任侠Child
第一話
窓が、カタカタ鳴った。風が強くなり始めたようだ。荒天の前兆だ。やがて大きな雨粒が窓ガラスを叩き、岩を転がすような重厚な音が遠くで響いた。雷だ。
「き、来やがったな……」
雷に挑むように呟く男、その名も金剛院大門。金剛組二代目の直系で、若頭として組を実質的に動かしている。
二十四歳という若さながら人望も篤く、時には頭脳派、時には武闘派としてその力を如何なく発揮し、対抗組織を容赦なく潰す豪腕から、金剛組の閻魔と呼ばれて久しい。
190センチ近くある堂々たる体躯は、壁に映った影ですら威圧感がある。切れ長の瞳は結晶の冷ややかさを宿し、見据えられた相手は筋肉も神経も萎縮して体積が三分の二程度になってしまうという。
とはいえ、粗暴な印象は微塵もなく、黙っていればエリートビジネスマンか舞台俳優にも見える。立ち姿は優美な獣の如く。彼を中心に発生する磁渦はたちまち女性を呑み込み、虜にしてしまう。斯様に、男性も女性も否応なく惹き付ける魅力を備えた危険な男、それが大門だった。
しかし、そんな一見無敵とも思われる鋼の男、大門を出会った瞬間から骨抜きにしてしまった人物がいた。それは───
「大門おじちゃん……」
寝室の扉が数センチほど開けられ、隙間から遠慮がちに覗く顔。大門は無意識のうちにごくりと喉を鳴らし、腹の底に力を入れた。
雷が鳴り始めるとともに訪れたこの少年こそ、金剛組の閻魔をただの恋する青年に変えてしまった張本人、甥っ子の花澤朔斗だ。
「おじちゃん、起きてる……？」
「お、おう。起きてるぞ」
「お部屋に入ってもいい？」
「構わねえよ」
するとドアが人間一人分だけ開いて、そこから朔斗の全身が現れた。身体の半分以上はある大きな枕をぎゅっと抱き締めている。パジャマは半ズボンで、暗がりに素足の皙さが際立っていた。突然部屋を訪れて申し訳ないと思っているのだろう、肩をすぼめて壁際に立ち尽くす。
もちろん大門は、朔斗がなぜ部屋に来たか分かっている。雷が怖いのだ。だが、恥ずかしそうに『雷がこわい』と言う朔斗が可愛くて、分からない振りをしてしまう。
「どうした？ こんな時間に」
大門が訊ねると、朔斗は枕に顔を押し付けて「かみなり……こわいの」と答えた。暗くて見えないが、きっと耳や頬が赤く染まっていることだろう。大門は頭の半分ではその可愛さに悶え、もう半分では理性に総動員をかけた。
「雷が怖い？ 朔斗、お前はそれでも男か」
いかにも呆れたように言うと、朔斗の小さな身体がさらに縮んだ。
「ごめんなさ……でもぼくぅ……」
その時、絶妙のタイミングで雷鳴が轟いた。朔斗は「ひゃっ」と悲鳴を上げてその場にぺたんと座り込んでしまった。そしてすがるように大門を見上げ、
「おじちゃん……いっしょに寝てもいい？」
遠慮ぽく伺いを立てつつ、ちょんと首を傾げる。この控え目な甘え方に、大門の愛のゲージは一気に限界値を超えた。明らかに上ずった声で、
「しょ、しょうがねえな。約束だからな」
『約束』というのは、ハロウィンの夜に交わしたものだ。雷が鳴っている夜は一緒に寝てやるという約束。あれから大門は、雷の夜が待ち遠しいと同時に、怖れるようになったのだ。
大門の許可を得た朔斗は素早く立ち上がると、ベッドに駆け寄ってきた。大門は毛布をめくり、朔斗に手を差し伸べる。
「ほら、こっち来い」
朔斗は嬉しさから頬を紅潮させてベッドによじのぼり、持参の枕を大門の枕の隣に置いた。大門のベッドはセミダブルだから、小さな朔斗が一緒に寝てもスペースには十分余裕があった。朔斗はまず、ベッドの上に正座をして、
「おじちゃん、くっついてもいい？」
当然の権利とばかりに甘えてこない健気なところが愛しくももどかしい。大門は無言で頷くと、ややぎこちない仕草だが両手を広げてみせた。
朔斗はようやく、遠慮を捨ててその胸に飛び込む。そして、柔らかな頬を大門の硬い胸にぴたぴたと押し当てた。
「くすぐってぇぞ、こら」
我ながら、盛りきった声だと思う。しかし朔斗には分かりっこないのだから構わない。ちなみに、雷が鳴り始めた時点ですでに股間は形を変えていたのだが、それが何の兆候であるのか朔斗に分かるはずがないのだから、やはり気にしていなかった。
どれだけギンギンに勃っていても、行動に移さなければ問題はない。もちろん抑える自信はある。七歳の子供をどうこうしようなんて鬼畜精神は持ち合わせていないし、朔斗を泣かせるぐらいならアレをちょん切ってしまった方がまだマシだと本気で思えるぐらい、愛していたのだ。
「どうだ、まだ雷は怖いか？」
毛布を掛けながら訊ねると、朔斗はわざとらしく眉根を寄せて「こわいよぉ」と答えた。大門は額をぴん、と弾き、
「ほんとか、こら」
「ほんとだもん」
甘えた口調でそう言って、大門にきゅっとしがみついてくる。普段、しっかりして年齢より大人に見える分、こうして大門だけに見せる子供っぽい仕草は、まるであなたは特別なんですと言われているようで大門を有頂天にした。
そこら辺の女がやったら安いテクニックだと鼻で笑っただろうが、他ならぬ朔斗、この汚れを知らぬ聖天使ならば尊い。
「雷なんて怖くねえぞ。ここは世界一安全な場所だからな」
そう言って、ふわふわの髪に指を差し込んで頭を撫でてやる。すると朔斗は嬉しそうに瞳を輝かせ、
「世界一？」
「ああ、世界一だ。俺の傍にいたら雷も避ける」
朔斗はくすくす笑い、
「おじちゃん、避雷針だね」
「避雷針なんて難しい言葉、よく知ってるな」
「あ、えと、この前がっこうでならったんだ」
朔斗は少し慌てたように答えると、胸に顔を押し付けた。そしてうっとりと目を閉じ、
「ね、もっとあたまなでて。きもちいい……」
「そ、そうか」
“きもちいい”につい反応してしまい、自分を戒める。いかん、これ以上邪な気持ちが高じると───
「うッ……」
思わず漏れた呻きには、男の悲哀が詰まっていた。朔斗の太ももが、大門のアレとこすれ合ったのだ。これすなわち素股───
「おい、朔斗っ、もう少し離れて……」
たまらず声を上げて身体を押し返そうとしたが、朔斗が寝息をたてているのに気付き手を止めた。
「くっそ……」
大門は呪詛を噛み潰し、観念した。仕方がない。今夜も朝まで耐久レースだ。愛の神だか何だかに、きっと試されているのだろう。
いいとも、望むところだ。俺の愛は素股ぐらいで崩れるほどヤワじゃねぇんだよ！ 喉の奥で勇ましく吼えながら、腕の中で天使の寝顔を見せる愛しい子にかすめるようなキスを贈ったのだった。
「はあ……」
これで何度目の溜め息だろう。抑えようとしても勝手にこぼれてしまう。私立紫薇学園付属小学校の一年生の教室。何の悩みもない子供たちが楽しげに笑い、騒いでいる中で一人、机にひじをついて溜め息を漏らす朔斗は完全に浮いていた。
浮いているのは当たり前。朔斗はいわゆる天才児で、三歳の時に大学生レベルの読み書きができた。論理的な思考能力も、大人のそれと比較して遜色ない。
しかし朔斗はそのことを誰にも、両親にも大門にも打ち明けていなかった。彼らの前では、普通より少しだけ賢い子供を演じていたのだ。
───今夜はおじさん早く帰ってくるかなあ。
ここ一週間ほど、大門の帰りは遅かった。仕事の方で何か厄介な問題を抱えているらしいのだ。
もちろん彼が朔斗に仕事の話をすることはない。そもそも自分が何者なのか、どんな仕事をしているのか朔斗が知っているとは思っていないだろう。朔斗も詮索はしないが、彼が金剛組というヤクザのナンバーツーであることは疾うに分かっている。
ヤクザの仕事といえば、薬の売人、恐喝、賭博、貸し金業などが思い浮かぶ。それを正当化する気はないが、このような世界でないと生きていけない人種が一定数存在していること、きれいごとだけでは世の中が上手く回らないことは何となく分かるような気がする。
そして朔斗の場合、好きになった人がたまたまヤクザだったという、それだけのことだ。ただし大門は、裏社会の人間であることを誰よりも強く意識し、ある種の卑屈さと矜持が表裏一体となった複雑な自己意識を抱えている。そこがまた、朔斗にとっては魅力的だった。
───また、一緒に寝たいなあ。
雷が怖いという口実で一緒に寝てもらったのは、ちょうど一週間前。ベッドに潜り込んで身体をすり寄せると、太ももに彼の硬いものが当たった。
自分に欲情してくれたんだと嬉しい反面、今の段階ではどうにもしてあげられないのがもどかしく、切ない。きっと一晩中、悶々として過ごしたことだろう。
我慢して我慢してついに限界が訪れたとしても、大門が自分を無理やりどうにかするとは思えない。きっと女性の元に走るだろう。そのことを思うと不安でたまらないが、恋人でもない自分に彼の行動を縛る権利はない。
早く、一刻も早く大人になりたいという焦りが、朔斗の小さな身体を内側から圧迫する。焦りが飽和状態になって久しかった。
「花澤ぁ、きのう○○みた？」
クラスメートが無邪気に笑いながら話しかけてきた。彼が口にしたのは、子供に人気のアニメ。朔斗は1ミリも興味がなかったが、話を合わせるために一応見ていた。
「うん、みたよ。カードで変身するの、かっこいいね」
クラスメートは「だよな！」と目を輝かせ、アニメの話を夢中で続ける。朔斗は適当に相槌を打ちながら、心はひたすら大門を想う。
窓から見えるのは澄んだ青空。典型的な秋晴れだ。これから季節的に、雷も減るだろう。雷以外で、大門と床を共にできる口実を考え出さねば。一人じゃさむくて身体が冷たいから、おじちゃんの身体であっためて、とか？
「花澤？ なんかかおが赤いぞ！」
「そ、そう？ なんかあつくて……」
クラスメートにずばりと指摘されて、朔斗は顔をぱたぱたと扇いでみせた。この程度で興奮するなんて僕もまだまだだな。大人びたモノローグをくゆらせつつ、朔斗は顔の火照りを抑えるためひたすら扇ぎ続けた。
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