ユダの弁明
―Love of the Betrayer―

最終話＜Love of the Betrayer＞

長い夜が明けようとしていた。ブルーグレーの朝靄にけぶる薄明の中を、久遠は憑かれたように疾駆する。

先刻と同じ場所に先刻と同じ人物がいるはずだ。白皙の相貌に鷹揚な笑みを浮かべて、自分を待っているはずだ。久遠には確信があった。

果たして、彼はいた。

ゆるゆると薄まりつつある闇は消えるのではなく、全てここに凝集するのではなかろうか。そう思わせるほどにその孤影は、夢と覚醒の境でとろとろと微睡む早暁の空気から黒く、禍々しく浮き上がっていた。

久遠は一旦足を止め、呼吸を整えた。そして、まだ仄暗い東の空に明けの明星を探した。神を裏切ったサタンの輝きを。そんな自虐的な振る舞いに苦い笑いを浮かべつつ、自分を待つ闇の眷族、悪名高き堕天使にゆっくりと近付いた。

「よお、お弟子さん。また会ったな」

久遠の昏い決意を知ってか知らずか、湊―――黒衣のスイーパーは先刻より幾分弾んだ声で呼びかけてきた。

しかしその目付きは依然として険しい翳を帯び、久遠を容赦なく突き刺す。声のした方へ久遠は一歩一歩、自らを焦らすように進み、ついに、敵同士として対峙するには相応しくない近さまで距離を縮めた。そう、握手を交わし肩を叩き合うのにちょうどよい距離。

「堕天使……」
「おう、なんだ？」

悲壮な凄みを揺らめかせて直立する久遠を、湊は面白そうに眺めた。

「俺はあの人を愛している」

知っている、だからここへ来たんだろう？とからかい混じりの言葉が出かかったが、ゆるりと呑み込んで先を促すだけに留めた。軽薄で無意味な会話は、今の久遠には煩わしいだけだろうから。

「けれどそれは、想いに応えて欲しいとか見返りを求めるといった類いのモンじゃない。これは、これは……」
「無償の愛、と言いたいんだろ？」

湊の思わぬ指摘に久遠は一瞬狼狽えた。が、すぐに瞳を輝かせて頷いた。そうだ、これは無償の愛なんだと呟く声には、淫猥な響きすら窺える。

「俺は何も望まない。ただあの人が美しく神々しくあることだけを願う。皆に称えられ崇拝され、ファヴェーラで唯一の美しい偶像として君臨する。メシア、神の子、楽園の王……何だって構わねえ。人々から捧げられる崇拝や敬愛や熱狂が、あの人を永遠の存在にする。それを実現するためなら俺は、俺は……」

無償の愛という後ろ楯を得た久遠は、決然と言い放つ。

「俺は“裏切り者”になる」

その時湊の口許を毒々しいほどに歪んだ笑みが掠めたが、自分の言葉にひたすらのめり込む久遠が気付くはずもなく。

「恐らく俺は未来永劫、高潔なる師を売った男としてファヴェーラはもちろん、日本中の人々に蔑まれ、憎まれるだろう。あの人の活動を快く思っていなかった者でさえ、俺の卑劣さに唾を吐きかける。俺の真意は誰にも理解されず、スイーパーとの汚い取り引きか嫉妬ゆえの裏切りかとあれこれ勘繰られるのは間違いない。
しかしそれでも構わん。あの人のためならどんな汚名も侮辱も喜んで引き受ける。だから…どうか……」

久遠はぢりっと嫌な音をたてて歯を喰いしばり、縋るように湊を睨めつけた。最後の逡巡か、或いは堕天使の懐に飛び込むための助走なのか。

しかし湊は、細かい心理的手順になど構っていられぬとばかりに冷たく言い放つ。

「お弟子さん、感傷的になるのも解らなくはないが、あと三十分で俺の営業時間は終わりだ」

現実的な指摘が、空想的な痛みに蕩ける久遠の頬を張って目覚めさせた。彼は力強く頷くと、ジーンズのポケットから分厚く折り畳まれた紙幣を、先刻伶から渡された紙幣を抜き出して、

「どうか、この金であの人を殺してくれ。あの数々の奇蹟を行ってきた聖なる身体が惨めな自殺で穢されてしまう前に、二千年前の救世主と同じ聖痕を与えてくれ。メシア伝説に輝ける終止符を打ってくれ！」

しかし湊は、突き出された紙幣の束を冷たく押し返す。それを拒絶と取った久遠はさらにぐいと突き出して、頼む、頼むと繰り返した。ざわざわと低く漣つ声で、頼む、殺せ、聖痕を………

「心配するな。師匠想いのお弟子さん。ちゃんとやってやるから。けど、その金は受け取れねえ。俺はS・S・Sから月給貰ってるサラリーマンなんでね。個別報酬は御法度。お前の為すべきことはただひとつ。俺を奴のいる場所へ案内することだ。二千年前のあの男のようにな」

ゴシックな通り名には似合わない散文的な調子でそう告げると、湊は憐れみを込めて久遠を見つめた。そして心中深くで呟く。

哀れなユダよ、この世に無償の愛など存在しない、と。




孔雀は走る。人通りもまばらな未明のファヴェーラを。唯一持っていた踵の低いローファーを履き、長い髪はバレッタでひとつにまとめ、軽く粉をはたき薄く口紅をひいただけの素顔に近い薄化粧で。

こんな無防備な姿を路上に晒すことにかなり躊躇はしたけれど、自分の中の優先順位にきっぱり決着を付けてツインタワーから飛び出した。

もう間に合わないことは知っている。電話の主、あの方の携帯から直接かけてきた堕天使を名乗る男がそう言っていたから―――『もう間に合わねえけどな。一応伝えとくぜ』

そう、もう間に合わない。だからこそ孔雀は急ぐ、焦る。第一発見者となるために。歴史の証人となるために。

誰よりも先にその場に駆けつけ、聖なる亡骸をかき抱き、辱めの痕に接吻と涙を注ぐのはこの私でなければならないのだ！

でも堕天使は他の番号にもかけているかもしれない、マスコミに犯行声明を出したかもしれない、銃声や怒号を聞きつけて、誰かが様子を見に来ているかもしれない……。

ああ、早く、早く！　急ぐのよ！！

ようやく教えられたレストランに着いた孔雀は、一階の店舗にまだ人気のないことを確認して、ほっと息を吐いた。裏口に回り、狭くて急な階段で二階に上がる。そして薄汚れた扉に手を掛け、そして、そして―――

半ば予想していた光景だった。いや、期待していた光景と言うべきか。しかし実際に遭遇した孔雀は激しく困惑した。

今この場でどういう感情を湧き上がらせるべきなのか分からない。怒りも悲嘆も苦悶も、しめやかな嗚咽も運命への呪詛も、第三者の眼、観客の眼があればこそ。

しんと黙した舞台の上でひとり孔雀は、己れの裡に見つけた虚ろな奈落に軽い眩暈を覚えた。

それでも孔雀は、そろりそろりと部屋の奥へ進んでいった。頭の中は冴え冴えと、痛いほどの無感覚が支配している。

そして孔雀は“それ”を見た。

致命傷は頭への銃弾。ああ、でもそんなものはどうでもいい！　手と足に穿たれた穴、聖なるしるしに瞳を灼かれた孔雀は、床に散った血痕の上に跪き、胸の前で両手を組んで叫んだ。

「私は救われた！」

そして頭の中に思い描いていた甘美な場面をそのままなぞる。血の穢れも厭わず、髪を振り乱して聖痕に接吻を注ぎ、涙を振りかける。やがて、荒々しく階段を駆け上がる複数の足音が。

孔雀はそれらが背後まで迫ったことを鼓膜で確認すると、亡骸を庇うように両手を広げたまま戸口を振り返り、熱く掠れた声で＜福音＞を告げた。

「見よ！　ここに我らの救い主が！」

そして、亡骸の上にふわりと頽れた。






「俺の愛の物語を聞かせてやろう」

そう言って彼はのろのろと背筋を伸ばし、その奥に溜め込まれた記憶を蘇生させるかのように額を擦った。そして、少し長くなるけどな、と掠れた低音で続けると、端整な口許に歪んだ陰翳を、裏切り者の虚笑を浮かべてみせた。

いいとも、望むところさ、との決意を込めて僕は力強く頷いてはみたものの、いや、現時点ではそれは偽りなき本心なのだが、長時間この空気に耐えられるか心許ないのも事実だった。

なに？　空気？　いやとんでもない。これを空気などと呼べるものか。これは臭気、或いは腐気だ。

僕たちの後ろに広がるのは、ツインタワー内で死んだ人々が埋葬される共同墓地。しかし埋葬といってもここはツインタワーの最上階に位置する天空の墓所なので、適当な防腐処置を施して放置されているだけだ。

そう、ここは日々悲壮なサバイバルを繰り広げている貧民窟の子供たちでさえ忌避する不浄の地。そして彼は不浄の墓守り。

「俺は、ずっとあんたを待っていた」

彼はうっすらと笑みを浮かべると、ぞっとするほど穏やかに言った。本当に、ずっと待っていたかのように。

「僕も、あなたを探していました。こうしてお会いできるなんて、月並みですが夢のようです。あなたについては疾うに死んでいるだろうとの根拠のない、いや、二千年前の伝説を根拠とした噂がまるで周知の事実であるかのように広まって信じられているのですから。
でも僕は違うと思った。絶対に、生きてこのファヴェーラのどこかにいると、」

僕は言おうとした言葉を一旦呑み込んだが、それ以外に適確な表現を思い付かなかったため、ためらいを振り払ってきっぱり言い置いた。

「ジャーナリストの直感でそう確信していました」

ゴシップ週刊誌に記事を売って生計を立てている寄生虫の分際でご立派なこと言いやがって、と心の中で自嘲を漏らしたが、眼前の彼は真摯な表情を崩さず、

「噂……か。つまり裏切り者は罪の意識に責め苛まれ、首を括ったのだと？　ふん、まあ二千年前の伝説に準じればそうなるのだろうな。完結したひとつのエピソードとしても、悪人は死んでくれた方が座りがいい。
それに実際問題、俺に生きていられては困るって連中も結構いるわけでね。……おい、あの女は元気か？」
「あの女？……ああ、“ファヴェーラの孔雀”ですね。ええ、これぞ我が天命とばかりに張り切って、＜復活の福音＞を触れ回ってますよ。教えと救いを求めて彼女の許を訪れる人々は日に日に増える一方で」

僕は話しながら彼の反応を注意深く窺った。興味ないとばかりにふんと鼻を鳴らすか、或いは嫉妬を剥き出しにぎりぎりと奥歯を噛み締めるか、或いは安易なプロパガンダに踊らされる愚かな大衆への嘲笑を浮かべるか……と。

しかし全ての想像を裏切って、彼は悄然と項垂れた。精悍な額に苦悩の翳が差す。

「復活…か。あの方も可哀想に。死んでも尚、担ぎ出され振り回され……でもそれを望んだのは他ならぬこの俺………」

彼は絶句した。それからの沈黙は重く息苦しいものではあったが、どこか胸を打つ熱情を孕んでもいた。彼の話を聞き終えた時、この熱情の源を知ることができるのだろうか。

僕は、生涯の伴侶である我が好奇心が喉元からせり上がってくるのを感じた。それに急かされるように身を乗り出し、

「では、そろそろ聞かせて頂きましょう。あなたの……物語を」

僕は録音機を取り出して素早くセットした。きちんと作動しているのを確かめてから、今日の日付と場所を自分の声で録音する。

そうしながらも僕は、古いハリウッド映画を思い出していた。それは、若い記者が吸血鬼にインタビューしてその半生を語らせるという内容だった。

しかし今僕がレコーダーを挟んで相対しているのは吸血鬼ではなく、メシアと呼ばれた師を敵に売り、死へ追いやった裏切り者なのだが―――

「ああ。ではまずあの方の生い立ちと、ファヴェーラへ向かわせるきっかけとなった悲しい事故から話そう。あの方には弟が一人いた。まるで……神の謎かけのように美しい兄弟で―――」

彼は、内に揺蕩う記憶に微睡むかのように目を細めた。そして、この上なく幸せそうな笑みをひとつ零した。

これまで彼を覆っていた陰鬱で険しい翳はきれいに消え、端整な唇からは詩のように美しい言葉が溢れる。

彼は語り続ける。僕はただのひと言も口を挟まずひたすら耳を傾ける。彼の言葉の奥で静かに爆ぜる燠火のような愛情に灼かれながら。

しかし驚きも疑念も湧かない。彼は最初、こう言ったではないか。俺の愛の物語を聞かせてやろう、と。

確かに彼は裏切り者だ。けれど彼が語るのは、そう、紛れもなく愛の物語なのだ。（Fin）


＊長い連載にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。

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