＜18＞
夏野の心に生じたかすかなさざ波を敏感に察知したのか、結城はいつもの紳士然とした優しい微笑みを浮かべた。そして、
「でもその前に、家に連絡をしておいた方がいい。遅くなったら親御さんが心配する」
そう言ってつまんでいた唇を離し、携帯電話を差し出した。しかし夏野は受け取ろうとしない。それを、親に叱られるのが怖いからだと思ったのだろう、安心させるように大きく頷いて、
「すぐ僕に代わってもらっていいよ。僕の方から事情を話して謝るから」
「あ、いえ。そうじゃないんです」
言いながら、夏野は酒精でのぼせた頭に冷たい何かがすっと走るのを感じた。それは理性でも冷静さでもない。おそらく冷めた諦念のようなものだろう。
「連絡は必要ないです。この時間ならまだ両親とも帰宅していないでしょうし。それに僕が遅く帰ろうが外泊しようが、誰も心配なんてしませんから」
「…………」
重い沈黙から、結城の困惑が伝わってくる。夏野は説明する必要があると感じ、言葉を継いだ。いや、必要があるからというより、ただ話したかっただけなのかもしれない。心の中に溜まった澱を、吐き出したかっただけなのかもしれない。
普段の夏野ならそんな自己中心的な行動に踏み切れなかったろうが、アルコールが力を貸してくれたようだ。
「今も昔も父は典型的な仕事人間で、一年のうち言葉を交わすのはほんの数回程度。家のことは全て母任せです。母はというと、以前は芸能界に憧れるステージママで、僕は姉と一緒に色んなオーディションに連れ回されました。でも僕は姉と違ってはきはき喋れないし、可愛く笑えないし、いつも不合格でした。それである時、夏野はもういいわ、って。ママにはお姉ちゃんがいるから、って」
あれからもう何年も経っているのに、母の言葉はまだ強い毒性を保っていた。それは夏野の舌や喉をじりじり灼く。思わずけほけほと咳き込むと、結城が優しく背中をさすってくれた。
その手はもういいよと宥めるようでもあり、全て吐き出せと励ましているようでもあった。夏野は後者に従い、言葉を続ける。
「ああ、僕は要らない人間なんだって思いました。何の取り柄もない、面白味もない、道端の石ころ同然の人間。だけど結城先生は、そんな僕を必要だって言ってくれた。君にしかできないことがあるって。凄く嬉しかったし、もしかしたらこれをきっかけに変われるかもって希望を持つことができました。でも」
夏野はいったん言葉を切り、唇を噛み締めて嗚咽をこらえた。泣くものか。ここで泣いたら、いかにも同情してくださいと言わんばかりじゃないか。身の上話をする時はできるだけ感情を排さねばならないと、夏野は先験的に知っていた。
「でも、やっぱりダメみたいです。僕、どうしても笑えないんです。もう一度夏野の笑顔が見たいと言ってくれたたか兄ちゃんの前で笑ってみせようとしたけど、萎縮したままの心が足を引っ張って、笑うどころか顔が醜く引きつるばかりでっ……」
夏野は深呼吸した。そして真剣な表情で耳を傾けている結城を真っ直ぐ見上げ、
「専属モデルのお話も、結城先生のお役に立てるなら引き受けたい気持ちはあります。でもこのまま笑顔を封印した人形モデルを続けていたら、永遠に笑えなくなってしまうかも、って。そしたら、夏野の笑顔が見たいって言ってくれたたか兄ちゃんの気持ちを踏みにじることになってしまう……」
葛藤を引きずった暗い声を追いかけるように、目尻から温かなものがつぅっと伝った。夏野は慌てて拭おうとしたが間に合わず、シーツの上に落ちてそのまま吸い込まれていった。
「す、すみません、シーツ濡らしてしまって」
夏野は涙を止められなかった目を咎めるようにごしごしこすり、「やっぱりもう帰りますね」と言って起き上がろうとした。
するとベッドがかすかな軋みを上げて波打ち、次の瞬間、唇を温かくて柔らかくてしっとりしたものに塞がれた。
―――え？ え？
目はしっかり開いているのに、目の前で何が起きているのか把握できない。あらゆる感覚がフリーズした状態で、頭の中は無数の『？』で埋め尽くされてゆく。それが飽和状態を迎える寸前で、夏野はようやく“これ”が何なのか気づいた。
―――キ、キス……僕、キスしてる……。
ということは、この温かくて柔らかくてしっとりしたものは結城先生の唇なんだ、そう思った瞬間脈拍が急上昇し、文字通り頭に血が上った。あと少し結城が唇を離すのが遅かったら、完全に意識を手放していただろう。
「……ごめん、びっくりしたかい？」
結城は罪悪感と満足感が入り混じった神妙な顔つきで訊ねた。びっくりしたという言葉も出ないほどびっくりしたということを伝えるため、夏野はかくかくと何度も頷く。すると結城はぐいと身を乗り出し、
「もしかして、キスしたの初めて、とか」
「も、もちろんです」
結城の顔が嬉しそうに緩んだ。
「うわ、そうか。ファーストキスかあ」
「あの、ど、どうしてキスしたのですか？」
こわごわ訊ねる夏野に、結城はさらりと答えた。
「忘れたのかい？ NGワードのペナルティ」
「あ、そか」
あっさり納得した夏野を、結城は笑いながら抱き締めた。
「ごめん、嘘だよ。ペナルティはただの口実。思いを一生懸命に伝えてくれた夏野君が可愛くて愛おしくて、我慢できなかったんだ」
「い、愛おしい……」
これまでの人生であまりに無縁な言葉だったため、夏野は聞き間違いだろうと思った。しかし結城はふわりと笑い、
「うん、愛おしいよ。君はとても魅力的だ。臆病で傷つきやすいのに、芯の強いところもある。自分に自信がないくせに、時々驚くほど高貴な表情を見せる。純真なのに、男の欲望を刺激する色気もある。でも夏野君は、逢沢君のことが好きなんだろ？」
「！！！」
それはある意味、突然のキスを凌ぐほどの爆弾投下だった。涙目で必死に首を振る夏野に、結城は不敵な視線を送り、
「誤魔化そうたって無駄だよ。観念しなさい」
確かに、自分ごときが結城の目を誤魔化せるはずもない。夏野は言われた通り観念して、小さく小さく頷いた。
「逢沢君に気持ちを伝えないのかい？」
夏野は思わず尖った声で聞き返した。
「伝えてどうなるんですか？ 驚かれて、呆れられて、気持ち悪がられて……。だったら幼馴染みのままでいる方がずっといい」
「なるほど。じゃあもし僕が夏野君のことを好きだと、僕のものになってほしいと言ったら？」
からかっているにしては、結城の表情は怖いほど真剣だった。夏野は胸の奥がぞくりと竦むのを感じた。それでもやはり、信じられないというのが正直な答えだった。
「信じられません。結城先生のようにかっこよくて優しくて、すごい才能を持っていたら、たくさんの素敵な女性から好かれるでしょうに」
「うん。確かに女性は黙ってても寄ってきたけどね。でも彼女らは別に、僕のことが好きなわけじゃない。僕の背後にいる結城仁という人間、そしてJ/Yというブランドに惹かれているだけなんだよ」
「そんなっ、そんなことないと思います！ 結城さんの温かな人柄や素晴らしい才能、仕事に対する真摯な態度に惹かれる人もたくさん―――」
「けれど実際、僕がJ/Yを飛び出して独立すると、以前は何かと色目を使ってきた女性たちはぱったり寄り付かなくなった。ま、ある意味潔いとも言えるし、僕もそんな女に騙されるほどうぶじゃないから、腹が立つこともないけどね。でも虚しくはあるな」
結城はぽつぽつと語りながら、夏野の胸元に手を伸ばしゆっくりとシャツのボタンを外してゆく。しかし話を聞くことに集中している夏野が気づくことはなかった。結城はうっすら目を細め、
「青臭いことを言ってるという自覚はあるよ。本当の僕を見てくれ、なんてね。でも恋愛だけに限らず仕事の面でも、僕はあくまで“結城仁の息子”だった。親子だからなのか、親父がどんなデザインを求めているかちょっと言葉を交わしただけで直感的に分かるんだ。あとはそれを忠実に再現してやればいい。いや、そんな面倒くさいことしなくても、これまでのJ/Yのラインをなぞるだけでよかった。親父は満足げに頷いて、やはりお前は私の息子だ、才能がある……はは、才能ね。模倣の才能ならあるかもしれないけど」
こんな風に冷めた喋り方をする結城は初めてだった。自分という人間に対する、客観的を通り越して突き放したような眼差しが感じられ、夏野の胸はずきりと疼いた。それは、夏野にも無縁のものではなかったから。夏野もよく、失敗した自分を客観的に眺めては嗤っていた。
もしかしたら、自分と結城は似ているところがあるのかもしれない。そんな夏野の思考を読み取ったかのように、
「僕もね、夏野君と同じだったんだ。自分は空っぽで、つまらない人間だと思ってた。J/Yを動かす歯車としての価値はあるけど、僕は人間だ、デザイナーだ。自らの手で何かを生み出したい。たとえ、それまでのキャリアを棒に振ることになっても」
「だから、J/Yを出てＭ＋を作ったのですね」
結城は「そうだよ」と答えて、夏野の頬から顎、そして首筋のラインを慈しむように撫でた。
「とても不安だった。怖かった。大海原に質素な小船で漕ぎ出したような気持ちだった。悔しいけれど、これまでJ/Yという大きな船に乗っていたお陰で、波の揺れも感じず安穏と過ごしてこれたんだと思い知らされたよ。けど、当然引き返すわけにはいかない。僕を信じて付いてきてくれたスタッフたちに、不安をさらすわけにもいかない。だから何があっても、どんなトラブルや妨害に遭っても、大丈夫大丈夫心配いらないよと鷹揚に笑って、受け流してきた」
「みんなを引っ張るために、不安を抑え込んできたのですね」
夏野の労わるような問いかけに頷いて、結城はさらに顔を近づけてきた。
「でも、不安はそう簡単には消えてくれない。僕のデザインは受け入れてもらえるのだろうか。いやそもそも、僕がえらそうに掲げたコンセプトはちゃんと伝わるのだろうか……そんな時、君と出会った」
「僕……？」
「そう。初めて僕の作品を見た君は、まるで方解石みたいに綺麗と言って目を輝かせたね。君は、僕がやろうとしていることの核心を、いきなり掴んだんだ。あの時僕がどれほど驚き、嬉しかったか分かるかい？」
「結城せんせ……あ、んっ」
いきなり耳たぶを食まれ、夏野は自分でもびっくりするほど甘い声を上げてしまった。この時ようやくシャツのボタンが全て外され、胸が露わになっていることに気づいたが、これがどういう状況なのか、結城がなぜこんなことをしたのか全く見当のつかない夏野は、抵抗したり隠したりせず、結局されるがままになった。
「モデルを引き受けてくれた君は、思っていた以上に純真で頑張り屋さんで感受性が強く、そして結晶のように美しかった。そんな子に惹かれないわけにはいかない」
J/Yにいた時の自分を語った時の冷めた口調はいつの間にか消え、その声は熱を帯びていた。余韻をまとった熱い唇を夏野の額に押し付け、
「これで、僕の気持ちは分かってもらえたかな」
「結城先生の気持ち……」
そう言われてもすぐにはピンとこなかったのは、結城が自分のことを好きということ自体、あまりに現実感がなかったから。結城は「しょうがないな」と笑ったが、次の言葉を口にした時はもう笑っていなかった。
「二回目のペナルティ、執行させてもらうよ」
それが耳から頭に届いた時にはすでに、夏野の唇は塞がれていた。
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