―「月に游ぐ」番外編―

「ねえ游月、このオムレツに入っているのは何ですか？」
「………アボカドです」
「そ、そうですか。いやあ、オムレツにアボカドを入れるなんて、私には到底思いつきませんよ。さすがは游月ですねえ」
「………透麻さんの持ってる料理本に載っていました」

まさに取り付く島もないという素っ気ない返答。透麻は笑顔を凍りつかせたまま、「はははは……」と力ない笑いで朝の食卓を飾った。

―――うう……やっぱり怒ってますね、これは

游月の不機嫌は今朝から始まったわけではなく、実は２、３日前から胸中はもやもやしていた。

とはいえ、不機嫌の理由が理由なだけに游月も明らさまに怒りを露わにできず、何とかいつも通り接するよう努めていたのだが、それがまずかった。

そのせいで透麻が気付くのが遅れ、傷が浅いうちに対処することができなかったからだ。そして、今に到る。

「透麻さん、コーヒーのおかわりは？」
「あ、いただきます……」

カップを差し出して、游月に注いでもらう。そう、怒っているとはいっても、冷たくあしらったり無視したり、そんな陰険なことをするような游月ではなかった。

尖った感情を押し殺してできるだけ穏当に振る舞い、多少引きつってはいるけれど笑顔も見せる。だからこそ、透麻は早く仲直りがしたかった。游月にそんな無理はさせたくなかったから。

これまでずっと、感情を抑えて本心を繕ってきた、そうせざるを得なかった游月には、いつでもどんな時でも在りのままの自分を出して欲しい。それが透麻の切なる願いだったのだ。

「あ、手伝いますよ」

游月が空の食器を下げるために立ち上がると、透麻も慌ててそれに続いた。そして自分の食器を洗い場に運ぶ。

「後片付けは私がしますから」
「大丈夫です。お仕事の時間がもったいないでしょう？」

カチャカチャと音をたて、普段よりほんの少し乱暴に食器を洗う。その手を横から掴んで、

「游月、洗い物をする時は手袋をしなさいと言ったでしょう？　洗剤で肌が荒れてしまったら大変だ」

優しく窘める透麻。しかし游月は俯いたまま食器洗いをやめようとはせず、

「平気ですっ。荒れたっていいもん」
「游月っ」

少し強く名前を呼ばれて、游月はびくん、と肩を震わせた。透麻は怯えさせてしまった埋め合わせをするかのように、背中から腕を回して優しく抱き締めた。そして耳にちゅ、と口付けてから、

「では一緒に洗いましょう。私が洗剤で洗いますから、游月はお湯で流してくださいね」

游月の背中に身体をぴったり密着させて、後ろから伸ばした手で器用に食器を磨いてゆく。自炊歴は圧倒的に透麻の方が長く、だから食器洗いも断然上手かった。

少ない洗剤で素早く汚れを落として游月に渡す。受け取った游月はさっとお湯で流して、水切り場にお皿を立てかけた。あっという間に、キッチンはぴかぴかに。

「二人でやれば、こんなに簡単に早く終わるのですね。游月、これからも手伝いますからね」

しかし游月は俯いたまま返事をしない。透麻はふっと柔らかい息を吐いて、赤く潤んだ耳に唇を寄せて囁く。

「ねえ游月。怒っているのでしょう？　夜、ずっと一人で置いておかれて」

現在、書き下ろし長編の執筆に入っており、夜は遅くまで仕事して、明け方游月の隣に潜り込み抱き締めて眠る、そんな生活がここ一週間ほど続いていたのだ。

しかし游月は、透麻の指摘も自分の不機嫌も否定するかのようにぶんぶんと首を振って、

「ち、違いますっ。一人で寝るのが嫌だなんて、そんな子供じゃありません。それに、分かってるもの。透麻さんは、何よりお仕事が一番大事なんだって」

言ってしまってから、游月は自分の言葉を悔いた。背後の空気がほんの少し冷えるのを、肌で感じたから。

「……本当に、そう思っているのですか？」

背後にいる透麻の表情は見えない。でも見えないからこそ、全ての神経が透麻の声、その変化に注がれた。甘く重厚なバリトンが、苛立ちのせいか微かに毛羽立って聞こえる。

游月は後悔を噛み締めながら、それでも自分の淋しさを押し込めることはできなかった。

「だって事実でしょう？　僕が起きないように、そおっと布団に潜り込んだりして。今夜はきっと声を掛けてくれる、そしておやすみのキスをしてくれるって思って待ってるのに、なのに………」
「游月―――」
「そんなことしたら僕にせがまれると思って、それが面倒だから、翌日のお仕事に障るからって、だから透麻さんは………」

游月はくるりと振り返って透麻の胸をとん、と突き飛ばし、

「いいですっ。もうえっちしないもん」

衝撃の捨て台詞を叩き付けると、ぱたぱたと走り去ってしまった。透麻はそれをぼうっと見送っていたが、やがてはっと我に返り、

「冗談じゃありません。それでは生きてる意味がない。干乾びてミイラになってしまう」

慌てて後を追おうとしたが、何かを思い付いたのか足を止めてキッチンに戻った。そして棚をごそごそ漁り始めた。




「んっ……く………ふぇ、ぇぇっ…………」

寝室に閉じこもった游月は、ベッドの上で布団をかぶって泣いていた。

「ばかぁ……」

追い駆けてもくれない、声を掛けてもくれない透麻に泣き言を漏らしつつも、心の奥ではそれは当然だと思っていた。

仕事に真摯な情熱を傾けている透麻に向かって、自分と仕事どっちが大事なのと詰め寄る、高慢で我がままな恋人のような振る舞いを見せてしまった。

そういうことだけは絶対にするまい、自分は透麻の一番のファンであり理解者でありたい。そして最高の作品を生み出すためのサポートが、たとえ僅かでもいいからできたら幸せだ、そう思っていたのに―――

「ごめんなさい、透麻さぁん………」

きっと透麻はもう書斎に入って、仕事の続きに没頭していることだろう。こんな所で泣いていないで、美味しいお茶でも淹れて差し入れて、ちゃんと謝るべきだと分かっているのだけれど………

「恐いの……」

まったく游月は……と呆れ顔で迎えられるのが恐かった。いや、もしかしたら、うるさそうに追い払われてしまうかもしれない。あなたに構っている暇はありませんよ、と。

そうして布団をかぶって悩みためらっている間に、感情の消耗に疲れた游月はうとうとし始め、ついに眠り込んでしまった。




「―――ゆづき、游月、起きてください」

愛しい人の声に鼓膜を優しく撫でられて、游月は気持ち良さそうに口許を綻ばせながら、ゆるゆると目を開けた。

「と…まさん……」
「はい。おはようございます」
「おはようございます……」

目をこしこしこすりながら律儀に挨拶を返す游月を、透麻は慈しむように目を細めて見つめた。

「よく寝ていましたね。もう３時ですよ」

游月は飛び起きて時計を確認した。

「わ、わ……ホントだ………どうしよ、洗濯物も干してないし………」
「あ、私が干しておきましたよ」

あっさり答える透麻に、游月は消え入りそうな声で「すみません…」と謝った。

「そんな、謝るようなことではありません。それよりこれ、一緒に食べませんか？」

そう言ってトレーを差し出した瞬間、甘いメープルシロップの芳香がふわりと鼻孔をくすぐった。

「いい匂い……透麻さん、これ………」

透麻は少し得意気に微笑んで、

「メープルシフォンケーキです。もちろん焼き立て。なかなかの出来でしょう？」
「えっ………まさか透麻さんが作ったの？」

透麻は「そのまさかですよ」と愉しそうに答えると、おっきなドーナツ型のケーキにナイフを入れた。

「おお、我ながら素晴らしい出来ですね。この肌理の細やかさ、しっとりしていながら、ふわふわした空気感も損なわれていない」

うっとりとした口調で自画自賛した透麻は、切り分けたケーキをお皿に載せて游月に差し出した。

「さあどうぞ。私の愛と努力の結晶です。メレンゲを作る時も、泡立て器なんか使わず愛情こめて自力でかき混ぜましたからね」

游月は受け取ると、フォークを入れた。透麻の言葉通り、ふんわりとしつつも弾力性のある生地で、口許に持っていくとメープルシロップの甘く懐かしい香りが漂った。

「ん……甘ぁい…………」

口の中でしゅわしゅわっと溶けてしまったと思ったら、優しい甘みがふわっと広がった。思わず顔が綻んでしまう。しかし、

「ぅ……ぅっ、ぇ……ぇぇっ…………」
「ゆ、游月？　どうしました？」

フォークを掴んだままいきなり泣き出した游月を前に、みっともなくうろたえる透麻。まさか不味かったとか？　砂糖と塩を間違えたなんて超古典的なサザエさん級の失敗をやらかしたとか―――

「ごめ…なさい……透麻さん、ひどいことゆって…………」

透麻は游月の手からそっとフォークを抜き取ると、ちぢこまった身体をぎゅっと抱き締めた。

「僕……お仕事の邪魔しちゃいけないって、少しでも役に立ちたいって思ってるのに………ごめんなさい、ごめんなさい………」
「謝らないで、ねえ、游月―――」

透麻は抱き締める腕を少し緩めて、游月の顔を上向かせた。そして潤んだ瞳に直接言い聞かせるように、

「あなたがどれほど私の助けに、救いになっているか、きっとあなたには想像もできないでしょうね。夜遅くまで神経をすり減らし、言葉の海に溺れてもがいていても、あなたの体温で温まった布団に潜り込み、柔らかな身体を抱き寄せるだけで、全ての労苦が癒されてしまうのです」
「とうまさん……ほんと……？」

濡れた黒瞳から一途な眼差しを送る游月に込み上げる愛しさを隠さず、透麻は淡く微笑んで頷く。そして、指先でそおっと目尻を拭ってやった。

游月は、ベッドの上の愛撫にも勝る心地よさにうっとりと酔いながら、透麻の指先に唇を這わせた。

この指、骨太で逞しく無骨な指から、あの妖しくも豊饒な美の世界が紡ぎ出されるのかと思うと、敬虔な感動すら湧き上がる。

游月は、自分の我がままから仕事を中断させてしまったことへの謝罪を込めて、透麻の手に口付けを繰り返した。

「游月……これからも私を助けてくださいね。あなたがいなくては、私は何も生み出せない」
「はい……」

再び游月の瞳から涙がはらりとこぼれた。透麻は鼻先をちょん、とつついて、

「ほらほら、せっかくの甘いお菓子が塩味になってしまいますよ」

こくこく頷いて涙を拭い、「ケーキ食べるの」と甘えたように催促する。透麻は思わず頬を緩めて、フォークに刺したひとかけを口許へ運んでやる。

游月はケーキ以上に甘そうな唇をふんわりと開けて、そのままぱく、とかぶりついた。

「ん……おいし……。甘いもの食べると、どうして幸せな気分になれるのかなあ」

無邪気で可愛らしい問いに、「どうしてでしょうね」と笑いを噛み殺して応える透麻。そして、

「今度游月のご機嫌を損ねたら、マドレーヌでも焼きますか。プリンの方がいいかな？」
「もお。それじゃまるで餌付けです。食べ物で懐かせようとしないでください」

透麻は笑いながら宥めると、「游月は食べさせてくれないのですか？」と悪戯っぽく促す。

游月はほんの少し頬を赤らめて、ケーキを自分の口に運んだ。そして透麻の唇に吸い付く。するとすぐに透麻の舌が侵入してきて、口の中のケーキを奪い取っていった。

「ああ……唇の柔らかさとケーキの甘みが絶妙に混ざり合って、極上のハーモニーを奏でています」

游月はぷっと吹き出して、今度は自分の方から唇を突き出した。

「僕も僕も。極上のハーモニーを味わわせてください」

透麻は頷いてケーキを口に入れ、游月の唇を上から塞いだ。しかし、ケーキを取ろうと挿し込んだ舌は透麻の舌に呆気なく絡め取られて、ちゅるちゅると吸い上げられてしまう。

「ふぁ……ん、もぅ………。ケーキ食べるのぉ………」

しかし透麻は、ケーキの載った皿を游月から奪い取って、

「ねえ……さっき、もうえっちはしない、って言いましたよね。あれはつまり……挿入はさせないということですね？」

いつの間にか游月の身体を背後から抱き締め、前に回した手で股間を包み込んでいた。指をばらばらに動かしてじれったい刺激を与えてやると、掌に熱い脈動が伝わってきた。

透麻は内心の笑みを周到に押し隠して、眉間に皺を寄せた悲痛な表情で、

「あなたの言い付けに背くなんて私にはできません。だから、前だけで我慢します」

するすると下着の中に手を差し入れて、熱を帯び始めた可愛い半身に指を絡める。

「ぁ………ん、や……もぅ…………」

駄々を捏ねるように首を振って、透麻の手を引き抜こうとするが、それと同じタイミングでいきなり上下に扱かれて、游月はたまらず声を上げて腰を浮かせた。

「んぁっ、ぁっ………ん、ふ…………」

透麻はその隙に下着ごとずり下ろし、游月の下半身を外気に晒した。白く艶めく脚の付け根で秘めやかに自己主張する半身を両手で包み込み、力を加減しながら巧みにこすり上げる。

「きゃうっ、うぁ……ぁ………はァ……ん………」

ひくひくと腰を揺らしながら、喉を反らせて喘ぐ游月。透麻は呼吸を乱しつつ、獣めいた情欲を何とか呑み込む。

もう少し、この愛しい身体を虐めてやらねばならない。二度とあんなことを言わせないためにも。

「ほぅら游月、美味しそうな蜜が溢れてきましたよ」

先端の小さな孔からくぷくぷと滴る透明の液体を指ですくって、わざと音をたてて吸った。そして耳許で「メープルシロップより甘いですね」と囁く。

「んっ、やっ、やだぁ…………とうまさぁん、も、きて…………」
「何ですか？　えっちはしないって言ったのは游月ですよ。ああ、そうか。そんな風に誘って、私を試しているのですね」
「ちが……ちがうの………おねがい、して…………してよぉ………」

透麻は荒い息を抑えて後ろから腕を回し、游月の膝裏に手を掛けて脚を持ち上げた。そして上を向いた秘孔に指を這わせる。

そこにはすでにたっぷりの愛液が滴って、くちゅ、と音をたてて透麻の指に吸い付いてきた。

「さあ、今度はここを可愛がってあげましょう」

透麻は人差し指で襞をぬるぬる撫で回し、そのまま中に侵入させた。花びらを押し広げるように指を掻き回すと、クチャクチャと粘っこい蜜音を弾かせた。

「ああっ、いや、いやぁぁ……」

透麻の手に爪を立てたりぺしぺし叩いたり、何とか抵抗を試みるがもちろん焼け石に水。さらに中指まで滑り込ませて内壁を抉り始めると、ついに游月は悲鳴にも似た嬌声を上げた。

「きゃああぁッ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、透麻さぁん………えっちしないなんて嘘………えっちする、いっぱいするのぉ………」
「游月…本当に……？」

必死に頷いて同意を表わす游月に、透麻は低い声で、

「もう、えっちしないなんて言いませんか？」
「言いません、言いませんっ………だから……はやくぅ…………」

透麻は指を引き抜くと、素早く前を寛げてから游月の身体を僅かに持ち上げた。そして天を衝いてビクビクと逸る自身の上に蕩ける蕾を宛がい、ゆっくりと下ろしていった。

「ああっ、あっ、はぁっ…ん、すご…い………すごぉい…………」

座ったまま後ろから貫かれた游月は、透麻の力強い律動にあっという間に高められ、喘ぎをこぼす間もなく先端から白濁を迸らせた。

「嘘をついた上に先に達ってしまうなんて……游月は何て悪い子でしょう」
「ぁ………ふ………ぅん………ごめ…なさぁい…………」

透麻は舌先で唇を湿して嫌らしく笑い、

「たっぷりお仕置きしてあげましょうね」

結局その日、透麻が仕事机に向かうことはなかった。




執拗に攻めて攻めて幾度も劣情を注ぎ込み、游月が喉を嗄らして「もうゆるしてぇ…」と哀願するのを受けてようやく、透麻は欲望の触手を収めた。
半ば蕩けかかった身体をゆったりと抱き締め、

「ベッドにそっと潜り込んでいたのは、あなたを起こしては可哀想だと思ったからですよ。あんな幸せそうな寝顔を見せられたら、誰だってそう思います。でも、起こして欲しかったのですか？」

游月ははっきり頷いて、

「はい。何時でもいいですから起こしてください。仕事で疲れた透麻さんに、お休みのキスをしてあげたいの。いいでしょう？」

透麻は困ったように笑って、

「もちろん、と言いたいところですが………キスだけで抑えられるか……自信がありません」
「大丈夫。その時は僕が耳許で囁いてあげますから」

游月は悪戯っぽく微笑んで、甘く囁いた。

「先生、新作書き下ろしの広告はもう出ていますからね」

透麻の笑顔が凍りついたことは言うまでもない。
（Fin）

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