誰がために桜は咲く
13.
二階堂の書斎で本を読んでいた珠里は、廊下をバタバタと往復する足音を耳にして、のっそりと立ち上がった。
何だかずいぶん慌ただしい。書斎を出て話し声のするリビングへ近付き、入口からそっと顔を覗かせた。
「では、そのまま出社されてご帰宅は明日の夜になるのですね？」
「ん、そうだな。夜はなるべく早く帰るつもりだ」
いつもよりかなり早めの帰宅だなと思っていたら、これから出張なのだろうか。違うスーツに着替えて、大きな鞄を用意している。
「お荷物はこれと……着替え用のスーツですね？」
「ああ。この前のオスカー・ワイルドが好評だったから、またあれをやってくれだとさ」
「さすがは作家の集まりですね。お遊びも高尚といいますか」
「はっ、どこが高尚なものか。ただの悪ふざけ―――」
扉付近に人の気配を感じ、二階堂は言葉を途中で呑み込んだ。
「な、なんだよ、珠里。そんなところにいたのか」
珠里は黙って室内に入り、
「九条先生の……パーティーに行くの？」
「ん？ ああ。これから行ってくる」
「そ、そうなんだ。ご苦労様。それにしても、よくあんな下らないパーティーにまた行く気になるね」
「うるせ。これも仕事のうちだ。仕方ねえだろ。明日の夜には戻るから、奈智の言うことを聞いていい子にしてるんだぞ」
子供扱いするなとむくれるかと思いきや、珠里は切実な眼差しを向けて何かを訴えんと口を開いた。しかしそこから言葉が出ることはなく、濃厚なためらいと共に口を閉じてしまう。
二階堂は微かに眉根を寄せたが、くるりと背中を向けて出かける仕度を続けた。その様子を悲しげに目を細めて眺めていた珠里は、すぐ傍に紫色の封筒が無雑作に投げ出されているのを見つけた。頭より先に手が動き、素早く封筒を取って後ろポケットにねじ込んだ。
「そろそろお出になった方が良さそうですね。お忘れ物はないですか？」
「お、もうこんな時間か。ええっと………ん？ 招待状どこにやった？」
辺りをきょろきょろしながら訊ねる二階堂に、寒河江は首を傾げ、
「招待状、でございますか？」
「ああ。紫色の趣味の悪い封筒に入ったやつ。どこに置いたっけ？」
二人のやり取りを、珠里は素知らぬ顔で聞き流す。しかし、
「げ、マジでねえよ。ヤバいな」
「招待状がないと入れてもらえないのですか？」
「いや、そんなことはないが、中に行きの航空券も入ってるんだ」
「ああ、それは大変だ。お探しします」
寒河江がソファの下を探すため床に這いつくばった時、珠里が歩み出て無言のまま片手をずいと差し出した。手には紫色の封筒が。顔は真っ赤で、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「珠里？ おまえ………」
珠里は封筒をテーブルの上に投げ出すと、背中を向けて逃げるように部屋から出ていった。
「珠里！ 待て―――」
追い掛けようとする二階堂を、寒河江が呼び止めた。
「坊っちゃま、あの、くれぐれも……」
二階堂はふっと目を細めて頷き、
「分かってる。心配するな」
穏やかに言い置いて珠里の後を追った。
ノックもせず部屋にどかどか入ると、珠里はベッドの上でこちらに背を向けて小さく丸まっていた。二階堂が音をたてて扉を閉めると、細い肩がぴくんと上下した。
「珠里―――」
「あ、謝らないからッ！ ちょっといたずらしただけなんだからねっ」
二階堂は黙ってゆっくり近付く。一見頑なに見える背中は、小刻みに震えていた。ベッドの上に膝を付いて震える肩に手を置き、
「謝る必要はねえよ。ただ、何であんなことをしたのか教えてくれ」
予想外の柔らかな言葉に、珠里は戸惑いを隠せない。ふざけるな、ガキみたいなことしやがってと怒鳴られると思っていたのに。
「だ、だから言っただろ。ちょっといたずらしただけだ、って……」
「なるほど。つまりお前は、俺や奈智が慌てふためいておろおろと探し回るみっともない姿を見て、腹ん中で笑いたかったということか」
「違うっ！」
濃い否定の叫びと共に振り向くと、二階堂が険しい眼差しでこちらを見据えていた。柔らかな言葉との落差に、珠里の怯えはさらに深まる。
「違う？ じゃあ何なんだ」
「だから……ちょっとしたいたずらで………」
「いたずらして、引っ掛かった俺を笑うつもりだったんだろ？」
小さく首を振って俯く珠里。二階堂はその顎に手を掛けて上を向かせ、
「ちゃんと正直に言え。でないと本気で怒るぞ」
双つの瞳を、涙の膜がゆっくりと覆い始める。珠里はその向こうから切実な視線を送った。そして無意識のうちに二階堂の上着を掴み、
「招待状がなくなったら………パーティーに行かないかも、って………」
「行って欲しくなかったのか？」
珠里は涙で膨らんだ双眸を一心に向けて、こくんと頷いた。
「ごめんなさい……あんなことして………」
震える唇が、か細い謝罪の言葉を紡ぐ。と同時にすべらかな頬の上を、涙の雫がころころ転がっていった。
しかし二階堂はそれを拭ってやろうともせず、上着を掴んでいる珠里の手を払って立ち上がった。そして背中を向けて部屋を出て行こうとする。
「んっ……ふ………」
珠里は唇を噛み締めて必死に嗚咽をこらえた。そう、背中を向けられて当然なのだ。あんな子供じみた真似をして、しかもすぐに謝らず不貞腐れた態度を取って。
自業自得なのだから、ここでべそべそ泣くわけにはいかない。ちゃんと彼を見送って、そして帰ってきたらもう一度改めて謝ろう。
そう自分に言い聞かせて涙を拭おうとした時、部屋の戸口で二階堂が叫んだ。
「おい、奈智！ 出張はやめた。悪いが招待状に書いてある電話番号にかけて、蒼架書房の二階堂は高熱を出してベッドから起き上がれない状態だと伝えてくれ。それが済んだら帰っていいからな」
そして扉を勢いよく閉めると、再び珠里の方に戻ってきた。
「二階堂…さん？ どして………」
涙を拭うのも忘れてぽぉっと見上げる珠里に、二階堂は肩を竦めて、
「どうしてって、お前が行くなって言うから」
「でっ、でも……あの、大事なパーティーなんでしょ？」
「ああ、大事なパーティーだ。お前も知ってるだろ？ 九条を初め文壇の大御所が挙って参加する」
二階堂はそう言って、過去を透かし見るように目を細める。そして柔らかく笑った。
「そういや、お前に初めて会ったのが前回のパーティーだったな」
珠里はふわふわと頷いて、傍に腰を下ろした二階堂をまじまじと見返した。
「ほんとに……行かなくていいの？」
「あのなあ。行かないでって言ったのはお前だぞ」
「そ、それはそうだけど…………」
珠里は今さらながら不安になり、深く項垂れる。本当に、こんな我がままを通してしまって良かったのだろうか。でも………
―――本当は寂しがりやで甘ったれで、孤独を誰よりも怖れているくせに、平気な振りをしてしまう……
寒河江の言葉が耳の奥に蘇る。珠里は心の中で助走をつけて、二階堂の胸の中に飛び込んだ。
「ごめん……でも、ありがと……うれしい……」
「はは、やっと素直になったな」
そう言ってあやすように背中を撫でてくれる手の温かさに、珠里は言い尽くせぬ幸せを感じた。胸にしがみついたままゆるゆると顔を上げると、長い睫毛の向こうできらめくブルーグレーの瞳と目が合った。
とくんと心臓が跳ね上がり、あっという間に鼓動が速まる。そのままぼぉっと見上げていると、唇を微かに緩めた二階堂の顔が近付いてきた。その瞳に映った自分の顔は、明らかに口づけを待っていた。
そんないかにも物欲しそうな顔を正視できず、思わず目を逸らす。するとくいっと顎を持ち上げられ、
「こら、目ぇ逸らすな」
怒ったような声で諭されて、珠里はこわごわ視線を戻した。それとほぼ同時に唇を塞がれ、熱くぬめった舌が歯列を割って侵入してきた。
「ぅ……ン………」
侵入者はたっぷりと、隅々まで口内を味わい、待ち構えていた珠里の舌にこすり付けて吸い上げた。
珠里はうっとりと目を閉じて、全てを委ねる。最後に舌の付け根をちろちろと舐められ、喉の奥にむず痒いような快感が灯った。
思わず「んっ」と鼻に抜ける喘ぎを漏らし、ひくんと腰を揺らす。そういった微妙な反応に二階堂が気付かぬはずがなかったが、それ以上行為を進めることなく、唾液の糸を滴らせてゆっくり唇を離した。
「にかいどうさぁん……」
キスの余韻が残る舌足らずな口調は、ひどく淫らに聞こえた。二階堂は高まりつつある欲望に急かされるまま、珠里の腰に手を伸ばし、少し乱暴に引き寄せた。
しかし珠里はそんな振る舞いを咎めようとはせず、自ら進んで腰をすり寄せる。そしてちょっと恨めしげに二階堂を見上げ、
「ね、どうして……えっちしないの？」
「あ？」
「僕がここに来てもうずいぶん経つのに、二階堂さんてば一度もしようとしないから……」
二階堂はニヤリと嗤い、「なんだ、して欲しかったのか」とからかう。そんなんじゃないっ、とムキになって否定するかと思いきや、予想に反して珠里はかくんと首を折り、黙り込んでしまった。
その反応に、二階堂も態度を改めた。珠里の顎に手を掛けて上を向かせ、
「あのなあ、できるかよ。夜はずっと原稿にかかりきりだったろ？ 眉間にこ〜んな皺こしらえてパソコンに向かってる奴に襲いかかるなんて」
そう言って、眉間をしかめてみせる二階堂。珠里はむーっと膨れて、「そんな顔してない」と弱々しく否定する。
「してたぜ。すげえ恐い顔してモニター睨んでた」
「だから……その……誘えなかったってこと？」
「ああ」
珠里は冷ややかな視線で二階堂を突き刺し、
「何だよ、最初は無理やり犯ったくせに」
「だからだよ」
「え？」
くるんと目を見開いて首を傾げる珠里の額をピン、とこづいて、
「最初にあんなことしちまったから、余計に慎重になってた。誰かさんと同じで、拒絶されるのが恐かった。我ながら情けねえけど、事実だから仕方ない」
そう言って自嘲気味に笑う二階堂に、珠里はぎゅっと抱き着いた。そして一言、
「バカ……」
「愚かな男ほど、自分を知っている」
「ワイルドの警句はもういいです」
珠里はぴしゃりと言い置いて、さらに腰を密着させた。二階堂の猛々しい鼓動がダイレクトに伝わってきて、思わず息を呑む。
「二階堂さん……すごいどくどくいってる……」
「全くだ。苦しくてしょうがねえよ。九条のパーティーでぶちまけるはずだったのに。誰かのせいでお預けだ」
珠里はへの字に曲がった唇を震わせて、二階堂の顔を睨み付ける。そして何か言おうとしたがふいと顔を背け、無言のまま立ち上がろうとした。その腰をがっしり掴んで引き戻し、
「冗談だ。でも、ここが苦しいのは事実だけどな」
「し、知らないよそんなのっ」
「うわ、冷てえ。じゃあ、他の人間で発散していいのか？」
珠里は赤い顔をして黙り込んだが、やがてぱっと顔を上げて二階堂に飛びついた。そして耳許に口を付け、
「僕が発散させてあげる……」
熱い囁きを注ぎ込んで、大きく張り出した二階堂の股間に手を伸ばした。
BACK TOP INDEX NEXT