巡桜記
第一話
紅蓮の焔を背に、降りかかる火の粉を払おうともせず彼は立っている。その鬼性を微塵も感じさせぬ菩薩の如き静かな瞳をこちらに向けて、「まだ修行僧か…」と呟いた。
そして彼は、闇を染め上げる焔すら色褪せるほどの妖艶な冷笑を浮かべ、刀を収めて立ち去った。
―――その瞬間、私は＜鬼狂い＞となった。
嗚呼、早う、早う、私の許へ。そして私を戮してくれ。その爪で我が皮膚を裂き、その顎門で我が骨を砕き、この浅ましき血を啜っておくれ―――
「もう少しだぞ、桜蘭。大丈夫か？」
「おうっ、ぜんぜん大丈夫っ」
丸い頬を真っ赤に火照らせて、うんうんうなりつつも疲れた様子を見せず、阿修羅に遅れをとるまいと必死に付いて来る桜蘭。
そんな愛らしくも健気な姿に思わず頬が緩むが、ここで笑っては「笑ってんじゃねえよっ」と噛み付かれるのが分かっていたから、敢えて黙って頷くにとどめた。
桜蘭ははあはあ息を吐いて肩を上下させつつも、目を爛々と輝かせて辺りを見回す。
「こら、桜蘭。きょろきょろしていると足下をすくわれるぞ」
「う、うん。なんか懐かしくってさあ……」
桜蘭の言葉は、甘い回顧で彩られていた。阿修羅も「そうだな」と同意して、頭上を仰ぐ。
「そら、見えてきたぞ」
そう言いながら指差す先には、天を衝くかのようににょきにょきと屹立する奇岩が。先端には霞がかかり、その峻厳たる輪郭も茫漠として、巨匠の墨画の如き幽玄の世界が広がっている。
桜蘭は「わあっ」と歓声を上げ、阿修羅を追い越して一目散に駆け上がり出した。
「危ないぞっ。そんなに慌てるんじゃない」
阿修羅は声を掛けつつ慌てて追い駆ける。すると桜蘭は入口の手前でぴたりと立ち止まって、阿修羅の方を振り向いた。そしてふわりと笑い、
「帰ってきたんだな、あしゅ」
そっと手を差し伸べる。阿修羅はその小さな手を取って微笑みを返し、
「ああ、帰ってきた。さあ、桜蘭。一緒に中へ入ろう」
「うんっ」
二人は固く手を握り合い、奇岩に囲まれた嘗ての阿修羅の塒（ねぐら）へ入っていった。桜蘭はほぅっと息をつき、
「帰ってきたんだ………仙石谷へ」
深い感慨を込めて呟いた。
「思ったより荒れていないな。さすがに山の禽獣たちもここまでは来ないようだ。少し手入れをすればすぐに住めるだろう」
そう言いながらも忙しく手を動かし、床を掃き清めたり壁の汚れを落としたりと働いている阿修羅の隣で、何もせずぽぉっと周囲を見回すだけの桜蘭。しかし阿修羅は何も言わず、そっとしておいた。やはり特別な感慨があるのだろう。
初めて阿修羅と出会い、契りを交わし、共に暮らすようになった懐かしの日々。桜蘭が初めて愛される悦びを味わい、父に捨てられた悲しみを知り、そして鬼として蘇った場所。
悦び、悲しみ、苦悩の全てが、この塒には染み付いているのだ。
「あれから二十年経ったなんて、何だか嘘みたいだ。信じられねえや」
無邪気な言葉と共に、阿修羅の傍にぴたっと寄り添う。そして顔を上げて視線を重ね、えへっと笑ってみせた。
阿修羅は掃除の手を止めて桜蘭の身体を抱き寄せ、
「そうだな。本当にあっという間だった。誰かのお陰で退屈する暇がなかった」
そう言って何故か深い溜め息をついた。桜蘭は丸い頬をさらに膨らませて、
「な、なんだよっ。まるで俺が問題ばっか起こしてたみたいじゃねえかっ」
阿修羅はちらと妖艶な流し目をくれて、
「その通りではないか。海が見たいというから連れて行けば、波が荒いからやめておけという制止も聞き入れず全裸で飛び込んで溺死寸前になり、村を荒らす大猪の退治を勝手に引き受けて、これもまた猪に突き飛ばされて大怪我。町の揉め事、喧嘩沙汰には必ず首を突っ込んでは余計にややこしくして、結局は私が制裁に入る羽目に。まったく、命が幾つあっても足りん。お陰で一気に年をとった気分だ」
全て事実だから何も言い返せない桜蘭。むぅっと膨れたまま黙り込むそのちんまりした姿が可愛くて、思わず口許がにやついてしまう。
すると桜蘭はちろっと阿修羅を見上げたが、「あっ」と声を上げて、
「あしゅの髪に白髪見っけ！」
「な、なにッ？」
「ごめんなあ。ホントに年とっちゃったんだなあ。これからは迷惑かけねえように気を付けるよ」
自慢の髪に白髪とは一大事と、阿修羅は慌てて鏡を取り出して確かめようとした。が、その前に桜蘭がケタケタ笑い、
「なぁんてな。うっそだよん」
「こぉぉぉんの〜〜〜、許せんっ」
阿修羅は額に鉛色の翳を落とし、桜蘭の頬を両手でつまんでむにむにひねり出した。
「いでッ、いででで………ごめん、ごめんってばぁ」
「これからは本当に、私の言うことをちゃんと聞くか？」
「うんっ、聞く、聞くよぉ」
「私が目を離した隙に、饅頭を一人で全部平らげることはしないな？」
桜蘭は心の中で“まだ根に持ってたのか…”と呟きつつ、「ちゃんとあしゅの分も残しておくよぉ」と情けない声で答えた。阿修羅は重々しく頷くと、ぱっと手を離した。
桜蘭は赤くなった頬をさすりつつ、怨めしげに見上げて「オニ……」と訴えた。阿修羅は肩を竦めて、
「お前も鬼だろうが」
桜蘭は「あっ、そうだったぁ」と屈託ない声で返して、ケタケタと笑った。その笑顔を眺めつつ、阿修羅は不思議な感慨を反芻する。
こんなにさらりと、胸の痛みを感ずることなく桜蘭に「お前も鬼だ」などと言える日が来るなんて、この仙石谷を出立した頃には想像すらできなかった。
桜蘭を失いたくない、その一心で還魂の秘法を遂行し、一度死した桜蘭を現世に蘇らせた。
愛情と言えば響きは美わしいが、己れの欲望がためにこの穢れなき魂を忌むべき鬼道に引きずり込んでしまったというのが、ことの本質ではなかろうか。
いつだったか、薬屋の主人がぽつりと口にした言葉―――愛は妄執なり―――がことあるごとに浮かび上がって、阿修羅を散々苦しめた。
しかし共に過ごしたこの二十年の中で、桜蘭は一度たりとも阿修羅に対し怨みがましいことを言わなかった。
もちろん喧嘩もした。あしゅのバカっ、大っ嫌いと叫んで暴れ回ったことも少なからずあった。
しかし鬼になんかなりたくなかった、人として死にたかったという言葉が桜蘭の口から出ることはついぞなく、寧ろ、そのことで密かに苦しんでいる阿修羅を思い遣るような素振りを見せた。
あしゅ、ずっと一緒だよ、一緒に生きていくんだよ、そう言って丸い頬で微笑む桜蘭を見るうちに、阿修羅の内に深く爪立てていた後悔の魔物は徐々に薄れ、やがて消えていった。
その後に残ったのは、二十年の間に二人で拵えた、眩しくて色鮮やかな思い出たち。そのひとつひとつが愛おしくて、胸の中で慈しむうちにあらゆる負の感情は消え去った。
人の一生は短い、しかし鬼ならばこの先長らく共に生き、たくさんの思い出を積み重ねることができる。そう考えれば鬼の道行きも悪くないなと思い、阿修羅はそんな考え方ができる自分に心底驚いたのだった。
「鬼になって二十年経つんだなあ」
桜蘭はそう呟いて、晴れやかな笑顔を向けた。阿修羅も微笑みを返し、
「そうだな。これからも共に生きよう、桜蘭」
桜蘭は嬉しそうに頷いて、阿修羅の胸に顔をこすり付けた。
床を整え、灯りをともし、香を焚く。すると殺風景な塒は、あっという間に淫靡な陰翳をまとった閨房へと変じた。
若竹を編んだ褥に自ら横たわり、阿修羅は優雅な手招きで桜蘭を呼んだ。桃色をもっと淡くしたような唐棣色（はねずいろ）の愛らしい寝着を着た桜蘭は、一瞬恥ずかしそうに俯いたが、すぐに顔を上げて真っ直ぐ近付いてきた。
「どうしたのだ？ 頬が紅いぞ」
「う、うるせっ、さっきお前がむにむにしたからだっ」
阿修羅は笑いを噛み殺し、眉根を寄せて不安げな表情を拵え、
「そうか。それは済まなかったな。まだ痛いか？」
「べ、べつに………もう痛くねーよ………」
「それならよかった。さあ、桜蘭……」
誘うように笑いかけ、ゆったりと腕を広げる阿修羅。桜蘭は胸の高鳴りを覚られぬよう深呼吸すると、床に上がってもそもそと身体を滑り込ませた。
「どうした？ さらに頬が紅くなっているようだが」
「そ、そんなことねーよ」
素っ気ない答えを返しつつもみるみるうちに紅潮してゆく頬に、阿修羅は唇を押し付けた。
桜蘭はびくんと肩を揺らしたが顔を背けることはせず、柔らかな唇や温かな息吹が頬を掠めるのをうっとりと味わった。
「桜蘭……覚えているか？ ここで私とお前は初めて契りを交わしたのだ」
「覚えてるよっ。わ、忘れるわけねえだろっ………つうか、その契りって言い方やめろ！ な、なんかヤラシイから………」
「そうか、困ったな……。では、何と言えばいい？ 身体を繋げた、か？ それとももっと分かりやすく、私の一物をお前の―――」
「うわああっ、やめろやめろ！」
叫びつつ身体をころんと反転させ、阿修羅に背を向ける。そして団子虫のように丸まったまま「阿修羅の変態エロ鬼ぃ…」とぶつぶつ呟いた。
阿修羅は堪え切れぬ窃笑を漏らし、その背中を上からぎゅっと抱き締めた。
「初めての時、お前は私の腕の中で震えて泣いていたな。なのに恐いのかと訊ねれば、恐くないと意地を張る。あの頃からお前は変わらず強情で意地っ張りで……」
「うるせえ……本当に恐くなんかなかったんだよっ………」
「それにしては涙を流して、私にしがみ付いてきたな。あしゅ、あしゅ、と私の名を繰り返し呼んで………」
桜蘭の肩を掴んでこちらを向かせたが、真っ赤に染まった顔だけは頑なにそっぽを向いていた。阿修羅は両手で頬を包み込んで、
「あの時から私は、お前に囚われてしまったのだ」
「な、なんだよ、それ……」
ようやく視線を合わせてくれた桜蘭に、魂を蕩かすような美しい笑みを捧げて、
「愛しているよ、桜蘭」
桜蘭は赤い顔のまま頬を膨らませて、
「ずるいぞ。そんな顔でそんなこと言うなんて………反則だ」
「ほう。そんな顔とはどんな顔だ？ ん？」
にやにや笑いながら問い詰める阿修羅に、桜蘭は半ばヤケ気味に叫んだ。
「俺の大好きな、優しくて綺麗な阿修羅の顔だよッ」
すると間髪入れず、息もできぬほどの激しい抱擁を与えられた。阿修羅の逞しい腕の中で、桜蘭はぽつりと本音を呟いた。
「ほんとは……恐かったんだ。お前に惹き込まれちまいそうで………」
「桜蘭……」
阿修羅は抱擁を解くと、そのままゆったりと唇を重ねた。舌で熱く蕩ける口腔を犯しながら、桜蘭の夜着を肩からするすると滑り落とす。
「んっ………ゃぁ……だぁ…………」
重なった唇の隙間から甘い拒絶をこぼす桜蘭。それは阿修羅を奮い立たせるものでしかなく、繊細な指先を首筋や胸に這わせては、じれったいような愛撫を与えた。
「平絹をも凌ぐ滑らかさ、夭桃をも凌ぐ瑞々しさ……。何度この肌に舌を這わせ歯を立てたか分からぬが、まだまだ足りぬ。もっともっと味わいたい、桜蘭、お前を食べ尽くしたい………」
いったん離した唇を耳許へ寄せ、耳たぶを食みながら、欲望で撓む低音を注ぎ込む。桜蘭は何か言い返そうとしたが、口を開けば甘ったるい喘ぎがこぼれてしまうと思い、ぎゅっと唇を閉じた。
お尻の奥が、熱い楔を求めてくにゅくにゅ蠢いているのが分かる。股間はじんわり濡れ始め、生温かい蜜が滴る感触にぞくりと震えた。
「相変わらず可愛い実だ……」
ぷっくり盛り上がった胸の飾りを指先でつまみ、クリッと捏ねてから先端を舌でなぞる。桜蘭は「んふっ」と喉の奥で悶えて、いやいやと首を振った。
阿修羅は尚も指先で捏ね回しながら、空いた手で着物の裾を割って奥へ忍び込ませた。そしてぴくぴく震えて形を変えつつある半身に指を絡ませ、蜜ごとぬちゅぬちゅ音をたてて上下に扱く。
「んぁっ………ぁ……ヤダ…ぁ………」
桜蘭はいつの間にか自ら大きく広げていた脚を小刻みに揺らして、爪先まで一気に駆け抜けるむず痒い痺れに溺れた。その秘めやかな媚態を目を細めて賞翫し、阿修羅はぽつりと呟いた。
「私も……恐かった。お前を愛してしまうのが………」
二十年前、鬼の宿業と桜蘭へ募る愛情との葛藤に、激しく懊悩したことが思い出される。鬼畜生の分際で、この無垢なる少年を愛していいものか、と。しかし―――
「あしゅ、あしゅ………………」
桜蘭は淡く潤んだ瞳で阿修羅を見つめると、にっこりと微笑った。そして甘い吐息で唇を濡らしつつ、はっきり告げた。
「阿修羅、愛してる」
桜蘭の揺るぎない強さ。真っ直ぐ注がれる愛情が全ての迷いを浄化した。桜蘭が鬼として蘇った瞬間、阿修羅自身もまた新たな生を得たのだ。
忌むべき鬼であることに変わりはないのに、目の前に広がる世界は驚くほどの変貌を見せたのだ。
阿修羅は深く敬虔な感動を噛み締めつつ、たった今告白を捧げてくれた愛しい唇に自分のそれを重ねた。微かな震えを意識しつつ。
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