堕天使の愛
丸の内の洗練されたオフィス街に、S・S・Sの本部ビルはあった。入口でセキュリティチェックを受けてエレベーターに乗り、一部の人間しか降りることが許されない役員フロアへ。さらに部屋の入口で生体認証を受けると、ようやく目的の場所に到着することができた。
「ったく、面倒くせえな」
部屋に入るなり、観崎湊は不機嫌を隠さぬ声で吐き捨てて皮張りのソファにどさりと腰を下ろした。
「あら、それが挨拶？」
湊を迎え入れた女性は、その礼を失した態度を咎めるより寧ろ面白がっている風だった。湊の正面に座って大胆に脚を組むと、濡れた蜜花が綻ぶように笑う。
彼女のグラマラスな容姿にはぴったりの妖艶な笑みだったが、湊に特別な感慨を湧かせることはできなかったようだ。
彼女は手にしていた書類を湊の前にぱさりと投げ、
「先月はあなたがトップだったわ、観崎」
「は…ん、それはそれは」
彼女はちらと眉根を寄せ、
「あんまり嬉しそうじゃないわね」
「他の奴らはそんなに嬉しがるのか？」
「当たり前じゃない。ナンバーワンになれたのよ。カッコつけて“別に大したことじゃない”みたいな顔するのもいないわけじゃないけど、バレバレなのよね、喜んでるのが」
彼女はそう言って、ついと口端を吊り上げた。どうやらこの蜜花は美しいだけではなく、相当の毒も含んでいるようだ。
「でも、あなたは本当にどうでもいいと思っているみたい」
「当たり前だ。本当にどうでもいいと思っているのだから」
「イヤな男」
婀娜っぽい口調は少し作り物めいていたが、男を惑わす媚態としては極上だった。しかし湊は入室時の不機嫌な仏頂面を崩すことなく、ソファに深く座り直して頭の後ろで手を組み、
「トップになったからといって、特別なご褒美がもらえるわけじゃねえだろ？」
「ナンバーワンスイーパーの称号ではご不満？」
「ナンバーワンホストみたいだな。安っぽい称号だ」
「なら、こんなのはどう？ トップになったらもれなく私を抱ける、とか」
湊はわざとらしく眉をしかめて、
「ナンバーワンスイーパーの称号で十分だ。ああ、嬉しいな」
「ほんっとにイヤな男」
湊は肩を竦めて非難をかわし、ポケットから煙草を取り出した。そして一本咥えると、彼女に向かって「火」と要求した。要求された女性は呆れたように首を振って、
「あのねえ、観崎。私を誰だと思ってるの？ キャバクラの姉ちゃんじゃないのよ。ファヴェーラの安全を統括するS・S・Sの人事部監査室室長――」
「で、俺は一介のスイーパー。分かってる。で、火」
人事部監査室室長、大河原香子（おおがわら・きょうこ）は靴の爪先で湊の脛を小突くと、ライターに火をつけて近付けた。そして目の前で紫煙をくゆらす湊をじっと見つめる。やがてはあ、と溜息をつき、
「最近つくづく思うの。あなたって本当に不思議な男ね。何を考えているのかさっぱり分からない。新生の家を辞めてその足でS・S・Sに飛び込んだと思ったら、あっという間にトップに上り詰めた。伍長、白手袋、殉教者の上位は暫く揺るがないと誰もが思っていたのに、今や堕天使の名は彼らより有名になってしまったわ。四天王、なんて呼ぶ者もいるほどよ」
「何だよそれ。四天王って、中二向けのバトル漫画じゃねえんだから」
「うちの組織はそういうのが好きなのよ。分かってるでしょう？」
湊は面白くもなさそうに、「ガキの集まりだからな」と言い捨てた。
「そうよ。私もガキ、あんたもガキ。ガキがガキを殺してるの」
湊は喉の奥でクッと笑った。彼女のこういう投げ遺りな、それでいて核心を衝く物言いはなかなか気持ち良いものだ。湊が組織の中で唯一、疲れずに会話できるのが彼女だった。
「観崎、あなたは何でそんな……殺しを急ぐの？」
「性格だ。これと決めたら手を抜かず、自分の限界ギリギリまでやり遂げる」
「……でしょうね。まあ組織にとっては有難い人材だけど、お仲間には反発を感じている者もいるようね」
「だろうな。新生の家でもそうだった。俺のような人間は、組織や共同体の和を乱すらしい。理念と信条だけでは、世の中渡っていけないんだとさ」
香子は僅かに身を乗り出して湊の顔を覗き込み、
「いい？ スイーパーはみんな、暗黙のテリトリーというものを持っているの。なのにあなたはそれを無視してファヴェーラ全体を飛び回り、猟場としている。このままでは大きな衝突は避けられないわ」
「その時はその時だ。俺はその、暗黙の何とかっつうのが大嫌いなんだよ。仲良しクラブの一員になるのはご免だ」
湊がこういう答えを返すのは、香子には予測済みだった。口を噤んで額に思慮の翳を落とすと、やがて濡れた唇をゆるりと開いて、
「仲間からの反発も恐れずファヴェーラ全体で狩りをする。でもそれは、業績を上げて組織のトップになるためではない……ねえ観崎、あなた……何を探しているの？」
初めて、湊の表情に感情らしきものが宿った。香子は探るような視線を向け、
「いえ……誰を捜しているの？」
「俺が誰かを捜していると？」
「そうよ。そのためにあなたはテリトリーを無視して、ファヴェーラ中を熱心に飛び回っているんでしょう？」
湊は話にならないとばかりに首を振って、ソファから立ち上がった。
「邪推もいいとこだ。俺はただ、組織のために懸命に働いているだけなのに」
本気なのか冗談なのか判然としない口調で言い置いて、香子に背中を向けた。香子は何度目かの溜息をついて、
「待ちなさい。話はこれだけではないの。S・S・Sの新たな方針を伝えます。我々はあの男を、削除指定人物とする方針を固めました。優先レベルはS級です」
湊の背中が僅かに揺れた。それだけで、内心の動揺を覚らせるには十分だった。しかし香子は気付かぬ振りをして、事務的な伝達を続ける。
「仲間を集めて我々に対抗するような動きも見せず、単独行動を維持していることから大きな影響はないだろうと、これまでは傍観の構えを取っていました。しかしあなたも知っているように、彼の名声は日ごと高まるばかり。その行いから、『ファヴェーラのキリスト』なんてふざけたこと言う輩まで出てくる始末。世論が大きく傾く前に消してしまうのが賢明だというのが、上層部の判断です」
「……了解した」
湊の返答を受けて、香子は事務的な口調を改めた。
「そういえば観崎、あなたと彼は高校時代クラスメートだったそうね」
湊はゆっくり振り返った。その顔には如何なる感情の乱れもなかった。
「ああ、そうだ。だから俺が殺しを躊躇うとでも？」
「いえ、あなたに限ってそれはないでしょうね。ちょっと訊いてみただけよ」
そう言って香子は立ち上がり、湊に近付いた。
「何だよ。話は全て終わったんだろ？ 帰らせてもらうぜ」
「そんなに急ぐことないでしょ？ それよりさっきの話。トップになったらもれなく私を抱ける。但し、観崎限定だけどね。どう？」
「ずいぶんサカッてるんだな。発情期か？」
「お陰さまで、ここのところ忙しくて。発散する機会がなかったの。女もしてないと溜まるのよ」
香子は親指を立てて、背後の扉を指した。その奥には彼女専用のベッドがあって、いつでも仮眠がとれるようになっていた。
「いいじゃない。お互い性欲処理ってことで。ね？」
湊は黙って上着を脱ぎ捨てて、扉の向こうにある部屋へ入っていった。香子もその後に続いて部屋に入り、一応内側から鍵を掛ける。
二人は無言のまま服を脱ぎ、そのままもつれ合うようにしてベッドに倒れ込んだ。
「……まったく」
狭い部屋には生々しい精の匂いが充満していた。その中で香子は忌々しげに吐き捨てた。
「ほんと、美形の男って狡いわよね。相手のことなんて考えず、自分の欲望を押し付けるだけのセックスをしても文句言われないんだから」
「言ってるじゃねえか」
「こんなの文句のうちに入らないわよ」
香子はぴしゃりと言い返して、ゆっくりと身体を起こした。豊かな胸は、湊が吐き出した精の残滓でぬらぬらと光っていた。湊はすでに着替えを済ませており、窓の外を眺めながら煙草をふかしている。
ついさっきまで香子の身体を加減せず責め抜いていた野蛮な雄の面影はなく、ベッドの上で未だ濃厚な性の匂いをまき散らす存在に興味も示さない。
「自分の欲望を押し付けるだけじゃないセックスってどんなのだ？ 俺にはさっぱり分からねえ」
「相手の気持ちを汲み取って、一緒に気持ち良くなろうとするセックスよ」
「気持ち良くなかったのか？」
「そういうわけじゃないけど……ああ、もういいっ」
香子は苛立たしげに叫んで、「あたしにも煙草ちょうだいっ」と手を伸ばした。湊は箱ごと投げ渡す。香子は火を付けて咥えると、まだ窓の外を眺めている湊に、
「観崎って、誰かに甘い言葉を掛けたことってある？」
「甘い言葉？」
「ええ。例えば……愛してる、とか」
湊は表情を変えず、「一度だけある」と答えた。純粋に驚いた香子は「へえ」と感嘆を漏らして、
「いつ？ 誰に？ それでどうなったの？」
無邪気に問いを重ねる香子を湊はちらと一瞥し、
「高校の時、同級生に、振られた」
「あんたが振られたの？」
「ああ。速攻振られた。そいつは、自分の弟を愛していたんだ。俺に付け入る隙はなかった」
「何だか凄い話ね。昼ドラみたい。で、あんたは今でもその人を想い続けている、と」
湊は窓枠で煙草を揉み消すと、香子の言葉を肯定も否定もせず部屋から出て行った。パタンと音を立てて閉められた扉をじっと見つめ、
「ほんと、ヘンなとこで一途なんだから……」
香子はぽつりと呟いて、淡い笑みを浮かべた。
『あの男を削除指定人物とする方針を固めました』
S・S・S本社ビルから出た湊は、真直ぐファヴェーラへ向かった。途中で立ち止まって空を見上げ、この空の下にいるはずの彼に無言のまま呼びかける。
―――他のスイーパーなんかに殺られんじゃねえぞ。お前は俺が殺すのだから。
そして再び歩き出した。（Fin）
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