２.
「あらぁ、まあまあまあ。薫ちゃんたら。しょうがないわねえ」
玄関口に出てきた薫の母親は、へべれけ状態で眠りこけている息子とそれを抱えている秀を、好奇心で瞳を輝かせつつ何度も見比べた。
「ちょっとハメを外し過ぎてしまったようです。申し訳ありません」
「いえいえ。わざわざありがとうね。えっと、そこに寝かしておいてもらえるかしら。後でパパに運んでもらうから」
「分かりました」
そして、薫によく似た悪戯好きの仔猫のような顔をした母親は、にこにこ笑って秀を見送った。そしてひと言、
「はあ〜、カッコいい子ねえ。片瀬くんといい勝負だわぁ」
酔い潰れた高校生の息子を前に、何とも呑気な感慨に耽った。
「あらぁ、まあまあまあ。純たら。しょうがないわねえ」
どっかで聞いたぞ、この台詞……と内心で苦笑を漏らしながら、腕の中ですやすや眠る純を早紀に差し出した。しかし早紀は笑って手を振り、
「こぉんなおっきい赤ちゃん、私にはどうしようもできないわぁ。ね、秀くん。悪いけど部屋まで運んでもらえないかしら」
「あ、はい……。分かりました」
軽く一礼して靴を脱ぎ、純を抱いたまま二階へ上がっていった。そして部屋に入りベッドの上にそっと降ろす。
純はふにゃふにゃとぐずったが、秀が毛布を掛けてやると嬉しそうに笑って頬擦りした。
「まったく、弱いくせにこんなに飲んで……」
込み上げる愛しさは、すぐに欲望に転じ得る危うい熱を孕んでいた。それを散らすため、秀はいかにも呆れたと言わんばかりに声を尖らせて叱った。
そしてふっと息を吐いて部屋を出ようとしたが、
「んん……ぅ、しゅう？ そこにいるの………？」
純がゆるゆると目を開けた。まだ視線も呂律も覚束ないが、気配で覚ったのだろうか、そっと手を伸ばして秀を求めた。
「ああ。目ぇ覚めたのか」
「うん……でも眠ぅい………」
こしこしと目をこすって、潤んだ眼差しを秀に送る。秀は再びベッドの傍に寄り添って、優しく額を撫でた。
「秀の手、冷たぁい……。寒いの？」
「ん？ いや、大丈夫―――」
言い終わらぬうちに、純の両手に包み込まれた。そして胸元に引き寄せられる。
「こうやってぎゅっとしてたら、すぐにあったかくなるよ……」
「純………」
安らかな闇を乱さぬようにそっと名を呼ぶ声が、微かに震える。秀はいけないと知りながらも、上から唇を重ねるのを抑えることができなかった。
「んっ……ふ……ぅ……しゅう………」
ふっくらと柔らかい舌に自分のそれを絡ませて、唾液を混ぜ合わせる。そして、これ以上続けては後戻りができなくなると自覚するぎりぎりのところで、ゆっくり唇を離した。
とろんとした瞳でうっとりと自分を見上げる純の無防備さ、濡れた唇の艶かしさに思わず息が上がる。しかし腹の底にぐっと力を入れて、立ち上がった。
「じゃあな、純。お休み……」
甘い杏の移り香を反芻しながら、秀は部屋を出た。が―――
「環さん……」
部屋の外で、環が腕を組んで睨んでいた。「見ていたんですか？」と訊こうとしたが、やめた。環のこの剣呑な視線。訊かなくても分かる。
「秀、あんたはどうしたいの？」
秀は思わず笑った。全く、悪いことはできないな。ちゃんと送るという尭村との約束を破った途端にこれだ。神様ってのは実在するんじゃないかと思えるのは、こんな時だ。
沈黙する秀に対して、環はさらに畳み掛ける。
「幼馴染みのままでいたいのか、それとも恋人になりたいのか―――」
「俺の気持ちは二の次なんです。純が何を望んでいるのか、それを一番に―――」
「ずるい男ね」
ぴしゃりと言い置く環。秀は肩を竦めた。やはり、彼女にこんなお為ごかしは通用しないか……
「ともかく、もうあの夏のようなことはしませんから、安心してください。では、俺はこれで……」
そそくさと逃げるように環の前を去る自分の卑劣さを、秀はぎりぎりと噛み締めた。
翌日、昨夜の醜態をけろっと忘れた姫たちは、いつも通り爽やかな笑顔を振りまいて登校した。
「純ー、おっはよー」
「あ、なおー。大丈夫だった？」
「うん、もう全然。ああ、昨日は食いまくったよなあ。今思い出してもしあわせ〜」
うっとりと視線を彷徨わせる直を呆れたように見つめてから、
「そういえば僕、気が付いたら自分のベッドで寝てたんだよねー。ホテルで薫さんと騒いでてー……それからの記憶がない………」
それを聞いた秀は豪快な溜め息をつき、
「お前……本当に何も覚えてねえのか」
「う、うん……。僕何かした？」
「ああ。酒飲んで暴れてたぞ。尭村さんに絡んだりしてな」
「うっそ……」
途端に蒼褪める純。どうしようどうしようと一人であたふたして、助けを求めるように秀を見上げる。
「とにかく、早めに尭村さんに謝ってこいよ。何も覚えてませんって正直に言ってな」
「うう……恐い……」
「先に言っておくが、俺は付いて行かねえからな」
「わ、わかってるもんっ。ちゃんと…自分でできるんだから………」
だんだん弱々しい声になる純を、直は半笑いで宥める。
「だぁいじょぶだよっ。別に取って食われちまうわけじゃないんだし………って、別のイミで食われちゃうかぁ。あはははっ」
シャレにもならない言葉をまき散らして、一人でケタケタ笑っていた。
「あのぅー、尭村さんはいますか？」
授業の合間にある、少し長めの休み時間を利用して２−Ａの教室を訪れた。思い切り腰が引けているのが分かる力ない声で、申し訳なさそうに尭村を呼ぶ。
が、その姿は教室内には見つからず、代わりに薫が笑顔全開で手を振りながら駆け寄ってきた。
「あっ、じゅんー。やっほー。昨日は楽しかったなあ」
「あ、薫せんぱーい」
純も強張っていた表情を和らげて、嬉しそうに応える。
「あのさあ、ゆうべの後半の記憶がないんだけどさ、家まで送ってくれたのって沖秀だよな」
「あ、はい……。そうみたいですね」
純も同様に記憶がないから、はっきり肯定はできない。早紀に今朝言われて、初めてそうだったのかと気付いたぐらいで。
「やっぱそうかあ。うちのママが萌えちゃってさ〜。すっごい大人っぽくてカッコいい男のコだったのよ〜って。今度絶対連れてきてーってミーハーモード全開」
「あははっ、そんなことしたら片瀬さんに怒られますよぉ」
顔をくっつけてこそこそ話す薫と純の傍に、当の片瀬が渋い表情を浮かべて近付いてきた。
「あ、片瀬先輩、おはようございます……」
険しい眼差しを向けられて、激しく当惑する純。なんで自分が彼に睨まれるのか分からない。
「秋原……お前、昨夜のこと覚えてないのか？」
「昨夜、ですか……？ えと………」
純は必死で記憶を掘り起こした。もしかしたら、片瀬にも失礼なことをしてしまったのかもしれない。
「なに恐い顔してんだよぉ、圭祐。酒の席のことだろ？ いいじゃないか」
しかし片瀬は、薫の宥めに頷くことなく険しい表情のままだ。純はおそるおそる、
「あの……覚えてないんです。ごめんなさい。僕、何かしましたか？」
「尭村に訊いてみたらどうだ」
「そうしたいんですけど、尭村さんはどこに……」
「後ろにいるぞ」
片瀬のひと言に弾かれて、純は勢いよく振り向いた。するとそこには、尖ったオーラを発して仁王立ちする尭村が。
「ひぃっ」
思わず情けない悲鳴を上げる純。狼狽も露わに「あのあのあの……」と繰り返してから、
「僕……酔っ払って暴れた挙句、あなたに絡んでしまったようで………。ごめんなさい。もうしません」
真っ赤になって俯く純を、尭村は冷たく見下ろして、
「お前、本当に何も覚えてないんだな……」
呆れたようにこぼす。純は何と答えてよいか分からず、そのままの姿勢で固まっていたが、いきなり教室の奥からきゃあっと上ずった喚声があがったのに驚いて顔を上げた。
見れば、昨日のパーティーにも来ていた新聞部の女子たちが顔を寄せ合い、頬を紅潮させて写真に見入っている。
その時の、尭村と片瀬の行動は早かった。目配せを交わすと女子たちの許に駆け寄り、険しい声で「それを見せろ」と詰め寄った。しかし、
「な、何でもないの〜」
「いいから見せろ」
「いやぁ〜」
「見せろッ」
暫く押し問答をした挙句、二人は実力行使に出た。「片瀬ッ、そっち押さえてろ」と叫び、その隙に写真を引ったくろうとする。
「きゃああー、やめてー」
結局、逃げ惑う女子を追い駆けて捕まえ、押さえ付け、教室内は大騒ぎとなった。他のクラスメートたちはぽかんと口を開けてその様子を眺める。
「うわ……尭村と片瀬が女を襲ってる……天変地異の前触れか………」
そして追い詰めた片瀬が写真を取ろうと手を伸ばした瞬間、それはばさりと落ちて教室中の床に広がった。
薫は、自分の足許に落ちてきた一枚を手に取って眺める。
「なっ……なんだこりゃぁぁっ」
真っ赤な顔をして素っ頓狂な声を上げ、「なんでなんでなんで……」とあたふたする薫。その手元を覗き込んだ純も、同じように真っ赤になってわたわたする。それもそのはず、写真には薫と純のディープなキスがくっきりばっちり写っていたのだ。
柔らかそうな唇を斜めに深く重ねて、二人ともうっとりと目を閉じている。しかも頬がほんのり色づいていて、お姫さま同士の怪しい密会現場を覗いているみたいな気分になる。
「なんだよぅ、これ〜。ぜんっぜん覚えてねえぞー」
「僕も覚えてないですー。うにゃー」
当事者たちが呑気なことを言い合っている間に、床に散らばった写真は王子様たちによって速やかに回収された。「見たら殺すぞ」と、王子様らしからぬ物騒な台詞をまき散らしつつ。そして、
「分かったか。お前らが昨日何をやったのか」
「これだけじゃねえぞ。酒飲んで暑くなったから服を脱ぐって大騒ぎして。新聞部相手にストリップか？ 大サービスだな」
上からきりきりと睨まれて、さすがの薫も萎縮して「ごめん…」と小さな声で繰り返す。純に至っては、見ている方がもういいから、と宥めてあげたくなるほど縮こまって震えている。
「まったく、ガキのくせしてアルコールなんて呷るからだ」
片瀬の言葉に、薫はむっと膨れて言い返そうとした。しかしそれより早く、
「片瀬、こいつらへの説教は後回しだ。先に女どもを締め上げて、他に持ってる写真がないか確かめるんだ」
「分かった」
そして二人は、再び教室の中へ戻っていった。戸口付近に残された薫と純は暫し気まずそうに顔を見合わせていたが、
「な…んだよ。ちょっと酒の席でふざけただけじゃん。あんなに怒ることないのに。なあ、純」
「はい…。僕たちってそんなに信用されてないんでしょうか」
「だよなあ。大体、俺たちがキ、キスしたって、どうにかなるわけないじゃん」
俯いたまま二人でぶちぶちと文句を垂れ合う。それは徐々にエスカレートし、その挙句、
「あー、なんかムカつくっ。授業サボッちゃおうかなあ」
すると純は「あ」と思いついたように声を上げ、
「そ、そうだ。この次は僕、課外授業だった。いつもの場所で尭村さんと……。ふぇ、ずっと怒られるんだろうなあ………」
涙声で零す純が余りに痛々しくて、薫は思わずぐいと手を引き、
「なあ純。たまには俺とサボろーぜ。尭村なんてほっといてさあ」
一瞬、それは火に油を注ぐことになりはしないかと思ったが、目の前で瞳をくりくりさせて誘ってくる薫を見ていたら、ちょっとだけわくわくしてきた。
「いいですね、それ。行きまーす」
「よしっ。それじゃあ」
教室の中でこちらに逞しい背中を向けている王子様たちにちらと悪戯っぽい視線を送ると、二人は手を取り合って廊下を駆け出した。
「あいつはぁ……」
尭村はブラックな低音で唸りながら、校内をどかどかと歩いていた。課外授業のはずなのに、いつもの場所に純が現れないのだ。
授業中のため、校舎内はしんと黙して時折教師の声が聞こえてくるだけ。その静寂をものともせず、荒々しい足音をたてて１−Ｃの教室前まで来た尭村は、ためらうことなく入口の戸に手を掛けて力任せに開けた。
「な、なんですか君は……」
叱るどころか怯えた様子で質す教師はもちろん無視して純の席を探す。そして不在を確かめると、開けた時よりさらに激しい音をたてて閉めた。
ぶゎしッという鋭い悲鳴を上げて戸は閉まり、教室内の空気がびりびりと震えた。
―――あいつ……逢引きばっくれたな
直と秀は額を押さえて、同時にはぁと溜め息をついた。
尭村が次に向かったのは、自分の教室だった。同じように問答無用の激しさで戸を開け、薫がいないのを確かめる。そして、弱々しく咎める教師をこれまた無視して片瀬を一瞥し、
「藤崎はどうした」
「知らん」
「チッ、やっぱり一緒か……」
不愉快と苛立ちを隠すことなく吐き棄てて、教室を出た。すると、片瀬も席を立ってその後に続いた。
「授業中……なんだけどなあ………」
教師は誰に向かってでもなく、まるで自分に言い聞かせるように呟くと、何事もなかったかのように再び黒板に向かった。
「まったく……あいつら二人でふらふらしてたら危ないだろがっ。襲ってくださいって言ってるようなもんだ」
二人のいそうな所を探しつつぶつぶつと繰り返す尭村に、片瀬は冷えた口調で訊ねた。
「おい尭村、お前覚えてるか？ 俺らが一年の頃、薫がいねえって必死に探してる俺を、お前は馬鹿にして笑ったよな。たった一人にそこまで入れ込むなんざ信じられねえって」
「ああ……覚えてるよ。だからなんだよ」
「いや、覚えてるならいいんだ」
「……嫌味な野郎だ」
尭村は立ち止まって片瀬を睨むと、再び歩き出した。
「うわー、気持ちいいっ。すすき野原だぁ」
「風が吹くとさわさわ揺れて、きれいですね」
薫と純は、茶色いものが増え始めた芝生の上をごろごろと転がっては、きゃらきゃらと笑っていた。
「純、髪に芝生がいっぱい付いてるぞ」
「薫さんだって」
純はふふっと笑って小さく首を傾げる。
「うう、純かわいー。尭村でなくても襲いたくなるぞぉ」
「きゃーっ」
二人はもつれ合って再びごろごろ転がる。そしてはしゃぎ疲れてごろんと仰向けに寝転がって、無言のまま流れる雲を眺めた。
やがて、起き上がった薫が純の両脇に手を付いて、上からじっと見つめてきた。これまでにない真剣な表情。
「薫、さん……？」
「あのさぁ、俺いっかい訊いてみたかったんだ。尭村のどこがいいんだ？ あいつは顔も頭もめちゃくちゃいいけど、性格は自己中だし、すぐ怒鳴るし、短気だし………」
純もゆっくり身体を起こして、薫を正面から見つめた。ふっと綿毛のような息を吐き、
「確かに恐い人ですけど………でも、ね。たまに……泣きたくなるほど優しい時があるんです。それだけでもう、何もかも捧げてしまいたいと思えるほどに………」
そう言ってふわりと笑う純は、見る者の胸を締め付けるほど綺麗だった。薫は紅潮した頬を隠すため僅かに俯いて、
「うん…。なんかそれ、ちょっと分かる気がする………」
「片瀬さんも、そうなの？」
「う、うん。ま、あいつは人付き合いが苦手でさ。とことん無愛想で不器用だし。もっと気の利いたこと言えないのかよ、って思うこともあるけど、でも……本当は………」
「本当は？」
「うぅ………うわーーーッ、恥ずかしいッ。も、やめやめっ、こんなハナシっ」
真っ赤になって、すごい勢いでごろごろ転げ回る薫を、純は微笑いながら見守った。
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