Salty Christmas
引き戸を開けて中に入り、玄関に続く敷石をとんとん、と踏んで進む。そして「ごめんください」と声を掛けて待っていると、意外な人物が顔を出した。
「おう、入れよ」
この家の住人だから別に意外ではないのだが、訪問する雪人を迎えに出るのはいつも絢だった。だから、中から幹がぬっと現れて驚きを隠せなかった。
「幹さん？ どうしたのですか？」
「あ？ 何がだよ」
「だって、いつもは……」
僕が訪ねても、顔を出してくれないこともあるじゃないですか。そう言おうとしたが呑み込んだ。きっとひがみっぽい口調になってしまうと分かっていたから。
「なんだ、俺が出てきたらおかしいか」
雪人の驚きが伝わってしまったのだろう。幹はムッとした顔つきになった。対して雪人はぷるぷると首を振り、正直に答えた。
「いえ、嬉しいです」
すると幹の瞳孔がわずかに縮まり、ややあってふいと顔を背けてしまった。
「幹さん？」
横顔の端整な輪郭は見慣れて久しいが、頬がかすかに赤らんでいるような気がする。どうしたのですか、と訊こうとしたが、先に背中を向けられてしまった。
「早く上がれよ」
「あ、はい」
いそいそと靴を脱ぎ、幹に続く。何度も訪れているが、まだこの家は緊張してしまう。それは恐らく、この家自体がまとう峻厳たる精神性がゆえだろう。芸術性、と言い換えてもいいかもしれぬ。
空気の粒子が、確固たる意志のもとに統率されており、隅々まで行き渡っているような気がする。それが心身に沁み込んで、自ずと背筋が伸びるのだ。
雪人はそんな緊張を保ったまま、磨き抜かれた廊下を足音を立てずに歩いた。すると、前方から緊張感のかけらもない声が。
「あっ、沓沢さん、いらっしゃ～い。ちょっと手が離せなくて、お迎えに出れなくてすみません～～」
「あ、いえ。そんな……。ところで絢さん、それは？」
「クリスマスツリーですぅ」
それは見れば分かるのだが、この重厚な日本家屋にきらきらしいクリスマス飾りのミスマッチは、なかなかの破壊力だった。思わず幹の顔をちらと窺う。すると幹は肩をすくめ、
「毎年のことだ。これだけは絶対に譲れないらしい」
そう言って庭へ向かって顎をしゃくる。
「ほら、狩野師範の離れの部屋もあのザマだ」
一目瞭然。禁欲的な佇まいを見せているはずの離れの窓には、サンタ人形がしがみついていた。さらに窓枠や軒下には電飾が散りばめられ、黄昏の幽玄美が何ともファンシーな世界に。
「……狩野師範はあの部屋に？」
「ああ。初め見た時は硬直してたけどな」
それでも撤去せず、クリスマスが過ぎるまで我慢するところに彼の絢に対する愛情が感じられて、雪人はしらずしらず頬を緩めていた。
「ほんとに仲がいいんですね」
「まあ、年を食えば大概のことには寛容になれるんだろ」
「またそんなことを。狩野師範はまだ三十半ばでしょう？」
「三十半ばのおっさんだ」
「ああ言えばこう言うんだから……」
しょうのないひと、と口の中で呟けば、その思いもかけぬ甘さに舌が驚く。雪人は頬が火照るのを意識しつつ、完成間近のクリスマスツリーを見上げた。日本家屋には合わないが、さすがは紫月流家元の孫だけあって、抑制された色使いなどにはセンスと美意識が感じられた。
「毎年、こうして飾り付けを？」
「ああ。で、イブは家でパーティー。でもまあ、今年はおっさんと過ごすんだろ」
「恋人と過ごすクリスマス、ですか」
試しに言ってみたら、むすっと黙り込んだが否定はしなかった。どうやら、しぶしぶながらも狩野柊二を兄の恋人として認めつつあるようだ。
「……あんたは？」
「え？」
「去年のクリスマスは誰と何してた？」
不意を衝く問いに、いつもは周到に閉じている記憶の扉が開きそうになる。駄目だ、それを開けてはいけない。雪人は慌てて記憶を閉ざす。そして強張った声で答えた。
「言いたくありません」
二人の間に流れる空気が変わってしまったと気付いたのは答えた直後だが、もうどうすることもできなかった。
「そうかよ」
背筋がひやりとする。怒りが言葉の熱を上昇させる人と凍らせる人の2タイプがいるとするならば、幹は間違いなく後者だ。
「そういやあんた、親父の愛人やってたんだよな。クリスマスも二人で愉しんでたってわけか」
「……違います」
雪人は力なく否定して項垂れた。そう、事実はもっと淫らで汚れていた。それを幹に知られるのは耐えられない。かといって、適当な作り話で誤魔化すのも嫌だった。
出会ってから長い間、嘘をついていた。紫月流を陥れるため、尭の手先となって二人に近づき、信頼を裏切るような真似をしてしまった。決定的な過ちを犯さずに済んだのは、真摯に説得してくれた幹のお陰だ。だからこそ、もう幹に嘘はつきたくなかったのだ。
真実を知られることなく嘘をつかずに済むには、こう答えるしかなかったのは事実。でももっと、何か方法があったのでは。こんな真正面から拒絶するような台詞ではなく、もっと気の利いた言葉が。
しかしたとえあったとしても、自分のコミュニケーション慣れしていない頭では思い付くことができなかっただろうと分かっていた。
「まあ、別にどうでもいいけどな」
突き放したような物言いに、雪人は思わず噛み付きたくなる。本当ですか？ 真実を知っても、僕のことを軽蔑したり嫌悪したり汚物を見るような目で見たりしませんか？ 去年も一昨年も、クリスマスは尭に命じられてパトロン相手の“接待”に励んでいたと知っても、その接待の内容を知っても、今までと変わらず接してくれますか……？
「沓沢さーん、お待たせしました。お茶にしましょう！」
ツリーとの格闘を終えた絢が笑顔で駆け寄ってきた。その明るさ、無邪気さに救われる一方、眩しすぎて目を背けてしまうのも事実。雪人は視線をずらしたまま精いっぱいの作り笑顔を浮かべ、
「すみません、今日はこの後用事がありますので。お借りしていた教本をお返しするだけのつもりで伺いました」
本当は用事などないが、このくらいの“嘘”なら許してもらえるのではないか。雪人は軽く頭を下げると、二人に背を向けた。うまく誤魔化せたと思ったのだが、
「幹！ また沓沢さんにヘンなこと言ったんだろ」
「言ってねえよ。何でだよ」
「だって沓沢さん、泣きそうな顔してたよっ」
二人の会話を遠くに聞きながら、笑いが込み上げてくる。どうしてこの兄弟には通用しないのだろう。これまで、どんなに傷ついても哀しくても、乾いた笑みのコーティングであらゆる人を騙すことができたのに。
笑いの衝動を呑み込むと、心の奥がギシッと軋んだ。
気にするなと自分に言い聞かせれば聞かせるほど、“それ”の存在感が膨らんでゆく。放っておけばそのうち沈静化するだろうと高をくくっていたのだが、考えが甘かった。
決定的だったのは、狩野柊二にそれを見抜かれてしまったことだ。何を抱え込んでいるのかは知らないが、目を背けるのではなく真っ直ぐ対峙することが解決への近道だと言われ、幹は観念したのだ。
そして幹は今、ホテルのロビーである人物を待っていた。ここのホールで今夜、紫月尭、即ち幹の父が生け花パフォーマンスと講演会を行っているのだ。その情報を聞き付けた幹は決心した。直接本人に質してみようと。
ロビーには、尭の手による迎え花が飾られていた。どうやらこのホテルと尭は蜜月関係にあるらしい。高級ホテルや新規オープンのファッションビル。そういった華やいだ場所との関係を築く術に、尭はおそろしいほど長けていた。
とはいえ、それと生け花の才能はまた別物だ。幹の目の前に仰々しく飾られた迎え花は、造形も精神性も狩野柊二の足元にも及ばない。
「自己顕示欲の塊みたいな作品だな」
幹は悪態をつきながら、エレベーターホールに視線を注ぎ続けた。しかし、そんなに気負って監視する必要はなかった。
エレベーターから尭が現れた瞬間、ロビー全体の視線の流れが変わった。まず女性が先導し、それに引きずられるように男性が続く。存在自体の持つ牽引力は、皮肉なことに尭が生み出した作品の比ではなかった。
ここで彼に近づくと、その見えない力に引き寄せられるみたいではないかと幹は舌打ちしたが、仕方ない。そもそもここにいて彼を待っている時点で、矜持は捨てたも同然なのだ。
幹は彼に視線を据えたまま、真っ直ぐ近づいた。その傍には、線の細い美青年が控えている。つまり、この青年が今の秘書兼内弟子兼愛人というわけか。儚げな雰囲気が雪人に似ているのが腹立たしく、自然と目付きが険しくなってしまう。
尭の眼前に立つと、表情の変化に乏しい彼もさすがに驚きを露わにした。しかしすぐに、本心を悟らせない皮肉めいた笑みに変わる。
「これは珍客だな」
「あんたに聞きたいことがある」
挨拶も前置きもなしに幹は言い放った。すると、ただごとではない空気を察知したのかホテルの関係者が駆け寄ってきた。
「どうされましたか」
尭はメディアへの露出も多く、そこそこの有名人だ。怪しい人物の接近からガードしなければと焦ったのだろう。しかし、
「構わんよ。これは私の息子だ」
「えっ？ む、息子さんですか」
それは失礼しましたと何度も頭を下げて戻る。それを見送ると、尭はいきなり口を開いた。
「雪人のことか」
「なっ……」
固まる息子を、尭は面白そうに眺める。癪だったが、図星なのだから仕方ない。
「なんで分かったんだよ」
「隣の彼を睨んでいたからな。雪人に似ているのが、気に食わなかったのだろう？」
「似てねえよ」
かぶせるように即答を返し、幹は早口で問う。
「去年のクリスマス、あいつは何をしてた」
「クリスマス？」
「ああ。あんたと一緒にいたのか」
幹が何を気にしているのか察したのか、尭はしたり顔で頷いた。
「なるほど。いや、違う」
「違う？ なら一体誰と」
畳み掛ける幹を、尭は優雅な所作で制した。そして問いを返す。
「本人には訊いたのか」
「ああ。でも言いたくない、と」
幹の答えに、尭は額を曇らせた。
「それをお前は掘り返そうとしているのか」
「本人が教えてくれないのだから、仕方ないだろ」
尭は溜め息をつき、「聞かない方がいいと思うが」と返す。その声には息子を思い遣る父の本音も感じられたが、幹は反発した。
「それはあんたが決めることじゃない」
「言いたくない理由があるとは思わんのか。それとも、過去を含めた全てを把握していないと気が済まないのか。呆れたお子様だ」
「うるせえよ。どうせ俺はガキだ。でもガキはガキなりに考えて、こんな所まで来たんだよ」
幹の言葉を値踏みするように目を細めて聞いた尭は、「分かった」と言って声を低め、
「クリスマス当日、雪人は───」
事実を知らされた幹は、眼前の男を殴らぬよう右手を抑えるので精いっぱいだった。
花材が配られると、あちこちから「わあっ」と声が上がった。
「クリスマスっぽーい」
「ほんと。生け花でもクリスマスアレンジあるんだね」
周囲の囁きに耳を傾けながら、雪人はテーブル上の花材を見つめた。真っ赤なポインセチアに緑のヒムロヒバ。そして白くて細い枝状のはサラシミツマタだ。赤、白、緑。まさにクリスマスカラー。明日のクリスマスイブに、持ち帰った花材を生けられるようにということだろう。
講師が基本の形についてレクチャーしていると、視界の隅で後方の扉がそっと開いた。そこから現れたのは───
「幹さん……」
雪人は慌てて俯き、視界からその姿を消す。これまでもたまに講師のサポートとして参加することはあったが、よりによって今日来るなんて。
「……と色々説明はしましたが、基本はいつものように自由で。テーマは『クリスマスの思い出』なんてどうかしら」
幸田講師の朗らかな声が教室に響く。生徒たちも普段の稽古より浮かれているようで、花材を吟味する顔も楽しげだ。その中で独り雪人は、機械的に花材を掴んで挿していった。
何も考えたくなかった。早くこの時間が終わって欲しい、それだけ。この紫月流初級コースを始めてから、こんな気持ちで花を生けるのは初めてのことだ。
気付けば、ポインセチアを囲むようにサラシミツマタを配していた。意図したわけではないのに、まるで檻のようだ。クリスマスの思い出、檻の中。はは、ぴったりじゃないか。乾いた笑いが漏れる。すると、いきなり背後から手が伸びてきた。
「えっ…？」
檻のように巡らされた白い枝を引き抜き、中央にまとめて直線的に生ける。その足元に、短くしたポインセチアとヒバがこんもりと生けられた。
「どうだ？」
耳に融けて流れ込む囁きが、あっという間に身体を巡る。雪人は体温がぐんぐん上昇するのを感じながら、率直に答えた。
「とても清々しい美しさがあります。白い光の閃が、天へ向かって昇るような」
「ああ。天へ繋がる光の架け橋だな」
雪人はおそるおそる振り向いた。
「あの、幹さん……」
何か言わなければと唇がわななく。すると幹はフッと柔らかく笑い、
「今年の、クリスマスの思い出だ」
雪人は瞬きも忘れ、幹の手によって生み出された美しい造形に見入った。
今年最後の生け花教室が終わって外に出ると、白い街灯の下に幹の姿があった。
「どう、したのですか？」
「あんたを待ってた。駅まで送る」
そう言ってすたすた歩き出す。その背中を慌てて追いかけると、ぬっと手が伸びてきた。一瞬ためらったが、そっと手を重ねる。握り返す力の強さと伝わる温もりが、心の奥の柔らかい場所をふるわせた。
「あ、あの。さっき幹さんが生けてくれたの、壊すのもったいなかったですね」
会話の糸口を掴もうと、思い付いたことを口にしてみる。
「今度はあんたが生ければいい。形は覚えてるだろ？」
「あ、はい。でもあんな見事には……」
「指導してやるよ。それで、俺の部屋に生けてくれ」
「幹さんの部屋に？」
「ああ、明日。クリスマスに」
気付けば、繋いだ手が汗ばんでいる。本人はさりげなく誘ったつもりなのだろうが、そこから伝わる彼の緊張に雪人は胸の奥が甘く竦むのを感じた。幹の言動にのぼせてしまったり、ときめくことはこれまで何度もあったけれど、こんな風に愛おしさを覚えたのは初めてかもしれない。
彼はいつも真剣だ。人に対しても花に対しても、真正面からぶつかろうとする。そうすることによって自分が傷付くかもしれないと分かっていても、それ以外の生き方ができない不器用な人間。それが紫月幹だった。
「おい、返事は」
苛立たしげに急かされ、雪人は笑顔で頷いた。そして覚悟を決める。やはりこの人に隠し事はできない、したくない。過去を晒して壊れてしまうものがあるのなら、仕方ないとその崩壊を甘んじて受け入れよう。雪人は繋いだ手に力を込めることで助走をつけた。そして口を開く。
「幹さん、この前はごめんなさい。去年のクリスマスですが、僕は───」
その瞬間。言葉が堰き止められる。呼吸も。時間も。
「んッ……！」
きつく塞がれた唇は、温もりと甘さに酔うことしかできぬ。伝えるべき告白の言葉は吸い取られ、代わりに喉の奥が喘ぎにふるえる。侵入してきた幹の舌はひどく雄弁だった。雪人の舌を拘束し、“何も言うな”と命じる。
「ん、ぅッ……ん……」
それはやがて、拘束から愛撫へ。ゆったりと口内を攪拌する舌先が敏感な部分をかすめるたび、雪人は疼きを伴った浮遊感にのけぞった。やがて溶け合うように密着した唇が離れると、隙間からふわりふわりと白い吐息の綿花が溢れた。
「幹さん……」
「去年の話はいい。明日の話をしよう」
毅然とした幹の言葉に、雪人ははっと息を呑んだ。正面から見つめ合う二人の視界で、吐息が混ざり合う。そのままどのくらい夜が流れただろう。雪人は笑顔を浮かべ、頷いた。
「はい。明日の話を、しましょう」
そして再び手を繋ぎ、歩き出す。
「絢がパーティーやるって張り切ってるんだよ」
幹の話に微笑みを返しながら、雪人は喉の奥で呟いた。幹さん、あなたは知っているのですね───
目尻から頬に、つぅっと冷たいものが伝う。それが安堵の涙なのか悲哀の涙なのか、雪人にも分からなかった。
＜Fin.＞
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