カインの末裔
―「ユダの弁明」外伝―
１.
―――どこだ、どこにいるんだ………
『僕にはこれしかできないんだよ』
―――早くあんたに会わなければ
『無力な僕を許してくれ……』
「どこに……いるんだよ………」
目を閉じると、玲瓏たる美貌を歪めてきれぎれの謝罪を呟く彼の横顔が瞼の裏に浮かぶ。
ファヴェーラの汚れた闇に刻まれた、ほの蒼い輪郭。それは余りに儚く脆弱で、久遠の胸をぎりぎりと締め付ける。
彼を探して、もう四日も歩き回っていた。碌な食事も睡眠も取らず、ただ身内から湧き上がる焦燥に駆り立てられるようにファヴェーラを徘徊する。
まるで昔に戻ったようだ。ストリートチルドレンと呼ばれ、通行人からの嫌悪の眼差しに晒されながらも路上で暮らしていたあの頃に。と同時に、路上の感覚も戻ってきた。
探し始めた当初は目撃証言を信じていたが、それが全く当てにならないことが分かった。こうなればもう、自分の直感に従って探すしかない。数年間の路上暮らしで培った嗅覚が、自分の求めているものへ導いてくれるはずだ。
そしていつかは見つけることができるはず。久遠は根拠のない確信をよすがに、彼、神堂伶を探し続けた。
そうして五日目の朝、久遠は彼を見つけた。東京国際フォーラム前の広場。植え込みの石段に座って、じっと空を見上げている。
まだ通勤時間には早く人影も疎らで、凛と澄んだ空気が彼の美しさを一層際立たせていた。全ての背景がのっぺりとしたモノクロへと後退し、その中で彼だけが天与の色彩を湛え鮮やかに浮かび上がっていた。
その磁力は凄まじく、久遠は彼を見つけた喜びや安堵を感じる間もなくふらふらと引き寄せられ、気付いた時には彼に向かってぬっと手を伸ばしていた。
彼はきょとんと目を見開いて、差し出された手と久遠の顔を交互に眺めた。そして訳も分からぬまま差し出された手を掴んだ。久遠は力の加減も考えず、ぎゅっと握り返し、
「あんたのことが………放っておけないんだ」
「え……？」
「俺が……傍にいてやるから」
傍から見れば滑稽な台詞だったろう。ぼろぼろに窶れ果てた男がすがるように手を伸ばして言う言葉ではない。立場が逆だ。しかし―――
「……ありがとう。頼むよ」
伶はすんなり受け入れた。何か特別な考えがあったのか、この出会いに運命的なものを感じたのか、孤独に疲れていただけなのかは自分でも分からない。ただひとつ言えるのは、ぎゅっと握り返してくれた手の力に胸が熱くなるような高ぶりを覚えたということ。
そう、施設で初めて会った蓮も彼のように渾身の力で手を握ってきた。この手を決して離さないと、無言のうちに叫んでいた。
「もう、ビルから飛び降りたりしないな？」
「当たり前だ」
不貞腐れたように答えて、ふいと顔を背ける。しかし握った手は離そうとしない。伶はふわりと笑って立ち上がり、
「では、行こう」
「どこへ行くんだ？」
「僕の家だ。少し休んだ方がいい。………あ、そうだ。まだ名前を聞いていなかった」
「久遠だ。久遠・ファラハザディ」
伶は小さな声で教えられた名前を復唱すると、「美しい響きだな」と呟いた。そして久遠を見上げて、
「僕は伶。神堂伶だ」
「知っている。ファヴェーラのキリスト、救世主と呼ぶ者もいる」
伶は静かに、しかしはっきりと首を振り、
「僕はただ傷を治すだけだ。それが救いとは何の関係もないことは、君も身を以て分かったはずだ」
「俺はあなたに救われたと思っている…………師よ」
伶は苦しそうに眉をたわめて、何かを訴えるように久遠を見つめた。思わず目を背けたくなるような重く切実な眼差しを、久遠は正面から受け止め、
「他の人間のことは知らん。しかし俺はあなたに救われた。それは事実だ」
「久遠……」
「事実なんだ」
言葉少なに畳み掛ける久遠に、伶は淡い笑みを向けた。そして小さく頷いた。
「分かったよ、久遠」
二人はしっかりと手を繋いだまま、人気のない広場を後にした。
「……ここが、あなたの家なのか？」
ペンシルビルの最上階にある部屋は薄暗く殺風景だった。シングルベッドとクローゼットに、小さなライティングビューロー。安いビジネスホテルを思わせる。
伶はカーテンを開けて儚い朝日を取り込み、淡い陰翳の中で笑った。
「ファヴェーラに幾つか確保してある“家”のひとつだ。最近、スイーパーが僕を標的にしているという噂を耳にするようになった。まあただの噂で、実際に危ない目に遭ったことはないけどな。それでも一応協力者の助言に従って、居場所を転々とするようにしている」
伶は上着を脱ぎながら説明すると、風呂場に行って浴槽に湯を張った。
「さあ久遠、ゆっくり風呂に浸かってくるといい。着ているものは洗濯機に放り込んでいいから。僕が洗っておこう」
「あ、あなたにそんなことさせるわけには―――」
「いいから。そのままではまるで浮浪者だ。さっきだって、誰なのかすぐに分からなかったくらいだ」
ここまで言われては従うしかない。久遠は渋々頷いて、言われた通り汚れた服を洗濯機の中に突っ込んだ。そして程よく湯の張られた浴槽に身体を沈めると、急に四肢が重くだるくなってきた。久遠はようやく、自分がどれほど疲れていたか知ったのだ。
浴槽から出て身体を二度洗い、頭を三度洗った。そして伸び放題の無精髭を綺麗に剃ると、心なしか身体が軽くなったような気がした。
風呂から出ると、ふかふかのバスローブが用意されていた。久遠は嬉しいような申し訳ないような言葉にできぬ感慨を持て余しつつ腕を通し、伶の待つ部屋へ向かった。
「ゆっくり使わせてもらった。お陰でさっぱりした」
「ああ、それは良かった―――」
振り向きながら何か言おうとした伶は途中で言葉を呑み込み、久遠に近付いた。そしてその顔をまじまじと見上げ、
「……驚いた。こんなにいい男だとは思わなかった」
「なっ………」
久遠はふいと顔を背け、「からかうのはやめてくれ」と怒りを隠さず言う。しかし伶は優雅な所作で否定し、
「からかってなどいない。久遠、君はとても綺麗な男だ。神に愛されているのだろう」
そう言って、横を向いたままの久遠の輪郭を指先で撫でる。
「ああ……そうか。灼熱の地で厳しい信仰と共に暮らす敬虔な人々……彼らの血を君は継いでいるんだな」
伶の声は、何故か昏い翳を帯び始めていた。久遠の輪郭をなぞる手をだらりと下ろし、
「僕は……過ったかもしれない」
余りに深刻な声に、久遠は勢い込んで訊ねた。
「それはどういう意味だ？」
伶は悲しげに目を細めて、
「僕は君を………穢してしまうかもしれない」
余計に分からなくなった久遠は問いを重ねようとしたが、伶はやんわり制して背を向けると、「シャワー浴びてくる」と言い置いて風呂場へ入ってしまったのだった。
伶が風呂から上がると、久遠は部屋の隅で壁に身体を預けて立っていた。
「何だ、先に休んでいて良かったのに」
伶はベッドカバーを外して、久遠を促した。
「まともに寝ていないんだろう？ ゆっくり休むといい。僕も夜はずっと路上に出ていたから、少し眠って昼前には起きる」
そう言いながら外したベッドカバーを身体に巻き付け、部屋の隅に腰を下ろした。久遠は目を剥いて駆け寄り、
「冗談じゃない、俺は床でいい」
「いや、僕は仮眠程度だから。これからはベッドを二つ用意してもらうようにする。取り敢えず今日は君がベッドを使ってくれ」
「あなたは俺の師だ。師を床に寝かせて自分はベッドで熟睡できるほど、図太い神経を持ってはいない」
伶は困ったように眉根を寄せた。そんな僅かな表情の変化ですら、視線を釘付けにするほどに妖艶だった。
「参ったな。僕も同じだ。疲労困憊している人間を床に寝かせて平気でいられるほど、図太い神経をしていない。では、こうしよう」
伶は立ち上がって久遠の手を取り、ベッドへ導いた。そして手を握ったまま布団の中に潜り込む。戸惑う久遠に笑いかけ、
「さあ、君も。一緒に寝よう」
「い、いい。俺は床でいい」
「遠慮するな。男同士なんだから別に構わないだろ？」
「う……」
そう言われると頷かざるを得ない。ここで拒めば、逆に何か底意があると勘繰られてしまうかもしれない。
久遠は内心の騒擾を覚られないよう無表情を拵えて、伶の隣に身体を潜り込ませた。二人分の重みを受け止めて、スプリングが掠れた悲鳴を上げる。
「ああ……誰かと一緒に寝るなんて久しぶりだ」
聞きようによっては意味深な台詞をさらりと言って、無邪気に笑う伶。久遠は咄嗟に言葉を返すことができず、ふいと顔を背けていかにも眠たそうな振りをした。
「おやすみ、久遠」
何気ない日常の挨拶も、伶の口からこぼれれば特別な光沢を帯び、鼓膜を甘くくすぐる。
微かな寝息も然り。すぐ隣から聞こえ始めた規則正しい呼吸が、久遠の耳を媚薬の如く酔わせた。
―――まったく、この状態で寝れるはずないだろう
四肢は鉛のように重くベッドにずしりと沈み込んでいるのに、五感は冴え冴えと張り詰めて睡魔が訪れる気配すらない。下腹部の辺りに凝る不穏な熱は努めて無視して、久遠はひたすら汚れた天井を見つめた。
すでに眠るのは諦めていた。四日寝ないのも五日寝ないのも大して変わりない。それに、こうしてあどけない寝息をすぐ傍で感じていられるひとときはとても貴重な時間に思えた。眠ってしまうなんてもったいない。
「ん………」
鼻から抜ける小さな吐息と共に、伶が寝返りを打つのが気配で分かった。仰向けのままじっと固まっていた久遠は、スプリングが波打たないようそろそろと横を向く。そしてこちらを向いて眠っている伶の顔をまじまじと眺めた。
―――あれは……どういう意味なのだろう………
君を穢してしまうかもしれない、伶はそう言った。その意味をずっと考えていたが、久遠には見当も付かなかった。だいいち、自分は“穢される”ほど純粋ではない。それに―――
「あなたはこんなに綺麗じゃないか………」
久遠は囁くように呟いて手を伸ばし、祈るようにふわりと組まれた伶の指に触れた。
この手。子供たちの苦痛を癒し、希望を与える手。絶望に沈みただ死を待つだけだった自分を救ってくれた手。
「師よ、俺の命を……あなたに捧げます」
久遠はその手に忠誠を誓う口付けを贈った。
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