幸せの配分
「こ、これは……」
真新しいテーブルクロスの上に、どん、どん、どん！ と置かれた重箱。三段重のおせち料理なんて何年ぶりだろう。
「すごいな……奏」
思わず感嘆の言葉がこぼれる。しかし奏は軽く手を振って笑い飛ばす。
「既製品を重箱に詰めただけだよ。まあ、お煮しめはここで炊いたけどさ。紅白なますも作った。出来合いのは味付けが甘いんだよ。で、お雑煮の餅はいくつ？」
「え？ ああ。取り敢えず二つ」
「了解」
日本人のDNAに“美味しいもの”として刻まれているに違いない、だし汁の香りがひたすら胃を刺激してくる。
「はい、どうぞ」
澄まし汁に餅とかまぼこと結んだ三つ葉。そして柚子の皮。目にも美しく、香り高く、喬允はしばし見惚れた。
「喬兄、お屠蘇どうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」
差し出した盃に酒を注ぐ奏の薬指には、白銀の輝き。男の指にはめるには少し華奢かもしれないと思った細いリングは、まるで奏のために誂えたかのようによく似合っていた。
確かに女性の指よりは骨ばっているし節も大きい。しかし手の動きや仕草、つまり手の“表情”が流麗で上品なため、繊細なプラチナがよく映えた。
いってらっしゃいと鞄を差し出し、お帰りと上着を受け取り、召し上がれと膳を差し出す手。喬允のネクタイを外しシャツのボタンを外し、胸筋をそっとなぞる手。これまで幾度となく見ているはずの、奏の手の動きに、喬允は改めて魅入られたのだ。指輪の、少し面映い副作用だった。
これは去年の12月、クリスマスプレゼントとして贈ったものだ。物に必要以上の意味を込めるつもりはないとはいえ、やはり指輪は特別だ。薬指の指輪は誓いであり所有のしるしであり、秘めやかな拘束具でもある。それは贈った側をも拘束するものだ。
しかし喬允に躊躇はなかった。一度は別々の道を行った春。離れ離れになってようやく、どれほど大切な存在だったか気付くという在り来たりな展開を経て、二人は再び“ここ”に戻ってきた。今なら、少し重い誓いを交わしてもいいのではないか、そう思ったのだ。
それにしても、最初に指輪を見た時の奏の反応を思い出すと、今でも自然と頬が緩んでしまう。寝ている間にこっそり嵌めておいたのだが、目覚めて薬指を見た奏は何を思ったか喬允におそるおそる手を差し出し、
───喬兄、あのさ。これ、見える？
予想していたどんな反応とも異なる第一声に喬允は戸惑い、首を傾げつつ、見えるって何がだ？ と反問した。すると奏は口ごもりつつ、
───この、薬指の……
───指輪か？
すると奏はあからさまにほっとした様子で、
───よかった……。俺、こういうのに憧れるあまり、ついに幻覚を見るようになったかと思った。これ、本物なんだね。あれ？ てことは、これってもしかして……。
瞬きせず指輪を凝視する奏の顔があっという間に紅く染まり、双眸に涙の膜が張る。喬允は頷いて、指輪の輝く手を取り口づけた。そして唇を離すと、指先はかすかに震えていた。
「───喬兄？ どうしたんだよぼーっとして」
「ん？ いやその。指輪、似合うな」
「あ、当たり前だろっ、喬兄が選んでくれたんだから」
こういうちょっときつい口調は、照れ隠しだ。それを裏付けるように、奏の頬はほんのり赤らんでいた。まだ屠蘇も飲んでないのにもう顔が赤いぞとからかってやりたい誘惑を抑えて、「そう言ってもらえると嬉しいよ」と答えるに留めた。すると奏は、ちらと含蓄ある視線を送り、
「疲れてるんじゃないか？ 昨夜はけっこう激しかったし」
「い、いや、そんなことは……」
「最初ははしたないぞ、なんて言ってたくせに。結局、何回したんだっけ？ えっと、こたつで一回、風呂場で一回、ベッドで───」
「数えなくていい！」
慌てて遮り、鹿爪らしい顔つきで盃を取る。昨夜の大晦日、俺の中に喬兄がいる状態で年を越したいなと、言葉の内容とギャップのあり過ぎる綺麗な笑顔で迫られ、喬允はたじろぎつつも『はしたないぞ』と窘めた。
しかし奏の巧みな誘導に流され、気付けばこたつで、そして風呂場で、挙げ句ベッドの上で……。
「あ、喬兄。まだ屠蘇も飲んでないのに赤くなってる」
「うう……」
さっき呑み込んだ台詞を奏に言われてしまった。喬允は「匂いに酔ったんだよ」と誤魔化して、盃を傾けた。奏も続いて口を付け、「美味しいね」と微笑う。盃に何気なく添えられた左手。その上品な佇まいにはやはり、白銀の輝きがよく似合った。
奏も指輪を大層気に入ってくれたのは良かったのだが、ひとつだけ厄介なことがあった。奏曰く、
『こんなに幸せだと、いずれ何かよくないことが起きる。でないとプラスとマイナスの帳尻が合わなくなるだろ？』
要は『幸せすぎて怖い』ということなのだろうが、“幸せ”に対するこの臆病さが、奏のこれまでの人生を物語っているようにも思えて、喬允は胸の奥が切なく軋むのを感じたのだ。
ともかく奏はクリスマス以降、漠然とした“何かよくないこと”への不安を隠さなかった。幸せの代償で、喬允が事故に遭ったり病気になったらどうしようと、本気で怯えているフシがあった。
もう少し自分がしっかりしていれば、幸せであることに不安など覚えず、幸せをそのまま享受することができるだろうにと、喬允は己の不甲斐なさを恨めしく思ったりもしたのだ。
そして奏は今も、
「喬兄、餅食べる時は気をつけて。水分を取りながら、ゆっくりと……」
「お前な、人を年寄り扱いするな。って、もしかして、雑煮の餅が小さく切ってあるのも……」
「うん。喉に詰まらせないように」
喬允は肩を落とし、白玉くらいの大きさの餅を箸でつまんで、溜め息をついてから口の中に放り込んだ。
初詣は近くの寺へ。賽銭を投げて、在り来たりだが今年一年の健康と安全を祈った。自分と奏と、そして一瞬迷ったが娘の宙美と元妻の由紀恵の分も。
たった百円の賽銭で欲張りすぎたかなと苦笑し、隣で手を合わせていた奏に、何をお願いしたのか訊ねた。
「願い事？ そんなのするわけないだろ。これ以上を求めたらバチが当たる。ひたすら謙虚に現状維持だよ」
「そ、そうか」
確かに現状維持が一番かもしれない。今の日常こそが非日常、これは奏の口癖だが、恙無く過ごせることは当たり前ではなく、幸せなことなのだ。
それから帰り際、二人でおみくじを引いた。結果は、二人揃って『凶』。
「ほらやっぱり！ 何かよくないことが起きるんだ！」
青ざめる奏を、喬允は慌てて宥めた。
「待て待て、そうじゃない。これでいいんだよ。これで、マイナス貯金ができたじゃないか」
「マイナス貯金？」
「ああ。幸せすぎて、プラスとマイナスの帳尻が合わないって言ってただろ？ だから、これでマイナス分に加算されたと思えばいい」
咄嗟に出てきたトンデモ理論だったが、思いのほか奏は納得したようだ。
「そっか……。でもこの程度じゃまだまだだ」
「ああ。だからその、少しずつマイナス分を貯めていけばいい」
自分でも何を言ってるのかよく分からなくなってきたが、奏が納得してくれればそれでいい。二人でおみくじを木の枝に結び、寺を後にした。
「ちょっと初売りでも覗いていくか？」
「ん、そうだね。天気もいいし、デート気分で歩こう」
奏も気持ちが浮上したようだ。喬允はほっと胸を撫で下ろし、商店街へ向かう。その時、奏の仕事用の携帯が鳴った。
「誰だよ、正月に」
尖った声を出す奏を、喬允は「まあまあ」と宥める。奏は渋々電話に出た。
「はい……あ、おめでとうございます、こちらこそ今年もよろしくお願いします……え、今から、ですか？」
眉間に浅い皺が寄る。奏は「ちょっとお待ち下さい」と断りを入れて、電話から顔を離した。
「お客さんか？」
「うん……。なんか、テレビが急に映らなくなったから助けてほしいって。電器屋は正月で休みだし」
「相手は一人暮らしか？」
「息子家族と同居してるけど、みんな旅行に行ってるらしい。猫と留守番だって」
「それだと、テレビが見れないとつらいな。奏、行ってあげたらどうだ」
「でも、せっかくの正月休みで……」
「正月休みはあと三日もあるぞ。それにこれも───」
「これも、マイナス貯金？」
喬允の言葉を引き取った奏は、いたずらっぽく笑う。喬允もつられて笑い、
「ああ。マイナス、なんて言ったらお客さんに悪いけどな。さ、奏」
喬允に促されて、奏はこれから向かうと電話で告げた。そして、
「やれやれ。元旦から仕事かあ。マイナス貯金、いつになったらこれの幸せ分に届くかなあ」
そう言って眩しそうに目を細め、薬指の輝きを見詰めた。
「う、わ。もうこんな時間か」
お客の家を出た奏は、星の瞬く空を見上げて溜め息をついた。テレビが映らなくなったのは故障でも何でもなく、単に間違えてリモコンのCSボタンを押していただけで、地デジボタンを押したら元通り。
しかしその後も色々と理由を付けて引き止められ、やっと解放された頃にはすでに外は暗くなっていた。
「ま、いいか。マイナス貯金だ」
奏は明るい声で呟いて、指輪に視線を落とす。それは、安っぽく白けた街灯の下でも美しい。ちょっと地味だったかなと、喬允は照れ臭そうに頭を掻いたが、無駄な装飾性を排し白金そのものの美しさで見る者を惹き付ける指輪は、喬允の個性そのものを表しているようで、奏はたまらない気持ちになる。
指輪の美しさは、喬允の美しさそのものだった。
「……あ、やばい。また泣けてきた」
一人で指輪を眺めつつ、何度泣いたか分からない。嬉し涙、とも少し違う。玉虫色の感情がわぁっと湧いて、心の容量を超えて溢れるような感覚だ。
嬉しさももちろんあるが、不安や怯え、困惑に内側から圧迫され、胸が苦しくなってくる。この状況を、自分の中で整理しきれていないのだろう。誓いの指輪をもらえて、手放しで喜べない自分が恨めしい。
しかしそんな奏の不安や怯えを、喬允は一笑に付すことなくきちんと理解して受け止めてくれた。『マイナス貯金』はその表れだ。嫌なことや不運を貯めるなんて後ろ向きな発想かもしれないが、不思議と心安らぐものを感じたのだ。
「早く……帰ろう」
喬允がお腹を空かせて待っているに違いない。おせちの残りでは味気ないから、何か温かいものを作ろう。冷蔵庫の中身を思い出しつつ家路を急ぎ、インターホンを鳴らす間も惜しんで扉を開けた。
「ただいま！ あ、あれ？ なんかいい匂い……」
お帰り、と言って奥から出てきた喬允の格好に、奏は目を丸くする。
「喬兄、その格好……」
「あ、ああ。取り敢えず格好から入ってみた」
エプロンを着用した喬允はそう言って、恥ずかしそうに笑った。男性用のシンプルなエプロンだから、もちろんフリル的なものは付いていないが、それでも奏をときめかせるには十分だった。
「喬兄……初コスプレ」
「はっ？ 何言ってんだお前」
「だって、その格好」
「だから、夕飯の仕度をしてたんだよ」
「………ええっ？ 喬兄が？！」
キッチンから漂う匂い、そしてエプロン姿。ここから気付いてもよさそうなものだが、喬允が料理をするなんて端から頭にない奏は、本気で驚いた。
「まあ、な。今夜はすき焼きだ。おせちもいいけど、温かいものが食べたいだろ？」
まだ半信半疑のままキッチンに向かうと、野菜はすでに切ってあり、鉄鍋の中で割り下が煮えていた。
「この中に、肉とか野菜を入れたらいいんだよな？」
本当は、まず牛脂を敷いて肉を軽く炙り、そこに割り下を注ぐ方が肉が美味しく食べられるのだが、もちろんそんな細かいことはどうでもいい。喬允が、こうして自分のために料理をしてくれたのだ。それだけで、喉が締め付けられるような感動が込み上げてくる。しかし、
「こんな、こんなことしてくれちゃって、またプラス貯金が増えたじゃないか」
恨みがましく指摘すれば、喬允は少し狼狽して、
「でも、その、不味いかもしれないぞ。そしたらマイナスだ」
「すき焼きを不味く作るなんてできません」
「いいやそんなことはない。割り下が甘すぎるということがあり得る」
「そんなの、簡単に調節できます」
二人が言い合っているうちに、焦げ臭い匂いが漂い始めた。
「うわっ、喬兄、鍋が煮立ってる！」
「えっ、わわわわ……」
慌てて火を止めたが、割り下はほとんど蒸発していた。奏は笑いをこらえ真面目な顔つきで、
「喬兄、わざとマイナス貯金してくれたんだね」
「いや、そういうつもりでは……」
しゅんと項垂れる喬允に軽くキスをして、奏は「俺が作り直すから」と明るい声で宥めた。そして「エプロンはまだ着てて」と続ける。喬允は首を傾げ、
「肉も野菜ももう準備してあるぞ。あと、何かやることはあるか？」
「ないけど、せっかく喬兄がレアなエプロン姿見せてくれたんだから、もう少しいいだろ？」
奏は答えて婉然と笑い、
「もちろん、食事の後はデザート出してくれるんだろ？ エプロンえっちかあ。うわあ、萌えるな」
「バッ…カなこと言うな！」
「だめ？」
「当たり前だ！」
「じゃあ、裸エプロン見せてくれるだけでいいから」
「俺はAV女優か！」
「へえ……そういうAV見たことあるんだ。へえ……」
途端に失速して目を泳がせる喬允が、可愛くて仕方ない。食事はいいから先にデザートが欲しくなってしまう。
不安もあるけれどきっと大丈夫。今年はいい一年になる。そんな予感に甘く身を竦ませながら、奏は焦げた鍋をいそいそと洗ったのだった。
（Fin.）
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