―小さな花屋のその後―
１.
小さな小さな優里のお店＜フラワーショップ美園＞がめでたく開店し、隆矢と優里の想いも通じ合って、幼馴染みから恋人同士に昇格しはや一カ月。
花屋の売り上げは順調そのもの。さらにスペースを提供している沢村酒店も、店舗面積が減ったにもかかわらず、相乗効果なのか売り上げは右肩上がりだった。
これまでは、客層は年配の男性が多くを占めていたのだが、優里がせめてものお礼にと店内に花を飾り始めると女性客も増え、それに合わせてこれまでは余り品揃えのよくなかったワインや海外のビールなどに力を入れたところ、あっという間に売り上げが伸び出したのだ。
徹矢は目を丸くして、「花の力ってのはすげえもんだな」と感心しきり。さらに調子付いて店の外にテーブルを出して立ち飲みカウンターを作ったところ、きれいな花を眺めながら手軽にワインが飲めるとあって、仕事帰りのOLさんがよく立ち寄るようになった。
と、こんな風にいいことづくめの沢村酒店だったのだが、何故か隆矢の顔色は優れなかった。というのも、彼は大きな心配事を抱えていたからだ。
それは―――
「おい、じいさんっ、何やってんだ！ 優里はホステスじゃねえぞ。酌なんかさせんなッ！」
配達から戻ってきた隆矢は、外の立ち飲みカウンターで一杯やっている商店街の長老たちに詰め寄った。
が、長老たちはふぉっふぉっと豪快に笑って、
「いやぁ、旨い酒と綺麗な花と優里の愛らしい笑顔。極楽とはこういうことを言うんじゃなあ」
「まったくだ。いい冥土の土産になった」
優里は傍でくすくす笑いながら、コップに三分の一ほど注いでやる。そして、
「はい、今日はこのくらいでおしまい。あんまり飲みすぎちゃだめだよ」
「不思議じゃなあ。ばあさんに言われたら腹が立つことも、優里に言われたら素直に聞いてしまうんだから」
長老たちはうんうん頷き合って、あと５０歳若かったら、などととんでもないことを言っている。隆矢は思わず額に青筋立て、
「優里っ、お前も自分の店を放っておいて何してるんだっ！」
隆矢の剣幕に優里はしょぼんと俯いて、
「ごめんなさい……おじいちゃまたちにもいっぱいお世話になったから……」
司の転院先として、入院設備の整ったリハビリ施設を紹介してくれたりと、様々なアドバイスをくれたのは互助会の長老たちだった。
隆矢は慌てて口調を緩め、
「いや、大声出して悪かった。優里、な？ ほら、こっち向いて。馬鹿だな、お前はすぐそうやって―――」
つむじをコツン、とやってそのまま背中に腕を回し、抱き寄せる。長老たちの潤んだ熱い眼差しの中、二人はぴったり寄り添った。その時、
「沢村くぅ〜〜ん、元気ぃ？」
背後から間延びした声を掛けられ、思わず天を仰ぐ。隆矢は優里の肩を抱いたままくるっと振り返り、
「お前ら、また来たのかよ」
「うんっ、また来ちゃった。だってだってぇ〜〜」
隆矢の大学の友人たち。家業を継ぐと決めたこともあって、隆矢はもうほとんど大学へは行っていなかった。
しかし友人たちはこうしてよく会いにきてくれる。麗しい友情？ いや、とんでもない。彼ら彼女らの目当ては―――
「きゃ、優里くぅん。またお花買いに来ちゃった」
「あ、こんにちはぁ。いつもありがとうございます」
優里がにっこり微笑むと、友人たちは男女問わず頬を染めて目尻を下げる。
「ああ………なんって愛らしいのっ。心が洗われるわぁ………」
「うんうん、この荒んだ都会にできた、奇跡のオアシスだよなあ」
しかし近寄ろうとする友人たちを隆矢は大きく遮って、
「お前らっ、優里に近付くなっ」
「何よぉ。人を病原菌みたいに」
「みたいじゃなくて病原菌だろがっ。優里が汚れるっ。さわんな！」
そして肩ががしりと掴んでぐいぐい押し戻す。するとすかさず優里が飛び出してきて、
「お兄ちゃんっ、女の人にそんな乱暴なことしちゃだめでしょ！」
「い、いや、優里……こいつらはその、とんでもねえ奴らで………」
「しかも、お友だちでしょっ？ せっかく来てくれたのに……」
優里にかばってもらった友人らは、目を潤ませて「優里くぅ〜〜ん」と抱き付こうとする。そしてそれを隆矢が渾身のブロックで防ぎ、また優里が怒り、長老たちも調子に乗って抱き付こうとし―――これが、隆矢の日常だった。
「はああ〜〜、頼むよ優里。俺はもう心配で心配で仕方がない」
隆矢は情けない溜め息をついて、肩を落とす。夜叉の形相で周囲に目を光らせ、鼻息荒く優里を守っていた司の気持ちが、今になって分かってきた。
商店街の人々の優しさに包まれてのほほんと育った優里は、人の悪意というものへの耐性が著しく弱い。いや、悪意というものが理解できない。優里にとって人間はみんな、花のように美しく、無邪気で芳しいものなのだ。
それはある意味、優里の強さなのかもしれない。理解できなければ、それによって苦しむこともないからだ。
しかしそんな優里の純粋さに付け込んで、思うがままに汚してやろうと企む輩も出てくるかもしれない。
もちろん、長老たちや大学の友人らがそんなことをするとは思っていない。とはいえ、ああやって無防備な笑顔を振りまかれると、気が気でないのも事実だった。
自分がどれほど魅力的か、人を惹き付けるか全く分かっていないのだから、気を付けろと言ってもたぶん何に気を付けるのかも分からないだろう。だから隆矢が傍で目を光らせているしかないのだ。
「ご、ごめんね、お兄ちゃん。ぼく……」
そう言って謝る優里はもちろん、隆矢が何を心配しているのか分かっていない。ただ、疲れさせてしまって申し訳ないと思っているだけだ。
それでも、疲れた様子の隆矢を気遣っておろおろする優里の愛らしさに、隆矢の気分も少し上向いてきた。こんな可愛い恋人を持った男の宿命だ、仕方がない。そう言い聞かせて両手を広げる。
すると優里はもじもじと恥じらいつつも、自分のために広げられた腕の中にふわりと飛び込んで、逞しい腰に腕を回して抱き付いた。
「おにいちゃまぁ……」
昔はよくこう言って甘えたものだったが、いつからか、口にすることはなくなっていた。しかしまた最近、二人きりの時にはこの甘えた呼び方が優里の唇を震わせることが多くなった。
「優里……お前は誰のものだ？ ん？」
「おにいちゃまの……おにいちゃまのもの………」
隆矢は満足げに頷いて、髪に指を滑り込ませながら頭を撫でる。優里の髪はつるつるでさらさらで、そして外にいたせいか少しひんやりしていた。
指先をくすぐる心地よい感触を愉しみながら、隆矢は昏い所有欲を撓ませた声で「そうだ、俺のものだ」と呟く。
「ぁぁ………」
優里は微かに震えて、隆矢の胸に顔を押し付ける。最近優里は、これまで聞いたことのないような隆矢の声をよく耳にするようになった。今の、胸奥を揺さぶるような低い声もそのひとつ。
怒っているのでもない、威嚇するでもない。そういった剥き出しの感情ではなく、煮詰められてどろどろに凝ったものがじんわりしみ出して、声にぞっとするような凄みを与えている。
そのどろどろしたものの正体は優里には分からないが、こういう声で自分に呼びかける時の隆矢が、優しいお兄ちゃんとはまた違った魅力で自分を捕らえて離さないことは確かだった。
「優里、他の男にあんまり可愛い笑顔見せるんじゃないぞ……」
口調こそ柔らかいが、声自体は抗い難い力で溢れている。優里はおそるおそる顔を上げ、もはやお兄ちゃんではなく一人の男となった隆矢をじっと見つめる。隆矢の瞳に映った自分は、少し怯えたような表情をしていた。
「ん……でも………お客さまには笑顔で応対しなくちゃ…………」
隆矢は瞼の上に綿毛のようなキスを落とし、
「営業スマイルでいいんだよ。本物の笑顔なんて勿体ねえ」
優里はちょん、と唇を尖らせて、「違いが分からないもの…」と拗ねる。さらに咎めるような上目遣いで隆矢を睨み、
「それにお兄ちゃんだって……女性のお客さんにす、すごく優しいし……」
女性客が増えたのは、店内に花を飾ってワインの品数を増やしたからだけではないことを、優里はちゃんと知っていた。隆矢目当てで訪れる客も多かったのだ。
「この前……プレゼントとかもらってたでしょ？ 僕、知ってるもん……」
「あ、あれはその、配達圏外だったけど特別に運んであげたら、そのお礼だ、って―――」
思わぬ反撃に隆矢は慌てたが、すぐに目尻をでろんと下げて、
「お前、妬いたのか？ ん？」
優里はこっくりと頷いて、潤んで震える瞳を隆矢に向けた。
隆矢は「くぅ〜〜」と悶えて、
「やばい。すげえ嬉しい」
優里はむぅっと膨れて抗議の声を上げようとしたが、それより先に腰をきつく抱き寄せられた。思わず小さな悲鳴を上げて逃れようとするが、隆矢の腕はびくともしない。
触れ合った場所から体温が上昇してゆくのをリアルに感じて、優里は恥ずかしさの余り手を胸に付いて押し戻そうとする。しかしその手首を呆気なく掴まれて引き寄せられ、
「優里、お前が嫌だって言うんなら、もう誰にも優しくしないよ」
優里は驚いて目を見開いたが、すぐにふるふると首を振って、
「ごめんなさい……本当は知ってるの。お兄ちゃんが優しいのは女の人にだけじゃないって。お使いに来た小さな子供を、次に買い物するお店まで送っていってあげたり、お年寄りのお家にはお酒１本でも配達に行ってあげたり……。僕、そんなお兄ちゃんがだいすき。だからそのままでいてね。でも―――」
突然言い淀んでもじもじいた挙句、僅かに赤らんだ顔を胸にぴったりつけて囁いた。
「女の人には……あんまりにこにこしないでね………」
「優里……」
これまで隆矢は、縛られるのが好きではなかった。窮屈だからというよりも、そんなに自分のことが信用できないのか、と悲しくなってしまうからだ。
でも、優里のこの訴えには理屈を超えた愛情が息づいていた。今までの辛い経験が優里を臆病にしてしまうのだろうと思うと、隆矢の胸はきしきしと音をたてて切なく軋んだ。
「しないよ、優里。俺が本当に笑うのは、お前の前でだけだ………」
「おにいちゃ………ぁ…………」
手のひらで頬を包み込んで上を向かせ、そのまま顔を近付けてふっくらとした唇に口付ける。何度も何度も、唇の弾力性を愉しむかのように。
「ふっ……ぅん……だ、め………ぁ……ここ、お店…………」
キスの合間に掠れ声で訴える優里。そんな恥じらいもまた、隆矢にとっては究極の媚態だった。
「外からは……見えねえよ………」
そう、ここは花屋の奥の小さな事務スペース。棚の陰になっているため、表てからは見えない。お客から声を掛けられたら、出てゆけばいいのだ。
ちょっとした仕事の合間、二人はこの濃密なスペースで身体を寄せ合い、睦言を交わしたり肌の温もりを移し合ったりしていた。しかし、唇を重ねるのは初めてだった。
「優里、唇を少し開いてご覧………」
隆矢の誘いに、微笑が漏れるほど素直に従う優里。僅かに湿った唇をふわんと綻ばせると、唇の隙間から濡れたピンクの舌先がちらと閃いた。
思わずごくりと喉を鳴らした隆矢は、自分が飢えた猛禽になったかのような錯覚に囚われた。いや、錯覚ではないのかもしれない。腹の底から突き上げてくるこの原始的な欲望。それは性欲だけではなかった。
「旨そうだ……」
隆矢は自分でもぞっとするほど嫌らしい声で呟いて、優里の上唇を自分の唇で挟み込む。そして咀嚼するように何度もはむはむした。
優里は一瞬びくんと震えたものの、嫌がる素振りも見せず大人しく唇を捧げている。調子付いた隆矢はそのまま口を下へずらし、顔を斜めに傾けて、優里の半開きの唇に自分のそれを深く重ねた。
「んっ……」
鼻にかかった小さな吐息が、隆矢の勢いを後押しした。ここまでは経験済みだったが、ここから先は未知の世界。もはや誘っているとしか見えない優里の綻んだ唇を、隆矢は舌先でそっと撫でた。
「ゃぁっ……ん………」
驚いた優里は声を上げて、顔を背けようとする。優里にとってキスというのは唇をそおっと優しく合わせる行為で、舐めるとか絡めるとか吸い上げるとか、そういう動作は未知の脅威なのだ。
「優里……嫌か？」
有無を言わさず押さえ付けて唇を塞ぎ、歯列を割って舌を挿し込み、口腔を荒々しく掻き回しながら舌を愛撫してやることもできる。
慣れない感触に最初は怯え、抵抗するだろうが、最終的には全てを委ねてくれるだろうという確信はあった。それに、恐がって嫌がる優里は可憐な処女そのもので、男の征服欲を容赦なく煽り立てるのも事実だった。
しかし隆矢は、優里の繊細な心を踏みにじるような真似だけは絶対にすまいと自分に誓いを立てていた。
優里はきっと、何をしても自分を許してくれるだろう。だからこそ、そんな優里の深い想いの上に胡坐をかいて好き勝手に振る舞うのは嫌だった。
無理やり手を引いて進むのではなく、共に手を取り合って足下を確かめながら、ゆっくり歩んでいけばいいのだから。
「俺は、お前と深いキスがしたいと思ってる」
「ふかい……キス？」
すでに潤み始めた黒瞳が、問いかけるように揺らめいた。隆矢はそれを上から覗き込んで、自分の想いを訥々と語る。
「恋人のキスってのは、ただ唇同士を合わせるだけじゃないぞ。そこから相手の温もりを、舌の甘さをじかに感じ取るための行為だ。お前だって、相太んとこのチロとよくキスしてるだろ？」
チロとは相太の実家、せんべい屋の看板犬である。商店街のアイドルで、優里も前を通りかかるたびに抱き付いては、鼻や口にちゅっとキスをした。
「うん……チロにキスする………」
「だったら、俺とチロは同等の存在か？」
かなり論理が飛躍していると言えなくもないが、とにかく隆矢は必死だった。何とかして優里とディープなキスがしたい一心で、説得を試みる。
優里はちょっと眉根を寄せて考える。そんな表情すら悩ましく見えてしまい、隆矢は慌てて下腹に力を入れた。
「違うもん……チロとお兄ちゃんはぜんぜんちがう………」
そりゃそうだろっ、と心の中でツッコミつつ、隆矢は鷹揚に頷いた。
「なら優里、恋人同士のキスをしよう。恐がることはない。きっと気持ちいいと思うぞ」
優里はこっくりと頷いて、「恋人同士のキスするぅ」とすり寄ってきた。隆矢は荒くなりそうな呼吸を何とか抑えて腰に腕を回し、片方の手で優里の頭を支えた。
そして顔を近付けてまずはそっと唇を合わせ、次に舌先で唇の輪郭をなぞるように丁寧に舐めた。
「んっ……ふぅぅん…………」
優里はもぞもぞと腰をくねらせたが、さっきのように顔を背けようとはしない。隆矢は徐々に舌を深く入れてゆき、今度は唇の裏側にぬるぬると滑らせた。
そのぬめる感触に煽られて、舌を深く挿し込みたい衝動に駆られるが何とかこらえる。そしてご機嫌を窺うようにそろそろと侵入させ、未知の触れ合いに怯えてちぢこまる優里の舌先を、ノックするようにツンツンと突付いた。
「あ……ふ………」
優里はだらりと下げていた腕を隆矢の背中に回してぎゅっとしがみ付き、腰をすり寄せた。と同時に、隆矢は喉の奥で「ぅっ」とうめく。しかし優里は構わずびくびくと腰を揺らして、隆矢の股間に痺れるような刺激を刻み込む。
無意識の動きなのは分かるが、まるで“ここにもちょうだい”とおねだりされているようで、さっきからゆるゆると形を変え始めていた隆矢の股間は、一気に覚醒した。
―――ああ……前掛けしててよかった………
『沢村酒店』と書かれた藍色の前掛けは、ごわごわした厚手の生地で野暮ったく、隆矢は当初こんなのしたくねえと駄々を捏ねたのだが、今となっては前掛けさまさまである。これならどんなにエレクトしても外からはばれない。ちょっと前掛けが浮いてるな、くらいの違和感で済む。
調子に乗った隆矢は腰に回していた手をするすると下に移動させ、小さいけれど見ただけでぷりんとした弾力性が伝わってくるお尻を手のひらで撫でた。しかしキスに夢中の優里は気付かず、隆矢のされるがまま。
やがてお尻を撫でていた手は中央に移動して、谷間の敏感な部分をなぞろうとした。その時外から、
「すみません。こんにちは」
優里はうっとりと閉じていた目をぱち、と開け、自ら唇を離した。そして
「有栖川さんだぁ」
濡れた唇を綻ばせて嬉しそうに微笑むと、ぱたぱたと店頭に駆けていった。
「あんの野郎〜〜〜」
そう、隆矢の最大の心配事。それはこの男、有栖川聖の存在だったのだ。
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