１１.
「純、純っ」
尭村は必死に呼びかけるが、純はそれに応えるどころか、布団を跳ね除けて叫び出す。
「ぅああああああーッ、あきむらさんなんか、あきむらさんなんかぁッ、」
激しい涙、そして罵倒。こんな泣き方をする純は見たことがない。いつも申し訳なさそうにはらはらと涙をこぼすばかりだったのに。
「僕の言うことちっとも聞いてくれない、信じてもくれないっ。いっつも勝手に怒って勝手に無視して、勝手にどっか行っちゃうんだぁっ。だいっきらい、あきむらさんなんか、もう知らな……うぅっ………ぅっ」
「純……悪かった……純………」
尭村は、点滴の針が刺さっている腕だけを押さえつけて、あとは好きにさせた。純は暴れて足をばたつかせ、尭村の腹を胸を蹴り上げる。
―――純、全て吐き出せ。何でも受け止めるから……
やがて、もともと衰弱していた身体に限界が来たのか、尭村を蹴り、殴る力は徐々に弱まり、そして静かになった。肩を上下させて荒い息を吐きながら、
「もぉ…つらいよお……こんなのやだぁ……嫌われないようにってがんばったけど、だめなんだもん……過去はどうしようもないの………」
痛々しい視線を宙に彷徨わせ、やがて、覚悟を決めたかのように告げる。
「もいっかい生まれ直すしか……僕………」
尭村は純の身体に抱きついた。優しく抱くつもりだったのに、力の加減ができない。想いの強さに四肢が翻弄されて、どうしようもない。
「いや…だ、純、行かないでくれ、俺を……捨てないでくれ、一人にしないでくれ、傍にいてくれっ」
「う……うぅっ………っふ」
純はしゃくり上げながら、不思議な感覚を反芻していた。これまでは自分が縋りつき、傍にいてと懇願するばかりだったのに。この人がこんなことを言うなんて―――
「尭村さぁん……僕、あなたに隠してることいっぱいあるの……昔のこと………。それでも―――」
「構わない。過去も未来も、実体のない妄想みたいなもんだと分かった。俺は今のお前を愛する」
「あぁ………」
嘗ての恋人と同じ言葉。一瞬面影が重なったが、それはすぐに払われた。目の前にいるのは、誰よりも愛しい人。
「尭村さん、もう……勝手に怒ったりしない？ 僕に背中向けたりしない？ 他の…女の人とキスしたりしない？」
涙と共に必死に訴える純。尭村は最後の言葉に不審を抱いたが、はたと思い当たり、どもりながら弁解した。
「お、お前あれ見てたのかっ。いや、ち、ちがうんだ。あれは―――」
「知ってるもん。後から先輩が教えてくれたから。でも、見た時はホントに悲しくて、ショックで、やっぱりもうだめなんだ、って………」
ようやく合点がいった。昼休みどこへ行ってたんだと問い詰めた時の、純の態度。純にしてみれば、あなたこそどこで何していたのと言いたいところだったろう。
「天罰だな。あんなもので機嫌とろうとしたから……ああ、くっそ」
頭をばりばりと掻く尭村を潤んだ瞳でじっと見つめると、純はその胸にそっと頬を寄せて、
「ね……どきどきした？ 久しぶりに女の人とキスして、気持ちよかった？」
不安げでありながら、どこか艶かしい問いかけ。尭村は誘われるように頬に手を添え、上から唇を塞いだ。
「ん……っふ……ぁきむらさ………」
苦しそうに喘ぐ純から一旦唇を離し、
「そういうくだらねえこと訊いてくる唇は、こうしてやる………」
再び重ねてきた。今度は荒々しく、噛み付くように。熱い舌は獰猛な触手のように口腔をまさぐり、待ち構えていた柔らかい舌を絡め取って強く吸い上げる。
「はぁっ……ん……ふぅっ、んっ」
長い、長い接吻。１０日間の空白を埋めようと、舌をこすり合わせ唾液を絡めて、相手の存在を確認し合う。純はただうっとりと、注ぎ込まれる唾液を飲み干した。
「いいか、純……無理なら無理って言えよ。まだ……身体が慣れてねえんだから」
「はい……でも、だいじょうぶ………あっ、ん」
「ほら……どうだ……うまいか？ ん？」
「んんっ、おいし………すごく……あぁ………あきむらさぁん、あつい………」
「ああ、熱かったか、悪い。ちょっと待てよ」
尭村はスープに息を吹きかけて冷ますと、純の口に運んでやった。純は少し恥ずかしそうに飲ませてもらうと、にっこり笑って「おいしい」と言った。それに応えるように尭村は額にキスを落とすと、
「もっと食うか？」
「グレープフルーツ！」
「よおっし」
皮をむいた蜂蜜色の果実を自分の口に放り込んで、甘酸っぱい果汁を純の口に流し込んだ。
「んんっ………」
重ねた唇の隙間から溢れる果汁でべたべたになるのも構わず、何度も繰り返す。そしていつの間にか目的と手段が入れ替わって、二人はグレープフルーツそっちのけで、互いの唇を味わい合った。
「……どうでもいいがな、あれは俺のベッドだぞ。あんなに食いもんこぼして」
「お気持ちは分かりますが、旦那様、ここはひとつ大目に……」
「まあ汁は汁でも果汁だからまだいいが。息子の精液が染み込んだベッドで寝るのはご免だぜ」
「ま、まあ、それはその……そう思うのは親としては当然と申しましょうか……しかし息子の成長を偲ぶことができると言えなくもないというか―――」
「何の成長だよ」
入口のドアを僅かに開けて中を盗み見する貴仁と額賀。その会話は噛み合っているのかいないのか。
そんな二人の視線に守られながら、尭村と純の“食事”は延々と続いた。
尭村の献身的な（？）看護の甲斐あってか、その日の夜に純の点滴は外された。
丸３日間何も食べていないのだから、最初は重湯から徐々に慣らしていかなくてはと思われたが、純の回復は早く、本人がお腹が空いたと食欲をみせたこともあって通常の食事に戻された。そして、これだけ栄養が摂れれば大丈夫だろうという貴仁の判断から、外されたのだ。
「純、風呂に入りたいだろ？ 誰かのせいで汁まみれだもんなあ」
「いえ、あの………は、はい……」
純は貴仁を見上げて、恥ずかしそうに頷く。貴仁は頬を緩めて、
「よしよし。パパがお風呂に入れてあげよう。キレイに洗ってあげるからな。あんなとこやこんなとこも」
そして抱き上げようとした瞬間、背後から殺気みなぎる低音に阻まれる。
「こぉんのエロジジイ……その冗談笑えねえんだよ」
「フッ、今度はエロジジイときたか。だいぶ語彙が豊富になってきたな。次はなんだ？ エロハゲか？ 言っとくが俺はハゲてねえぞ。さ、純、俺に掴まれ。このガキと一緒に入ったら、浴槽に張った湯が濁っちまうぜ」
「黙れ、このエロハゲ！ 純に触んなっ」
ぎりぎりと睨み合う父子に、純は「一人で入れます」ときっぱり告げて、そのまま浴室へ行ってしまった。その後ろ姿を物欲しそうに眺める男二人。憐れというか間抜けというか……。
「ちっ、お前が余計なこと言わなかったら今ごろ……」
貴仁の愚痴に尭村が噛み付く。
「今ごろ、なんだ！ エロい想像すんじゃねえっ」
そして争いは延々と続く………
翌朝、純は懐かしい匂いに包まれて、ゆったりと目を覚ました。こんなにぐっすり眠れたのは久しぶりだった。
「ん……ぁきむらさん………」
「起きたか？」
「はぁい」
尭村は上半身を起こして、
「今、朝食を持ってくるから、待っ―――」
言い終わらぬうちに純の両腕が伸びて、尭村の首に巻きついた。
「もう少しこうしてて……お願い………」
「純……甘えたがりだな」
寝起きの掠れた声で囁かれて、喉の奥に甘い疼きが灯る。純は身体の変化を覚られないよう、余り密着させずに抱きついた。
もちろん、そのテの変化に尭村が気付かないはずはない。いつもなら、これは誘っているに違いないっ、と都合のいいように解釈して、朝だろうが昼だろうが構わずいただいてしまうのだが、さすがに純の身体への気遣いの方が勝った。
それだけではない。無理やり犯して流血を強いたのは、ほんの数日前のこと。時間が経てば罪が滅えるなどとは思わないが、あの生々しい記憶が生々しい罪悪感を伴って胸の奥に凝っているこの情態で、純の身体を抱くことなど到底できない。それに、純からの許しもまだもらっていないのだ。
「尭村さん、きもちいい……また眠っちゃいそう」
「いいぜ、好きなだけ寝てろよ。ずっとこうしててやるから」
幸せそうに微笑んですり寄ってくる純を見つめながら、性的交渉のないほのぼのした関係もいいかもな、と思った―――ほんの一瞬だけ。
食べて、ごろごろして……と、その日純は体力を回復させることに専念した。が、陽が傾きかけた頃、純は姿勢を正して尭村に訊ねた。
「尭村さん……勇人さんから聞いたって言ってたけど、何を、どこまで聞いたのですか？」
ベッドの上、純の隣に腰かけて、尭村はゆっくり口を開く。
「全てだ。恐らくお前が見たもの、聞いたことの全て」
「勇人さんは、どうして知ってしまったの……僕がお母さんに会ったことを」
「それは俺にも分からん。が、日向は俺の前で両手をついて謝罪した。自分の傲慢と、宗一郎の愚かさと、そして……お前の優しさを許してくれ、と」
「ああっ……」
純は小さな悲鳴をあげると、両手で顔を覆った。肩が上下に震え始める。
「せんせいの言った通り……僕の優しさは残酷だ、って。どうしよう、どうしよう……僕………」
「純……」
尭村は純の手をそっと剥がし、その眼を見つめる。純も臆することなく見つめ返し、
「僕は結局、あの人の過去を掘り返して、あの人を傷つけただけ。勝手に自分と重ね合わせて、勝手に同情して……。あ、謝らなくちゃ。勇人さんに謝らなくちゃっ」
尭村は、純の手を掴んだまま静かに聞いていたが、そっと手を離すと立ち上がって、
「行くか？ 今から」
「え？」
「日向の所に。俺が連れてってやる。どうする？」
純は驚きの余り一瞬言葉を忘れたが、
「い、行きますっ」
「よし、ならすぐ着替えろ。ちょっと待ってろよ、今持ってくるから」
そして、着替えを取りに出ていった尭村の背中に向かって、「ありがと…」と小さく声を掛けた。
「どう……したのですか、二人揃って………」
「俺は関係ない。こいつを連れてきただけだ」
突然の訪問者に、室内へ招くのも忘れて玄関ホールに呆然と立ち尽くす日向。こんな脆さをさらけ出す無防備な日向は見たことがないと、尭村は思わず息を呑んだ。
しかし純は驚いた様子もなく、一歩踏み出して、真摯な声で訴えた。
「勇人さんに、どうしても伝えたいことがあって、連れてきてもらったんです。少しだけ、お時間いただけますか？」
「あ、ああ……もちろんです。こんな所で、失礼しました。さあ、どうぞ」
日向が案内したのは、広いリビングだった。純にあの時のことを思い出させまいとする配慮から、最も寛げる自室を避けたのだ。
「俺は席を外していよう……」
尭村はそう言うと部屋を出ようとしたが、
「待って、尭村さんもここにいてくださいっ」
今までにない、純の厳しい声。日向も尭村もはたと固まって、思わず顔を見合わせる。しかし純は構わず続ける。
「僕、ちゃんと言葉を考えてこなかったので、うまく言えるか自信がないのですが、あの、僕、勇人さんのこと好きです」
「純……」
突然の告白に絶句する日向。尭村の表情も、にわかに翳を帯びる。
「あなたの過去がどうだからとか、そんなのは関係ない。僕が入学したばかりの頃、あなたは僕に声を掛けて、生徒会室に誘ってくれました。そのあとも、僕が落ち込んだり泣いてたりしたら、さりげなく励ましてくれた。優しくて、綺麗で、細やかな思い遣りに溢れた人、そんな勇人さんが、僕は本当に好きなんです。でも……」
純は苦しそうに息をつくと、言葉を絞り出した。
「でも、それは尭村さんへの気持ちとは全く違うものです。なのに僕は―――」
「なのに私は、尭村と同じものを欲しがってしまったのですね」
「そして僕は、同じものをあげなければと思い込んでしまったのです」
二人は暫し見つめ合った。やがて純が再び口を開き、
「……そのせいで僕は、あなたを傷つけてしまった………勇人さん、ごめんなさい」
「……謝らないで、純」
日向は純の隣に座ると、その手を取って自分の胸に当てた。そして、
「私はもう大丈夫。あなたが…あなた達が来てくれた。それだけで救われました。ありがとう」
「はやとさん……」
溢れる涙のせいで、日向の綺麗な笑顔がぼやけて見える。
ああ、涙よ止まれ！ この人の笑顔がもっと見たい。初めて会った時と同じ、優雅で綺麗な―――
その時、日向の長い指がためらいがちに涙を拭った。涙の靄が払われた瞳に映った日向は、いつもの、穏やかで気品溢れる微笑みを湛えた、美しい生徒会長だった。
「ほら、純。凶暴な王子様が、あそこで睨んでますよ」
「はい……ふふっ」
思わず笑ってしまったのは、拗ねてるような仏頂面が可愛かったから。純はぱたぱたと駆け寄ると、思い切り抱きついた。
「あきむらさんっ」
抱きつかれた方は驚いて困惑を露わにしたものの、すぐにぎゅっと抱き返した。切なそうに眉をたわめて。
―――なんだ、縋っているのはあなたの方じゃないですか、尭村
日向はこの発見に気をよくしたらしく、浮かれた調子でお茶の用意を始めた。
「学校へは、いつから出てこられそうですか？」
「えと……土曜に球技大会がありますよね。あれには出たいから……」
「え？ 身体は大丈夫なんですか？」
「はいっ、僕、バスケに出るんです。勇人さんは？」
「私はテニスのシングルスに出ます。応援頼みますよ」
「もっちろんです。尭村さんは？」
「木陰で昼寝」
「オヤジ………」
「なんだとぅ〜」
和やかな時間は、陽が完全に落ちるまで続いた。
「尭村、ちょっと」
二人を外まで送りに行った日向は、尭村だけを呼んで小声で宣戦布告した。
「私はまだ諦めてはいませんから、そのつもりで。一時休戦モードはこれで終わりですよ」
尭村は不機嫌そうに「分かってる」と言い捨てただけで、駐車場へ行こうとした。日向は意外だと言わんばかりに瞠目して、
「おや、どうしたんですか。いつもみたいに“ふざけんな”って噛み付いてこないのは」
「うるせ。俺はなあ、お前よりもっと手強そうな奴と、これから闘わなくちゃならねえんだよ」
「ああ、沖秀ですね」
日向はにやりと嗤い、「それは大変だ」としみじみ頷く。
「日向お前……知ってたのか」
「私が気付いていないとでも思ってましたか？ まあ、そういう単純バカなところが、あなたの長所でもあるんでしょうね」
「……悪かったな」
尭村は不貞腐れたように呟くと、純が待っている駐車場へ駆けていった。
「ね、尭村さん…勇人さんと何を話してたの？」
「……別に」
車の後部座席に寛いだ格好で座る二人。純は尭村の方へすり寄って腿の上に両手を置き、
「僕に……言えないようなこと？」
「は？ お前何言っ―――」
尭村は思わず純の顔を見つめた。いつの間にか身体を密着させていた純は、拗ねた顔つきで尭村を見上げている。
「だって……二人で顔近づけてこそこそ話してたから。勇人さんは楽しそうに笑ってたし。な、なんか僕…ちょっとだけ………」
「あのなあ、お前」
尭村は純の身体を抱き上げると、自分の膝の上に乗せた。そして両手で頬を包むと、
「嫉妬するのは構わねえっつうか嬉しいけど、それだけはやめてくれ。想像しただけで、生命力が蒸発する」
しかし純はむぅっと黙り込んだまま、足を大きく開いて尭村の上に跨って座り、正面から胸と胸をぴったりくっつけた。いや、くっつけているのは胸だけじゃなくて―――
「お、おい、純………」
ちょっと触れ合っただけで、ソコが熱をもってくるのが分かる。純はさらにぎゅっと押し付けると、ほとんど喘ぎにも似た甘い掠れ声で、
「あきむらさん……だめ？」
駄目なわけはない。熱が４０度あっても地球の裏側にいても親父の葬式でも、こんな風に誘われてノーと言えるはずがない。だが今回だけは、どうしても飛びつくわけにはいかなかった。
「純、俺はまだお前に何ひとつ謝っていない。辛い告白を強いたこと、お前を殴ったこと、それから……お前を……っ」
言葉は、純の柔らかい唇で断ち切られた。そしてちゅ、という可愛い音と共に唇を離すと、
「いいの、もう……過去は実体のない妄想だ、って尭村さんも言ったでしょ？ 僕もおんなじ。今のあなたが好き………だから……」
どちらからともなく、再び唇が重なった。今度は、唾液がこぼれるほどに深く、喘ぎが漏れるほどに熱いキス。純はその激しさに翻弄されて、細い腰を揺らめかせた。すると尭村の手がそっと伸びて、股間のふくらみを優しく撫でる。純は思わず背中を反らせて、ああ、と切ない溜め息を漏らした。
「純…純……」
服の上から愛撫を続けながら、尭村は考える。たとえ純が許してくれても、自分で自分を許すことはすまい。二度と同じ罪を重ねることのないように、いつまでも忘れずに、記憶の表層部に灼きつけておこう、と。
「純、家に着くまで、あと少しの我慢だぞ……」
「は…い………」
純は素直に頷いたが、それは寧ろ自分へ言い聞かせた言葉だった。尭村も、疾うに限界を迎えつつあったのだ―――
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