ユダの弁明
―Love of the Betrayer―
9話＜曖昧な決意＞
「こうするしかなかったんだよ」
蓮がこう言うのは何度目だろうか。もちろんこんな言葉で兄を宥められるとは思っていない。それでも蓮は、自分の正しさを信じて繰り返し伝えた。
「彼女に兄さんのことを諦めてもらうには、“事実”を見せるしかなかった。口で言ったってどうせ信じやしない。今はショックだろうけど、すぐに吹っ切れるさ」
蓮の説明によると、真理亜が学校の用事で来れないというのは嘘で、自分の方から今日の授業開始を１時間遅らせて欲しいと連絡したということだった。
そして予め玄関に貼り紙をして、暫し手が放せないから庭を回って家に入り、僕の部屋へ呼びに来てくださいと誘導する。
貼り紙を信じた真理亜は言われた通り庭から家に上がって蓮の部屋へ行き、そこであの光景を、二人の痴態を目撃したのだった。
「……何故、僕に一言相談しなかったんだ」
「敵を欺くにはまず味方から、ってね。相談したら十中八九反対されてただろうし、よしんば承諾してたとしても、兄さんのことだから迷いや後ろめたさ、羞恥なんかで行為にのめり込めなかっただろうね。女はそういうの敏感だから。演技だってバレる可能性がある」
確かに蓮の言う通り、背後が気になっていつも通り行為に没頭することはできなかっただろう。
「……彼女が親にばらしたらどうするんだ」
「お宅の息子さん達は兄弟で愛し合ってます、親御さんからも注意してください、って？ はは、そんなこと言ったら彼女の神経が疑われるよ。正義に燃える彼女なら言い兼ねないけど、言って損するのは間違いなく彼女の方だね」
伶は溜息と共に蓮の主張を受け入れた。受け入れるしかなかった。真理亜が自分に対して恋愛感情を持っているとは思えなかったが、それでもあんな光景を目の当たりにしては、これ以上関わりを持とうとはしないだろう。
それでいい、と伶は思う。彼女は彼女の世界で、自分の抱く理想を実現させるため努力すべきだろう。今日見てしまったものは記憶の瑕として隅に追いやり、時による忘却を待つ。
「兄さん、また僕たちだけの生活に戻れるよ。この十日間は苦しかったけど、でも耐えた甲斐があった。僕らは勝ったんだ、僕らの世界を脅かすおぞましい侵略者に」
「蓮……」
「兄さんを騙すことになってしまったのは、本当に悪かったと思ってる。もう二度とこんなことしないから、だから許して。ね？」
少しも悪かったと思っていないことが明らかな、無邪気な口調。伶は思わず苦笑を浮かべ、「仕方ないな」と言って蓮の額をコツンとやった。すると蓮は嬉しそうに笑って伶の手を引き、自分の方へ引き寄せる。
「さっきの続きしようよ。僕は一度しか達ってないんだよ。兄さんの中にもっともっと、溢れるくらい注ぎたい……」
滾る情慾を呟く唇に口付けを落として、伶は再び足を開いて蓮の身体を跨ぎ、先刻の残滓で湿った股間を蓮のモノにこすり付けた。
大きさも色も異なる二つの性器はぴったり抱き合い、クチュクチュと喘いで行為の再開を悦んだのだった。
こうして匣は再び閉じ、世界に入った亀裂はゆっくりと塞がって元通りになる……かに見えた。が―――
『真鍋です。蓮君の補習授業に来ました』
インターホン越しに聞こえてきたのは、紛れもなく真理亜の声だった。いつもと変わらぬ、真直ぐな知性の感じられる明晰な声。
その瞬間、蓮は鼻に細かい皺を寄せ、スピーカーを威嚇するかのように睨み付けた。
伶は「信じられない」と囁くように言って、ちらと弟の顔を一瞥する。真理亜への憎悪を隠そうともしないその表情に危ういものを感じた伶は、「僕が出てくる」と言って玄関へ向かった。すると蓮も無言のまま、後についてきた。
「真鍋先生、もうけっこうです。もう終わりにしましょう」
扉を閉めたまま冷静に語り掛ける伶に、真理亜も同様の落ち着きをもって答えた。
「何故ですか？ まだ授業は終わっていません。昨日はお休みしてしまってごめんなさいね」
「………先生、化かし合いはやめましょう。僕と蓮の関係は、昨日ご覧になった通りのものです。この家には……貴女の居場所はありません」
「昨日私が見たものと補習授業に、一体何の関係があると？」
予め自分の中で対応マニュアルを作ってきたのだろう、ここまでは胡散臭いほど淀みなく、機械的な受け答えをしていた真理亜だった。しかし一瞬の間をおいてクスッと笑い、
「ええ、確かに昨日見た光景はショックでした。ここにこうして立って、あなたと普通に会話できている自分がまだ信じられないくらい」
これは恐らく本音だろう。声に迷いや戸惑いが混じり始めた。
「私、何がなんだか分からなくて。ようやくショックが収まったと思ったら、今度は怒りや悲しみがわあっと襲ってきて。これまで自分が信じてきたもの、自分の……純粋な部分が穢されたような気がして、悲しくて悔しくて………でも、」
最後の言葉に、もはや迷いの翳はなかった。
「でも、気付いたらまたここに来ていたわ。さあ、授業を始めましょう」
今度は伶が戸惑う番だった。後ろを振り返ると、蓮はあらゆる光を拒絶する昏い瞳、双つの奈落をじっと扉に据えていた。
伶の背筋を悪寒めいたものが走る。堕ちる寸前の天使は、こんな表情をしているのではなかろうか。
「兄さんが決めて。僕はそれに従う」
蓮はぞっとするほど平坦な声でそう言って、奥の部屋へ引っ込んでしまった。
伶は迷った。迷っている自分が信じられなかった。帰ってください、もう二度とここへは来ないでください、そう言って追い返すべきだと分かっていた。そうするのが彼女のためでもあるのだ。しかし、
「蓮君、蓮君はそこにいるの？」
「……いえ、もういません。部屋の中に戻りました」
「そう、なら伶君、出てきて。あなたに話したいことがあります」
それは命令口調ではあったが、声には包み込むような温かさが感じられた。すっかり反発心を挫かれた伶は、無言のまま鍵を開けて扉を大きく開け放った。
「ありがとう、伶君」
「いえ………」
そこで会話は途切れ、二人は暫し無言で見つめ合った。やがて真理亜は儚い笑みを浮かべ、
「蓮君は恐らく………私があなたのことを好きになったと思っている。でしょう？」
大した女性だな、と伶は素直に感心した。あんな光景を目撃したにもかかわらず、嫌悪の翳など微塵も感じさせず、こうして和やかに会話してみせるとは。
彼女の中でどのような葛藤があったのか、そしてどのようにしてそれを解決したのかは分からないが、その剛毅な精神力には敬意を表すべきだろう。伶は穏やかに頷いて、
「仰る通りです。貴女の授業が嫌なのではなく、その誤解が―――」
「強ち誤解とも言えないけれど」
伶は眉をひそめて真理亜を見下ろした。明らさまな不快を真理亜は苦笑で払い、
「だって仕方ないわ。私だって一応女なのよ。君みたいに妖しいほど綺麗な男の人を前にして、そういう気持ちが湧いたっておかしくないでしょ？」
「それは―――」
「でもそれだけじゃない。ごめんね、言葉を遮って。分かって欲しいのは、私がここに足繁く通うようになった理由は違うということ。初めて君に会った時、君はまるで……出口のない森に迷い込んだ子供みたいな表情で、救いを求めるように私を見つめた」
伶は反論の言葉を見つけられず、ただ力なく首を振るしかできなかった。
「何だろう、彼は一体何に怯えて、何から逃れようとしているのか……私はこの疑問を解決するため、幾度もあなた達に会いに来た。そして朧げながら分かってきたの。彼はきっと、この閉ざされた世界に対し脅威を感じ始めているに違いないと」
真理亜はそう言って眩しそうに目を細め、周囲をぐるりと見渡した。
「この屋敷も庭も美しく、あらゆる現実から隔絶されている。ここには教師の怒鳴り声もクラスメートの下らないお喋りもストリートチルドレンの嗚咽もスイーパーの銃声も届かない。そんな象牙の塔の中で互いの存在だけをよすがに、これまで生きてきた。
そう、最初はそれでよかったかもしれない。でも君は徐々に不安を覚えるようになってきた。このままでいいのだろうか、と」
伶は頷きたくなる自分を必死に抑えた。肯定してはいけない。肯定したらそこから崩壊が始まる。いや、もう遅いのかもしれないが。
「伶君、君の直感は正しい。このままではいけない。私は昨日のことで……そう確信したの。蓮君は、ああいう方法でしか君を独占できない。これからも君に好意を寄せる人を次々と排除して、この世界に閉じ込めようとするわ」
「それでも構わない。僕は蓮を愛している」
「そんなの愛じゃない。このやり方では、君は蓮君を本当に幸せにしてあげることはできないのよ。分かるでしょう？ 君の交友関係が広がるのに比例して、蓮君の不安も増してゆく。蓮君にとってはこの家が全てだけれど、君は違う。そのずれがどんどん大きくなった時、蓮君の心は―――」
「じゃあどうすればいいんだッ……」
喉の奥から絞り出すようにして吐いた言葉、切実な叫びを、真理亜は正面から受け止めた。
「私を受け入れて。私と普通に会話して。この閉じた世界に、他人という現実を呼び込むの。そうすれば―――」
「世界が……壊れてしまう……匣が………」
「大丈夫、壊れるのは世界の表層だけ。君と蓮君の絆は壊れない。異常な独占欲ではなく、本物の愛情による結び付きが生まれるはずよ」
“本物の愛情”―――それが口で言うほど容易いものではないと、伶は嫌というほど知っている。
誰だって、愛する人間を自分だけのものにしたいと願うはず。所有欲から解放された無私の愛なんて、有難い聖人譚にしか出てこないのではないか。
それでもやはり、このままでいいとは思えない。真理亜の言う通り、少しずつ他人の存在に慣らすべきなのだろう。伶は決心がつかないまま、ずっと燻っている疑問を口にした。
「何故先生は……そこまでして僕たちのことを………」
「君のことが好きだから……それじゃ理由にならない？」
再び渋い顔をする伶に、真理亜は屈託ない笑みを返し、
「ごめんなさい、冗談よ。理由は単純明快。君たちのことを助けたい。この檻から解放してあげたい。ただそれだけ」
そう言い切った真理亜だったが、まだ胸の奥に何かが閊えているのか僅かに表情を曇らせて、
「ううん、もうひとつ。これは君たちには関係ないことだけど、蓮君を見ているとまるで昔の自分を見ているようで、それで余計にこのままではいけないと焦ってしまうのね」
「昔の自分……ですか？」
「ええ。私には年の離れた姉がいて、母親を早くに亡くしたこともあって結び付きは強かった。母であり姉であり親友でもある、そんな存在。私はお姉ちゃんさえいてくれればいい、他には何も要らないと思っていたし、お姉ちゃんもそうだろうと勝手に思い込んでいた。
ところが突然、男の人を紹介されて、結婚を前提にお付き合いしているから、あなたも認めて欲しい、と………」
真理亜の顔を陰鬱な翳が掠めた。当時の記憶は、まだ彼女にとって重い枷となっているようだ。
「私は悲しみとショックで狂ったように拒絶し、二人を罵倒した。自分だけのお姉ちゃんと思っていたのに、突然他人が割り込んできた。そんなの許せない、誰が認めるものか―――今思えば、姉は優しすぎた。そんなの子供の我がままだと一蹴して、自分の幸せを優先させればよかったのに、私の言葉を全て正面から受け止めて、そのせいで心のバランスを崩してしまったの………」
真理亜はまるで懺悔するかのように項垂れた。が、すぐに顔を上げ、
「私は、独占欲が行き着く場所の恐ろしさを身をもって思い知った。だから君たちには同じ轍を踏んで欲しくないと、切実に願ってしまうのね」
独占欲が行き着く場所の恐ろしさ、それは伶も知っている。下肢に癒しを試みることもなく、車椅子に閉じ込めることで“自分だけの蓮”を作り上げんとする心の闇―――
「………分かりました」
もう、蓮を解放してあげる時が来たのだろう。彼女の言う通り、このままではいけない。取り返しのつかないことになる前に―――
「先生の仰る通りにしましょう……」
そうは言ったものの、まだ迷いがあった。迷い？ 否、恐れだ。自分だけの蓮を失うことになるかもしれないという、子供じみた恐怖がずしりとのしかかる。
その重みに耐えられず肩を落として俯く伶に、真理亜はそっと手を差し伸べた。
「大丈夫、あなたは間違っていないわ」
確信的な言葉とは対照的なためらいを含んだ指先で、やや蒼褪めた頬を撫でる。伶はその控え目な、それでいて十分温もりの伝わる接触を拒まなかった。彼女の手の上から自分の手を重ね、
「はい、これで……いいんですよね」
それは彼女にではなく、自分へ向けた問いだった。しかし真理亜は力強く頷き、
「ええ、これでいいのよ」
そう答えてふわりと笑う。それは迷い子を導く聖母の微笑みだったが、傍から見れば愛しい恋人へ向ける艶笑に見えただろう。
そんな“睦み合い”を二階の窓からじっと見下ろす者がいることに、二人が気付くことはなかった。
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