―小さな花屋の甘い二人―
３.
今日は司のお見舞いに行く日だったから、店は早めに閉めた。本当は毎日行きたかったけれど、「お前の店を大事にしろ」と言う司との取り決めで、週に３度と約束していたのだ。
しかし優里が行けない時には隆矢や美咲などが行ってくれたし、リハビリの甲斐あってか司も杖をつきながら歩けるまで回復していたから、特別心配することもなかったのだが。
見舞いからの帰り、真っ直ぐマンションへ戻ってもよかったのだが、早く隆矢の顔が見たかった。
いや、顔が見たいというより、彼女があのブーケを渡したのか、そして隆矢はどう応えたのかが知りたいというのが正直なところ。
必ず断ってくれるはず、そう信じながらも、沢村酒店へ急ぐ足を落ち着かせることはできなかった。
閉店間際の酒店はシャッターが三分の一下りて、中から温かな白熱灯の明かりが漏れて敷石を照らしている。優里は弾む息を抑える余裕もなく、中に飛び込んだ。
「こんばんはっ。あの、隆矢お兄ちゃんは……」
「お、優里。隆矢はさっき配達から戻ってきたんだが、すぐ戻ると言い置いて出ていっちまった。ったく、どこで油売ってんだか」
「ど、どこへ……」
余りに悲愴な表情で訊ねる優里に、徹矢はそっと近付いて肩をぽんぽん叩き、
「大丈夫、すぐ戻ってくるさ。あいつが帰るのはここしかねえんだからな」
徹矢が言いたいことも分かる。もっとあいつを信用してやってくれ、と。しかし優里は不安に勝てず店を飛び出し、隆矢を探しに商店街を彷徨った。
「おにいちゃん、どこ……どこにいるの………」
温かい場所から飛び出して冷たい外気の中を走り回ったせいか、喉の奥がひゅうひゅういって咳き込み始めた。
優里は胸を押さえつつも探すのをやめず、商店街から出て駅の方へ向かおうとした。その時、
「お、おにいちゃ………」
線路の高架をくぐって、長身がこちらへゆっくり歩いてくる。その手には、優里が拵えた優しいレモンイエローのブーケ。丸いポンポンが躍るようにゆらゆら揺れている。
隆矢はそれをまるで冷たい夜気から守るかのように、腕の中に大事そうに抱えては、時折視線を落として慈しむように眺める。
その様子を見てしまった優里は見えない手で頬を張られたかのようによろめいたが、すぐに体勢を直して隆矢の方へ駆け出した。
「おにいちゃんッ」
隆矢は驚いて目を見開いたが、駆け付けた優里が激しく咳き込むのを見て慌てて背中をさすった。
「優里っ、こんな寒い中走ったらどうなるか―――」
「おにいちゃんのバカぁ……」
突然涙ながらの非難を浴びせられて、隆矢はどもりつつも訳を質す。
「ど、どうしたんだ、お前……」
優里は涙の奥からすがるような熱い眼差しを向け、
「ブーケ……受け取ったの？」
「ああ、受け取った」
言葉を濁すことなく、あっさり答える隆矢。優里は涙を振りまいてその胸をぽかぽか叩き、
「どうしてぇ……信じてたのにっ。ぜったい断ってくれるって………」
しまいには胸をどんと突き飛ばすと、よろめきつつこの場から逃げ出そうとした。もちろん隆矢はすぐに手を伸ばし、その腰を抱き取る。
優里はいやいやと首を振りながら、「どうしてっ……」と言ったきり、力尽きたのかぐったりと隆矢の胸にもたれかかった。
隆矢はふう、と溜め息をつくと、濡れた頬を手のひらで包み込んで上を向かせ、
「どうして、って、お前が一生懸命作ったブーケを突っ返せるわけねえだろっ」
少し怒ったようにそう言って、優里の身体をぎゅぅっと抱き締めた。
「お…にいちゃん……？」
胸に顔を押し付けたまま、優里は戸惑いも露わに声を掛ける。上を向いて顔を見たかったけれど、きつく拘束されているせいで身動きがとれない。
すると隆矢は優里を抱いたまま、震える声で言葉を続けた。
「もし俺が受け取るのを拒んだら、このブーケはきっと捨てられちまう。もしかしたら、その場で路上に叩き付けられたかもしれねえ。あの時みたいに……」
「あの時……」
隆矢が何を言わんとしているのか、優里にはすぐ分かった。隆矢がまだホストをしていた頃、お客を呼び戻すための豪華な花束を作ってあげた。しかしそれは目の前で地面に叩き付けられ、無惨に散ってしまったのだった。
「お前が……一生懸命作ってくれたブーケをあんな目に遭わせるなんて、もう二度と………」
「お兄ちゃん……」
抱き締める力が少し緩んだ。優里は上を向いて隆矢の顔を覗き込む。端整な顔は後悔に歪んでいた。
あの出来事がどれほど隆矢の心に傷を残したか、優里は今さらながらに思い知った。
「優里、苦しかったか？ これを作っている時」
隆矢の問いに、優里は正直に答えた。
「ううん、作っている時は…楽しかった。僕がお兄ちゃんにあげるとしたら、どんなブーケを作っただろう、そんなことを考えながら花を選んで、アレンジして、出来上がったものはまさにお兄ちゃんのイメージにぴったりの温かなブーケだった………でも、」
いったん口を閉じて、唇をきゅっと噛み締める。そして再び開き、
「でも出来上がった瞬間、ああ、これは僕が贈るんじゃないんだって、そう思ったらかなしくて、不安で……。やっぱり断ればよかった、って………」
その時の感情が蘇ってきたのか、優里は俯いて隆矢の胸にすがった。するとぽんぽんと頭を撫でられ、
「でもお前は断らなかった。私情を排して、自分の仕事を立派にやり遂げたんだ。そうだろう？」
「ぼく……」
「なあ優里。俺はこのブーケを見た瞬間、何ていうか心が……柔らかくなるのを感じたんだ。それまでは、名前も知らない女性に呼び出されて、一応客だからぞんざいに扱うこともできねえし、正直イラついてた。
でもこれを見てすぐに、お前が作ったブーケだって分かった。そしてこの明るく優しい色合い、甘く控え目な香りに、固まった心がほぐされてゆくのをひしひしと感じたんだよ」
ひとつひとつの言葉を丁寧に紡いでゆく隆矢。優里もいつしか顔を上げて、その言葉に聞き入っていた。
「改めてお前の力を痛感したよ。だからこそ、このブーケを突っ返すことはできなかったんだ。
彼女にははっきり言ったよ。あなたの気持ちを受け取ることはできないけれど、このブーケは大事に飾らせてもらいます、と。もちろん、連絡先が書かれていたカードも受け取らなかった」
清々しい表情ではっきりそう言い置いて、にこっと屈託ない笑みを投げかける。優里もつられてふわりと笑ったが、すぐに表情を引き締めて、
「あのね、ひとつだけお兄ちゃん間違ってるよ。もしお兄ちゃんがブーケを受け取らなかったとしても、あのひとはきっと捨てたりしない。ちゃんと飾ってくれるはず」
「優里……」
「出来上がったブーケを見た瞬間、あのひとは瞳を輝かせて喜んでくれた。だから―――」
懸命に言い募る優里を慈しむように見つめて、隆矢は「そうだな」と頷いた。お前のブーケには、心のカドを丸く削る力があるんだ、と。
「それじゃ……店に戻るぞ」
「ん……おにいちゃん、ありがとう………」
しかし歩き出そうとした隆矢の袖をつん、と引っ張って、
「ホントに……ごめんなさい。ぼく、お兄ちゃんの気持ちに気付こうともせず、自分の感情ばかりを爆発させて……」
袖を掴んだまま、申し訳なさそうに項垂れる優里。幼い頃にはたまにケンカもしたが、その時にはいつもこうして隆矢の服を引っ張って、「ごめんなさぁい」と優里の方から謝ってきたのだ。
もう怒らないで、僕を置いていかないで、と。そんな幼き日の光景が、目の前の優里に二重写しになって蘇る。
隆矢はふっと口許を綻ばせ、もういいんだよと言おうとした。が、それに先んじて優里が再び口を開き、とんでもないことを言い出した。
「あ、あのね、お兄ちゃん……。お兄ちゃんはもっと……あの……えっちなことしたいんでしょ？」
な、なぬっ？―――隆矢は喉の奥で素っ頓狂な声を上げ、いつの間にか耳たぶまで真っ赤に染まった優里を呆然と見つめた。そんな隆矢の困惑などお構いなしで、優里はひとこと「いいよ…」と囁く。
「な、ななななななにを………」
「えっちなこと、いっぱいするの………お兄ちゃんとだったらへいき、こわくないから………」
隆矢はふう、と腹の底から深い溜め息をつき、
「だめだ、優里。俺への謝罪のために我慢して受け入れるなんて、そんなの俺は嫌だ」
「ちがう！ ぼく……このままだったらきっと、いつまでも恐いとか嫌とかゆって、前へ進めないもの。だから、あの………好きにして………おねがい………」
隆矢はごくりと喉を鳴らして、色っぽく潤んだ瞳を向ける優里をじっと見下ろした。そして、
「………いいのか？」
羞恥を残しつつしっとりと頷く優里の腕を強く引いて、身内の昂ぶりが窺える荒い歩みで店へ急いだ。
隆矢の仕事が終わるまで、優里は邪魔にならないよう店の隅っこにちょこんと座って待っていた。
黙々と閉店業務をこなす隆矢の横顔は、愛のフィルターがかかった優里の目にはきりりと引き締まって見えたが、実際隆矢の頭の中は閉店業務どころではなかった。
まあそれも仕方なかろう。愛してやまぬ恋人に「好きにして」なんて言われて、仕事に専念できるわけもない。こうして仕事に専念しているように振る舞えるだけでも、大したものだといえよう。
「おい隆矢、おめえはもういいから。先に出て優里を送っていってやれ」
じっと座って待っている優里を気遣うゆえか、或いは息子のムスコを気遣うゆえか、その表情から推し測ることはできない。
しかし徹矢は呆れたように肩を落とし、さっきから売上計算をしくじって何度もやり直している隆矢を追い払うように手を振った。
「い、いいのか……？」
「おう。最近遅くまで働きづめだからな。少しゆっくりしてこい」
隆矢は悦びに瞳を潤ませて父親の首に抱き付き、前掛けを投げ捨てて上着を羽織った。そして優里の腰を抱きかかえると、すごい勢いで店を飛び出していった。
「………若いってのは、何ともこっぱずかしいもんだな」
徹矢は苦笑を浮かべつつ、閉店業務に戻った。
BACK TOP NEXT