あなたの全てが
＜1＞
「我ながらかんぺきだ」
皿の上で湯気を立てるブリ大根は、出汁が染みて飴色になった大根といい、ほくほくに仕上がったブリといい、小料理屋で出しても十分通用するレベルだった。
奏は満足げに頷いて、喬允の待つリビングに運ぶ。普段の食事はダイニングの食卓だが、冬の夕食だけは、リビングでこたつに入ってとることにしていた。この季節限定の、幸せな二人の習慣だった。
部屋の入り口でいったん立ち止まって、ビールを飲みながらメインディッシュが運ばれるのを待つ喬允の背中を眺めるのは、奏だけの秘密の習慣だ。
こたつに入って寛いだ姿勢でテレビを見たり、ビールをちびちびやっている喬允は無防備で所帯じみていて、会社で彼に秘かな憧れを抱いている女子社員が見たらきっと、幻滅するのだろう。大学病院の有名医師から信頼を置かれる優秀なMRである三島副所長の、こんな姿見たくなかった！と。
奏は思わず、フッと鼻で笑ってしまう。こらえきれぬ優越感。分かってないな女どもめ。外ではエリートMRだけど、自分の前でだけは無防備でだらしない姿を見せてくれる。それが、それこそが萌えというものじゃないか！
心の中で力説してから、奏ははっと我に返った。また見惚れていた。こうして喬允の背中を飽きずに眺め続けて、気付けばせっかくの料理が冷めていたということが、これまで何度あったろう。この惚れっぷりには我ながら呆れてしまうのだが、緩んだままの唇が本音を表していた。幸せ過ぎて死にそうだ、と。
気を取り直して近づくと、喬允はビールの入ったグラスを口元に運んだまま固まっていた。大きく見開いた両目は微動だにせず、テレビの画面を見詰めている。
普段見る番組といったらニュースとちょっとしたバラエティくらいで、好きな女優やアイドルがいるわけでもないのでドラマも歌番組も見ない。そんな彼の視線を釘付けにするのはどこのどいつだふざけんないつでもかかってこい負ける気がしねえよと荒ぶりつつ画面にガンを飛ばすと、意外なことに玩具のCMだった。
───ミラクルパンケーキやさん……って、あ、もしかして……。
食べられる本物のパンケーキが作れる、女の子向けのおもちゃ。それを熱心に見詰める喬允が何を考えているのかは、問うまでもない。奏はそのCMが終わるのを待って、こたつの上に皿を置いた。
「はい、ブリ大根。ちょっと甘めの味付けになったけど」
「あ、ああ。ありがとう。少し甘めが好きなんだ、嬉しいよ」
そんなの知ってるよと声に出さず返し、奏は自分の取り皿や箸を取りにキッチンに戻った。そして、小さく溜め息をついた。
翌日。喬允を仕事に送り出した奏は、深呼吸をしてから喬允の部屋に入った。デスクの上に置かれたノートパソコンは、当然ながらプライベートの領域で、勝手に触っていいものではない。喬允は無頓着なのか奏を信頼しているからなのか、携帯電話やパソコンの管理は適当で、それがまた奏を誘惑するのだ。アドレス帳やメール、検索履歴をこっそり覗きたいと、何度身悶えしたことか。
もちろん、望むのと実際にやるのでは、大きな隔たりがある。殺してやりたいほど嫌いな奴がいても、実際に殺人を犯すことはない。かなり物騒な喩えになったが、つまりはそういうことだ。
しかし奏は、ためらいつつもパソコンを開いた。ログインパスワードは知っている。以前、試しに教えて欲しいと言ったら、呆気なく教えてくれたのだ。
起動するとすぐにブラウザを立ち上げ、Amazonのサイトにアクセスする。やはり、サインインしたままだ。そしてすぐに、目当てのものは見つかった。『あなたへのおすすめ』欄にずらりと並んだ、女の子向けの玩具。ミラクルパンケーキやさん、みんなでクレープ、新・たのしいケーキやさん……。
注文履歴を確かめたが、購入はしていない。買うのをためらっているのもあるだろうが、人気商品らしく在庫がないようだ。こういうクリスマス商戦に乗り遅れてしまうところも、喬允らしくて思わず笑みがこぼれてしまう。
「しょうがないな、ほんとに」
奏は商品名を頭に叩き込んでから、ブラウザを閉じようとした。が、ちょっとした出来心で検索履歴を覗いてみる。ざっと目を走らせるうちに、顔が火照っていくのが分かった。
「う、わ……『クリスマス レストラン 個室』『クリスマス 恋人 レストラン』『クリスマス 男同士 人の目』って……ははっ、あは、はははは………はあ～～」
深い深い溜め息をつきながら、奏はパソコンをシャットダウンした。そしてその場にへたり込み、前髪をぐしゃぐしゃとかき上げながら甘い呪詛を吐き出した。
「まったく何なんだよこの可愛さは！ 俺を萌え殺す気かっ。もう、これ以上惚れることはないと思ってたのに、あっさりマックス超えだよ」
どんな顔をして検索したのだろう。たぶん、いやきっと、クソ真面目な顔でう～んとかなるほどとかぶつぶつ呟きながら、必死に情報を探したに違いない。そしてその合間に、子供に贈るプレゼントを物色する。
「あー、負けた！ くっそ、好きだ好きだ好きだ好きだ……」
もう遥か昔に“負けて”いることは、痛いほど自覚しているのだが。
それから数日後。クリスマス直前の金曜日。喬允は十時過ぎに帰宅した。今夜は接待ではなく、部下たちと軽く飲んで帰るということで、アルコールの量も控え目だったようだ。
いつも接待で否応なく飲むことになるから、MRの集まりではあまり飲まないんだよといつか言っていた。家で奏と一緒に飲むのが一番楽しいよ、そんな言葉で締め括られて、奏は柄にもなく頬を染めたのだ。
喬允はたまに、こういう媚薬のような爆弾を投下する。それも、本人に爆弾の自覚がないのだからタチが悪い。いちいち反応して赤くなったり舞い上がったりする自分が馬鹿みたいだが、そんなみっともない自分が嫌いではなかった。
「お帰り。何か軽く飲む？」
「ん？ そうだな。帰り寒かったから、ウイスキーのお湯割りでももらうか」
「だから、迎えに行くって言ったのに」
普段は車通勤だが、今日のようにお酒の席が予定されている時は電車を使っていた。夜は寒いし車で迎えに行くよと申し出るのだが、喬允がこれまで承諾したことはなかった。
「奏に、そこまで負担かけられないよ」
「ちゃんと、会社の人間には見つからないような場所で拾うから大丈夫だよ」
奏は試しに言ってみた。案の定、喬允は眉根を寄せて反論してくる。
「そういうことじゃない！ 会社の人間に見られるのが嫌だからとかそんなことを……か、奏っ」
奏の表情から、本気の言葉ではなかったとようやく察したのか、喬允は口を噤んで恨めしげに睨んだ。
「こういうからかい方をするなんて、お前も人が悪いな」
「うん。俺はもともと腹ん中真っ黒な人間だから。喬兄とは正反対」
「いや。お前は真っ直ぐで綺麗な心の持ち主だよ。俺は知ってる」
そらきた。これが無意識の甘い爆弾だ。奏はその威力にくらくらしつつ、顔が火照るのを隠すためくるりと背を向けた。そしてすたすたと寝室へ向かう。
「奏？ どうしたんだ一体───」
追いかけてきた喬允に背中を向けたまま深呼吸すると、奏はキャビネットの上に置いてある包みに手を伸ばした。クリスマス柄の包装紙と赤いリボンでラッピングされた、平たくて大きな箱。それを喬允に手渡す。「メリークリスマス」をひと言添えて。
「喬兄にプレゼントだよ。開けてみて」
「え？ あ、ああ。ありがとう」
クリスマス当日前のタイミングでのプレゼントに些か面食らったのか、喬允は戸惑いつつも丁寧に包みを開けた。
「これは……」
プレゼントの中身を見て、さらに困惑が深まったようだ。然もありなん。喬允の手にあるのは、子供向けのおもちゃ『ミラクルパンケーキやさん』だ。
「見つけるの大変だったよ。人気商品らしくてどこも在庫切れでさ、入荷はクリスマスの後になりますって言われたけど、それじゃ意味ないだろ？」
「どうして、これを」
「この前、真剣な顔でテレビCMを見てただろ。あれでピンときたんだ。きっと……宙美ちゃんに贈ろうか迷ってるんだろうなって」
もちろん、パソコンをこっそり覗いたことは内緒だ。この程度の“秘密”は、関係を円滑に保つための潤滑油として必要なのだ。
「どうせ、迷った挙げ句買ってないんだろ？ これ、送ってあげなよ」
喬允はしばし黙って箱を見詰めていたが、やがて小さく首を振った。
「ありがとう。奏の気持ちは嬉しいよ。でももう……こういうことはしない方がいい。俺は、お前を選んだんだ。宙美ではなくお前を」
奏の胸がじくりと疼く。確かに喬允は、復縁を求める元妻と、今でもパパが大好きな娘を振り切って“ここ”に帰ってきた。
『宙美のことは二番目に大事なんだと、はっきり言ってきた』
『選ぶということは選ばない方を捨てること。だから俺は娘を捨ててきた』
喬允がそう言った時、奏の心を支配したのは悦びではなく重苦しい罪悪感だった。
選ぶということは選ばない方を捨てること、そう言ったのは他ならぬ奏だ。自分のこの言葉が喬允を追い込んだのではないか、結果として宙美から父親を奪ってしまったのではないか。
「俺、思うんだけど……」
奏の口が自然と開く。不思議だった。宙美のことを話す時はいつも、口調が厳粛なものになる。おそらく、血の繋がりというものに敬意と若干の畏怖を抱いているのだろう。憧れもあるのかもしれない。それは自分が決して手に入れられないものだから。
「喬兄は俺を選んだことで宙美ちゃんを捨てたと思っているだろうけど、宙美ちゃんは喬兄を捨ててはいないと思うよ」
「どういうことだ」
「つまり喬兄は今でも、宙美ちゃんにとって大好きなパパだってこと」
喬允の顔が苦しげに歪んだ。自分は残酷なことを言っているのだろうか。必死に忘れようと、距離を置こうとしている愛しい者の面影を目の前に突き付けて、苦しめているだけなのか。
だとしても、やはり。
「だったらさ、宙美ちゃんが喬兄を“捨てる”までは父親でいるべきじゃないかな。喬兄はつらいと思うけど、それが……父親の務めのような気がする」
「……たとえ贈ったとしても、由紀恵が俺からの贈り物として渡すとは思えない」
「それならそれで仕方ないさ。贈ったっていう事実が大事なんだ。喬兄の中の父性を殺さないためにも」
喬允は少し意外そうに目を細め、
「奏は……嫌じゃないのか？ 俺の中にその、そういう部分が残っているのは」
「嫌というより、不安だった。以前は。でももう、大丈夫だ」
これは真実ではない。大丈夫と言い切れるほど自分たちの未来を信じることはできないし、まだ不安もある。でもそれより強く思うのは、
「父親という要素も、喬兄を構成する一部分だ。俺は、喬兄の全てが好きなんだよ。父親としての三島喬允も好きなんだ。だからそれを簡単に消してほしくない。そう思ってる」
「な、なんだお前。俺にめろめろじゃないか」
いかにも呆れたように言うこれは、喬允の照れ隠し。奏は大真面目な顔つきで頷き、
「うん、めろめろだよ。たまに見せるギラギラしたオスの顔も好きだし、宙美ちゃんと一緒にいる時の間延びした父親の顔も好きだ。あと、家で仕事の電話する時の、きびきびと部下に指示を出す声とか、上質なベルベットみたいに滑らかで渋い光沢があってたまんない。それに───」
「も、もういい！」
見れば、耳だけでなく首まで赤く染まっていた。喬允は恨めしげに見返し、
「奏、俺をからかってるだろ」
確かにそれも若干あるのだが、奏ははっきり否定した。
「まさか。全部本心からの言葉だよ。だから、父親としてこれを贈ってあげてほしい。それは俺の願いでもあるんだ」
喬允はまだ赤い顔をして抱えたままの箱を見詰めていたが、やがてふっと表情を和らげ頷いた。
「分かった。明日にでも送るよ。宙美もきっと、喜んでくれる」
そう言う喬允は、娘を想う父親の顔をしていた。自分が関わることのできない絆を見せられて、もちろん不安もある、罪悪感もある。でもこの瞬間に奏の心を支配したのは、純粋な感動だった。今、自分は、美しく尊いものを目にしているのだ。
「よかった」
奏の声はかすかに震えていた。それに気付いたのか、喬允は箱をキャビネットの上に置いて奏に近づく。そして両手で奏の頬を包み込むようにして撫で、「ありがとう」と言った。
在り来たりな感謝の言葉は神聖な艶を帯び、耳から流れ込んで涙腺を優しく刺激する。奏は慌てて込み上げるものをこらえ、ごまかすために話題を変えた。
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