誰がために桜は咲く
３.
どこか胡散臭ささえ感じられるほどの整った顔立ちに、全てを見透かす透徹したグレーの瞳。それらが月光の洗礼を受けて妖しく揺らぎつつ、ゆっくり近付いてくる。
珠里は顔を背けることも手で突っぱねることも忘れて、眼前に迫る美貌をただ慄然と見詰めた。
「やっと……笑顔を見せてくれたな―――」
「二階堂…さん………」
そのまま二つの唇が融け合おうとしたその時、二階堂は突然にやりと笑って、
「なぁんてベタな台詞、言うと思ったか？」
珠里はきょとんと目を見開いたが、次の瞬間目尻を吊り上げて爆発した。
「なッ……なんだよ！！ 人をバカにするにも程があるっ」
「こら、ボートの上で騒ぐな。そんだけ怒るってことは、お前もしかして期待してた？」
「う、うううるさいッ。何だよ期待って！ 誰があんたなんかと―――」
けたたましい反論は途中で遮られた。二階堂に両手を掴まれた珠里は、そのままボートの床に押し倒された。
驚きに舌が硬直し、悲鳴も抗議の叫びも出てこない。ただぼぅっと目を見開いて、上にのしかかる二階堂を見上げる。
満月を背負って禍々しくも妖艶な微笑みを浮かべる二階堂は、月を愛し月を支配する闇の眷族そのものだった。
「………珠里」
ああ、何てことだ。ただ名前を呼ばれただけでこんなに感じてしまうなんて。甘くてほろ苦い低音は、媚薬めいて鼓膜をぬるりと愛撫する。
珠里は声を出そうと口を開きかけたが、思いとどまって沈黙を貫いた。今声を出したらきっと、心のざわめきがばれてしまうと思ったから。
「珠里。あんな同人やめちまえ。あんなとこにいたって何の発展もねえよ」
珠里は口を閉じたまま、眼差しだけでその理由を問う。尤も、訊かなくても分かってはいたのだが。
二階堂は小さく頷いて、
「お前も分かってるだろう？ あんな雑誌、九条がてめえの経歴にちょっとした文学の香りを付けるために主宰している道楽に過ぎない。
同人雑誌が全て無意味だとは言わない。互いに切磋琢磨して、よりよい作品を生み出そうとしている同人も数こそ少ないが存在している。しかし九条のは駄目だ。若い作家を育成しようとか真に価値ある作品を世に出そうとか、そんな高い志なんて端から持ち合わせていない」
先刻とは打って変わって真剣に訴える二階堂。心のざわめきはまだ静まっていなかったが、珠里も真摯に答えた。
「分かってる。今回は僕の作品が巻頭だったけれど、次はきっと、その時先生の愛人になっている人間の作品が巻頭に載る」
「だろうな。作品の良し悪しなんて関係ねえ。お前、それでいいのか？」
珠里は虹彩をゆっくりと絞って、冴え冴えとした眼差しを返す。いい目だ、と二階堂は思った。
「では二階堂さん。あなたが代わりに僕を引き上げてくれると？」
「引き上げるとは大袈裟だな。俺にそんな力はねえよ」
「でも、あの榊透麻を見出して才能を伸ばしたのはあなただと聞いたよ」
二階堂は自嘲気味に唇を歪めて、
「運が良かったんだよ。あいつとは昔からの友人だったから、たまたま俺が作品に目を通す機会があっただけのこと。俺が見つけなくたって、あいつは遅かれ早かれ世に出ていただろう」
「では、九条先生の同人を辞めて、僕にどうしろと？」
「俺のところに作品を持って来い。すぐにデビューさせるという確約はできないが、九条の道楽に付き合っているよりはずっと勉強になるのは間違いない」
珠里は嬉しいような哀しいような、諦めたような達観したような微笑みを唇に乗せて、
「僕は、九条先生の愛人なんだよ」
「知ってる。なら、俺の愛人になるか？」
問いの余韻に被せるように、二階堂は珠里の唇を塞いだ。夜気と月光で冷えた二つの唇は温もりを求め合い、深く深く重なって蕩けた。どちらからともなく舌が差し込まれ、くちゅくちゅ音をたてて悩ましげにもつれ合う。
「ふ………ぅ……ん……」
濡れた吐息が珠里の口からこぼれ、それを合図に融け合った唇が離れた。舌先から、触手めいた糸を滴らせて。
「俺の……愛人になるか？ 珠里」
同じ問いを重ねるのは、二階堂には珍しいことだった。珠里は起き上がると、口づけの余韻でねっとりと撓んだ声で、
「じゃあ……攫ってよ。先生の腕の中から攫ってみせて。そしたら考えてあげる」
そう言って、二人分の唾液で光る唇をついと吊り上げた。二階堂はその身体を抱き起こしながら、
「いいぜ。犯行予告だ。お前を攫って犯りまくってやる」
「楽しみにしてるよ。蒼架書房の二階堂さん」
「可愛くねえガキ。そういうことを言われた時は、頬を赤らめて優しくしてね、って上目遣いで見詰めるのが常道だ」
「そういう手管にバカな男はすぐ騙されるんだよ」
「バカじゃない男なんているか？ 愚かな男こそ、自分自身を知っている」
「またオスカー・ワイルドの警句？ 生憎だけど僕は先生たちみたいに感心してあげないからね」
「結構。子供に理解できるのは警句とは言わねえ。ただの説教だからな」
「説教じゃなくて年寄りの愚痴じゃないの？」
―――先刻までの艶っぽい空気はいずこへ。二人は着地点のない言い争いを延々と、楽しそうに続けながら、岸に帰り着いたのだった。
一緒にいたことがばれないよう、二人は時間をおいて部屋に戻った。珠里に続いて二階堂がこっそりと戻ると、外に出ていた僅かな時間の間に室内の空気は一変していた。
部屋の隅、作為的な暗がりの奥から、湿った喘ぎや幼い嬌声が聞こえてくる。二階堂の頭痛を引き起こした安物コロンの香りは消え失せ、代わりに、独特の刺激臭を持つ香が焚かれていた。
英国の上流階級の間で流行っているという、催淫作用がある（と言われている）媚薬を練り込んだ香だ。
「おやおや。もうクライマックスか」
二階堂は嗤笑と共に呟いて、傍にあったグラスの中身を飲み干した。すると二階堂が戻ってきたことに目敏く気付いた者たちが、双眸に生々しい輝きを宿して近付いてきた。
「二階堂君、ご覧の通りそろそろお開きになりそうだ。どうかね？ これから私の部屋で飲み直さないか？」
「ああ、それはいい。ぜひ私も参加させて欲しい。いいだろう？」
「もっともっと君の話を聞かせて欲しいねえ」
誘いの言葉は穏当だが、眼差しには淀んだ下心がじっとり浮き上がっていた。二階堂が「そうですねえ」と言いながらちらと唇を舐めると、彼らの慎みのない股間は一気に膨張した。しかし、
「残念だが、二階堂君は私と先約があるんでね」
不穏な高揚を一気に冷ます横槍が入った。パーティーの主催者であり屋敷の主人である九条にそう言われては、引き下がらざるを得ない。
彼らは一様に肩を落とし、疼く下半身を宥めるため仕方なく、連れてきた愛人の手を引いて自室に帰っていった。
「さ、邪魔物は帰った。今宵は三人で楽しもうではないか」
「三人、ですか？」
「そう、三人だよ」
不敵な笑みと共に答える九条の後ろで、珠里がじっとこちらを見返していた。
部屋で軽く飲み直す、なんて猶予も与えられなかった。九条は間接照明を灯すと、珠里に裸になってベッドに入るよう命じた。そして、満月の映る明るい窓辺に佇む二階堂の許へ近付き、ゆっくりと服を脱がせていった。
興奮のためかアルコールの余波のせいなのか、指が震えてもつれたが苛立つことなく、シャツの小さな貝ボタンまで丁寧に、慈しむように外してゆく。
もちろん二階堂は彫像の如き不動と沈黙を保ち、九条の好きにさせていた。シャツが滑り落とされ、上半身がブルーグレーの夜気に晒される。逞しくもありまた滑らかでもある輪郭を、九条は視線と指先でねっとり愛撫した。
「ああ……素晴らしい。雄々しいだけではない、どこか女性的な淫蕩さも兼ね備えた、まさにディオニュソス的肉体。その上に、月光が降り注いでいる。どうだ？ 珠里。お前ならこの情景を何と表現する？」
「彼に欲情し、月が吐精した。薄白（はくびゃく）たる月光は、月の精液。それが彼の肌をねっとりと包み込んでいる―――」
15点、と二階堂は心の中で呟いた。たぶん珠里自身の採点も同じくらいだろう。しかし九条は満足した様子で頷き、手を下方へ移動させて二階堂の前を寛げた。そして下着ごとゆっくりと、シャツの時よりさらに時間と愛情をかけて脱がせてゆく。
着ているものを全て取り払われた二階堂は尚も不動を保ったまま、冷ややかな月光を浴びた。暈然と輝くその肢体を、九条は丁寧に視姦する。やがてほぅっと溜息をつくと、ゆっくりと二階堂の傍から離れた。
「先生？ 俺はどうやってあなたを楽しませて差し上げればいいのですか？」
二階堂の秘めやかな問い掛けに、九条はゆるりと頷いて、
「私の目の前で、珠里を抱いてくれ。もちろん遠慮は要らん。まあ、君が色事に遠慮するはずもなかろうが」
「先生は参加しないのですか？」
“参加”という散文的な表現が可笑しかったのだろう、九条はくくっとこもった笑いを漏らした。そして彫刻が施されたカブリオールが特徴的な椅子に腰を下ろし、
「ぜひと言いたいところなのだが、数日前に腰を痛めてしまったのだ。医者から激しい運動は止められている。せっかくの機会なのに残念だが、美しい君たちの獣じみた交合を眺めるのも悪くない。さあ、私を楽しませてくれ」
そう言って、座ったままベッドの方にぐいと身を乗り出した。
「分かりました。では、」
二階堂は寝台の上に乗って、珠里の身体を抱き寄せた。しかしそのまま行為に雪崩れ込もうとはせず、持参したボトルを開けて九条のグラスに注いだ。さらに自分のグラスにも注ぎ、九条に向かって掲げてみせる。
「その前に、乾杯を。今宵のふざけた戯れに」
「蒼架書房の未来と、私の痛めた腰に」
九条が飲み干すのを確かめてから、二階堂も中身を口の中に流し込んだ。そして珠里の口に唇を押し付け、とろとろと注ぎ込む。
口移しの酒精は仄かにぬるんで、苦かった。しかし珠里は全て飲み干して、それを知らしめるかのように舌先をちらと閃かせた。
それを合図に二階堂は珠里を押し倒し、脚を大きく開かせていきなり性の核心を攻め始めた。まだ柔らかい性器をすっぽり口に含み、舌を絡めてクチュクチュと吸い上げる。
突然生じた電流に、珠里は「くぅ…ん」と喉の奥で悶えた。さらに二階堂の指先が繊細且つ淫猥な動きで内股をなぞると、下肢全体を波打たせて快感を訴えた。
二階堂はぬぷっと音を立てて口の中のものを引き抜くと、唾液と愛液でつるりと光る鈴口を舌先で舐めた。九条がよく見えるよう珠里の腰に腕を回して持ち上げ、濡れた舌先を押し付けては、わざと粘液の糸が伸びるようゆっくりと離してみせる。
九条の表情は見えなかったが、荒い鼻息や喘鳴はしっかり二階堂の鼓膜に届いていた。きっと濁った瞳を情慾に燃やして、目の前で繰り広げられている痴態に前のめりで見入っていることだろう。
なるほど、こういう楽しみ方もあるのかと、二階堂は半ば感心し半ば呆れた。いずれ老いて身体が動かなくなっても、観客という形で閨事に参加できる。まるで、文壇における彼の振る舞いそのものではないか。
書けなくなっても、批評という形で何とか文壇にしがみつく。しかしそれでも、若い才能を潰そうと権威を振り翳す大家よりはずっとマシだった。
二階堂はこれまで、そういった老醜とも呼ぶべきなり振り構わぬ行為を平然とやってのける輩を大勢見てきたのだ。嫉妬、焦り、苛立ちの行き着く先は、若手潰し。もちろん、どこの業界でもよくある話なのだろうが。
気が付けば、手の中の珠里が小さくしぼんでいた。大きく開いていた脚も、だらりと弛緩している。二階堂はゆっくりと身体を起こすと、珠里の脚を伸ばして寝かせてやった。
つい先刻まで濡れた喘ぎを漏らしていた唇からは、すーすーとあどけない寝息がこぼれている。ぽわんと半開きになったその唇に、二階堂は軽く口づけた。そして九条の方も確認する。
彼は椅子の上で首を折って項垂れ、んぐぐぐ……と鼾をかいていた。二階堂はがりがりと頭を掻いて、
「けっこう早かったな。もう少し楽しませてやれば良かった。ま、いっか」
そう言ってベッドから飛び下りると、素早く衣服を身に着けたのだった。
BACK TOP INDEX NEXT