―50万ヒット記念小説―
一話＜新月＞
―――我が最愛の游月に捧ぐ
これ以上はないくらい殺風景な部屋。“病室のような”と表現すれば、きっと笑われるだろう。何しろ、本当に病室なのだから。
但し、撮影用のセットであるが。
「あっ、あっ、せんせい……もう、やめてください……」
「何だと…？ 君は注射の仕方が下手だから、私が教えてやっているのではないか」
部屋の真ん中にぽつんと置かれた粗末なベッド。その上で二人の青年が激しく交わっている。
一人はおそらく二十代後半、肩の下まで届く長めの黒髪を後ろで一つに束ね、白衣を着ている。ガウンのように無造作に羽織った白衣の上からでも、硬く締まった筋肉の躍動が感じられる逞しい肢体。
身体の下に組み敷いた獲物を見下ろす切れ長の眼は不動の情欲に沸き、ぬめぬめと妖しく光る。それが演技なのか実際に欲情しているのかは、長年彼と仕事を共にしているスタッフたちでも分からなかった。
しかしひとつ確かなのは、そうやって獲物を犯している時の彼は、凪いだ湖面のような透き通った静けさを湛えた普段の彼からは想像もつかないほどに激しく、ほとんど魔性の、とも呼び得るほどの危うい魅力を放っているということ。
相手を絶頂へ導くためのテクニックも申し分なく、彼と仕事をしたいと望む“女優”が多いのも頷けよう。
その彼の下で喘いでいるのは、まだ二十歳になったばかりの青年。とはいえ、ほとんど無毛の白い脚や華奢な腰、そして何より、お伽話のプリンセスを彷彿とさせる可憐な美貌のせいで、十代の多感で高慢な美少女のようにも見える。
白皙の面てに浮かんだ紅い唇はしっとりと濡れて、耳が隠れる長さのつやつやした黒髪を振り乱して快楽に喘ぐその姿には、少女と少年と青年の間をゆらゆらと行き来する、艶めかしい性の揺らぎが息づいていた。
今は看護師の白い制服を着て脚を広げ、剥き出しの局部を惜しげもなく与えていたが、淫らに着崩した黒留袖など、和の風情もまた似合うに違いない。彼が「ああん…」と喘ぐたびに、周囲から熱い溜め息が漏れて現場の温度を上昇させた。
そんな現場の空気に比例するかのように突き上げも激しさを増し、ぐちゅぐちゅと粘膜のこすれ合う蜜音、湿った息遣い、快感を訴える嬌声、粗末なベッドがぎしぎしと軋む音などが、この狭い空間を支配してゆく。撮影はまさに今、クライマックスを迎えようとしていた。
「せんせい、ゆるして、ゆるして………ああ……誰かに、見られ――」
「構わんさ、辞めさせられるのは君の方だ。……ほら、どうだ。声を出してみたまえ」
「いやっ、いやぁ………ァッ、ァ……だめ、そこ、だめっ………」
だめと言いながら腰を高く跳ね上げて、自分を犯す雄の象徴をより深く呑み込む。
「なるほど……こうやって院長をたらしこんだのか。大したものだ」
「ちがうっ……あれは院長に無理やり……」
「嘘をつくなッ」
「あッ、ァ…………あああああーーーッ」
高らかに上がった悲鳴とともに、白い蜜が制服に飛び散り染みを作った。のしかかっていた白衣の男も同時に絶頂を迎え、「ぐッ」と低く呻いて動きを止めた。
いや、完全に止まったわけではなく、繋がったまま腰を小刻みに揺らし奥処めがけて注ぎ込んでいる。
やがてじゅるっと音をたてて引き抜くと、ぐったりと弛緩した白い身体を引っくり返して腰を抱えた。そしてまだ半勃ちの自身を無理やり突っ込んで、再び注挿に没頭し始めたのだった。
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
看護師の制服を脱いでラフな私服に着替えても、晢夜（せいや）の可憐な美貌が損なわれることはなかった。むしろ、いかにも取ってつけたような安っぽいコスプレなどよりずっと、彼の魅力が引き立っているとも言える。
細身のブルージーンズに真っ白な洗いざらしのシャツというシンプルさは、他人に媚びないストイックで凛とした少年を連想させた。
「ああ、お疲れさまです、晢夜くん。次は三日後ですね。よろしく」
挨拶を返したのは、白衣を乱して晢夜を犯していた男性。撮影時に見せていた、淫靡で暴力的な翳は綺麗に消え失せ、陽だまりを思わせる穏やかな微笑みを浮かべている。
晢夜はぺこりと頭を下げ、「はい。透麻（とうま）さん、よろしくお願いします」と律儀に答えて帰っていった。
ついさっきまで、互いを喰い尽くすかのような激しい交接にのめり込んでいたとは思えないほど二人の別れ際は素っ気なく、限りなく事務的なものだった。
もちろん、仕事上のパートナーに過ぎないのだし、組む相手は他にもいるのだ。撮影のたびにいちいち燃え上がっていては仕事にならない。
とはいえ、あの人は僕に気があるんだと勘違いして現場を引っ掻き回した挙げ句、脅迫紛いの捨て台詞を残して辞めていく“女優”も多かったから、携帯の番号も交換せず、ちょっと食事に誘うようなこともしないというビジネスに徹した二人の態度は、スタッフ達からは好意的に見られていた。
しかしたった一人、そんな二人のクールな関係に水を差そうとしている者がいた。他でもない、二人が出演している同性愛専門のアダルトビデオ『Ｍ２レーベル』の社長である。
「ねえねえトーマくん、ちょっといいかしら」
次の撮影の打ち合わせを終えて、そろそろ帰ろうとしていた透麻を呼び止めて、普段は余り使われない資料室へ誘う。
「何ですか？ 社長」
「いやぁん、名前で呼んで、ねっ？」
腰をくねくねさせて、長身の透麻を見上げる社長。このオネエ言葉さえなければ、英国屋のオーダースーツにカイゼル髭という、大正ロマン風の粋な紳士そのものなのだが。
しかし透麻は表情を変えず、無感動な声で「何ですか？ 真人さん」と言い直す。Ｍ２レーベルの社長、村岡真人（むらおか・まひと）は満足そうに頷いて、再び透麻を見上げた。
「あのね、晢夜くんのことなんだけど」
「はい」
「あのコ、どう思う？」
晢夜の何について訊かれているのか分からない透麻は、そっと眉根を寄せた。他人の前ではあまり感情を面に出さない透麻にしては、珍しいとさえ言える明らさまに不審な表情。
「申し訳ありませんが、もっと質問の範囲を絞っていただけませんか？ 余りに漠然としていて、回答不可能です」
「うーん、つまりね、“女優”としてどう？ 魅力あると思う？」
ようやく質問の意図が掴めた透麻は、少し考えて口を開いた。
「彼はなかなかの逸材だと思いますよ。反応は的確だし、鑑賞者を興奮させるツボを心得ている。それに容姿も身体も申し分ない」
「あたしは不満だわ」
透麻の答えを遮るように、真人は苛立たしげに叩きつけた。そしてもう一度、「不満だわ」と繰り返す。
「どこがですか？ 彼はＭ２レーベルの稼ぎ頭でしょう？ 他社から引き抜きの誘いも多いと聞いています。にもかかわらず驕ることなく真面目に撮影に取り組んでいるし、努力家だし」
「だからなのっ。その辺の使い捨ての女優ならこれで十分だし、あたしだってこんなうるさく言わないわ。でも晢夜くんは違う。彼には秘められた可能性があるのに、それが埋もれたままでいるのが歯がゆくてたまらないのよ」
真人の言葉に本物の苛立ちを感じた透麻は、取り敢えず真面目に対応することにした。
「では真人さんは、彼の何が気に入らないと仰るのですか？」
「彼は確かにキレイ。でも、色気と可愛さに欠けるわ。致命的なほどにね」
「そう…でしょうか……」
透麻の歯切れが悪くなった。真人はにやりと笑って透麻の胸をとん、と小突き、
「トーマくんだって気付いてるでしょ？ あのコは演技中、快楽に喘いでいる自分を冷静に、客観的に眺めている。さっきトーマくんは『鑑賞者を興奮させるツボを心得ている』と言ったけれど、まさにその通りね。ここでこう悶えればいい、こんな表情をすればいい、そんな計算づくの演技なのよ、全てが」
それはずい分前から透麻も気付いていた。晢夜のプロ意識がそうさせるのか、或いは本物の快楽にのめり込むことへの恐怖心がそうさせるのか（そういう女優は案外多いのだ）は分からない。
いずれにせよ何度抱いても身体を重ねても、彼の皮膚を覆っている硬い殻を突き破ることはできなかった。
しかしそれはそれで仕方のないことではないか。行為の最中に覗き込んだ瞳は、いかなる干渉も感傷もはねつける結晶の冷たさで見返してくるばかりで、透麻は時折もどかしさを感じることもあったけれど、無遠慮に彼の内側を探るようなことは慎むべきだと自分を戒めていた。
それに、彼は仕事上のパートナーとしては申し分なく、真人が言う欠点など補って余りあるほどの魅力を備えていることは間違いないのだから。余り多くを望みすぎるのは酷ではないだろうか。
「仰る意味は何となく分かります。しかし、今でも十分鑑賞者を惹きつけているのですから、敢えて注文をつける必要はないのでは？ それに、あの冷たさが彼の個性という見方もできるかと」
「ブーッ、残念、それはないわね。本来のあのコはもっと情熱的で激しくて……。昔あたしが見たビデオは、もうとろけるくらいの色気があって――」
「昔のビデオ？ 何ですかそれは」
真人は一瞬だったが、しまった、という表情で口を噤んだ。しかしすぐにいつものにやけた笑いに戻って、
「ううん、何でもないのよぉ。とにかくね、あたしはあのコの能力を引き出して、一流の“女優”にしてあげたいの。そこで、トーマくんの協力を仰ごうってわけ」
「協力、ですか？ 一体何を」
「あのコに、嘘でいいから愛の告白をして。そして恋人同士のセックスをしてみせて」
透麻は表情を変えぬまま、ちらと肩をすくめた。透麻と付き合いの長い真人は、そんな反応を予測していたのか返事を待つことなく畳み掛ける。
「何言ってんだこいつは、って顔ね。まあ聞いて。あたしは断言するけど、あのコに恋人はいないわ。だからね、トーマくんの持てるテクを総動員して、あのコを口説き落としてちょうだい。そして現場で、恋人同士としてセックスするの。そうすればきっと、あのコの中で今は凍りついている魅力が溢れ出てくるはずよ」
「お言葉ですが、私には総動員するようなテクはありません」
「バカねえ、言葉のアヤよ。トーマくんみたいな無骨な色男はね、ちょっと声を低めて『お前が好きだ』って言うだけでいいの。無器用な自分に付いてきてくれ、って。ああん、想像しただけでちょっと勃ってきちゃった」
透麻は、眉間にしわが寄るのを抑えられなかった。ふぅっと溜め息をついて、
「社長、私はそんな真似したくありません。誰か他の男優に頼んでください」
「ダメよぉ。他のは晢夜くんの魅力に呑まれて、本気になっちゃう危険性があるわ。知ってるでしょ？ 柴山さんとか、斉藤くんとか」
「ああ…」
今名前が出た二人は、いずれも晢夜と数回組んだだけでめろめろになってしまい、俺のものになってくれとしつこく迫って晢夜を疲労困憊させた。
もちろんすぐに契約を打ち切られて、アングラ系の猟奇的な作品しか出さないレーベルに強制送還されたとか。
「だからね、トーマくんが適役なの。分かるでしょ？ 君ならこれもビジネスの一環として、完璧に遂行してくれる。これまでだって晢夜くんとは付かず離れずのいい関係を維持してこれたんだし。それにそもそも、ＡＶの女優なんかに君が本気になるはずもないし」
「そんなことは……」
「嘘おっしゃい。今まで一体何人の女優をフッてきたのよ。あたしはちゃあんと知ってるんですからね」
「しかし、それとこれとは別だと思いますが」
真人は、綺麗に撫でつけた前髪をそっと指で梳いて透麻を睨み、含みのある低い声で告げた。
「トーマくん、社長の命令はゼッタイよ。分かってるわよね？」
「はい……分かっています」
透麻は拳を握り締めて感情を抑えた。透麻には、真人の命令を拒絶できない重い理由があったのだ。真人は満足げに笑い、
「次の撮影は三日後ね。それが終わった後、彼を誘って食事をしなさい。そしてその時に告白するの。前から好きだったけれどなかなか言い出せなかった、ってね」
「十中八九拒絶されると思いますが」
「分かってるわよ。まあ聞きなさい。拒絶されたらゴリ押しはせず、その代わりこれから撮影の時は自分が送り迎えをするからと言って、許可を得なさい。最初はあくまで紳士的にね。多少時間がかかっても構わないわ。でもそうするうちにきっと、撮影中の態度や反応が変わってくるはず」
透麻はなるほど、と思った。普通は告白して拒絶されればセックスはできない。しかし自分たちの場合は、とにかくセックスだけはできるのだ。仕事上のパートナーという関係さえ保てれば。
だからと言って、そこから何かが生まれると考えるのは、余りにご都合主義ではないだろうかとも思うのだが。
「そんなにうまくいくか、って思ってるでしょ。まあまあとにかくやってみてよ」
「……分かりました。しかし過度な期待はやめてくださいよ」
「期待してるわ、トーマくん」
真人はちゅっと投げキッスを贈ると、さっさとその場を立ち去った。一人残された透麻は、無理やり背負わされた厄介事に暗澹たる思いを抱かずにはいられなかった。
そして三日後。社長からの指令を実行する日がやってきた。撮影自体は何の問題もなく、スムーズに進行していった。透麻も後に控えている厄介事のことを忘れ、仕事に集中した。
今撮っているのは『お仕事シリーズ』とかいう連作もので、前回の天才外科医×看護師に引き続き、今回は保育園を舞台にした、子供の父親×保育士という設定だった。
透麻も晢夜も、何でこんなものが売れるのかよく分からなかったが、今や同性愛ＡＶの世界でも趣味嗜好の細分化が進んでおり、男同士がヤッてればいいというものではないことは知っていたから、まあ色んな性癖の人間がいるのだろうと納得していた。
「お疲れさまです、晢夜くん。あのアップリケの付いたスモック、けっこう似合ってましたよ」
「からかうのはやめてください。まだナースの方がましだ」
いつものように他愛ない言葉を交わす。そしてどちらからともなく「それじゃ」と挨拶して別れる、それがこれまでのパターンだった。しかし、
「あ、ちょっと待ってください。よろしければ、その、一緒に食事をしませんか？ 帰りはちゃんと家までお送りしますので」
突然の誘いに、晢夜は大きな瞬きで応えた。引き絞られた瞳孔が、驚きの大きさを物語っている。
「だめ、ですか？」
断りの言葉を予測した透麻は、おそるおそる問いを重ねた。すると晢夜はまだ戸惑いつつも、小さく頷いてくれた。
「そういえば、よく一緒に仕事するのに食事は行ったことなかったな。いいですよ」
「ありがとうございます」
透麻はほっと胸を撫で下ろした。これで真人の指示をひとつクリアしたことになる。あとは帰り際にでも適当な愛の言葉を吐いて、相手の反応を見ればいい。
「では、行きましょうか」
透麻は、晢夜の背中にそっと手を添えて促した。撮影時の濃密な交わりとは比較にならぬほどささやかな触れ合いだったが、晢夜はぴくりと身じろいだ。
「申し訳ありません。驚きましたか？」
透麻はすかさず謝罪し、手を離す。すると晢夜は慌てて首を振り、
「い、いえっ。僕の方こそごめんなさい。意識しすぎですよね」
そう言って、ほんのり赤らんだ頬を隠すように手で覆って、透麻の傍に寄り添った。透麻は思わず呟く。
「……あなたも、そんな風に慌てたりうろたえたりするのですね」
「え？ 何ですか？」
「あ、いえ。何でもありません。さ、行きましょう」
透麻は不思議と浮かれている自分を痛いほど意識していた。
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