Bitter Beginning
＜9＞
週末。侑志は自分がいる場所が信じられなかった。何がどうしてこうなったのか、自分でもよく分からない。藤堂に呼び出され、車に乗せられ、気付けばここにいたのだ。藤堂が住んでいるマンションの一室、広いリヴィングに。
『装飾性』と『無駄』は同一の概念だと言わんばかりの、ひたすら禁欲的な空間。必要最小限の家具しか置いていない。しかしその配置や色使いには独特のセンスが溢れ、部屋全体がまるでミニマル・アートだった。
「どうした、飲まないのか」
目の前で湯気をのぼらせているカップに一向に手を付けようとしない侑志にそう言うと、藤堂は隣にどさりと腰を下ろした。と同時に、深みと甘さの混在した男性的な香りが鼻孔をかすめ、侑志はあらためて二人の距離の近さを思った。
まとう空気が混じり合うほどの近距離。ということは、自分の“匂い”も藤堂の元に届いているのだろうか。そう思うと途端に落ち着かなくなり、さりげなさを装って自分の腕を嗅いだ。太陽と柔軟剤の匂い。しかしすぐに自分の行いが恥ずかしくなって、慌ててカップへ手を伸ばした。
「あ、ジャスミンティー……」
「ん？ ああ。たまたまあった」
ジャスミンティーには緊張を緩和し、リラックスさせる効果がある。だからこれを選んでくれたのだろうか。そんなわけないよなと思いつつ口許が綻んでしまう。しかし、
「誰かが置いていったんだろうな」
何気ない藤堂のひと言で、侑志の浮き立った気持ちは一気にしぼんだ。『誰か』が恋人か恋人のうちの一人であることは、確かめるまでもないだろう。そのくらいのことは、男女の機微に疎い侑志でも分かる。
ざっと見渡す限り、女性の出入りを感じさせる物はない。だからこの部屋に女性が（或いは男性が）訪れたことはないと決め付けるのは早計だ。
藤堂と知り合ってまだ一カ月も経っていないが、他人の持ち物を部屋に残しておくはずがないと断言できる程度には、彼のことを理解しているつもりだ。プライベートな空間に他人の侵蝕を許すような人間でないことは。
鼻から抜けるジャスミンの芳香が、見たこともない女性のまとい香に思えて、侑志はそっとカップを置いた。するとそのタイミングを見計らったかのように藤堂がぬっと手を伸ばし、侑志の眼鏡を取り去った。
「な、何するんだ……」
弱々しい抗議など耳に入らないとばかりに、藤堂は柄の部分を指で挟んでまじまじと見詰め、
「これ、ほとんど度が入ってないじゃねえか」
「あ、うん。それほど視力が悪いわけじゃないから」
「ふ…ん、なら何で眼鏡掛けてるんだ？ こんなファッション性のかけらもない眼鏡を」
「別に……いいだろ」
不貞腐れてそっぽを向くと、顔を両手で挟み込まれ無理やり正面を向かされた。
「お前、和志にも弟にも似てねえな」
侑志は反射的に笑った。自己防衛の自嘲だ。
「俺は家族の誰にも似てない。兄弟だけじゃない、父さんにも。唯一母さんだけが、侑志は私に似てるわねと言ってくれたけど、その母さんももう……いない」
「で、似てないのが嫌で顔を隠しているのか？ ずいぶん卑屈な真似をするんだな」
一番聞きたくなかった単語『卑屈』を真正面からぶつけられ、侑志は思わず顔をしかめた。
「似てないのが嫌とか、そんなんじゃない。ただ、煩わしかったから。いちいち顔見られて、似てないのねえって言われるのが。それに、劣ってるのは顔だけじゃない。性格も頭脳も劣ってるんだから」
「俺は“劣ってる”なんてひと言も言ってない」
思いもかけぬ真剣な声に、侑志ははっと息を呑む。藤堂は、眉間に浅い皺を刻んでじっとこちらを見詰めている。その雄弁な眼差しに耐えられず、侑志は目を逸らした。
「口に出さなくたって、そう思ってるんだろ」
すると藤堂は、軽く舌打ちをして
「卑屈でコンプレックスの塊か。ったく、なんでこんな厄介なガキに……」
「な、なんだよ」
その呆れたような口調から、どうせロクでもないことだろうと分かってはいたが、続きが気になってしまう。しかし藤堂は「何でもねえよ」と返して、それから微かに笑った。
いつも不機嫌そうに、あるいは皮肉っぽく閉じられている唇が、ごくたまにだがこうして甘く緩むことがある。それを見るたびに、侑志の胸は勝手に弾んでしまう。そして今も、また。
───くっそお、静まれ、静まれ。こんないちいち反応してたんじゃ、神経がもたない。
いい加減慣れろと自分に言い聞かせるのだが、身体は正直だった。慣れるどころか、藤堂のこうした僅かな表情の変化に、より一層敏感に反応するようになっていた。
「さて、侑志。これから本題だ」
いつから、『森本』ではなく『侑志』と呼ばれるようになったのか。記憶を辿ろうとしたが、すぐに迷子になってしまった。
思えば藤堂との出会いからこれまで、呼び方がどうだとか気にする余裕もなかった。起伏の激しいジェットコースターに乗せられ、浮上から急転直下、また少し浮上を繰り返して気付けば“ここ”に運ばれていたようなものだ。
「は、はい」
腰をもぞもぞ動かして居住まいを改める侑志に、藤堂は真面目くさった声で、
「この前も言ったが、恋人として付き合う以上、ままごとみたいな真似をするつもりはない。……ひとつ訊くが、お前、童貞か？」
侑志は思わず顔を伏せたくなるのを何とか抑え、「そうです」とはっきり答えた。せめてものプライドだ。藤堂などは、中学生ぐらいで年上の女性と経験済みに違いない。
「ふ、ん。そうか。可哀想に、初めての相手が男なんてな」
皮肉混じりにそう言った時の藤堂の表情と声に、幾重にも重ねられた自虐と自嘲を感じた侑志は、訳が分からないながらも胸の奥に繊細な痛みを覚えた。
もしかしたらこの人の芯には、ひどく脆弱でかさついた魂があるのかもしれない。それが壊れてしまわないように、冷たく分厚い鎧で自分の存在ごと覆っているのかもしれない。
「なんでもいい。あなたの恋人になれるなら、俺は何だってする」
出てきた言葉は、自分でそうと意識したよりずっと力強く、厳粛なものだった。藤堂も、あからさまな驚きこそ露わにしないが、大きく瞬きをした。その睫毛の動きすら艶めかしく、侑志はこんな細部にまで惹かれてしまう自分に半ば呆れた。
「何だってする、か。そういうこと言うやつに限って、後になって話が違うとゴネたり、もっとこうしろああしろとうるさく指図してくる」
「そんなわけないだろ。だいいちあなたみたいな綺麗で才能ある大人が、俺みたいに別段優れたところもない、容姿も並以下のガキと付き合ってくれるなんて今でも信じられないのに」
「……そうか、なら、遠慮は要らねえな。侑志、来い」
いきなり立ち上がって腕を引かれ、侑志は前につんのめった。それを片手で受け止めた藤堂は、侑志の紅く色づいた耳たぶに軽く舌を這わせながら囁いた。
「途中で泣くなよ。ガキの涙ほど萎えるものはねえからな」
「なっ、泣かないよ！ 誰が泣くか！」
そんな強気が続くはずないと、当の侑志も朧げながら察していた。
冷静な振りを保てたのは、ほんの数分だけだった。ベッドの上で服を脱がされ、すでに何かを期待するように立ち上がっている乳首を、からかい混じりに指で弾かれた時も、何とか感情を制御することはできた。
けれど、下着に手を掛けられ、そのままずるずる引き下ろされて性器が露わになると、徐々に自分を律するのが難しくなっていった。
股間を舐める外気の冷たさが、あの倉庫での辱めを思い出させたというのもある。藤堂の手で無理やり吐精させられた、黄昏の記憶。
恥ずかしくて悔しくて哀しいだけならまだよかった。しかし侑志はあの時、確かに、悖徳的な快楽を感じていたのだ。それが自己嫌悪となって、心の傷をより深く複雑なものにしていた。
「……っ」
侑志は耐えられず、身体を折って横を向いた。しかし藤堂が許すはずがない。「何やってんだよ」と苛立たしげに一喝。そして肩を押さえ付けて再び仰向けにさせると、さらにとんでもない要求をした。
「膝を立てて脚を開け」
従わなくてはならない、それは分かっている。今、この場で、藤堂の命令は絶対なのだ。でも身体が言うことをきかない。頭では理解できても、身体がその理解の受容を拒んでいた。
「さっさと開け」
三度目はないぞと暗に知らしめる鋭い命令に、ついに身体が屈した。両脚をぴったり揃えたまま膝を立て、そろそろと開く。
内股の隙間にするりと外気が這い入り、薄い皮膚が微かに粟立つのが感じられた。決死の覚悟で従ったのに、藤堂が要求したのはこの程度ではなかったようだ。
「もっとだよ」
吐き捨てるようにそう言って、膝頭を大きく開く。脚は自然とＭ字を描き、性器はおろか排泄孔まで剥き出しになった。
侑志はほとんど条件反射で目を閉じ顔を覆い、醜悪な現実を視界から排除しようとした。それは自己の尊厳を守ろうとする本能的な行動でもあった。
しかし藤堂はそれすら許さない。顔を隠す手を引き剥がし、上から覗き込むようにして濃密な視線を注ぐ。
「なんで顔を隠すんだ。ん？」
あやすような問いかけは、恋人同士の睦言というよりは、追い詰める捕食者のそれだった。侑志は目を合わせぬまま、
「恥ずかしいからに決まってるだろっ……」
「この期に及んで何言ってんだよ」
「だ、だってあんた、服も脱いでないじゃないか」
侑志の言う通り、藤堂はシャツのボタンすら外していない。しかしその答えが意外だったようで、藤堂はククッと笑い、侑志の耳に口を押し付けて耳孔を舐めながら囁いた。
「俺も脱いだ方がいいのか？」
首の後ろがカァッと熱くなり、背中が勝手にしなる。それでも、感じていることを覚られないよう、声を装うことはまだ辛うじてできた。
「当たり前だろっ。俺ばっかり裸なんて不公平だ」
「不公平、か。なるほど」
藤堂は感心したようにそう言うと、今度は首筋に唇を這わせる。そして首の付け根を軽く吸った。ちりっとした痛みを感じ、侑志は鼻の奥で甘く喘ぐ。そしてふぅっと息をつくと、平らな胸が大きく上下した。
目に付くのは左右にある淫らな突起。乳首に間違いないのだが、腫れたように大きく膨れて、呼吸に合わせてふるふると揺れるのが酷くいやらしい。するとそんな侑志の視線に気付いたのか、藤堂はそこにゆるりと顔を近づけた。そして───
「あっ、ん！」
藤堂の薄い唇が突起を挟み、ゆっくりと食むように揉む。胸を通る弦をビンッと弾かれたような刺激にたまらず声を上げれば、そこに仄めく快感の響きに羞恥を覚え、侑志は訳も分からずいやいやと首を振った。
しかし藤堂がやめるはずもなく、おそるおそる視線を落とすと、微かに開いた唇の隙間で閃く濡れた舌が、こりこりと尖った侑志の突起を押し潰すように舐めていた。
「あ、あっ、やだっ……ぴりぴりする……んっ！」
さっきまでの灼けるような羞恥はいずこへ。脚を開いたまま腰を浮かせるその動きが、性交をねだるものだともちろん侑志は知らないが、知らないからといって見逃してくれる藤堂ではない。
「何だよ、このエロい動きは。ガキが誘ってんのか」
嗤笑混じりの言葉に侑志は眉間を寄せたが、それは言葉の内容に羞恥を感じたからではない。乳首を食みながら喋っているせいで、歯が当たるのだ。それが、痛くてくすぐったい、火の粉のような快感を生む。もちろん、藤堂はそれを分かっていてやっているのだろうが。
「さあて、そろそろ……」
それまで脇腹を撫でていた藤堂の手が、ゆっくりと、肌の上を這うように下方へ動いてゆく。侑志はびくりと身体を震わせた。きっとあそこだ、またこの前みたいにあそこに触れて巧みに刺激し、溜まった熱い欲望を吐き出させようとするに違いない。
侑志は無意識のうちに身構えたが、藤堂の手はそこをかすめ、さらにその奥へ進んでいった。奥？ 奥ってどこだ。性器の奥にある器官といったら、それは───
「や、めっ……」
固く窄まったままのそこにぬるりとした突起が押し当てられるのを感じた侑志は、これから何が為されようとしているのか、朧げながら悟ったのだった。
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