─KAREN ENJOU─
『これ、あげる』
新聞紙にくるまれた赤いガーベラと緑のポンポン菊。冷たい北風から身を守るように首を縮め、俯き加減で歩いていた絢（あや）の視界に突如現れた鮮やかな色彩が、全ての始まりだった。
今でも、まぶたの裏にしっかり灼きついている。慎ましいけれど愛らしい花束と、それを差し出した男性の髭もじゃの笑顔。思い出すたびに、絢もつい笑顔になってしまうのだ。
江戸中期から続く由緒ある華道の紫月流宗家に生を受けた紫月（しづき）絢は、現家元である十一代紫月苑山（えんざん）の孫であり、次代家元候補として弟の幹（かん）とともに日々研鑽を積んでいる身だった。
しかし、幼いころ教え込まれた基本の『型』から脱却することができず、どんなに努力しても祖父を満足させる作品を生むことができない。家元は弟が継げばいい、自分には紫月流を背負う度胸も才覚もないんだと卑屈混じりで諦めかけていた時、彼に出会ったのだ。
小さな花屋を営んでいた彼は、売れ残りの花を枯らしてしまうくらいならタダであげた方がいいと、道行く人々に花を配っていた。絢がそれを受け取った瞬間、二人の物語は始まったのだ。
彼は最初、日向柊二（ひむかい・しゅうじ）と名乗った。見上げるほどの長身に精悍な体躯。そして何より特徴的なのが、顔の下半分を覆うもっさりとした無精髭。
花屋としてはあまりにも……なそのビジュアルに絢は最初こそ驚いたが、ぼさぼさの前髪に隠れた目は黒青（こくじょう）の美しい輝きと深い知性を帯び、時折浮かぶ笑顔には温かな人間性がにじんでいて、内気で人見知りが激しい絢もすぐに打ち解けた。
そうしてたびたび彼の店を訪れるようになった絢は、彼の花に対する真摯な姿勢と、ちらちら見え隠れする生け花の才に触れ、次第に惹かれてゆくようになったのだ。
しかし、彼がただの花屋ではないことが判明するのに、時間はかからなかった。彼の本名は狩野（かのう）柊二。かつては紫月流に籍を置いており、二十二歳の若さで師範職の中でも最上級の総師範の座に上りつめた正真正銘の天才華道家だったのだ。
そんな彼を華の道から遠ざけたのは、流派内のお家騒動だった。苑山と、その息子で絢たち兄弟の父親でもある紫月尭（ぎょう）との対立に否応なく巻き込まれた柊二は、最愛の恋人、都筑乙耶（つづき・おとや）を喪い、失意のうちに紫月流を去った。
それから十年。柊二は絢と出会ったことで、もう一度華の道を究める決意を固めた。紫月流に戻り、総師範として、絢と幹の師匠として指導することになったのだ。
もちろん、柊二と絢の関係は師弟関係だけにとどまらない。愛し愛されるという心と身体の結びつきが、二人の関係をより深く艶めいたものにしていた。
紫月に復帰した柊二は苑山の求めに応じ、紫月本家の敷地内に建つ離れに居を移すことになった。そして、次代家元に相応しい技と心を伝授するため、絢と幹に厳しく稽古をつける。
もっとも、柊二が絢に“教える”のはそれだけではない。年上の恋人として、これまで恋愛の経験がないうぶな絢に愛と性の悦びを教えるという秘めやかな義務もあった。
絢はいわば、その内側に甘い蜜と開花の熱を湛えた蕾のようなもの。柊二との出会いによって綻んだ蕾は、さらに柊二の手ほどきで美しい花を咲かせることだろう。
二人はこうして絆を深めながら、さらに甘く濃密な物語を紡いでゆくのだ───
一、憶花の章
「あら、可愛いブーケ。おいくら？」
「あ、えと、一番小さいのが三百円ですっ。で、こちらが六百円」
「安いのね。じゃあ、六百円の二ついただくわ」
「あ、ありがとうございます！」
絢はぴょこんとお辞儀をして、柊二がこしらえたキャンディカラーのブーケを二つ手渡した。受け取った老齢の婦人は少女のように顔を輝かせ、愛おしげに抱えて帰ってゆく。その後ろ姿を見送ってから、絢はくるりと振り向いて店内に飛び込み、
「柊二さん！ 六百円のブーケ全部売れましたっ」
ちょっと得意げに胸を張って報告する。すると忙しく手を動かしていた柊二は笑顔を向けて、
「おお、そうか。花材もだいぶ減ってきたし、閉店前の出血大サービスといくか」
そう言って、百合や薔薇などの高価な花をふんだんに使った豪華なブーケを作り上げる。絢はその手際にうっとりと見とれつつも、この光景を見られるのも今日が最後なんだという感傷に浸った。
柊二の小さな花屋。絢が通った期間は決して長くはないが、そこにはたくさんの思い出が詰まっていた。もしゃもしゃの髭づらでブーケを作る姿を見て、ザ・熊の花屋さんだなあと微笑ましい感慨に耽ったり、店を手伝ったお礼に花をもらったり。
どうせ自分は駄目だと卑屈なことを言って、逃げてはいけないと厳しく諭されたのも、初めて名前を呼んでもらえたのもこの店でだった。
そんな思い出の花屋も、今日で店じまい。理由は言うまでもなく、柊二の紫月流復帰だ。総師範として、そして時には家元代理として、弟子の指導や展示会、講習会など飛び回ることになるだろう。花屋との両立は到底無理だった。
店を完全に畳むことになる今日、店内の花を全て売り切る意気込みで、絢は最後の手伝いに訪れた。店頭にワゴンを出して、柊二が作ったブーケを格安で売る。朝から売れ行きは好調で、この調子なら日が落ちる前に完売御礼となりそうだ。
さすが柊二さんの作ったブーケはよく売れるなあと絢は感心しきりだったが、実際は売り子の客寄せ効果も大きかった。絢は柊二のお手製ミニブーケを髪に挿して、飛びきりの笑顔を振りまいていたのだ。
まさに蜜を求めて群がる虫のごとく客たちは吸い寄せられ、花も色褪せるほどの笑顔に乗せられ次々とブーケを買ってゆく。当然ながら絢にそんな自覚は皆無で、今日は男性のお客さんが多いなあと嬉しい驚きを反芻するだけだったが。
しかし、客寄せ効果を発揮したのは絢だけではなかった。
「……おい、なんで俺まで手伝わされなきゃならないんだッ」
絢の一歳違いの弟、幹が店内に向けて険しい視線を飛ばした。柊二はそれをやんわりかわし、
「俺が頼んだ覚えはない。君が勝手に来たんだろうが。来た以上はぼーっと突っ立ってられても邪魔なだけだから、仕事してもらっているだけだ」
「二人きりにしたら、また絢に悪さするに違いないから仕方なく付いてきたんだ！」
幹は“また”を大袈裟に強調して、柊二に噛みついた。これまで幾度となく繰り返されたやり取りだから絢もだいぶ慣れてきたが、やはり今ひとつ理解できない。幹がなぜこうも柊二に敵対心を露わにするのか。
柊二によれば、幹は“重度のブラコン”で“お兄ちゃんLOVE”で、そしてかなりの心配性なんだそうだ。
言われてみれば、幹がこれまで絢の行動に干渉したり、どこで何してたと口うるさく追及してきたのは、心配の裏返しだったのだろう。柊二にもよく、絢は無防備がすぎるとたしなめられるから、自分にも非があったに違いない。
それは分かるのだが、どうして幹は柊二を目の敵にするのだろうか。祖父、苑山からの信頼も篤い天才華道家で、なおかつ誠実で聡明な紳士なのに。そんな疑問が解消できぬまま、絢はいつも二人の言い争いを傍観しているのだ。
「君の熱いブラコン魂は分かったから、ちゃんと接客をしてくれ」
柊二のからかい混じりの宥めに眉を吊り上げた幹だったが、ワゴンの前に集まる客をさすがに無視はできなかった。「いらっしゃいませ……」と無愛想な接客を始める。
にもかかわらず、群がる女性客はのぼせたような上目遣いで、「おすすめはどれですかぁ？」と甘えたトーンで訊ねる。
「……特にないです。お好きなのをどうぞ」
売る気ゼロの素っ気ない応対に客たちは気を悪くした風もなく、幹をうっとりと見上げている。このままでは埒が明かないと思ったのか、幹はワゴンの中から適当にブーケを取り上げ、「これがおすすめです」と渡す。すると女性は嬉しそうに受け取って代金を支払い、浮かれた足取りで帰っていった。
「はあ……幹はすごいなあ。やっぱりモテモテだあ」
絢の間の抜けた呟きに、柊二はぷっと吹き出した。絢はキッと見上げ、
「笑わないでくださいっ」
「いや、すまん。絢があんまり羨ましそうに言うものだから」
「べ、別に羨ましくなんかないです！ 僕には……柊二さんがいるんだから」
すると柊二はブーケを作る手をいったん止め、汚れていない手の甲で頬を優しく撫でてくれた。それだけで、あっという間に絢の機嫌は直ってしまう。そんな愛すべき単純さに柊二は苦笑を漏らし、
「まあ確かに、彼くらいの美形なら女性が放っておかないだろう」
そう言う柊二自身、磨き抜かれた黒曜石のような剣呑な美しさの持ち主なのだから、絢としては返答に困ってしまう。
紫月に戻るまではずっともしゃもしゃの無精髭を生やしていたことからも分かるように、柊二はもともと外見には無頓着で、自分が他人からどのように見られるか気にしていないようだ。
絢は自分のことが分かっていない、と小言めいたことをよく言われるが、絢から見れば柊二の方こそ自分のことが分かっていないと思う。時に鋭く時に優しい輝きを帯びる黒瞳が、相手をどれほど惑わすか。その存在自体が放つオーラが、どれほど人を惹きつけて止まないか。
「……絢？ どうした」
いきなり黙り込んだ絢を不審に思ったのか、柊二が腰を屈めて絢の顔を覗き込んできた。絢は赤くなってうろたえ、
「なっ、なんでもないです！ えと、何のお話でしたっけ？」
柊二はしょうがないなと言わんばかりに肩をすくめ、
「絢の弟君が女性にもてるという話だ」
「あ、そうでした。幹は外見だけじゃなくて、成績優秀でスポーツ万能だし。卒業式では、卒業生代表として答辞を読むんですよ」
「ほう。それは大したものだ」
「だから先輩にも後輩にも人気がありました。教育実習に来た大学生から、付き合ってほしいって言われたこともあるみたいです」
「なるほど。年上キラーだな。で、実際に恋人はいたのか？」
「何人かお付き合いした人はいるけれど、長続きしなかったみたいです。きっと幹のことだから、恋人よりお稽古とか紫月の行事を優先させてしまうのでしょうね」
絢がいかにも事情通ぶって説明すると、柊二は「ふむ」と納得したようなしてないような微妙な相槌を返して、
「長続きしない理由は、もうひとつあるな」
そう言って、含蓄ある眼差しを絢に向けてきた。しかし絢には何のことか分からない。もうひとつって何ですか、と訊こうとした時、
「おいっ、俺にばっか働かせて、二人でイチャつくな！」
幹が空のワゴンをガラガラ押しながら店内に戻ってきた。絢は思わず「わあ」と声を上げ、
「すごい、幹。ブーケ全部売っちゃったんだね。さすが」
「んあ？ あ、ああ、まあ、な……」
絢からの手放しの賛辞に、幹は怒りのトーンを収めてふいとそっぽを向く。と、その拍子に目に入った時計を確認して、いきなり慌て出した。
「やべっ。卒業式のリハに遅れる」
「ええっ？ 駄目だよ、卒業生代表が遅れちゃあ」
絢のもっともな言葉に、幹は渋い顔つきで応えた。眉間を寄せて突き刺すような視線を柊二に送る。柊二は苦笑混じりに頷いて、
「真っ昼間にこんな街中で襲いかかるような野獣ではないから、安心してリハーサルに行ってきなさい」
「絶対だぞ。絢に嫌らしいことすんなよ、おっさん」
「師匠に対していい度胸だ。稽古ではまず、礼儀作法から仕込んでやる」
「はっ、望むところだ。言っとくが俺の作法は完璧だ。ただし、発動するのは尊敬できる相手に対してだけだけどな」
「目上の者を分け隔てなく敬う精神が礼儀の基本だ」
「ほっ、ほら、幹。早くしないと遅れちゃうよ」
またいつもの言い合いが始まったため、絢は慌てて間に入って取り成した。幹はしぶしぶながらも受け入れ、鞄を担いで店を出る。その背中に、絢はそっと声をかけた。
「あの、幹。手伝ってくれてありがとう。リハーサルがんばってね」
「……おう」
背中越しに届いたぶっきらぼうな返事が、絢には嬉しかった。幹はそのまま振り向かず去っていったが、なぜかその耳は赤く色づいていた。
「……まったく、罪つくりな兄だな」
「え？ 何ですか？ 柊二さん」
「いや、何でもない。さ、ラストスパートだ。全部売り切るぞ」
「はいっ」
元気いっぱい頷く絢の頭を、柊二の大きな手がふわふわと撫でた。
最後のお客を送り出したのは、夕日が西の空を茜色に染める頃。空になった店内をぐるりと見回すと、絢の涙腺は勝手に潤み始め、ずっと胸の奥にしまっていた本音がぽろりとこぼれた。
「やっぱり……淋しいですね」
新たなスタートに向けた第一歩だということは、もちろん分かっている。過去を向いて感傷に浸るのではなく、前へ進むべきだと。だから絢はすぐに否定した。
「なんてこと、言ってる場合じゃないですよね。ごめんなさ───」
「謝らなくていい。俺も同じ気持ちだ」
「えっ？」
意外な柊二の反応に、絢は思わず声を上げた。柊二は苦笑を浮かべ、
「短い間だったが、ここで絢と過ごした時間はかけがえのないものだ。過去に囚われてばかりではいけないが、過ぎ去った時を懐かしみ慈しむことは決して悪いことではないよ」
柊二の優しい言葉が耳に溶けて流れ込み、ゆっくりと体内を潤してゆく。それは心の奥にまで届き、最近覚えたての“あの”快楽とはまた異なる、切なくほの甘い悦びをもたらした。
「はい。僕も、ここで柊二さんと過ごした時間を決して忘れません」
気が付けば、絢の瞳は濡れていた。こうして自然と感情を表に出すことができるようになったのも、柊二と出会ったからだ。それまでは、ぐっと握った拳で口元を押さえ、泣きたい衝動をこらえるのが習い性になっていたのだから。
「絢……」
喉の奥にからんだような毛羽立った声には、成熟した男性の色香が漂っていた。そんな声で名前を呼ばれ、絢の胸は大きく跳ね上がる。のぼせそう、と声に出さず呟けば、それを柊二は察知したのかふっと目を細め、
「絢、顔が真っ赤だぞ」
「ゆ、夕陽のせいですっ」
「はは、そうか」
柊二はさらりと返し、ゆっくりと顔を近づけてきた。夕陽は柊二にも降り注ぎ、茜色の光暈をまとわせた。普段の柊二がまとう研ぎ澄まされた凪とは対照的な、緋色に燃え上がる魔性に搦め捕られた絢は、魅入られたように硬直する。
半開きのまま固まった唇に柊二の柔らかな吐息がかかり、それを先触れにした情熱的な口づけが今まさに落とされんとした。が、
「……幹との約束を破るわけにはいかんな」
柊二は寸前でぴたりと止めて自分に言い聞かせるように呟くと、折っていた腰を伸ばして取り繕うように笑った。
何だかものすごく損をしたような気持ちになった絢は、思わずむくぅと膨れる。その丸い頬を、大きな手のひらがあやすように撫でる。
「さあ、最後の仕事だ。次にここで店を開く人のために、綺麗に掃除するぞ」
「……はぁい」
ちょっぴりふてくされた返事をしつつ、絢はモップを手にしたのだった。
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