ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
１２.
「おおい、上がったぞ。風呂使えよ」
「は、はい。ありがとうございます……」
風呂から上がった春留がリビングを覗いてみると、ソファの隅にちょこんと腰を下ろした那津が、両手を膝の上に乗せてちぢこまっていた。
「お前、どうしたんだよ。借りてきた猫みたいだぞ」
「はあ。いえ、あの……緊張してしまって」
眉根を寄せて首を傾げる春留に薄い笑みを向けて、
「だって、好きな人の部屋に初めて呼ばれたんですよ。緊張して当然でしょう？」
「お前……なんて乙女チックな奴なんだ」
「繊細と言って欲しいですね」
春留は溜め息をついて、
「繊細なのは分かったから、早く風呂入ってこい。お前に……色々訊きたいことがある」
那津は神妙な表情で頷いて、風呂場へ向かった。
軽く身体を流し、旅行鞄に入っていた新品の下着とパジャマを身に付けた。暑かったから前を肌蹴た状態でぱたぱた扇ぎつつリビングに顔を出すと、目が合った春留はほんのり頬を染めて「早かったな」と答えた。那津は隣に座って、
「先輩？ 顔が赤いですよ。どうしたのですか？」
「う、うるせ。何でもねえよ。つうかお前、ちゃんと前閉めろっ。ヒトんちに来て、そんなだらしない格好すんじゃねえよ」
那津は飛び上がって「すいませんっ」と謝り、あたふたと指をもつれさせてボタンを締めた。そしてそっぽを向いてしまった春留におそるおそる声を掛け、
「あの……締めました。すみません、つい、その……気を許してしまって……」
しゅんとしおれて俯く那津に、ちらと一瞥を送る。肩をすぼめた那津はまるで粗相をした大型犬のようで、春留の胸はちくりと痛んだ。
もちろん、本気でだらしない格好に怒ったわけではない。ただ、那津の逞しい胸が直視できなかっただけなのだ。
一緒にプールに飛び込んだ時には平気だったのに、何故今になって頬が赤らむのかと自分に問い、そして答えはすぐに出た。あの胸に抱かれたからだ。
そう思った瞬間、途轍もなく恥ずかしくなってきて、さらにそんなことを恥ずかしく感じてしまう自分もまた恥ずかしくて、ついキツイ言葉をぶつけてしまった。
「……悪かったよ」
「………は？」
「悪かったって言ってんだよ。別に、あんなことで怒ったりしねえよ。ただ、その……」
今度は春留が俯く番だった。小さくなって、
「恥ずかしかったから………」
「え？ 何が―――」
「お前のカラダ見たら、心臓がばくばくして顔が赤くなるんだよッ。だからっ―――」
言い終わらないうちに那津に腕を引かれ、そのまま胸の中に倒れ込んだ。春留は顔を真っ赤にしてじたばたしつつ、「離せっ」とわめく。しかし、
「嫌です」
「離せっ、この野郎。殴るぞ！」
「どうぞ」
もちろん那津を殴れるわけがなく、春留は歯噛みしつつも次第に大人しくなっていった。
那津の胸に顔を埋めていると、自分と同じボディソープの香りが鼻孔を掠め、不思議な感慨に襲われる。同じ匂い、けれどそれは那津の匂いだった。
「どきどき……したんですか？」
「……したよっ。悪いか？！」
那津は抱き締める腕に力を込めた。春留は思わず「んっ」と小さな吐息を漏らす。
「俺だって同じです。こうして―――」
那津は春留のシャツを少しずらして、肩を露わにした。そしてそこにふわりと唇を押し付け、
「―――あなたの素肌を見ただけで、眩暈がするほど鼓動が速くなるのです」
「嘘つけ。こんなもんのどこに興奮するんだよ」
シャツの襟口から華奢な肩や鎖骨を覗かせた春留は、相手が那津でなくとも悩殺できそうなほど濃厚な色気をたちのぼらせていた。にもかかわらず本人にはその自覚がないらしく、怪訝な目付きで那津を見上げる。
那津は苦笑を漏らしつつ、「ほら」と言って春留の頬を自分の胸に押し当てた。春留は暫し大人しく耳を傾けていたが、やがてそっと顔を上げ、
「ほんとだ……すげえどきどきしてるな」
「でしょう？」
誇らしげに胸を張る那津に、「威張るんじゃねえよ」と突っ込んでくくっと笑う。那津は幸せそうに目を細めて、
「だからすごく嬉しいです。先輩も同じだって分かって」
「ん、そか……」
まだほんのり紅い頬を那津の胸に押し付け、規則正しい律動に聞き入る。すると那津の手がそっと伸びてきて、顎をついと持ち上げられた。雄弁な視線が濃密に絡まり合い、やがて互いに引き合うように唇が重なった。
「ぅ………ン…………」
那津は片手で春留の腰を抱き、片手でシャツのボタンをぷちぷちと外してゆく。しかし何故か春留は首を振り、那津の胸に手を付いて身体を離した。
「先輩……？」
「待て……お前に訊きたいことがある。そっちが先だ」
このまま流されて、大事なことを曖昧にしたままではいけない。春留の想いが通じたのか、那津は「先輩らしいですね」と笑って応じた。
「まずは、何で俺が脅迫されていることを知ったんだ？」
那津は頷いて、織田から聞いたことを全て伝えた。春留は黙って耳を傾けていたが、聞き終わると深い息を吐き、
「織田が……そこまでしてくれたのか………」
「はい。織田というのは、自分の言葉に誠実な男です。何か困ったことがあったら力になると言い、実際その通りにしてくれました。口だけで行動が伴わない連中がほとんどなのに」
「大した生徒会長だ。礼を言わなきゃならねえな」
那津は穏やかに首を振り、
「それは必要ないでしょう。逆に戸惑わせてしまいますよ。それより、二学期が始まったら一度、三人で飯でも食いましょう」
「もちろんお前の奢りだよな？」
「後輩に奢らせる気ですか？」
春留は白々しい表情で「こういうのは言い出した奴が奢るもんだ」と嘯いた。那津は「はいはい」と苦笑して「学食限定ですよ」と念押しした。春留も笑って応じたが、すぐに顔を引き締め、
「それから、もうひとつ―――」
「泰水のこと、ですね？」
春留は黙って頷き、那津から目を逸らす。彼がどんな答えを出すのか怖かった。いや、どんな答えでもきっと、自分は苦しい思いをするだろうと分かっていたのだ。
「……泰水には、はっきり言います」
春留ははっと顔を上げた。これまで、泰水のことになると言葉を濁し、内心の懊悩を反映した曖昧な返事が多かった那津だった。しかし今、那津が口にした“答え”に迷いの翳りはなかった。
春留は戸惑いつつも「何を言うんだ？」と訊ねる。しかし那津はその問いには直接答えず、まるで自分自身に言い聞かせるかのように言葉を続けた。
「いつだったか先輩が指摘したように、俺が泰水に与えているものと泰水が俺に求めているものは、似てはいるけれど全く異質なもの。そして俺は“それ”を泰水にあげることは……できない。そう気付いたのです」
春留は口を挟むことなく黙って耳を傾けた。那津は今、自分で答えを出そうとしている。それをちゃんと聞き届けねばならない。
「本当は、もうずっと前から気付いていました。でも俺は自分を誤魔化しつつ、曖昧な状態をずるずると引きずっていたのです。
泰水が可哀想だからとか罪滅ぼしのためだなどと自分に言い聞かせてはいましたが、実際は……俺自身が罪悪感から逃れるために過ぎなかった。泰水の望みを聞き入れることで俺が楽になれる……ただ、それだけだったのです」
自分の狡さに正面から向き合った那津は、胸の痛みを覚えつつも徐々に心が澄み渡ってゆくのを感じた。深い息をひとつ吐き、
「泰水に過去のことを詰られるのが怖かったから、全て言いなりになっていましたが、そうすることで結局俺は、泰水を振り回していたのです。愛情や優しさを偽装して、期待を持たせて……」
「確かに、お前の優しさは残酷だな」
春留の厳しい言葉を、那津は正面から受け止めた。「その通りです」と返し、
「俺の優しさとあなたの優しさでは土壌が違う。俺は、自分が傷付くのを恐れるがゆえに優しくする。対してあなたは、自分が傷付いても人のことを想う。弱さに根付いた優しさと、強さに根付いた優しさの違いです」
「そんなこと……ねえよ。俺だって、自分が傷付くのは嫌だ」
「でも、人が傷付くのを見るのはもっと嫌でしょう？ あなたは今……とても辛そうな顔をしている。泰水の痛みを思っているのですね？」
春留はためらう素振りを見せたが、はっきり頷いて那津を見詰めた。
「ああ。俺がこんなこと言うのもおかしな話だが、あいつは必死なんだ。気持ちが……すれ違っているのはあいつも気付いていると思う。だからこそお前を何とか引き止めようと、強引な手段を使って……」
那津は苦しげに眉根を寄せ、自分を責める言葉を吐いた。
「もっと早く……はっきり告げるべきだった。泰水の求めているものを、俺はあげることができないと。そうすれば泰水も、新しい道を探すことができたのに……」
肩を落として項垂れる那津に、春留は敢えて強い口調で呼びかけた。
「今さら過去のこと言ったってしょうがねえ。これからどうするかだ」
厳しさの中に前向きな力のこもった言葉。那津はそれに促されるように顔を上げ、
「はい。過去のことを責められても、それはそれとして受け入れつつはっきり告げます。俺は泰水を愛することはできないと。俺は………」
腕を伸ばして春留の身体を包み込み、真っ直ぐ自分を見上げてくる瞳にそれ以上の強い眼差しで応えつつ、言葉を濁さず言い切った。
「俺は、紫堂春留を愛している、と」
その瞬間、春留の心を支配したのは悦びや安堵ではなく、重苦しい不安とそれに付随する鈍い痛みだった。
泰水は果たして、この事実を受け止めることができるのだろうか。そして乗り越えることができるのだろうか―――
「そんな……苦しそうな顔しないでください。全ては俺の弱さが招いた過ち。あなたが背負う謂れなどないのです」
春留の想いを汲み取った那津は、抱き締める腕に力を込めて囁いた。胸の痛みはまだ残っていたが、春留は素直に「分かったよ」と答えてぎゅっと抱き返した。そして二人は無言のまま、互いの温もりに憩う。やがて―――
「………抱いてもいいですか？」
「ああ。もう……お前のものだ」
那津は込み上げる嗚咽を何とか呑み込み、春留の身体を抱き上げた。
「なっ……なにすんだ！ 下ろせっ」
「ベッドに行くんです。当然でしょう？」
「自分で歩ける！」
春留は腰をひねって無理やり下りようとする。しかし那津の腕に抱え込まれ、再び“お姫さま抱っこ”の体勢に。那津はあやすように揺らしつつ、
「たまには甘えてください。あなたはいつも、俺を置いて一人で先へ行ってしまう」
春留は不貞腐れた顔でむすっと黙り込んだが、やがておそるおそる腕を伸ばして那津の首に巻き付けた。真っ赤に色づいた耳にそっと唇を寄せ、
「春留はいい子ですね……」
そしてゆっくりとベッドルームへ入っていった。
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