他人の絆
＜7＞
翌朝目を覚ました喬允は、ベッドの上に一人ぼっちの自分に気付いた。のっそり身体を起こし、隣に広がるシーツの海をぼーっと眺める。
「奏…？ 宙美…？」
名前を呼んでももちろん反応はなく、喬允はもそもそとベッドから下りて寝室を出た。途端に、何ともいえないバターのいい香りを嗅覚と空腹が察知した。素早くキッチンを覗き込むと、奏と宙美が楽しげに会話しつつ食事の仕度をしていた。
「あっ、パパだ！ おねぼうさんですね〜」
娘に指摘され、つい肩を竦めてしまう。奏はふわりと笑って、
「喬兄、おはよ」
差し込む陽光の中で暈然と輝く奏の微笑みが眩しくて、喬允は目を細めつつ「おはよう」と返した。
「ほらほら、喬兄。そこでぬぼ〜っと突っ立ってないで。風呂入ってさっぱりしてきなよ」
「ん？ あ、ああ。お前は？」
「俺はもう入りました。喬兄が上がる頃には朝食の仕度できてるから」
何だか体よく追い払われたような気がするなあと一抹の淋しさを覚えつつ、喬允は素直に浴室へ向かった。ほどよい温度の湯にゆったり浸かって身体を洗うと、ようやく頭がクリアになってきた。
キッチンで仲良く食事の準備をする二人の姿をあらためて思い浮かべ、口許を綻ばせながら浴室を出て身体を拭いていると、突然扉が開いて奏が入ってきた。
「うわっ、な、なんだ、もう上がってたのか」
必要以上に驚いた奏は、手にしていた喬允の着替えを置いて、そそくさと立ち去ろうとした。喬允はほとんど反射的にその腕を掴んで引き寄せ、
「そんな赤い顔されたら、どうしたってちょっかい出したくなるだろ？」
「バ、バカ、離せよ」
離せと言いつつも腕を振りほどこうとはしない。そんな奏がいじらしくて、つい苛めたくなってしまう。喬允は奏の腰に腕を巻き付けて拘束し、薔薇色にのぼせた耳に唇を押し付け、
「なんでこんなに赤くなってるんだ？ ん？」
我ながら嫌らしい声だなと思わずにはいられないくらい、ねっとりと撓んだ囁きを流し込む。すると奏は真っ赤に染まった顔をぱっと上げて、挑むような口調で答えた。
「決まってるだろ、喬兄の身体に欲情したんだよ」
あけすけな物言いは、本来は色気を欠くものなのかもしれない。しかし奏のそれは、羞恥や照れをごまかすための虚勢であることが明らかで、必死に優位を保とうとする態度がむしろ健気で欲望を煽った。意表を衝かれた喬允はくらりとよろめき、
「こういう状況で、そんなこと言うか？」
「喬兄が言わせたんだろ？ 俺は責任取れないからな」
奏は強い口調を崩さずそう言って、喬允の唇に吸い付いた。噛み付くような勢いの口づけにもかかわらず、ほどかれた瞬間に感じたのはひたすら甘く芳しい余韻だった。
熱い吐息に唇を撫でられ、喬允はその余韻を追い掛けようとほとんど無意識のうちにもう一度唇を重ねようとした。しかし、
「朝食できてるよ。宙美ちゃんがお腹すいたって」
奏はさらりとそう言って抱擁の腕をすり抜け、脱衣場の出口でちらと振り返り、
「ちょっと冷ましてきた方がいいよ、ソレ」
艶めいた視線で腰に巻いたバスタオルを押し上げているものを示唆すると、さっさと出ていってしまった。
もちろん自業自得なのだから何も言い返せない。喬允は両手で頬をパン、と叩いてから、ずしりと重い腰の熱を冷ますため風呂場に戻ったのだった。
「はい、これは宙美ちゃんの分だよ」
きつね色に焼き上がったパンケーキを皿に載せて渡すと、宙美は大きな瞳を輝かせて受け取り、食卓に運んだ。それと同じタイミングで、石鹸の香りとともに喬允がひょこっと顔を覗かせた。
「あっ、パパ。ちゃんとおふろにはいってきましたか？」
妙に大人びた口調に苦笑しつつ、喬允は「はい、入ってきました」と答える。すると宙美は駆け寄って、
「おひげもそってきましたか？」
「ん？ 剃ってきたよ。ほぅら」
喬允は腰を屈めて宙美の眼前に顔を突き出し、頬や顎を触らせる。宙美はきゃっきゃと笑いながら、小さな手で喬允の顔をぺたぺたと撫でた。そんな父娘のやり取りを眺めながら、奏は軽い驚きを反芻する。
―――さっきはギラギラしたオスの顔してたくせに。あっという間に父親の顔になるんだからなあ
そして思わず肩を竦めたのだが、それは喬允の豹変ぶりに呆れたからではなく、父親としての喬允の、いつもより少し間延びした顔にも魅力を感じてしまう自分に呆れたからだった。どんだけ惚れちゃってんだよ、俺。
「お、パンケーキか。旨そうだなあ」
「あっ、だめ！ それはそらみのなの！」
「パパにもひと口」
「い、や！」
相変わらずほのぼのしたじゃれ合いを続ける二人を前にしても、不思議と疎外感は湧かなかった。そんな自分の変化に面映いものを感じつつ、奏はフライパンを掲げて、
「ほら、喬兄のは新しく焼いてあげるから。子供の取らない」
「お、やった。頼む」
奏は手早く生地をフライパンに広げ、次々とパンケーキを焼き上げる。さらにスクランブルエッグを作り、予め作っておいたミネストローネをカップによそってテーブルに出すと、すでにパンケーキを頬張っていた宙美は歓喜の声を上げた。
先刻、食事の仕度をしながら話した感じでは、普段の朝食はほとんどシリアルのようだった。きっと、こういう品数の多い朝食が嬉しいのだろう。「おいしいおいしい」と連呼しながら平らげてゆく。
そんな宙美を見つめる喬允の眼差しは、この世で最も崇高且つ純粋な慈愛に潤っていた。それに気付くと同時に、奏の胸は平素とは異なる鼓動を刻み出した。
何だろう、この感情は。宙美に対する嫉妬でも羨望でもない。もっと曖昧な、それでいて魂を揺さぶるような……
奏は“ああ、そうか”と呟いた。この胸の高鳴りはきっと、美しいものを見て美しいものに触れた時に自然と湧き上がる感動そのものなのだろう。
これまで自分は、美しいものとは無縁の爛れた世界で生きてきたのだとあらためて実感しつつ、もう一度喬允を見た。
その愛に溢れた優しい瞳は、今度は奏の方へ向けられていた。思わず涙がこぼれそうになり、奏は唇を結んで必死にこらえた。
宙美の帰る時間が近づいていた。しかしもうひとつ最後の、というか最大のイベントがまだ終わっていなかった。そう、バレンタイン。宙美は喬允と奏を呼んで、特製ラブ注入チョコレートを贈った。
奏は驚きを隠さず「え？ 俺にもくれるの？」と確認したのだが、差し出されたチョコレートを見ればどちらが『本命』か瞭然としていた。
ハート形チョコの上に恐らく見よう見まねで書かれた『LOVE』の文字は、どちらも崩れて暗号めいてはいたが、奏の方が明らかに出来がよかった。
周囲を縁取るカラースプレーも、奏の方が綺麗に整然と飾られている。つまり、喬允のは練習台、奏のが完成品ということだろう。
喬允もすぐそれに気付いたらしく、おずおずと宙美の顔色を窺いつつ、
「そ、宙美……なんか奏にあげた方が綺麗じゃないか？」
すると宙美は当然と言わんばかりに胸を張って、
「うん！ だってかなでちゃんはおいしいごはんつくってくれたもん。パパはなんにもしてないでしょ？」
「うっ、それはそうだけど……でもそもそも宙美はパパにチョコあげたかったんじゃないのか？ なのにこれはちょっと……」
もごもごと抗議ともつかぬ繰り言を呟く喬允の肩を、奏は半笑いで叩いて宥める。
「まあまあ。父親ってこんなもんだよ」
そして宙美の前に膝をつき、そのふっくら小さな手を取って、
「宙美ちゃん、パパのより綺麗なチョコレートありがとう。とても嬉しいよ」
宙美はあからさまにぽおっと頬を赤らめて、
「そらみもうれしい！ かなでちゃん、ちゃんとたべてね」
「もちろん。味わって食べるよ」
そんな甘い二人に喬允は独り背を向け、
「どうせ父親なんて……」
世の報われない父親たちへ贈る哀歌を口ずさんだ。
宙美の母親であり喬允の元妻である由紀恵から連絡が入ったのは、それから三十分後だった。
連れてきた時は顔を合わせたくないとばかりに宙美だけ置いて行ってしまったが、さすがに三日間預けておいて礼も言わず引き取るというわけにはいかないと、彼女にしては最大限の気遣いをしたようだ。
「それじゃ、ちょっと行ってくるよ」
そう言って右手で宙美の手を握り、左手に荷物を持って微笑む喬允は、やはり父親の顔をしていた。
それを見た途端、さっきまでは感じずにいられた不安が奏の中でじわじわと膨張する。もちろん、それを面てに出すような分別のないことはしない。笑顔で「行ってらっしゃい」と手を振り、宙美には「また遊びにおいで」と言う余裕まで見せたが、二人が出て行くと同時に何かに押し潰されるようにくたりとソファに座り込んだ。
奏の脳内に巣食って久しいマイナス思考という名の魔物が、ゆっくりと確実に頭をもたげてくる。そしてそれは哀しげな声で、『喬允はこのまま帰ってこない』と囁くのだ。
「まったく、俺って何でこう……」
自分への切実なダメ出しが口をついて出るが、意志の力で追い払えるほどこの魔物は生易しいものではない。奏はソファの上で身体を丸めて思考を閉ざすことで、この苦しい時間をひたすら耐えようとした。外敵から身を守る小動物のように。
こうして由紀恵と直接顔を合わせるのは、離婚以来だった。彼女は相変わらずというか生来なのか極彩色の華やかなオーラを放っており、メタリックシルバーの車から颯爽と降り立つ姿は否応なく衆目を集めた。
付き合っていた頃はもちろん、結婚してからもそんな彼女に気後れを感じずにはいられなかったのだが、離婚して他人になったからだろうか、喬允は全く怯むことなく自然体で対峙することができた。
軽く手を挙げ、「久しぶりだな。元気そうじゃないか」と声を掛ける。すると由紀恵は何故か驚きの色を顔に浮かべ、探るような目付きでじっと見返してきた。まるで、これは本当に自分が知っている三島喬允なのか、と言わんばかりに。
しかし、そんな停滞もわずかのことだった。由紀恵は皮肉めいた笑みを返し、
「ええ、お陰さまで」
何気ない返答も、迫力ある美人の紅い唇からこぼれるとどこか尖って聞こえてしまう。きっと、そのせいで損をすることも多々あるのだろうなと思い、こんな風に思い遣れる自分に喬允はかすかな驚きを覚えた。これまでは、その険しい響きにただびくつくだけだったのに。
「悪かったわね、こんなこと頼んで。助かったわ」
ちっとも“悪かった”と思っていないことが明白な口調は、いっそ清々しいほどだった。喬允はフッと目を細め、
「構わないさ。俺も久しぶりに宙美と過ごせて楽しかった。ただ、次からは直前ではなくもう少し前に連絡をしてくれ」
そして荷物を由紀恵に渡し、両手で宙美の手を包み込むように握った。
「じゃあな。またいつでもおいで。今度はパパが美味しいオムライスを作ってあげるから」
「うん……」
両目にいっぱい涙を溜めながらも、パパと一緒にいたいと駄々を捏ねることなく頷く宙美が健気で、いじらしくて、喬允の胸は音をたてて軋んだ。
が、いつまでもずるずると別れを惜しんでいるのは逆効果だ。手を離して宙美の頭をふわふわ撫でると、由紀恵に向き直り、
「また何かあったら連絡してくれ。俺の方から連絡を取るようなことはしないから」
「相変わらず物分かりがいいというか、お優しいのね」
馬鹿にしたその物言いこそ“相変わらず”なのだが、以前のように喬允の神経に障ることはなかった。
その優しさや大人の分別は美点なのだから恥じることはない、そう言ってくれる恋人がいる。だから他人に何を言われようが構わなかった。
「ああ、よく言われるよ。それじゃ、またな」
別れの挨拶が素っ気なくなったのは、奏のことを思っていたら早く会いたくてたまらなくなったからだ。そのまま由紀恵に背を向け、来た時の倍以上のスピードで去ってゆく。
そんな元夫の背中を険しい目付きで見送った由紀恵は、何気なさを装って娘に訊ねた。
「ねえ、宙美。パパの家に、パパ以外の人はいた？」
すると宙美はこっくりと頷いて、
「うん、かなでちゃんがいたよ。パパのおともだちで、とってもかっこいいおにいちゃんなの」
宙美の答えは半分予想通り、半分予想外だった。
「おにいちゃん？ 女の人じゃないの？」
「ちがうもん。かなでちゃんはおんなのひとじゃないよ。でも、そらみがしってるひとのなかで、いちばんきれいでかっこいいよ。でね、パパととってもなかよしなの」
「ふぅん」
男性と聞いて急に興味が失せた由紀恵だったが、宙美は『かなでちゃん』のことを話せるのが嬉しいのか、声を弾ませて続けた。
「ねるときもね、ぎゅっとおててつないでたんだよ」
意外すぎる言葉に、由紀恵はぎょっと目を剥いて、
「えっ？ 手を繋いで寝てたの？」
「うん、そうだよ。なかよしですね〜ってかなでちゃんにゆったら、おかおまっかにしてたよ」
「ふぅん…………そうなの」
さっきと同じ相槌だったが、重量は全く違った。由紀恵は目を細めて視線を尖らせ、喬允の消失点を見つめ続けた。
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