝の怒りを鎮めたという。
しかし桜が満開を迎えるのはまだまだ先だった。純の手にあるのは小道具用の偽物の桜だったが、それでも伝説の舞姫も色褪せるほどに優雅で滑らかな所作で、宴席に集う男たちの胸を妖しく掻き乱した。
「ほ…ぅ………なんと見事な。まるで桜の化身そのものではないか」
「噂によれば、母親は異国の舞姫だとか……」
「なるほど。血は争えませんな」
尭村の周りで、衒いなき賛辞が次々と湧き上がる。子供じみた感情だと分かっていながら、他の男の求めによる舞いなど絶対に見るものかと黙って目を伏せていた。しかし、やはり誘惑には抗えず、そろそろと顔を上げて舞台上の愛しい姫を見つめた。
その瞬間、二人の視線が重なった。成仁様が見てくれている―――そう思っただけで純の胸は高鳴り、瞳は熱く潤み始める。帝に対し恋人への想いを訴える舞姫の魂と純の魂は同調し、舞台の上で見事に昇華された。
―――成仁様……あなたのために…………
純はそっと翳した桜枝の隙間から、艶めかしい視線を送った。宴客たちには、これも舞の内に含まれた所作のひとつにしか見えないだろうが、尭村は自分にだけ贈られたこの奥床しい合図を汲み取ることができた。
しかし尭村だけではなく、朱雀公もまたそれに気づいてしまったのだ。普段は感情の揺らぎを見せることのない鷹揚な紳士であったが、今はぎりぎりと唇を噛み締めて舞台上を凝視している。
純が踊りを終えてもその険しい表情に変化は表れなかった。舞台上に向かって声を張り上げ、
「何をしている。この曲は、これで終わりではないだろう。続けろ。最後までやるのだ」
公の言っていることは、間違いではなかった。＜桜挿頭の舞＞は、実はここからがクライマックスなのだ。
二人の愛情の強さを確かめるため、帝は舞姫に着物を脱ぐよう申し付ける。しかし舞姫は顔色ひとつ変えず、堂々たる身のこなしで着物を一枚一枚脱ぎ捨て、今にも裸体を晒そうという瞬間、帝による制止が入る。
姫の健気さと想いの深さに感動した帝は、二人を許して故郷へ帰らせるのだ。
しかし二人きりの密会でならいざ知らず、こうした大人数が集う宴の場で最後まで奏じられることはこれまでなかった。朱雀公もそれは承知のはず。しかし、
「さあ何をしている。続けろ。桜、儂に恥をかかせる気か？」
公の剣幕に押されて、囃子方が演奏を再開した。これでは、一人で舞台を下りるわけにもいかない。純は込み上げる嗚咽を押し込め、先刻と変わらぬ優雅な所作で堂々と舞を続けた。まるで、伝説の舞姫が乗り移ったかのように。
打掛をするりと肩から滑らせて落とし、しゅるしゅると秘めやかな音をたてて帯を解く。そしてとうとう、枝垂桜の手描き友禅がはらはらと床に舞い降りた。
淡紫の襦袢をまとった純は、儚げでありながら妖艶。宴客たちは我を忘れて身を乗り出し、舞台にのめり込んだ。ただ朱雀公だけは表情を変えず、制止をかける気配もない。
そうするうちに曲は進み、ついに純は襦袢の腰紐に手を掛けて緩めた。何とか理性を保っている数名の客は、ちらちらと朱雀公に視線を送っている。まさか本当に、桜姫をここで裸にしようというのか―――
「ああ………」
その時、男たちの口から熱い溜め息が漏れた。純が後ろを向いて襦袢の衿を落とし、雪原のように白く滑らかな背中を露わにしたのだ。しかしその背中は微かに震えていた。
この辱めに必死に耐えてきた純だったが、もうこれ以上平気な振りをするのは難しかった。が、
「朱雀様、おふざけはここまでにして下さいまし。続きはお部屋でなさればよろしいでしょう」
純の世話役である女郎が毅然と言い放つと、舞台に上がって床に散らばる解衣を拾い、肩を抱いて引き上げた。
「ふん。興が削がれた。不愉快だ。もっと酒を！ ああ、何をしているのだ桜。さっさと着物を直してこちらへ来んか」
「は、はい。ただいま………」
純は急いで着物を整えると、朱雀公の許へ向かおうとした。その時、女郎から洋酒の瓶を渡された。
「さきほど預かった、朱雀様への付け届けです」
「分かりました。お持ちいたします」
琥珀色の液体が入った瓶には、見たこともない外国語のラベルが貼ってあった。ずしりと重いその瓶を両手で抱えて、純は公の許へ戻った。
「何だこれは」
「朱雀様への贈り物でございます」
朱雀公は瓶を手に取ってラベルに目を凝らすと、嬉しそうな声を上げた。
「おお、これはコニャックではないか。誰かは知らんが、気の利いたことをしてくれる」
純がグラスに注いだ酒を旨そうに飲み干して上機嫌に笑う。そして先刻の仕打ちなど忘れてしまったかのように、純の肌に指を滑らせて愛撫を繰り返した。
「ぁ…ぁ………」
純は自ら公の胸に顔をうずめ、その愛撫を甘んじて受けた。斜め前にいる尭村の視線が恐くて、逃れるように朱雀公の胸にすがる。そうするより他なかった。
「どうしたのだ？ そんなに身体をすり寄せてきて。もっと欲しいのか…？」
すっかり機嫌を直した公は、裾から滑り込ませた手で純の蕾を探り始めた。そして指がそこに触れた瞬間、純は力を入れてきゅっとすぼめ、
「……朱雀様、お部屋に連れていってくださいまし」
もうこれ以上、尭村の目の前で辱めを受けるのは耐えられない。一刻も早く彼の視界から消え去りたかった。
朱雀公は慣れない洋酒が回り始めたのか、赤く染まった相好をだらしなく崩して何度も頷き、世話役を呼ぶ。
「部屋を用意せい」
「かしこまりました」
純の煽情的な舞に触発されたのか、宴席にはこれまでにない淫らな熱が淀んでいた。気に入りの姫を連れて席を立ち始める客や、その場で濃厚な愛撫を始める客もいる。
明らさまに股間を膨らませて、純の腰を抱いて立ち上がった朱雀公に、羨望の眼差しが集中した。
しかし尭村だけは表情を変えることなく、淡々と酒を呑んでいた。朱雀公はにやりと嗤うと、尭村の方を向いて、
「花見にはまだ早いが、今宵儂が咲かせる桜は美しかろう」
己れの勝利に酔うかのように、揚々と謳い上げた。尭村はやはり表情を変えず、誰にともなく呟いた。
「無理やり咲かせられた桜は、散るのも早かろう」
朱雀公は一瞬、鬼の形相を見せたがしかし、優越感を身体中に滲ませて堂々と席を立った。
広間から出る瞬間、純は朱雀公の腕の中から横目で尭村の方をちらと窺った。ずっと尭村に付きっきりの藤姫と桔梗姫は、先刻より身体を密着させて脚を崩し、凭れかかるようにして酌をしている。
純はすっと視線を戻すと、きりきりと痛む胸を宥めて朱雀公に身を委ねた。
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