性生活
コツコツと、一定のリズムで刻まれる足音が少しずつ近づいてくる。それだけでもう、奏の身体はかあっと火照ってしまう。もしかしたら、隣室の住人かもしれないのに。
いやいや、自分があの人の足音を聞き違えるはずがない。あと少し、もう少しでインターホンが鳴り、『奏、ただいま』と、照れくささを隠そうという意図がバレバレのわざとらしい平坦な声が帰りを告げる。
「奏、ただいま」
想像通りの作為的な低音に耳を傾けながら「お帰りなさい」と返すと、奏は鞄を受け取った。いつもの習慣になってまだ間もないから、鞄を渡す方にも受け取る方にもぎこちなさはあったけれど、このぎこちなさがまた初々しくていいんだよなあと奏は密かに思っていた。いかにも新婚さん、みたいで。
そしてもう一つ、習慣になって間もないことがあった。新婚には欠かせない『行ってらっしゃい』と『お帰りなさい』のキス。
喬允は最初、そんな恥ずかしいことできるかッ、と断固抗議したが、これだけはどうしたって譲れない奏はそれ以上の頑なさで押し通し、無理やり毎日の習慣にしてしまったのだ。
「喬兄、お帰り」
もう一度、今度はほんの少し甘えるように囁くと、奏は喬允の唇にちゅぷっと吸い付いた。すると喬允は不意打ちを喰らったかのように身体を強張らせ、キスの余韻を断ち切るように慌てて背中を向けた。そして「風呂入ってくるっ」と言い残すと、バスルームに逃げ込んだ。
奏はぱちぱちと大きく瞬きして喬允が去ってしまった空間を見つめていたが、やがてとろりと目を細め、この上なく妖艶な笑みを浮かべたのだった。
新居に合わせて買ったダブルベッドは、すでにスプリングが弱り始めていた。奏が身体を沈めると、微かな悲鳴を上げて軋む。
そんなに酷使したっけなあ、やっぱり男二人分だから消耗が早いのかなと独りごちつつ喬允を待っていると、部屋の外からひたひたと足音が聞こえてきた。奏はすかさず目を閉じる。
「奏……もう寝たか？」
「ん……まだぁ……でももう寝る……」
「そ、そうか」
眠りかけの奏に配慮したのか、喬允はそおっと身体を潜り込ませてきた。それでも、奏の時の数倍の反動がベッドを波打たせる。この瞬間が、奏はたまらなく好きだった。
密な空間、生活、喬允の重み―――色々なものを共有しているのだと実感できる、凝縮された幸せな時間。このまま悦びに浸りながら眠りに落ちてゆくのがいつものパターンだったが、今夜は違う。奏の意識は痛いほど鮮明だった。何故なら―――
「かなで……」
ああ、なんて声だろう。かすかに毛羽立った天鵞絨（びろうど）を想わせる淫靡な光沢。その声は奏の下半身をダイレクトに刺激したが、それでも眠そうな演技を続ける。
「ん……なに……」
「い、いや、その……」
スプリングがギシッと鳴いた。耳元に、熱く湿った吐息を感じる。奏は背中を向けたまま、喉の奥から無言の誘いをかける。さあ、早く。夜は待っててくれないよ。
「こ、今夜は……あの……」
ああもう、焦れったいな。あんたのことなんてこっちは全部お見通しなんだ。「お帰り」のキスをした後の反応だけで、今夜求めてくるだろうとすぐに分かった。
そして艶っぽくかすれた声、いつもよりわずかに早い呼吸。周到に飼い馴らされた欲望が、ゆっくりと鎖を解いてゆくのが肌で感じられる。しかし、
「いや……何でもないよ。おやすみ……」
やっぱり、まだ駄目か。奏は溜め息に埋もれつつ、すでに固定化しつつある自分たちの性生活に素早く思いを馳せた。
仕事が忙しく接待も多い喬允は、平日は疲れ切って帰宅することが多い。そんな彼に催促することはさすがにできず、身体を繋げるのは週末だけという流れが自然とできていた。
奏にとっては不本意な、かなり不本意な習慣で、本当は毎日でも抱いてもらいたいというのが熱烈な本音だったのだが、厄介なことに喬允はどうやら、奏もこのくらいがちょうどいいと思っているのだろうと勝手に決め付け、この週一ペースを自分の中でルール化してしまったようなのだ。
おいおいおい、ちょっと待て。誰がそんなこと言った？ 俺は毎日したい、そしてできることなら一日中繋がっていたいんだよっ―――とは言えず、悶々としつつも何とかしてこの糞ルールを粉砕してやろうと頭を巡らせていたのだ。
襲い受けよろしく無理やり上に乗っかるというのも、それはそれで萌えなシチュエーションなのだが、黙っていても意図を汲んで気持ちよくしてもらえるという“楽”を覚えてしまうと、努力をしなくなってしまう。男という生き物のそういった狡さ、性（さが）を奏は嫌というほど知っていた。
それに、喬允だって男盛りのオスだ。必ずしも週一で我慢できるわけではない。仕事で疲れていようが、朝早かろうが、身体はお構いなしにサカる。そういうものだ。
問題は、その生臭い欲望をパートナーに伝えることができるかどうか。遠慮して我慢するようでは、奏曰く『愛が足りない』。
とはいえ、これまでずっと本能を抑え込んで生きてきた喬允に、いきなり宗旨変えを迫るのも酷だろう。ということで、現在は少しずつ外堀を埋めている状態だった。
「ん、おやすみぃ……」
奏はいかにも眠りの入口といったふわふわした口調で挨拶を返すと、自然な動きで寝返りをうった。するとその拍子に、奏の尻が喬允の股間をかすめた。
“偶然の接触”が喬允に与えた刺激は絶大だったようで、背後からこもった呻きが聞こえた。奏は内心ほくそ笑みながらも、不自然でない程度に身体を動かして尻の柔らかな曲面を押し付けた。もちろん、夢とうつつの境を装いつつ。
「か…なでっ……」
切羽詰まった声と荒く湿った呼吸が耳朶をくすぐる。今喬允はきっと、端整な眉を歪めて、皮膚をじりじりと内側から灼く欲望の熱に耐えていることだろう。
その顔が見られないのは残念だったが、尻に触れている分身の卑猥な鼓動を感じることができたから満足だった。
「奏……奏……」
「ん……どした……？」
そろそろ潮時かなと思い、奏はゆるゆると目を開けて喬允に向き直った。眉間に悲愴な皺を刻んだ喬允は、そのまま顔を近づけて、
「奏、抱きたい……」
奏はちょっと驚いたふりを見せ、そして眉をたわめた。それを拒絶の表情と見たのか、喬允は哀しげに声を低め、
「嫌……か？」
「ん……ていうより、明日仕事だろ？」
「ああ。でも朝はそれほど早くないから……」
喬允は弁解口調で答えると、ふと目を逸らし、
「駄目か？」
「駄目、って言ったらやめる？」
「う…………いや、やめない。やめられ…ない」
奏は心の中で『よくできました』と返して、唇をとろりと綻ばせた。そして皙くしなやかな腕を喬允の首に巻き付け、舌足らずな口調で「抱いて…」と囁く。次の瞬間、囁きの余韻ごと唇を吸われ、あっという間に舌を巻き取られた。
呼吸すら許されぬほどの口づけに、奏の頭に残っていた小賢しい思考の断片は散った。もう、何も考えなくていい。ただ、皮膚の下を巡る甘い電流に全てを委ねればいいのだ。
「あっ………ん、」
唇と唇の抱擁は解かれたが、まだ舌は絡み合っていた。唾液がこぼれるのも構わず舌先をじゃれ合わせていると、股間に甘痒い刺激がともった。喬允の熱い手のひらでじかに握り込まれた性器が、水揚げされたばかりの魚のようにピクピク動く。
「やぁっ…………いきなり………」
奏の抗議にも構わず、喬允はさらなる刺激を与える。尖端のつるりとした面を親指の腹で撫で、小さな裂け目に指先をねじ込んだ。
「ああッ」
嬌声とともにのけぞって、荒い息をつく奏を、喬允は愛執にたわんだ双眸で見つめ、
「なんだ、キスだけでこんなに勃ったのか？」
「ん……呆れた？」
ほんとはキスをする前からこの状態だったのだが。もちろんそれは隠して、上目使いで問う奏に、喬允は優しく目を細めて口づけを落とす。そして素早く布団を払い落とし下穿きを脱がせると、奏の膝を抱え上げて露わになった局部にローションを垂らした。
「んッ……」
濃密な液体がとろとろと陰嚢を伝い、まだ奥床しい窄まりを見せる菊花を潤す。冷たい触手に嫌らしく撫でられているような淫靡な錯覚に、奏は思わず声を上げた。
「冷たかったか？ ごめんな」
理性より本能が勝っているはずの状況にもかかわらず、こうした思い遣りを忘れない。そんな喬允が愛しくもあり、もどかしくもある。奏は自分を今にも犯さんとしている優しい陵辱者に、引き寄せられるように手を伸ばした。
「平気だから……早く、早く挿れて……」
濡れた紅珊瑚の唇からこぼれる淫らな本音に、喬允の胸は激しく掻き乱される。ごくりと雄々しい音を立てて唾液を嚥下すると、潤滑油の雨を浴びて蠱惑的な光沢を帯びた菊花にぬるりと指を這わせた。
細かな襞の波を楽しむように撫でつつ、人差し指と中指をまとめてつぷりと埋め込む。そしてぐにゅぐにゅと屈伸させながら根元まで押し込み、柔肉に包まれた指全体を揺り動かして奥までたっぷり捏ねた。
「はっ……あ、あっ……ん………」
奏は片手でシーツを掴み、片手で喬允の髪を撫でながら、身体の奥にある秘められた扉がゆっくり開けられる官能的な感覚に酔った。
もちろん、鍵は喬允の指。太く骨ばった関節に敏感な粘膜がこすられるたびに、じわり、じわりと身体の芯が融けてゆくのが分かる。
「奏……凄いな。奥までとろとろだ……」
喬允は感じ入ったような熱い呟きを漏らして、さらに指を一本増やした。と思ったら、ベッドサイドのテーブルランプを素早く掴んで手元に引き寄せる。
必然、指三本を呑み込んで嫌らしくめくれ返った奏の菊唇が、シェード越しの白熱灯に照らされて爛熟の美を咲かせた。局部を照らされるというこの痴態には、さすがの奏も戸惑いを隠せない。
「なっ……何してんだよ、喬兄っ………」
しかし喬允は平然と、
「お前の嫌らしいところをよく見たいだけだ」
ああ、いつの間にこんな殺し文句が吐けるようになったのか。奏はたまらず両手で顔を覆い、「喬兄の変態」と本心とは逆の憎まれ口を叩いた。喬允は愉しげにくくっと笑っただけで、じゅぶじゅぶと指を出し入れする。
「い、いやだ……ああ………」
赤く充血した肉の膜が、淫らがましく喬允の指にまとわり付いている光景が目に浮かぶ。自分の最も破廉恥で飢えた部分を喬允の視界に晒しているのだと思うと、背徳的な悦びと羞恥が同時に沸き上がって内側から灼かれる。
「早く……早くっ………」
内なる焔に全身が包まれたその瞬間、それをも凌ぐ熱気を湛えた肉棒に身体を貫かれた。
「ああッ、あっ、あ、いい、いいッ」
まさに“打ち込む”といった表現が相応しい、激しくも重い抽挿。ほぼ垂直の角度で喬允が突き刺すと、痛いほどの快電流が奏の全身を伝播して爪先まで快感に浸される。あっという間に快楽の飽和状態となった奏は、涙を振りまいて極まったような悲鳴を何度も上げた。
そのまま絶頂へのスロープを駆け上り、奏はしなやかな脚で空を蹴りつつ白濁の雨を降らせた。
「はっ、あっ、あ…ん………」
気が付けば、喬允の動きも止まっていた。いや、完全な不動ではない。引き締まった腹筋は波打ち、腰は小刻みに上下運動している。そして何より、奏の中にずっぷり収まった太竿が、ビクビク蠕動しつつ熱い精をまき散らしている。
「ああ……すごい、すご…い……」
眉間を寄せて、一心不乱に射精する喬允の雄々しい肉体を、奏はうっとりと眺める。奏の中に注ぎ込む時の、快楽に嬲られたような喬允の表情はひどく魅力的で、煽情的だった。
「かな…で……」
長い放出を終えた喬允は、火照った余韻の感じられる甘い声で奏の名を囁くと、深い息をついて肩を落とした。奏は抱擁をねだるように腕を伸ばし、
「気持ちよかった……すごく」
「ああ」
喬允はほんの少し照れくさそうに頷き、奏の求めに応えて繋がったまま抱き締めた。そして唇をゆったりと重ねる。
喬允の温もりを全身で感じながら、今夜、確実に二人の性生活はステップアップしたなと、奏は一人悦に入っていた。これで週1回にこだわらず、身体が求めるまま抱き合うことの素晴らしさ、気持ちよさを分かってくれたはず。
まだまだ夜は長い。これからもう1回して、一緒に風呂に入ってそこでもう1回、いや2回かな、と勝手に心弾ませる奏だったが―――
「ああ、ごめんな、その、入れっぱなしで。今すぐ身体拭いてやるからな」
喬允はそう言って、身体を起こそうとする。奏は思わず「ちょっと待てっ」と声を上げ、
「まさか、もう終わり？」
「もう、って、お前、そりゃあ……」
困惑する喬允をぐいと引き戻し、奏は思いっきり括約筋を締めた。効果は覿面で、喬允は低く呻いて悩ましげに顔を歪める。奏はそのままゆっくり腰を揺らし、
「喬兄の、まだこんなに硬いよ」
「こ、こらっ、やめろっ……」
「やめる？ 本当にやめる？」
「う…………くそッ」
悪態をついて奏の足を再び抱え、ガツガツと腰を揺らす喬允。その激しさに翻弄されながらも、『まだまだ教育不足だな』と奏は自分に言い聞かせたのだった。
（Fin）
NOVEL INDEX TOP 孤独なライオンINDEX