カインの末裔
─「ユダの弁明」外伝─
４.
濡れた皮膚と皮膚がぶつかり合うぬちゃぬちゃという淫音に、伶の唇からこぼれる蜜状の吐息が混じり合う。それは久遠の鼓膜から侵入してあっという間に全身に回り、血液の流れを促進させた。
腰の動きも自然とエスカレートし、上から垂直に近い角度でゴリゴリと打ち込む姿は、タガの外れた陵辱者そのものだった。
「ゃぅっ、ぅっ、ぅぁ、ぁ、ぁぁん………」
伶は久遠の激しさに振り落とされないよう、シーツを掴んで健気に秘部を捧げていた。安ベッドのスプリングは必要以上に跳ねて、伶の平らな胸を波打たせる。するとその動きに合わせて、微かに膨らんだ乳首も恥じらうようにふるふると揺れた。
それを目敏く見つけた久遠は、親指の腹で下から揉み上げた。柔らかい肉の芯で存在を主張する硬い痼りを押し潰し、クリクリと捏ねる。そうしながら勢いよく腰を落としてズブッと奥を穿つと、伶は背中をしならせて高らかに鳴き、紅く膨れた鈴口から濁った愛液をとろりと溢れさせた。
「師よ………中に出してもいいか……？」
「ああ……。中から……熱くしてくれるんだ…ろ…？」
久遠は何度も頷いて、下腹に溜めていた力を緩めた。と同時に強烈な射精感に襲われ、それに急かされるように腰の動きを加速させる。伶の中に溜まった久遠の先走りが圧し出され、結合部はすでにびしょ濡れだった。
「んぁっ、ぁぁっ、ぁっ、ぃぃッ………イ……クっ……ぁぁぁッ」
伶は生理的な悦びの涙を振りまいて、びゅくびゅくと精を吐き出した。白く滑らかな放物線は伶の胸に降り掛かり、首筋を伝ってシーツに吸い込まれていった。
対して久遠は伶の膝裏をぎりぎりと押さえ付け、腰を小刻みに揺らして次々と己れの種を送り込む。中に出してもいいかと訊ねた慎ましげな態度は何処へ、腹を突き破らんばかりの勢いでたっぷり注ぎ込んだ。
「ぁ……ぁぁ………熱、い…………」
伶は尻の奥に溜まったものを反芻しながら、うっとりと視線を彷徨わせた。宣告通り煮えたぎる精で中から熱した久遠は、深く息を吐いて満足げに伶の顔を見下ろした。そして視線と視線が重なった瞬間、頭の芯がキリキリと冷えてゆく感覚を味わった。
―――この人は……俺を見ていない
涙に濡れてはんなりと撓む睫毛の奥で煌めく黒瞳は、今、ここではなく、時空を超えた彼方に焦点を結んでいた。
「師よ、あなたは―――」
誰を見ているのか？―――続く言葉を無理やり呑み込むと、胸の奥がずぅんと重くなった。質すまでもない。今、その瞳に映っているのは………
「れ……ん………」
わななく唇が久遠の知らぬ名を呼んだ。慈しむように、愛しむように。
「………っ」
ああ、久遠に一体何が言えただろうか、何ができただろうか。
伶の肩を揺すぶって、俺を見ろ、俺はあなたの弟じゃない、俺は“れん”じゃないと言い聞かせれば良かったのか。それともその身体を優しく抱き締めて、もう弟はいない、弟は死んだのだと耳許でそっと囁けば良かったのか。それとも、それとも―――
「さあ……ゆっくり目を閉じるんだ。少し休もう………」
荒れ狂う感情を強固な意志で抑え込んで、久遠は何の含みも陰翳も感じさせない穏やかな言葉を注いだ。
伶はこくんと素直に頷いて目を閉じ、久遠の胸に顔を寄せた。そしてほぅっと安らかな息を吐く。満ち足りた表情。こんな師は初めて見る。
久遠はその髪を撫でながら、この世ならざる場所で今もなお伶の心を掴み続けている者に宣告を叩き付けた。この人は渡さない、お前の待つ場所には絶対に行かせはしない、と。
丸の内のオフィス街にあるカフェは、ランチタイムとあって賑わっていた。広い歩道に張り出したオープンテラスには、細身のスーツを着こなした若いビジネスマンやOLのグループが座ってランチプレートを楽しんでおり、ひと際華やかな雰囲気を演出していた。
しかしそのテラスで最も女性の注目を集めているのは、イタリア製のスーツを着て英字新聞を広げている外資系証券マンではなく、黒いハーフコートにブラックジーンズを着てジョン・ケージの自伝を読んでいる美貌の男だった。
寛いだ様子にもかかわらず、彼の周りを取り囲む空気の粒子は目に見えぬ何かに操作されているかのように、整然と並んで張り詰めている。
何か危険な、非日常的な香りが漂っていたが、しかし、いやだからこそ、周囲の女性たちはその存在を無視することができずちらちらと視線を送った。
もちろん当人は構うことなく黙々と活字を追い、時折コーヒーに口を付ける。そして長めの前髪をさらりと掻き上げると、カフェテラスに淫らな熱を帯びた漣が起こった。周囲の女性たちが思わず漏らした、溜息の漣。
その時、通りから一人の男が近付いてきた。彼は真直ぐカフェを目指し、テラスで読書に耽っている黒衣の男の傍らで立ち止まった。
「堕天使………いや、この時間ならその名で呼ぶべきではありませんね、観崎」
名を呼ばれた堕天使、否、観崎湊はいかにも面倒そうに本から視線を外した。そして傍らに立つ男の、胡散臭いほど整った顔を見上げる。
「何だよ。休みの日まで同僚の顔は見たくねえ」
「失礼しました。随分と熱心に読んでいるのですね。面白いですか？」
「全然」
湊の人を食ったような返答に、男はククッと笑って肩を震わせた。普段の彼を知る者なら、目を剥いて驚くに違いない。彼が“本気で”笑うなんて信じられない、と。
「あなたらしいですね。これだけ沢山の女性の視線を集めておきながら、面白くもない本に平然と没頭できるなんて」
「詰まらねえこと言ってんじゃねえよ」
湊は吐き捨てるようにそう言って、本をパタンと閉じた。そして脚を組み直して周囲を見渡し、
「女の視線を集めてんのはお前の方だろ。なんだ、遠回しの自慢か？」
湊の言葉は半分は正しかった。先刻まで湊に熱い眼差しを送っていた観客の半分は、新たに現れた男に視線を移していたから。
「まさか、とんでもありません。でもお褒めの言葉は有難く頂いておきますよ」
「相変わらず食えない男だな。で、何の用だ。まさか俺と一緒にランチをしに来たわけじゃねえだろ」
湊の言葉に、男はちょっと淋しそうに眉根を寄せた。本当は一緒にランチがしたかったのだ。
しかしすぐにいつもの作り物めいた笑顔を浮かべて肩を竦め、
「昨夜、彼に遭いました」
「彼？」
「はい。あなたの想い人です。噂通り美しい人でした」
湊の顔付きが変わった。それに呼応するように男は笑みを深め、
「もちろん一人ではありませんでした。例のお弟子さんも一緒でしたよ。痛ましいほどの使命感を漲らせて、師を守ろうとしていました。この人のためなら喜んで命を捨てると、全身で叫んでいましたね」
「……で、殺ったのか」
「おや、想い人というのは否定しないのですね」
男の揶揄めいた指摘をうるさそうに払って、湊はただ「質問に答えろ」と畳み掛けた。
「殺しません。当然でしょう？ 殺せばたちまちその存在は神格化され、輝ける偶像となってこのファヴェーラに君臨することになる。私はこれでも敬虔なクリスチャンなので。イエス・キリストはただ一人です」
湊は身体の強張りを僅かに解いて、残りのコーヒーを飲み干した。カチャンと音を立てて乱暴に置かれたカップを、男はじっと見つめた。そして再び湊へ視線を戻し、
「観崎、私の考えはこうです。彼は美しいが、何が正義なのかも解っていない詰まらない男だ。あなたに殺され、聖痕を贈られる資格はない」
湊はもう表情を変えることはなく、無機質な眼差しで男の視線を跳ね返した。そして感情のこもらぬ平坦な声で、
「俺はスイーパーだ。そして奴はスイーパーの敵であり、ファヴェーラの秩序を脅かす危険な存在。暗殺の標的にするのは当然だ」
「……あなたは何故、スイーパーになったのですか？」
余りに唐突な問いに、さすがの湊も眉をひそめずにはいられなかった。
もちろん、この問いに対する表向きの答えは湊の中にきちんと用意されている。それが真実かどうかはともかく。
しかし湊はそれを口にすることなく、黙って目の前の男、殉教者と呼ばれる超一級のスイーパーを見返した。
湊が答える気がないと察した殉教者は、自分の中に既にある答えを披露する。
「あなたは新生の家からS・S・Sに寝返り、実績を積んで瞬く間に一流の暗殺者となった。それは、あの男を自らの手で殺して神にするためではないのですか？」
単刀直入な問いを、湊は嗤笑混じりにはね付けた。
「はッ、何だよそれ。そもそも俺が新生の家を辞めてスイーパーになったのは、あいつが路上で癒しを始める前のことだぜ」
「あなたは信じていた。彼はいつか必ずファヴェーラに現れ、癒しの行いを始めるに違いないと。そして新生の家で働きながらその時を待っていた。しかしあなたは新生の家に見切りを付けて、暗殺者の道を選んだ。この方法では子供たちを救済することはできない、真の救済は輝かしい死にこそあると気付いてしまったから。そして―――」
二人の視線が交錯する。言葉にはできない感情が絡み合う。
「彼を本物の“神”にするには、劇的な死を与えるより他ないと気付いてしまったからです」
殉教者は自分の言葉を吟味するように目を細めた。そして再び口を開いたが、その声は深く昏い陰翳を帯びていた。その陰翳の原因は、嫉妬だった。
「……あなたは彼を愛している。だから、殺す。違いますか？」
「バカバカしい」
「では観崎、私を殺せますか？ 私に聖痕を贈ってくれますか？」
殉教者の問いには、懇願の響きが混じっていた。しかし湊は敢えて無視して淡々と返す。
「殺さない。何故ならお前は仲間だから」
「違う。私を殺さないのは、私を愛していないから。あなたが愛しているのはファヴェーラの子供たちと、あの男、神堂伶だけです」
確信的な口調で言い置く殉教者を冷めた目で見つめて、
「そんな戯言を伝えたかったのか、お前は」
「戯言……だったら良かったのに。でもそうではないことを誰よりもよく理解しているのは、他ならぬあなた自身のはず」
湊は鼻先で嗤うと、カップの下に紙幣を挟んで立ち上がった。そして僅かに目線を下げて殉教者の顔を見つめ、
「愛だなんだと女々しいこと言いやがって。殉教者の通り名が泣くぜ。つまりお前は、また俺に抱いて欲しい、それだけなんだろ？」
「観崎、私は………」
「来いよ。望みを叶えてやるから」
そう言って背中を向け、さっさとカフェを後にした。殉教者は無人のテーブルを眺めながら、後悔の言葉を呟く。
「やはり、私が殺すべきだった……。殺して手足を切り取るべきだった。そうすれば聖痕は贈れない………」
しかしもう遅い。昨夜のような僥倖にはもう巡り合えないだろう。伶に対する激しい嫉妬の焔を人形の面てで押し隠して、殉教者は湊の後を追ったのだった。
（Fin）
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