十五話＜名残月＞
「色々ご迷惑をおかけしました。突然いなくなったりして。それに、まだ契約も二年以上残っていたのに……」
不人の店のカウンターに座って、項垂れる游月。しかし不人は大仰に手を振って笑い、
「謝ることないわ。真人だって許されないことをしてしまったのだから、これでおあいこ。差し引きゼロよ。分かった？」
「はい。ありがとうございます」
不人は満足げに頷いたが、ふっと顔を引き締めて、
「ねえ游月ちゃん、真人のこと……恨んでる？」
游月は大きく瞬きして、不人の顔をじっと見つめた。が、すぐに微笑みを返して、
「いいえ、恨んでいません。社長も、このレーベルを守るために必死だったのでしょうから。それに、もし社長が透麻さんに命じていなかったら、僕たちは今でもよそよそしい他人のままだったかもしれません」
「ええーッ、つまりぃ、真人は恋のキューピッドだったってわけ？ やっだぁ、冗談じゃないわ、あんな髭を生やしたおっさんキューピッド。超キモイ」
この悪態はそのまま不人にも降りかかってくるのだが、本人は気付いていないらしい。腰をくねらせてキモイキモイと喚いている。返答に困った游月は、取り敢えず笑って誤魔化した。
「あっ、そうだ。もうひとつ游月ちゃんに謝らないといけないことがあったわ。勝手に昔の恋人のこと喋っちゃってゴメンね」
「あ……いえ、いいんです。いつかは透麻さんに話そうと思っていたことですから。でも透麻さん、呆れてませんでした？ そんな男に騙されて、馬鹿な子だって」
不安げに訊ねる游月に、不人は淡々と答えた。
「泣いてたわ。痛い、痛いって言って」
「えっ？」
「涙こそ流していなかったけれど、游月ちゃんの痛みを共に感じて泣いていた。そんな表情してたわね」
游月は、自分の言葉を恥じた。いくら不安だったとはいえ、透麻の人間性を貶めるようなことを言ってしまった。
「透麻さん……」
再び項垂れてしまった游月に、不人は明るい声を掛けた。
「でね、これじゃ不公平だと思ったから、游月ちゃんにも透麻くんの過去を教えてあげようと思って。彼ね、昔はすんごい悪かったのよ。高学歴でエリート官僚の親に対する、子供じみた反発のせいだって本人は言ってたけど、とにかくヒマさえあれば喧嘩ばっかりしてたって」
「透麻さんが？ だって……あんなに穏やかで優しくて、争いは好みません、って感じなのに」
「うん、だからね、途中で変わったの。本人曰く、カッとなると頭に血が上って、容赦なく叩きのめしてしまう。そのせいで、人を殺しかけたこともある、って」
游月は「うそ……」と呟いて絶句した。しかし不人は続ける。
「ところが、そんな透麻くんを変えた人がいたの。高校を退学処分になって行き場を失ってしまった彼に手を差し伸べた人。その人は、高校生の息子を集団リンチで喪うという過去を持った人でね、透麻くんに、自分の体験を語ることで暴力の悲惨さ、虚しさを教えようとしたのよ」
「ああ……それで透麻さんは……」
「そう、その人の想いに触れて自分の行いを深く反省し、今後、決して暴力に頼らないと誓った。そして、その人が経営している小さな出版社で働き始めたの。それまで読書なんてほとんどしたことなかったのに、その影響で色んな本を読むようになった」
私は活字中毒なんで、透麻がそう言っていたのを思い出した。
「けどね、折からの出版不況でその会社は倒産してしまった。文学史に埋もれた作家を掘り起こし、その全集を良心的な価格で刊行するような会社だったから、遅かれ早かれ倒産は免れなかったかもしれないわね。そして残ったのは、莫大な負債。中でも真人に借りていた金額は大きかった」
「社長に借金を？」
「ええ。今ではもう、金融業から足を洗ってはいるけどね。当時は中小企業への金貸しもやってたの。で、透麻くんはどうしたか。その借金を全て肩代わりしたのよ」
游月は驚いた。が、同時に納得もした。何とかして恩返しがしたい、透麻はそう思ったに違いない。
「そのためにＭ２レーベルと役者契約をし、ビデオへの出演料で返済することにしたの。まさに身体で返す、ってわけね。真人はもう大喜びよ。彼には全て揃っていたからね。均整のとれた逞しい身体、涼しげな美貌、そして自分を律する強い精神」
不人は悪戯っぽく笑って、
「ま、最後のは游月ちゃんのせいでガタガタになっちゃったけどね」
「不人さんっ」
赤くなってじっとり睨む游月に、「だって事実でしょ？」と肩をすくめ、
「彼はすごいわ。ホントにすごい。本業の方も黙々とこなしながら、全ての借金を返済したのだから」
「えっ、透麻さんの本業？」
「あらあら、知らないの？ そっかあ、ま、本人から聞いた方がいいわね。ほら、もうお行きなさい。彼が外で待ってるんでしょ？」
游月は神妙に頷いて席を立ち、深く一礼した。
「本当にお世話になりました。あの……社長にもよろしくお伝えください」
そして店の出口へ向かう。不人はその背中を見送りながら、
「もう游月ちゃんと会うことはないわね。違う世界の住人になったのだから。……幸せになりなさい」
游月は足を止めたが振り向かず、その場で「はい…」と答えて店を出ていった。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
「いえいえ。ちゃんと話せましたか？」
游月はにっこり笑って頷いた。透麻も微笑みを返し、
「では、どこへ行きましょうか。お姫さまのお望みのままに、どこへでもお供いたしますよ」
游月はこくりと喉を鳴らして、自分の望みをはっきり伝えた。
「では、透麻さんの家へ」
笑顔のまま硬直する透麻をじっと見つめて、
「以前こう言った時も、透麻さんは同じ反応を示しました。そして、部屋が散らかっているからまた今度、と慌てた様子で……」
游月はきゅっと唇を噛み締めた。あの時感じた言いようのない淋しさが、喉元から込み上げる。でも、ちゃんと言わねばならない。再び口を開き、
「正直言って、かなりショックでした。プライベートを明かすほど親密ではないと、暗に拒絶されているように思えてしまって」
心に刺さった小さな棘。それはまだ抜けてはいなかった。今もまたずくずくと疼き始める。それに気づいているのかいないのか、透麻はかすかに眉根を寄せて頭を下げた。
「游月、申し訳ありませんでした。あなたにそんな哀しい思いをさせてしまったなんて。分かりました。ご案内します」
游月は大きな喜びと小さな不安を抱えたまま、透麻の車に乗り込んだ。
「ここが……」
閑静な住宅街の中にある、こじんまりした角砂糖のようなマンション。その一階に透麻の部屋はあった。透麻は鍵を取り出してカチャリと回すと、緊張をほぐすためか深呼吸をした。
「あの……游月、驚かないでくださいね」
不思議な前置きの後、扉を開けて游月を招く。そっと近付いて玄関から奥を覗き込んでみると――
「なっ、なにこれっ」
本、本、本……玄関まで溢れる本の山。いや、本の海。呆然と固まる游月に、透麻はおそるおそる声を掛ける。
「あの……中へ。物は多いですが、不潔にしているわけではありませんので安心してください」
何が安心なのかよく分からないものの、取り敢えず游月は頷いて靴を脱ぐ。そしてそおっと奥へ進むが、奥へ行けば行くほど秘境度は高まるばかり。
大体、どこが寝室でどこがリビングでどこがキッチンだかもよく分からない。みんな本に埋まって同じ景色だから。
「透麻さん……あの、どこで寝てるの……？」
素朴なギモンをぶつける游月。透麻は「ああ」と声を上げて、
「あそこに窪みがあるでしょう？ そこに薄い毛布を敷いて寝ることが多いですね」
確かに、本を掻き分けてできた穴みたいなものがある。野生動物が本能のままに拵えた寝床にしか見えないが。透麻は肩をすぼめて項垂れて、
「あなたの部屋があんまり綺麗だったので、その、こんな部屋を見せたら軽蔑されてしまうのでは、と。それが怖くて呼ぶことができなかったのです」
游月は思わず脱力して座り込む。そんな理由だったなんて。
「游月っ、大丈夫ですか？ ああ、この部屋はいつも閉め切りで空気が悪いから、気分が悪くなったのですね。そこに横になってください」
透麻はあたふたと本を掻き分けて、何とかスペースを作ろうと奮闘する。游月はハア、と溜め息をついて、
「大丈夫です。それより透麻さん、もうひとつお願いがあります。透麻さんの本業を教えてください」
床の本を必死でどかしていた透麻は、はたと手を止めた。そしてにっこり笑い、
「ちょうど良かった。さきほどこれが届いたところなのです」
一冊の真新しい本を游月に渡した。タイトルは『月に游ぐ』。そして著者の名は――
「榊（さかき）透麻、って……透麻さん、まさか作家？！」
「はい。それがやっと五冊目になりますが。一応作家、です」
謙遜なのか本音なのか、本人は一応、などと言ってはいるが、実は幻想純文学のジャンルではかなりの評価を得ている作家だった。
神秘と頽廃の香気漂う世界観、流麗な文章、そしてそこかしこに散りばめられた衒学趣味（ペダントリー）。決してベストセラー作家ではなかったが、一部の熱狂的なファンに支えられて安定した発行部数を維持していた。
「このタイトルは……」
透麻は照れ臭そうに鼻の頭を掻いて、
「はい。もともと月を題材にした連作短編集を出す予定で、タイトルも違うものを考えてありました。でも、游月と親しくなるうちにこれ以外は考えられなくなって……。勝手に名前を拝借してしまって、済みません」
「ううん。勝手に名前もらっちゃったのは、僕の方が先だし」
「ああ、そうですね。ハムスターのトーマ、私の可愛い弟だ」
游月は、闇を塗り込めた夜空に蒼い三日月の浮かんだ幻想的な表紙をじっと見つめた。自分の名前が刻まれた本。喉の奥から、不思議な感動がじわじわと湧き上がってくる。
震える指先で、そおっと宝物を扱うように本を開く。すると最初のページにたった一行、まるで作者の独り言のような短い献辞が掲げられていた。
――我が最愛の游月に捧ぐ
「透麻さん、これ……」
「はい。私の、嘘偽りなき気持ちです。この本は、あなたがいなければ恐らく完成することはなかったでしょう。受け取っていただけますか？」
はい、喜んで――そう言いたかったのだが、喉が震えて声が出なかった。代わりに、本をぎゅっと抱き締めて頷く。透麻の想いが詰まった透麻の世界を捧げられて、歓喜の余り眩暈がしそうだった。
「それから、あの……もうひとつお願いがあるのです。游月、一緒に暮らしませんか？」
游月は大きな瞬きで驚きを表す。透麻は少し言いにくそうに口ごもったが、自分の中で助走をつけるようにふっと強く息を吐いて決然と続けた。
「この状況では信じにくいかもしれませんが、ちゃんと整理整頓します。本も、必要な分以外は処分します。だから――」
「大丈夫です、僕に任せてっ。僕……収納の鬼になります！ ここにある本、透麻さんごと全て引き受けます」
「本当に？」
「はいっ。だからこれからも、素敵な作品をいっぱい書いてくださ――」
言い終わらぬうちに、腕を強く引かれて抱き締められる。そして少し咎めるような問いが降ってきた。
「それよりもっと大事なことがあるでしょう？」
游月は腕の中で小さく頷いて、
「僕をいっぱい……愛してください」
「愛します。今私たちを囲んでいる本が語る愛の何倍、何十倍も……」
二人の物語は、まだ始まったばかり―――
（Fin）
＊読了ありがとうございました。今後は番外編ＳＳなどで二人の新婚生活をご披露したいと思っております。どうぞよろしくお願いします。
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