＜神威紅──17歳、そしてこれから＞・I
その夜のうちに、二人は御剣の部屋に帰り着いた。夜明けまであと数時間。いつもなら深い眠りの褥に沈んでいる時間だが、二人とも眠気とは無縁だった。特に紅は落ち着かない様子で、リビングのソファに座っている。
「どうしたんだよ。そんな畏まって」
この部屋に来るのは初めてじゃないだろうと御剣が指摘すれば、紅は神妙に頷いて、
「うん。でも前回とはなんだか景色が違って見える気がする。なんでかなあ……」
自問するようにそう言った紅は、次の瞬間ぼっと音が聞こえそうな勢いで赤くなった。前回とは印象が異なる理由に思い至ったからだろう。
そう、前回はただのクラスメートだったが今は恋人同士。つまりここは恋人の部屋。そのフィルターが、部屋の色彩を変えてしまったのだ。
「紅、お前真っ赤だぞ。ゆでダコだってこんなに赤くはならない」
「う、うるさいなあ。この部屋ちょっと暑いんだよっ」
御剣のからかいにぷいっと横を向き、わざとらしく手で顔を扇ぐ。御剣は「可愛いヤツ」と声に出さず呟き、
「暑いなら風呂入ってこいよ。ちょうど沸いたぞ」
「御剣は？」
「俺は後でいい」
答えてから、御剣はくくっと笑った。紅は眉をひそめ、
「なに笑ってんだよ」
「いや。前世でもこんなやり取りがあったなと思ってな」
「ああ、うん。そうだな……」
紅は遠い昔を透かし見るように目を細めた。その唇は楽しげに緩んでいる。
「カイが、大きな桶に湯を沸かしてくれた。それで、僕に先に入ってこいって」
「ああ。そうしたら、カイも一緒に入ろうって駄々捏ねたよな。あれには参った」
御剣の言葉を、紅は噛み付かんばかりの勢いで否定した。
「そんなこと言ってない！」
「なんだ、都合の悪いことは忘れるんだな。便利な頭だ」
「だから言ってないって！」
御剣はひらひらと手を振って、
「分かった分かった。とにかくさっさと入ってこい。タオルとパジャマは用意してある」
紅はまだ反論し足りないのか、赤い顔で御剣を睨んだが、「ありがとっ」と叩き付けるように礼を言って部屋を出た。御剣は笑いをこらえながら見送る。しかし紅の姿が見えなくなると、自然と溜め息がこぼれた。
「これからが正念場だな……」
蒼を筆頭とした暁一族から紅を守ることはできた。彼らはいわば“見える”脅威だった。だがこれからは、“見えない”脅威と闘わねばならない。すなわち、己の内に潜む欲望と。そう、敵は己自身なのだ。
「前世と同じ過ちは犯さない。絶対に」
御剣は厳粛な声で誓いを立てた。すると、その誓いの強固さを試すように、タイミングよく紅が部屋に戻ってきた。
「御剣、上がったよ」
その格好を見た御剣はぎょっとして固まった。パジャマが大きかったようで、ボタンを上まできっちり留めているにもかかわらず、襟元がずり落ちて肩が露わになっている。ズボンもぶかぶかで、腰をひねって手で押さえていた。
「おっ、お前……その格好……」
首筋から肩の素肌には湯上がりのせいか淡い血色がともり、みずみずしい艶を見せ付けた。ズボンが落ちないようひねった腰は、恥じらいつつも誘うような絶妙の曲線を描いている。しかし紅は何をどう誤解したのかムッと膨れて、
「笑うなよっ。しょうがないだろ。御剣のサイズじゃデカいんだよ！」
「あ、ああ。そりゃそうだな。悪かった」
謝られたことで、ムキになって怒鳴ったのが急に恥ずかしくなったようだ。紅はふいと顔を背けて、
「どうせチビだよ。そんなに見るなよ……」
勇ましい抗議から一転、今にも消え入りそうな声で訴える紅。こういう落差に男は呆気なく煽られてしまうのだが、もちろん立てたばかりの誓いを破るわけにはいかない。御剣は体内でじわじわと存在感を増しつつある不穏な熱から努めて目を逸らし、
「それじゃ、俺は風呂に入ってくる」
すると紅はとんでもないことを言い出した。
「御剣、怪我してるから大変だろ？ 僕が背中流してやるよ」
御剣は、眉間が険しく寄るのを抑えられなかった。冗談じゃないぞと喉の奥で吼えつつも、穏当な返事をする。
「大丈夫だ。利き手じゃねえし」
「でも……」
「なんだ。やっぱり一緒に入りたいのか」
「違う！」
髪が逆立ちそうな勢いで否定する紅に、冷ややかな目を向け
「いいからお子様はさっさと寝ろ。寝室はあっちだ。俺はここで寝る。分かったな」
一方的に言い置いて背中を向けた。するとすかさず、紅の声が追いかけてきた。
「まだ寝ないよっ。御剣が風呂上がるの待ってるからな！」
まるで子供のヒステリーだと呆れつつ、そんな子供に簡単に煽られてしまう自分に御剣は苦い笑いを噛み殺した。
「ったく、少しは警戒心を持てよ……」
御剣はぶつくさ言いながら身体を洗い、頭から思い切り湯をかぶった。そしてぶるっと振って水滴を払い落とし、早々に風呂場を出る。
のんびり湯船に浸からなかったのは、ちょっとでも気を緩めると紅のしっとりと上気した湯上りの肌を思い出して、たまらない気分になってしまうからだ。
本当に、あの格好は反則だと思う。紅のサイズに合ったパジャマを用意していなかった自分にももちろん非はあるのだが、細身とはいえ一応男なのだし、まさかあそこまでぶかぶかになるとは思っていなかったのだ。
想像以上に華奢な身体は、さまざまな感情を呼び起こす。愛おしさや保護欲といった紳士的な感情ばかりではない。その裏には所有欲や加虐欲など、毒々しい色彩を持つ雄の欲求が潜んでいる。
襟口から覗く白い肩に歯を立てて味わい、裾から手を差し入れて柔らかな内股をまさぐりたいという欲求が。
それを抑えるのがどれほど難儀なことか分からないのは紅のうぶさゆえであって、責める気は毛頭ないのだが、やはり苦い溜め息は禁じ得ない。
とにかく前世の二の舞だけは避けねばならないとあらためて誓いリビングへ戻ったのだが、さっそくその誓いの堅固さを試すような試練が御剣を待ち受けていた。
「紅、勘弁してくれ……」
思わずこぼれた呟きの情けなさといったら。だが、それも仕方ないだろう。
「寝室で寝ろと言っただろう。まったく」
ソファの上で大きなクッションに身を沈ませ、幸せな眠りの揺りかごに揺られる紅。緩やかなＳ字にひねった身体は艶めかしい曲線を描き、大きいから邪魔だと下を脱いでしまったのか、パジャマに辛うじて覆われた尻は無邪気な丸みをさらしている。
ずり上がった裾から覗く太ももは、クリームを塗り込めた菓子のようになめらかな光沢ととろけるような質感を見せつける。眺めているだけで、舌が甘い錯覚に溺れてしまいそうだ。
しかしそれが危険な兆候であることは、御剣も承知済み。剥き出しの下肢を視界に入れぬよう注意しつつ、その柔らかな身体を抱き上げようとした。すると気配を察したのか、紅はかすかに眉根を寄せてぐずり、ふわんと目を開けた。
眠りの残滓に覆われ焦点の危うい瞳は妙に色っぽく、その濡れた眼差しをまともに食らった御剣は思わず固まった。
「御剣ぃ、風呂、上がった？」
寝起きの甘えた声は法に触れそうなほど可愛く、誘うように乱れた姿態や蠱惑的な瞳とのギャップが御剣をさらに高ぶらせた。が、もちろんそんな渦巻く劣情はおくびにも出さず、御剣は抱き上げようとした腕を引っ込め、
「ああ、今上がった。それより、こんなところで寝たら風邪ひくぞ。寝室に行け」
我ながら白々しいと思いつつも、保護者を装った口調で促す。しかし紅は耳に入っていない様子でぼぅっと見上げ、そろそろと手を伸ばして御剣の湿った前髪を指で撫でた。思わぬ行動にうろたえる御剣に、紅は陶然と微笑み、
「やっぱり……黒豹だ」
「な、なんだ突然───」
「御剣が転校してきた時、黒豹みたいなやつだなあって思ったんだ。野性的だけど高貴で、どこか神秘的で。周りを高みから見下ろしている感じが、群れをなさない孤高の獣を連想させるっていうか……」
どうやら、途中で恥ずかしさがこみ上げてきたらしい。頬を赤らめて、ばつが悪そう俯いてしまった。そして今にも消え入りそうな小声で、
「ごめん、ヘンなこと言って」
「い、いや。別に」
何と返してよいか分からず、御剣は困惑をにじませる。紅はといえばもじもじと腰を揺らしつつ、しきりにパジャマの裾を引っ張っている。さすがに気になり出したようだが、その仕草が男の目にどのように映るかは分かっていないらしい。
「あ、御剣。手の傷は大丈夫か？」
「ん？ ああ。出血の割には大して深くない。心配するな」
「そか。よかった……」
ほっと安堵の息をつく紅に、御剣はこれまでの甘くふやけた空気を一掃するような厳しい声で、
「それよりも紅、お前は自分の命を軽く扱いすぎだ。なぜあんな無茶をした。暁天之命がお前の利他愛で和御魂に変わったからよかったものの、あの奇跡がなければお前は確実に命を落としていたんだぞ」
「なぜって、前世で御剣がしてくれたのと同じことをしただけだ。カイは命と引き替えに僕を救ってくれた。なのに僕はそんなカイの気持ちが分からず、裏切りに絶望して自ら命を絶ってしまった。だから今度は、僕が命を懸けて御剣を助ける番だと思ったんだ」
紅の言葉に、御剣は険しく眉根を寄せた。
「どうしてお前がそれを知ってるんだ」
「見えたんだよ。御剣が僕の身代わりになって斬られ、目の前で息を引き取った。その瞬間、錯乱状態に陥った僕の目にはっきり見えた。カイの惨い最期が……」
未だその姿が脳裡に灼き付いているのか、紅は苦しげな顔つきで小さく頭を振った。そして再び御剣を見据え、
「それを見た僕はただ自分を責めた。誰よりも僕を想い愛してくれた人を、二度も死なせてしまったと。と同時に自分が何をすべきか悟ったんだ」
たとえあのまま命を失っていても後悔はしていないと言わんばかりの晴れやかな口調は、御剣を苛立たせただけだった。ふざけるなと一喝し、
「お前の命を踏み台にして生き返って、俺が喜ぶとでも思ってんのか！ 前世の俺の行いは、崇高な自己犠牲なんかじゃねえ。愛の皮をかぶったただのエゴだ。俺自身、そのことを誰よりもよく分かっている」
紅は間髪容れず頷き、
「僕もだよ。あんなことをして御剣が喜ぶなんて思ってない。むしろ苦しめてしまうと分かっていた。それでも敢行したのは僕のエゴ。暁の神様は利他的な行為と見なしてくださったけど、ほんとは恐ろしく自分本位の行為だ。ごめん、御剣」
紅の謝罪に、御剣の怒りは一気に引いていった。怒りに強張った肩をがくりと落として深く項垂れ、
「いや、謝るのは俺の方だ。お前の命を助けるという大きな目的があるのだから、何をしてもいいと思い込んでいた。俺みたいな化け物に無理やり犯され神子の資格を奪われたお前が、その後の人生でどれほど苦しむか分かっていなかった……いや、違う。分かっていた。分かっていたんだ。けれど俺は、お前を死なせたくないという私欲を優先させた。その結果、お前に絶望の中での自殺という惨い最期を選ばせてしまった」
悲痛な声で懺悔する御剣を、紅は身を乗り出して宥めた。
「そんな風に自分を責めるなって。御剣は、カイは僕を助けようとした。その想いは純粋だった。そうだろう？」
「ああ。けれど結果は……」
「前世のことはもういい。少なくとも今、僕は幸せだ」
そう言って微笑む紅は、言葉通り、いや言葉以上に幸せそうだった。見る者の心に光明を灯すその笑顔に、自分はこれからも幾度となく救われるに違いない。
御剣は「ありがとう」と応えて、紅の額に柔らかな口づけを落とした。紅はぴくんと身じろいで、遠慮がちに身体を寄せる。すると紅のまとい香が、空気の動きに乗ってふうわりと漂った。
同じボディシャンプーを使ったはずなのに、どうしてこんなにも理性を蕩かすような甘い匂いになってしまうのか。紅の素肌に、媚薬めいた粒子が潜んでいるとしか思えない。
この辺りが引き際だと悟った御剣は、なるべく不自然に見えないよう注意して顔を背け、たゆたう香りの帯から逃れた。そして強張った声で、
「もう寝ろ」
すると紅は手を伸ばして御剣の袖を掴み、照れ隠しなのか不貞腐れたように「一緒に寝る」と言い出した。御剣は動揺を皮肉な言葉で覆い隠す。
「怖いもの知らずだな。かつてお前を強姦した男と床を共にするのか？」
「だからあれは前世のことだろ？ それに、僕を助けるためにしたことなんだから───」
「いや、どんな理由があったとしても、俺はお前を強姦したんだ。さっきお前は自分を責めるなと言ってくれたが、それは無理だ。俺はそう簡単には自分を許せねえ。だから紅、俺はお前を愛しているけれど、お前を……抱くことはないだろう」
それは御剣の偽りなき本心だった。
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