九話＜海月＞
それから透麻は約束通り、撮影後の游月を必ず抱いた。シャワー室で、楽屋で、そして時には駐車場に留めてある透麻の車の中で、男優に付けられた痕跡の上に新たな痕を刻み、注ぎ込まれた劣情を掻き出して己の精で満たした。
撮影で疲れているはずの游月も、決して嫌がることなく積極的に身体を差し出した。それは二人にとって聖なる儀式でもあり、『游月』と『晢夜』という存在間のバランスを保つ唯一の手段でもあったのだ。
そして今日もまた、儀式に没頭していた二人は、シャワールームの個室内で固く抱き合っていた。
「游月、身体は大丈夫ですか？」
「ん。ぜんぜんへいき……」
舌足らずな口調で答え、首に腕を回して甘える游月には、行為の直後の艶めかしい倦怠感が漂っていた。透麻は、ようやく沈静しかけた劣情を再び起こさぬよう、注意深く唇を重ねて情事の終わりを告げ、
「では着替えて食事に行きましょうか。この前お話ししたお店を予約してあります」
「はい。ふふっ、楽しみ」
嬉しそうに微笑んで頬をすり寄せてくる游月が愛しくて、腰を抱く手に力が入ってしまう。しかしこれでは際限がないと言い聞かせて、透麻はゆっくり身体を離した。
カウンターとテーブルが二つ。十人も入れば満席になってしまう小さなバーに、二人はいた。自動演奏のピアノによるスタンダードジャズやクラシックが緩やかに流れ、グラスの中のキャンドルがちらちらと揺れる。
“隠れ家のような”という形容は今やありがちなキャッチコピーとなってしまったが、ここを表現するにはそれ以外の言葉が思い浮かばない、そんな秘めやかな店だった。
透麻が予約をしてまでここにこだわった理由はたったひとつ。ここには『ゆづき』という名のオリジナルカクテルがあるからだ。
早速それを注文する。出てきたのは、フルートグラスに注がれたサファイア・ブルーのカクテル。グラスの中で細かな気泡が生まれては消え、消えては生まれる。思わずじっと眺めていたくなるほどに繊細で、美しいカクテルだった。
透麻は、壊れやすい玻璃細工を扱うような手つきでそっとグラスを持ち上げ、
「これは……ブルーキュラソーでしょうか。ベースはシャンパンかな……」
途端に游月はぷくっと膨れて、
「透麻さん、そんなマジックの種を探るような無粋なことしないでください」
「あ、これは失礼いたしました」
透麻は片手を胸に当てて優雅に会釈する。游月は「もう…」と呟いて呆れたように笑った。そんな二人のやり取りを、カウンターの向こうから白髪のバーテンが目を細めて眺めている。
「では、游月と『ゆづき』の出逢いに乾杯」
グラスの端をチン、と合わせて口をつけた。仄かな甘みの後に、柑橘の爽やかな酸味が広がる。炭酸は見た目ほどきつくはなく、舌に心地よい刺激をもたらした。
「これは……シャンパンではありませんね」
ぽつりと呟いてから、透麻は慌てて口を押さえた。
「いけないいけない、また游月に怒られてしまう」
「もお。僕はカクテル奉行じゃありません」
「カクテル奉行？ そんな言葉初めて聞きましたよ」
そして二人顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。
「失礼ですが、ゆづきさん、と仰るのですか？」
白髪のバーテンが、礼を失しない程度の距離感を保ちつつ静かに訊ねてきた。
「あ、はい。こちらの『ゆづき』に会いにきました」
「それはそれは、光栄です。差し支えなければ、どんな字を書くのか教えていただけますか？」
「月を游ぐ、と書きます」
バーテンは該当する漢字を頭の中で探しているのか、暫し視線を宙に彷徨わせた。やがて「ああ」と破顔して、
「私の『ゆづき』はね、月に遊ぶ、と書くのです。字は似ていますが、意味は違う。でも、このカクテルには“游ぐ”の方が合っていますねえ」
バーテンは一人で納得したようにうんうんと頷いて、
「あなたのお名前に変えさせていただいてもよろしいですか？」
確かに、この青いカクテルには月の海を游ぐというイメージがよく似合う。それに、この老紳士のこだわりにも好感が持てた。しかし、
「ごめんなさい。あの、月の海を游げるのは僕の恋人だけなので……」
赤い顔でそれだけを告げると、恥ずかしそうに俯いてしまう。そんな游月を、老バーテンは優しく見つめて、
「恋人の特権を奪おうとしてしまった、私の無神経をお許しください。お詫びにカクテルを一杯ずつ差し上げます。何がよろしいですか？」
「それはもちろん、『遊月』を」
透麻も笑って頷いた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
バーテンはカウンターの奥へ戻ってシェイカーを振り、再び青いカクテルを二人の前に差し出した。
「ああ……甘くておいしい」
最初に出されたものより、少し甘みが増していた。恐らく、甘い恋人たちに合わせて作ったのだろう。
「游月の方が甘くておいしいですよ」
透麻はそっと囁いて手を伸ばし、カウンターの下で游月の手を握った。
「透麻さんてば……」
游月は咎めるような上目遣いで見つめつつも、ぎゅっと握り返す。透麻は指と指を絡めて、温かい手のひらを愛撫しながら、
「さっきは嬉しかったです。あなたが断ってくれて」
「本当に？ 変な奴だって思わなかった？ 思い込みの激しい奴だって」
透麻はゆっくりと手を移動させて、太ももの内側をそろりとなぞり、
「もしあなたが承諾していたら、私が断るつもりでした。どこの誰かも分からない人間が、あなたを口に入れて味わうなんて――」
言葉を続けながらすぅっと股間に指を滑らせた。
「――そんなの、許せません。あなたを味わい、あなたの中で游ぐことができるのは、私だけです」
游月はしっとりと頷いて、透麻の肩に頭をもたせかける。久しぶりに身体に入れたアルコールが、ほどよい酩酊感をもたらした。
「透麻さん……きもちいい。まるで――」
「まるで、月を游いでいるような？」
游月は楽しそうに笑って頷いた。そのふわふわと和んだ表情とは対照的に、透麻は厳しく眉をしかめてみせて、
「いいですか、游月。私以外の人間とお酒を飲んでは駄目ですよ」
游月はちょっと首を傾げて「なぁぜ？」と訊く。
「ほら、そんなちょっとした仕草だって、胸の奥が掻き乱されるほど色っぽい。ほろ酔いの紅い月は、男を狂わせるのです」
「ん、分かりました。透麻さん以外の人とはお酒を飲みません」
「游月はいい子ですね」
透麻は細い腰に手を回してぎゅっと力を込めた。游月は嬉しそうにふふっと笑って、
「透麻さんに褒められちゃった」
「おやおや、そんなに嬉しいですか？」
「だって……いつも游月は悪い子だとか、游月はいやらしい子だ、って」
透麻は肩をすくめて笑い、耳許に口を寄せると、
「仕方ないでしょう？ いつも透麻さんもっとして、もっと欲しいっておねだりばかりしてくるではないですか。いやらしい子だ……」
「だっ…て、気持ちよくて止まらなくなっちゃうから。ね、透麻さんは？ 気持ちいい？」
「いつも天国を見ていますよ、游月。今夜も止まりそうにありません」
麻はさりげなく本音を囁いて、桜色に潤んだ耳たぶにちゅっとキスをした。
「透麻さん、ここ……」
白髪のバーテンダーに別れを告げ、二人は夜の繁華街を歩いた。透麻には目的の場所があるようだったが、「どこに行くの？」と訊ねても、秘密めいた微笑みを返すだけで教えてくれない。
游月はちょっとだけ膨れて、でも内心はわくわくしながら透麻の傍にぴったり寄り添って歩いた。そして――
「ここって…ホテル？」
洗練された外観は、いかにもラブホテルといったどぎつさとは無縁だった。こういうのはブティックホテルとかファッションホテルなどと呼ばれ、最近増えつつあるというのは游月も知っていた。もちろん利用したことはないが。とはいえ、外観がどうであれそういう目的で宿泊するものであることは間違いない。
「さあ、行きましょう」
しかし透麻は躊躇することなく游月の手を引き、建物の中へ。無人のフロントを素通りして、游月に相談もせず部屋を決めた透麻は、再び手を引いてエレベーターに乗った。そして目的の部屋の前へ。
「ね、游月。ちょっと目をつむっていてください」
「は、はい……」
言われた通り目を閉じて、透麻の先導に委ねる。室内に入り少し奥へ進むと、「さあ、目を開けて」と楽しげな声が。游月がこわごわ目を開けると――
「う……わぁ……」
高い天井や壁一面に広がる悠久の星空。部屋の中央には蒼白く浮かび上がるベッドがぽつりと置かれているだけ。まるで、星の海を遊覧する小さな方舟のようだった。游月は自ら透麻の手を引いて部屋の中に進む。そしてゆっくりと周囲を見回し、
「なんて、きれい……」
「偽物だと分かっていても、吸い込まれそうになってしまいますね」
游月はくるりと振り向いて透麻の方に向き直り、
「偽物だっていい。こうして二人でいれば、偽物の星空だって偽物の天の川だって、本物に勝る感動をもたらしてくれる。透麻さんが傍にいて、愛してくれれば、それだけで――」
游月は腕を伸ばして透麻に抱きつき、続く言葉を囁いた。
「それだけで、全ての嘘が“本物”になってしまうのです」
「………」
その瞬間、透麻の顔を暗いものがさっとかすめた。変化と呼ぶにはあまりにかすかな翳だったが、気のせいだと見過ごすには妙に生々しい感情がこもっているように見えたのだ。
「透麻さん……？」
游月は不審を隠せず、どうしたのかと訊ねようとした。しかしそれに先んじて身体を抱き上げられ、夜空に浮かぶオパール色の寝台にそっと横たえられた。見上げた透麻の顔には、游月の不審を綺麗に払拭する美しい笑みが広がっていた。やはり、気のせいだったのだろうか。
「我、星の下で月を抱かん──朔太郎の詩みたいでしょう？」
透麻は少しおどけた調子で囁きながら、游月の服をゆっくりと剥いでゆく。徐々に露わになる肌は月下の雪原のように仄蒼く、そこに注がれる透麻の視線が徐々に熱を帯びてゆくのが分かる。
「そんな詩……聞いたことな…い……」
游月は甘い声で否定しつつ、視線の愛撫がもたらす秘めやかな快感に酔った。やがて全ての衣服が取り払われると、游月は自ら脚を大きく開いて期待に震える蕾を差し出し、
「透麻さん………さあ、月の海で游いで」
透麻は返事の代わりにごくりと喉を鳴らすと、官能の海に飛び込んだ。永遠に溺れてしまいたいという、狂気じみた欲望を隠そうともせず。
星の輝きも褪せるほどに熱く激しい夜を過ごした二人は、太陽が昇りきって天頂を越えようかという頃、ようやく目を覚ました。
「んっ……」
「游月、起きましたか？」
「は…い。おはようございます……」
うにうにぐずりつつも、游月は律儀に朝の挨拶をする。しかしなぜか目を開けようとはせず、逆にぎゅっとまぶたに力を入れて透麻の胸に顔をこすりつけた。
「どうしたのですか？ どこか具合でも……」
透麻はおそるおそる訊ねながら昨夜の交合の激しさを思い出し、今さらながらに反省する。喉を嗄らして悲鳴を上げ、涙を振りまいてシーツにしがみつく游月の姿は、獣と化した夜には甘美な媚態以外の何物でもないが、情欲の嵐が過ぎ去った穏やかな朝に再び思い返してみれば、激しい蹂躙にひたすら耐える健気な恋人そのものだった。透麻は自然と項垂れ、
「すみません、また暴走してしまいました。このままではいつかあなたを壊してしまうかもしれ――」
「ち、違うんです。透麻さん、そうじゃなくて……」
游月は慌てて否定して、透麻の胸に唇を押し当てる。そして、
「目を開けるのが恐くて……。あの綺麗な星空が消えて、殺風景な壁に囲まれているんじゃないかと。なぁんだ、こんな部屋だったんだ、って幻滅したくない」
「游月はロマンチストなんですね」
「いいえ、子供なんです。ずっと夢を見ていたいと駄々を捏ねるだけの……」
透麻はくすりと笑い、
「恐がることはありません。たとえ星が消えていても、游月の傍には私がいます。ほら」
そう言って游月の手を取り、自分の瞼から鼻、頬、唇に触れさせた。そして、厳粛な声で告げる。
「私は消えません。決して」
游月はゆっくり目を開けた。そして「透麻さんがいる……」と嬉しそうに呟く。
「いますよ。ずっといます。さあ、もう恐くないでしょう？ 周りを見てご覧なさい」
游月は頷いて身体を起こし、周囲を見回した。と同時に「うわぁ」と感嘆の声が上がる。
「魚になったみたい……」
確かに星は消えていた。その代わり室内はエメラルドグリーンに染まり、壁を魚が泳いでいた。
「ひとつの夢から醒めてしまっても、また新たな夢を見ればいいのです」
透麻の言葉に頷きつつ、游月は腕を伸ばしてゆったりと抱きついた。そして再びベッドに倒れ込み、二人はシーツの海を心ゆくまで彷徨った。
チェックアウトを済ませて外に出ると、雲ひとつない快晴だった。しかしとことんインドア派で人ごみが苦手な二人には、せっかくだから寄り道、という発想は無縁。真っ直ぐ游月のマンションへ向かおうとしたのだが、ここで游月はちょっとした思いつきを口にした。
「あの、透麻さん。僕、行きたいところがあるのですが」
游月の方から提案するのは珍しかったから、透麻は少なからず驚いたようだった。しかしすぐに嬉しそうに目尻を下げ、「どこでもお供しますよ」と頷く。しかし游月が「透麻さんの家に行ってみたいです」と答えると、笑顔はぴきぴきと音をたてて凍りついた。
「あ、あの……」
凍りついたのは游月も同様だった。なぜ透麻がこんな反応を見せるのか分からない。たとえ恋人でも、プライベートに踏み込まれるのが嫌なのかもしれない。そういう男性はけっこう多いと聞く。
あるいは、そこまで深い付き合いだとは思っていないのか。家に呼ぶほど、私とあなたは親密ではありませんよ、と――
「ご、ごめんなさい……」
頭の中が整理できないまま、游月は必死に謝った。ちょっとした思いつきを軽々しく口にした自分が悔やまれてならない。しかし透麻はそれ以上に慌てた様子で、
「あなたが謝ることではありません。ただ、その……部屋が散らかっていますので、今日はちょっと………すみません」
彼にしては珍しく視線を合わさずに謝ると、游月の手を引いて地下鉄の入口へ急いだ。その時心の奥の柔らかい部分に刺さった小さな棘を、游月は抜くことも忘れてしまうこともできなかった。
BACK TOP NEXT
