悲恋桜―異説・月に游ぐ―
＜聖誓の章＞
それから二人は花火大会の会場となっている港から遠ざかり、華やかな歓楽街へ入っていった。西洋風のレストランやホテル、外国人向けの賭場などがきらびやかにライトアップされている。
飴をすっかり食べ終わった游月は、好奇心旺盛なリスのように大きな瞳をくるんと見開いて、右を左をきょろきょろ眺め回していた。
透麻はそっと腕を差し出し、
「游月、危ないから私の腕に掴まって」
「え、でも………」
「この界隈は、快楽を求める紳士たちの猟場と言っても過言ではありません。游月のように愛らしい花はすぐ目を付けられ、摘み取られてしまいます。さあ」
游月は戸惑いつつも手を伸ばし、透麻の浴衣の袖をちょんとつまんだ。しかし透麻は眉根を寄せ、
「それでは不貞腐れた子供ですよ。もっと腕を絡ませて。恋人同士のように」
游月は一瞬、切なげに目を細めた。が、おそるおそる腕を絡ませて躰を寄り添わせた。途端に、触れ合う部分がぽぅっと熱を帯び始める。
恥ずかしそうに俯いてしまった游月の耳許で、透麻は「よくできました」と囁いてさらに腕を引き寄せた。より密着度が高まり、躰の火照りが全身に及んでゆく。互いの高まりを意識しながら、二人はある建物に向かっていた。
もちろん游月はどこへ行こうとしているのか分からず、ただ透麻に付いて行っているだけ。もう辺りを見回すこともせず、透麻の腕に自分の腕をしっとりと絡め、楚々たる歩みで寄り添う。
そんな游月の艶めく風情に肉の慾を刺激された透麻は、丹田に気を溜めて平静を装い、目的地へ淡々と歩みを進めていた。やがて―――
「ここの部屋を予約しておきました。さあどうぞ、お姫様」
「う………わぁ…………」
西洋の絵本で見たお城のような外観。正面のバルコニーに設えられたフランス窓から、今にもお姫様が姿を現して優雅なお辞儀を見せてくれそうだ。
前庭を抜けて広い車寄せに向かうと、金の肩章が目映いお仕着せをまとったボーイがすぐさま駆け寄り、「お待ち致しておりました」とよく通る声で迎えて中へ案内してくれた。
天井の高いロビーは、シャンパンゴールドのシャンデリアがまき散らす光の粒子に溢れ、空間そのものが輝いているように見えた。
普段は行灯の仄かな陰翳に身を置いて暮らしている游月には、この光の洪水は脅威ですらあった。眩しさに耐え切れず、ぎゅっと目を閉じて透麻の腕にしがみ付いた。
「眩しいでしょう？ でも暫くすれば慣れますからね」
透麻の言葉を信じて、おそるおそる目を開ける。まだ視界のあちこちがハレーションを起こしていたけれど、少し慣れてきたようだ。
「お部屋へ御案内いたします」
部屋付きのボーイに案内され、二人は廊下を進んでいった。毛足の長い絨毯が珍しいらしく、游月はしきりに足下を気にしては、透麻を見上げて「ふかふかですね」と笑った。
やがて突き当たりに、大きな箱のようなものが見えてきた。その前でボーイがレバーのようなものを引くと、扉が開いた。
「さあ、どうぞ」
ボーイに促され、游月は透麻の腕に掴まったままおそるおそる足を踏み入れる。すると扉はガラガラ音をたてて閉まり、がくんと大きく揺れた。
「きゃあ」
小さな悲鳴を上げる游月の肩を撫でて、
「大丈夫。恐くありませんよ。これはエレヴェータです。聞いたことありませんか？」
「えれべーた？ あ、箱型昇降機のことですか？」
「御名答。ほら、あっという間に３階に着きましたよ」
透麻の言葉通り、再び扉が開くとそこはさっきいたロビーとは違う階だった。廊下を進み、案内された部屋の中へ入ると―――
「うわぁっ、すごい！ 西洋のお部屋だぁ」
さっきまでの怯えはどこへやら、游月は一目散に飛び込んで嬉しそうに頬を染め、くるくる回る。
「たまにはこういうのもいいでしょう？ 今宵はお姫様気分を味わってくださいね」
游月は「はいっ」と元気いっぱい答えて、これまで見たこともないきらびやかな調度品をうっとりと眺めた。
「透麻さぁん、見て見てー。すごい跳ねるの〜」
天蓋付き寝台の上でぼよんぼよん跳ねては楽しげな笑い声を上げ、と思ったら大きな枕にばふっと顔をうずめる。お姫様気分を味わってもらおうと思ったのに、これではまるで修学旅行か社会見学に来た無邪気な学生だ。
「さしずめ私は、引率の教師といったところですね」
透麻は苦笑混じりに呟いて、再びベッドのスプリングとじゃれ始めた游月の傍へ。ベッドの端に腰を下ろし、
「お姫様というより、じゃじゃ馬ですね」
「フーンだ。何とでも言ってください。楽しいんだもんっ」
ぷい、と横を向いたと思ったら、楽しさをこらえきれない様子でくすくすと笑い出した。透麻もつられて笑ってしまう。
初めて会った時には大人びて冷ややかな印象が強かった游月が、こうして思うがままの無防備な振る舞いを見せてくれるようになったのは、透麻にとって何より喜ばしいことだった。
しかしよくよく考えてみればそれも当然のことなのだ。初めて会った時は、游月はまだ“夕顔”だった。そして今、目の前で憚ることなくはしゃいでいるのは、夕顔ではなく游月そのものなのだから。
「透麻さん透麻さん。僕、ベッドで寝るの初めてです」
ひとしきり楽しんで満足したのか、游月は跳ねるのをやめて透麻の方へすり寄ってきた。はしゃいだせいで浴衣の裾や衿は乱れ、合わせ目から覗く素肌は上気して、ほんのり薔薇色に染まっている。
たった今見せた子供みたいな振る舞いから一転、無意識の媚態を振りまく游月に劣情を煽られた透麻は、こくりと喉を鳴らして腰を抱き寄せた。游月もゆるりと足を崩して透麻に凭れかかる。そしてほぅ、と熱い息を吐き、
「西洋の調度品って、何て豪華できらびやかなんでしょう。到るところに細やかな装飾が施されていて……。この中にいたら、自分がちっぽけな存在になったような、そんな気持ちになってしまいます」
游月の素直な感懐に透麻は神妙な相槌を打った。
「そうですね。確かにこの細密装飾は凄いと思います。でも、余白の美がない。余白にこそ、想像力が飛翔する可能性が秘められているのではないでしょうか」
透麻の言わんとすることは、游月にもよく分かった。
「この部屋では、窓から射し込む月明かりを愉しむことはできませんね」
「仰る通りです。西洋ではその宗教観によるのでしょうが、人間が世界の中心、全てなのです。ですから花鳥風月を尊ぶ精神が皆無とは言いませんが、我が国より低いと言えるでしょう」
確かにそうだ。家具調度に関しても、素材を活かすというより、人の手で全く違うものに作り替えようという強い意志の鼓動が感じられる。花瓶に活けられた花も、どこか人工的な趣をまとっていた。
「そして西洋人は余白を恐れる。余白とは即ち“無”。西洋人にとって“何も無い”ということは、理性の範疇を超えた恐るべき事態なのです。しかし我々は無を恐れない。そこに安らぎを見い出す」
「無は無限に通ずる、とも言いますものね」
游月はそう言って透麻に笑いかけた。が、暫く考え込んで、
「でも……西洋の人はとてもお綺麗ですよね。肌が皙くて髪が金糸のようで……」
花火大会の会場に来ていた西洋の人々は、さすがに目立っていた。游月も思わず目で追ってしまったほどだ。しかし透麻は首を傾げ、
「そうでしょうか？ 黒髪の方が美しいと思いますが。もちろん個人の感性によるのでしょうが、でも会場に来ていた男性諸氏は、みなあなたのことを見ていましたよ」
游月はふるふると頭を振って即座に否定した。
「そんなことは……。女性の方たちはみんな透麻さんに視線を送っていましたけれど」
游月は何の感情も込めず淡々と指摘したつもりだったが、図らずも微かな棘を帯びた物言いになってしまった。
気付いた時には既に遅く、游月は身の置き場もないと言わんばかりに肩をすぼめて項垂れてしまった。ひと回り小さくなってしまった肩をふわりと抱いて、
「嫉妬、したのですか？」
透麻は柔らかく訊ねた。しかし游月は対照的に強張った声で、
「してません。僕は……嫉妬なんてできる立場ではないですから」
「それは………どういう意味ですか？」
游月の心臓は大きく跳ね上がった。透麻の僅かな声の変化に、抑え切れぬ怒りの波動を感じたからだ。躰の芯が急速に熱を失って凍結してゆくようなリアルな錯覚に慄えつつ、
「どういうって……そのままの意味です。僕はあなたの恋人にはなれ―――」
透麻は最後まで言わせなかった。無言のまま游月の躰を押し倒し、華奢な手首をぎりぎりとシーツに押し付けた。
游月は驚きの余り声も上げられず、ただ自分の上に覆いかぶさる透麻をぼぅっと見つめた。透麻は―――笑っていた。
「は、はは………そうですか。つまりあなたにとって今宵の外出は、ただの“休日勤務”に過ぎなかったわけですね。客と男娼という関係の檻から解放され、恋人同士の逢瀬を楽しむことができたと浮かれていたのは私だけだったと」
「透麻さん……」
「ほら、あなたは今、私のことを“透麻さん”と呼んでくれた。でも本質は“旦那様”と変わらない。これからもずっと、私はあなたを金で買う“旦那”でしかないのか―――」
透麻ははたと口を噤んだ。游月の瞳から、大きな涙の珠が幾つも溢れるのを目にしたからだ。
言葉にできぬ想いの詰め込まれた涙をとめどなく流しながらも、游月の顔は泣いていなかった。寧ろ、微笑っていた。何か神聖なものが宿っているのではと思わずにはいられないほど、清らかな微笑み。そして諭すような穏やかな声で、
「透麻さん、僕はあなたと会っていない間に、三人の男性と寝ました。こんな“恋人”がいますか？」
透麻の胸を、錐で差し抜くような痛みが走る。游月が語った事実がゆえではない。その事実を游月の口から言わせてしまった己れの無配慮が、自責の刃となって胸を貫く。
「透麻さんのお気持ちはとても嬉しいです。今日の出来事全てが……まるで夢を見ているみたいでした。普通の恋人同士のように外で待ち合わせをして、花火を見て、腕を組んで歩いて……。自分が男娼であることを忘れてしまいそうになるくらい、本当に幸せだった。これで……十分です」
「游月っ………」
透麻は掠れた声で名を叫び、游月の躰を掻き抱いた。そして苦しげに何度も繰り返す。許してください、と。
「なんで……透麻さんが謝るの？ なぁんにも悪くなんかないのに……」
「私は……子供じみた苛立ちをぶつけてしまった。そのせいであなたを苦しめて―――」
まるですがるように躰を抱き締めたまま、震える声で自分を責める言葉を吐く透麻を、游月は優しく撫でた。そして、
「覚悟はできております。辛い恋路に飛び込むことを覚悟の上で、僕はあなたに名前をお教えしたのですから。でも、でもっ―――」
游月はこもった自嘲を漏らした。そして透麻の肩に爪を立てて迸る感情を抑え、
「こんなに……辛いとは思いませんでした。愛するひと以外の男性に躰を与えることが……。ふふっ、今さら馬鹿みたいでしょ？」
透麻は黙って幾度も頭を振った。掛ける言葉が見つからない。いや、言葉はある。游月の苦悩を取り去り、明るい希望を与える約束が。しかしそれは、安易に口にしてはならぬ言葉だった。
これまで幾人の娼姫がその約束に酔い、信じ、期待し、裏切られては絶望の涙に溺れただろうか。それでも透麻は―――
「游月、私は……私はいつか必ずあなたを―――」
「やめてください。それ以上は言わないで……」
游月の鋭い制止を振り切って、透麻は続けた。
「あなたを私だけのものにします。游月、一緒になりましょう」
「ああ………」
やはり自分は、桜姫と同じ道を行こうとしているのかもしれない。そんな昏い想念が頭を掠めた。
部屋の隅に置いてある桜の苗木に、視線が吸い寄せられてしまう。二人の墓標となる桜。いずれは自分自身の墓標になる運命なのではなかろうか。
「游月、私を信じてください」
透麻の真直ぐな言葉は嬉しいけれど、不安は消えない。いや、不安の方がずっと大きい。今にも押し潰されてしまいそうだ。
しかし游月は、小さな希望を武器として掲げ、大いなる不安に立ち向かった。
「はい、信じます。いつの日か……一緒になって、透麻さんのお仕事を手伝うの。作品執筆のための資料をまとめたり、文献を整理したり………」
「游月、それは……」
困惑気味の透麻ににっこりと笑いかけ、
「だって透麻さん、作家になるんでしょ？ だから僕、今から色んな本をたくさん読んで、少しでも透麻さんのお役に立てるようがんばります」
目尻に光る涙の痕に唇を押し当て、透麻は幸せそうに笑った。
「ありがとう、游月。今から約束します。私の処女作はあなたに捧げると」
そう言ってからちらと肩を竦め、
「ああ、まだ出版するとも決まっていないのに、気が早いですね」
「ふふ。でも嬉しいです」
游月はくすぐったそうに笑って、両手を差し伸べて抱擁をねだった。望みはすぐに叶えられ、透麻の与えてくれる温もりにうっとりと憩う。
「透麻さん……ずっと、一緒………」
大丈夫、どんな不安に苛まれても、この温もりさえあれば信じていられる。游月は自分にそう言い聞かせ、頭の中の不穏な翳を必死で追い払った。
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