巡桜記
第三話
「おい、見ろよ、サク。あの女占い師。どえらい美女だぜ。ただ、無駄にデカいけどな」
“サク”と呼ばれた青年は、件の女占い師にちらと一瞥をくれると、茶をひと口すすった。そして鼻先で嗤い、
「“美女を見たら鬼女と思え”―――ハラ、美しい女には気を付けるがいい」
“ハラ”と呼ばれた青年、片目を黒い眼帯で覆っており、恐らくサクより三つ四つ年若であろうが、彼はひょいと肩を竦めて「美しい花には棘があるってことかい？」と訊ねた。サクは彫像の如き端整な顔を向けて、
「そんな俗言は知らん。俺はただ、齢を重ねた鬼は美しいという事実を述べただけだ」
「へえ、そうなのか」
「ああ。百年二百年と生き長らえた鬼は、凄まじい鬼気を宿した傑鬼となる。その本性たるや醜怪を極め、精の弱き者はその姿を目にしただけで発狂することもあるという。
しかしその分、人の姿をしている時は男も女も眩いばかりの美貌を湛え、近付く者を酔夢の境地に誘うという」
「なるほどねえ……。醜い本性を隠そうと、より美しくならんとするわけか。鬼の防御本能みたいなものなんだろうな」
サクは「恐らくな」と答えると、茶屋の主が運んできた団子に手を伸ばした。ハラも続いて団子を頬張り、
「じゃあ、あの女占い師も鬼なのかな。妹もいるけど」
「決め付けるのは早計だが、わざわざ鬼患いの都を女二人で訪れるとは、確かに裏がありそうだな」
サクは慎重な答えを返すと、占い師のすぐ傍らに神妙な表情で座っている少女を一心に見つめた。ハラは二個目の団子を呑み込んで、
「でもまあ、仮に奴らが鬼でも俺らには関係ねえよな。何てったって俺らの獲物は仙石谷の鬼、阿修羅ただ一人なんだから。坊主なんかより絶対先に見つけてやるんだ」
無邪気とすら言える口調に、サクは思わず苦い笑いを漏らす。
「ずい分と自信があるようだな。しかしハラ、彼奴は鬼齢二百を超える大物中の大物だ。油断してかかると痛い目に遭うぞ」
「な、なんだよサク。脅かすんじゃねえよ……」
「脅かしてはいない。事実だ。これまで阿修羅を調伏せんとして返り討ちに遭った高僧は数え切れぬ。
どうやら大阿闍梨賢有が調伏に乗り出したようだが、封印などという生温い方法が通じるとは思えん。人の姿をしている時ならともかく、ひとたび鬼性を現せば、如何に法力の強い大阿闍梨でも太刀打ちできんだろう」
ハラはこくんと喉を鳴らして黙り込んだが、すぐに顔を上げてにやりと笑い、
「だから、俺たちが狩らねばならねえんだよな？ 相棒」
「その通りだ。如何なる鬼でも、鬼である限り我々＜鬼狩人＞が斬る」
揺るぎない言葉を返したサクは再び視線を戻し、占い師の隣にいる少女を凝っと見つめた。
―――はあああ〜〜、つまんね。じっと座ってるだけじゃ退屈だよぉ
阿修羅が似非占いをしつつの情報収集に勤しんでいるその隣で、桜蘭は一人暇を持て余していた。
ぶらぶら街中を見て回りたかったし、できれば以前住んでいた屋敷跡も訪れてみたかった。でも阿修羅が許してくれるとは思えなかったし、女として上手く振る舞える自信もなかったから、ここで大人しく座っているしかなかったのだ。
ちらと隣の阿修羅を見ると、相変わらず適当なことを言っては婉然と微笑み、男の目尻を下げさせている。指先を口許に添えて笑うその姿の、何と麗しいこと。
―――うぇっ、気持ち悪ぃ
桜蘭は胸の奥で悪態をついたが、それが本音ではないことをちゃんと自覚していた。実際には、阿修羅の美貌に圧倒されていたのだ。
いくら白粉をはたき紅を差したからといって、それだけで美女に化けられるものではない。桜蘭は改めて阿修羅の美しさを見せ付けられて、自分の幼さ、色気のかけらもない野暮ったさを噛み締めた。
阿修羅を取り囲む男たちは、きっとこう思っているに違いない。あの二人が姉妹だなんて信じられない。ちっとも似てないじゃないか。姉は洗練された美女なのに、妹の方はまるで阿亀（おかめ）。何とも哀れなことだな―――
桜蘭はいたたまれなくなって、思わず立ち上がろうとした。その時、自分に真っ直ぐ据えられた瞳の存在に気付いた。浮かせた腰を戻し、臆することなくその瞳を見返す。
その時、何故だか分からないが頭の端がずきんと疼いた。桜蘭は直感的に思った。俺はこいつのことを知っている、と。
その瞳の持ち主は、旅装の青年だった。知性と胆力の双方を感じさせる眼差しが印象的な美丈夫。腕を組んで、茶屋の粗末な椅子にどっしり腰を下ろしている。
年の割りには浮ついた感じは微塵もなく、結晶の如く澄んだ面てには、修羅の道を歩んだ者に特有の静かな諦念が刻まれている。
隣にいる黒い眼帯の青年は連れのようだが、彼が声を掛けても見向きもせず一心に桜蘭を見つめてくる。しかし、眼帯の男に肩を叩かれてようやく頷き、すっと立ち上がった。
「あっ、待って―――」
桜蘭はつられて腰を浮かせ、声を掛けて追い駆けようとした。
何故ここまで彼のことが気になるのか分からない。声を掛けられた青年も一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに背中を向けて去っていった。
「桜子、どうしたの？」
阿修羅の問い掛けで我に返った桜蘭は、「何でもありません、姉様」とできるだけしおらしく答えた。
阿修羅の声は女性らしく柔らかなものだったが、そこに微かな棘が含まれていることに気付けぬ桜蘭ではなかったから、腰を下ろして膝の上に手を揃え、“ちゃんと大人しくしています”の意思表示をした。
―――なんで……あんなに気になるんだろう………
旅装だったから、桜海国の者ではないのだろう。異国に知り合いなどいないし、これまでの道中で知り合った中にも彼のような青年はいなかった。
桜蘭は溜め息をついて、「また会えるかな……」と小さく呟いた。その時、阿修羅の指が神経質そうにぴく、と動いたことにもちろん気付くはずもなく。
それから数人の客を見た阿修羅は、そろそろ頃合だろうと見計らって店じまいを始めた。
粗末な台を畳み、掛布の埃を払う阿修羅を傍で眺めていた桜蘭だったが、後ろから「お嬢ちゃん」と声を掛けられて慌てて振り向いた。そこには、若く優しそうな青年が。
着ているものから判断すると、かなりの蔵持と見えた。容姿もそう悪くない。彼はにっこり笑って、
「お嬢ちゃんは本当に可愛いね。まるで桜の化身のようだ。これ、お兄さんから嬢ちゃんへの贈り物だ。気に入ってもらえたら嬉しいな」
「へっ？ あの、俺……じゃなかったわ、私に……？」
「もちろん。霞み桜の小袖だよ。それから、これは桜海で最も腕のいい菓子職人が拵えた落雁だ。もし良かったら、あすこで花見でもしながら一緒に―――」
誘いの言葉が最後まで囁かれることはなかった。額に鉛色の翳を落とした阿修羅が、彼の肩を力任せに掴んだからだ。
「いッ、いででででッ」
「ああら、ごめんなさい。そんなに力を入れたつもりはないのだけれど。ほほほ」
男は掴まれた肩をさすりながら、こわごわ阿修羅を見上げた。阿修羅は額に翳を落としたまま般若の如く笑い、
「妹は人見知りが激しいので、お誘いには応じられませんわ。それに、贈り物も受け取れません。妾たちは貢がれて科を作るような卑しい女ではございませんので。では、ごきげんよう」
暗黒の迫力に圧倒された男は何度も頷いて、足をもつれさせつつ一目散に逃げ去った。
その背中を冷たい眼差しで見送った阿修羅は、桜蘭の腕を引いていつもの声で「帰るぞ」と言い置いた。
仙石谷へ戻る道すがら、阿修羅はむっつり黙り込んだまま桜蘭の腕を引いていた。さすがに疲れたのかなと思い遣り、桜蘭も黙って後に続いた。
しかし塒に戻ると安心して気が緩んだのか、床の上に身体を投げ出してうーんと伸びをして、
「あーあ。あの落雁食いたかったなあ。すげえ立派な桐箱に入ってたぞ。きっと舌が蕩けるほど旨いんだろうなあ。何で断ったんだよぉ」
「………お前、私が断らなかったら受け取るつもりだったのか？」
「あったりまえじゃん。そりゃ栗まんじゅうも好きだけどさ、落雁ってなんか上品な感じがするだろ？ こう、口の中でとろけるような……」
落雁への強い想いがゆえか、阿修羅の声が地を這うが如き重い陰翳を帯び始めたことに、一向に気付かぬ桜蘭。相変わらず無邪気な口調で、
「あ、もしかして阿修羅って落雁嫌いなのか？ 一度食べてみろよ。すっげえ旨いから」
「遠慮する。男相手に色目を使って得たものなど食いたくはない」
「は？ なに言ってんだよ、あしゅ」
桜蘭はぴょんと跳ね起きて床の上に座り、きょとんと目を見開いて阿修羅を見つめた。阿修羅はすでに化粧を落とし、いつものど派手な着流し姿でこちらを見下ろしている。
桜蘭は眩しそうに瞬きをして、ああ、やっぱりこっちのあしゅの方がカッコ良くていいなと漠然と思い、そしてそんな自分に思わず頬を赤らめた。
しかし当の阿修羅は何を勘違いしたのか、目を細めて視線を険しく尖らせ、
「男に科を作って貢がせ、それを喜んで受け取る。お前がそんな奴だったとはな」
桜蘭は初め阿修羅の言葉が理解できず、大きく瞬きするばかりだった。やがて顔を真っ赤にして、
「俺がいつ、男に科を作ったんだよッ」
「贈り物を受け取るつもりだったのだろう？ もちろん男とてただで与えるつもりはなかろう。それ相応の見返りを欲しているはずだ。たとえば、お前の操とかな」
「み、操って！ んなわけねえだろっ」
阿修羅は冷笑を投げ付けて、
「それに、遠くからお前のことを熱心に見つめている男もいたな。なかなかの美形だった。気付いていたのだろう？」
「あ……うん。何か気になっちゃってさ。もう一度会えるかなあ、なんて」
阿修羅の冷笑はすでに崩れ、涼やかな目元は吊り上がってぴくぴく震えていた。
「ほう……会ってどうする。逢引きの約束でもするのか」
阿修羅の陰険な責めに、とうとう桜蘭もブチ切れた。床から飛び降りて仁王立ちになり、
「なんだよさっきからッ。わ、わけ分かんねえことばっかくどくど言いやがって！ だいたい、男連中はみんな阿修羅のことばっか見て鼻の下伸ばしてたじゃねえかっ。俺のことなんて誰も―――」
「それはお前の察しが悪いからだ。断言するが、半数はお前のことを執拗に眺め回していたぞ。私に、妹さんの名前や好物を教えてくれと頼んできた恥知らずな男もいた」
「だから！ それはあしゅの気を引くために、まずは俺に取り入ろうって魂胆なんだよっ」
なかなか深い洞察を見せる桜蘭。キッと眦を決して阿修羅を睨んだと思ったら、腰帯に手を掛けて勢いよくほどき始めた。さらに桜色の小袖を乱暴に脱ぎ捨て、
「こんなのっ、俺に似合うはずがねえだろ！ 俺みたいな、がさつで色気のかけらもねえガキにっ。いくら紅を引いたってなあ、おかめはおかめなんだよ！ あしゅだってほんとはそう思ってんだろっ」
「は？ おかめ……か？」
「そうだよっ。あしゅはあんなに綺麗なのに、俺は……俺はどうせおたふくの面だよぉ……」
阿修羅は足音をたてず近付いて、俯いてしまった桜蘭を身体ごと抱き寄せた。
「お多福ではないぞ。寧ろ狸だ」
「なんだよっ、たぬきたぬきって。俺はっ―――」
いきなり抱き上げられ、思わず阿修羅の胸にしがみ付いてしまう。暫くそうして抱き付いていたが、胸の寛さ温かさにようやく落ち着きを取り戻し、桜蘭はゆっくり顔を上げた。
「あしゅ……」
じっと見下ろす阿修羅の眼は、溢れんばかりの愛情でしっとりと輝いていた。
「ああ……この可愛い狸めをどうしてくれよう」
「だから……狸ってゆうなって………」
阿修羅はふっと淡く笑うと、桜蘭をいったん床の上に座らせた。そして香油を染み込ませた柔らかな手ぬぐいで桜蘭の顔を丁寧に拭い、化粧を落としてやる。
白粉や紅が綺麗に拭い去られた下から、桜蘭本来の肌理細やかな珠肌が現れた。阿修羅は顔を寄せ、その肌の上に幾度も幾度も唇を押し当てた。
桜蘭は「んふっ」とこもった笑いを漏らして腰をよじり、「あしゅぅ……くすぐったいよぉ……」と甘えた声を上げる。
「またそんな可愛い声を……まったくお前は………」
阿修羅は苛立ちすら含まれる声で低く言い置いてから、桜蘭の柔らかな身体を抱き締めた。そして耳許に唇を寄せて、
「そんなに綺麗だったか？ 私の女装は」
「うん……綺麗だったよ。すげえどきどきした」
阿修羅は抱き締める腕を緩め、感情を覚らせない無表情で桜蘭を見つめた。次第にその顔は笑みを描いてゆく。しかしそれは、痛ましいばかりの自嘲であった。
「桜蘭よ、よく聞きなさい。私の美しさは邪悪なものなのだ。お前が羨むようなものではない」
「なん…だよ、邪悪って………」
「鬼は齢を重ねるごとに、本性は醜く凶暴になる。そしてそれに呼応するかのように、人としての姿形は見目麗しくなってゆく。恐らく、醜怪な鬼性を隠匿せんと鬼の本能が作用するのだろう。つまり……」
阿修羅は、まるで穢れに触れるかのように自分の顔をぴんと弾いて、
「これは紛い物の美しさなのだ。私の本性は、この皮膚の下に潜む醜い姿をした鬼―――」
「違うッ。違う違う違うッ。これが阿修羅なんだ！ 阿修羅の本性は、綺麗で優しくて穏やかな…………んっく……ひとりの……人間……なんだ……ふぇ、ぇぇっ…………」
今の言葉が、桜蘭の胸をどれだけ傷付けたか分からぬ阿修羅ではなかった。肩を震わせて泣きじゃくる桜蘭をそっと抱き上げて膝の上に乗せ、あやしながら「済まなかった」と詫びる。
桜蘭はぎゅっと目をこすってから潤んだ眼差しを向け、
「それにっ、あしゅはもう二度と鬼になることはないんだから。そうだろう？」
これまで何度も何度も交わした約束。何があっても、絶対に、鬼性を現すことはしないと。如何なる怒り、憎悪に囚われても、それを理性で抑えることで“人”であり続けるのだと。
「ああ、そうだな。お前と約束した。絶対に鬼にはならん」
「うんっ。だからもう、本性がどうだとか関係ないんだ。阿修羅は阿修羅なんだから」
瞳はまだ濡れていたが、桜蘭の顔は晴れやかな笑みで輝いていた。阿修羅は眩しそうに目を細め、
「お前と一緒なら、いつか自分が鬼であることを忘れられるかもしれん」
感慨込めて呟いた。
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