送る桜
「在校生代表、一年一組、冴季皇」
司会進行を務める副校長がその名を告げると、講堂内が一瞬ざわめいた。無理もない。在校生代表による送辞は、これまで歴代生徒会長が務めてきたのだから。
しかしそのざわめきは、長続きしなかった。すぅっといずこへともなく消え去り、独特の緊張感を孕んだ静寂が再び支配する。誰もがすぐに納得したのだろう。在校生代表には、現生徒会長より冴季皇の方が相応しいと。
悠然たる歩みで登壇した冴季は、マイクの前で軽く一礼してから手にしていた紙を広げた。その一挙手一投足を、泰水は卒業生席から固唾を呑んで見守る。
彼が在校生代表で送辞を読むことはもちろん知っていたから驚きはなかったけれど、まるで自分が壇上にいるかのような緊張感で心臓はどくんどくん弾むし、手のひらには冷たい汗がじんわりにじんだ。
自分とは違って人前に出ることに慣れている冴季のことだから、心配する必要もないと分かってはいるのだけど。
それにしても、泰水は不思議だった。聞けば今回の送辞は、冴季が生徒会に直談判して自分にやらせろとゴリ押ししたらしい。
冴季家という強大な権力を持ちながら、それをあからさまに利用するような真似はこれまでしなかった彼が、何故今回に限って我がままを押し通したのだろう。そこまでして在校生代表を務めたかったのかなあとぼんやり考えていると、冴季がゆっくり口を開いた。
『卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。この楼星高校で過ごした三年間の思い出を胸に、新しい世界へ巣立っていかれる先輩方へ、在校生を代表して心からの祝福を送ります』
緊張からくるわずかな上ずりも震えもない、むしろ落ち着いた艶すら感じられる伸びやかな低音に、泰水の心臓はさっきとは異質の鼓動を刻み始めた。思わず俯いて壇上から目を逸らし、ぼそっと呟く。
―――かっこいいじゃん。反則だよ、もう
これが昨夜、泰水にうさ耳メイドのコスプレを強要した挙げ句そのままベッドへ連れ込み、うさ耳がぴょこぴょこ跳ねるのがエロ可愛いなどと鼻の下を伸ばしつつ、明日は卒業式だから手加減してと涙目で懇願する泰水の身体をガツガツと貪った変態と同一人物とは思えない。
泰水は“なんかずるい”と唇を尖らせながらも、じわじわと芯から火照ってゆく正直な身体を意識せずにはいられなかった。
そうしている間にも、冴季の送辞は淀みなく進んでゆく。
『ようやく冬も過ぎ、桜の蕾が膨らみ始めたこの晴れやかな早春の日に、皆さんは旅立っていかれます。思い起こせば一年前、私たちは満開の桜に見守られ入学しました。今でもよく覚えています。花びら舞い散る光景に……陶然と見入った時のことを』
泰水ははっと顔を上げた。と同時に、ある情景が鮮やかに脳裏に広がった。
去年の入学式当日。泰水は舞い散る桜の花びらを必死に追い掛けていた。桜の花びらが地面に着く前に掴むことができれば願いが叶うという、桜のジンクスを信じて。
そしてそれは、始まりの瞬間でもあった。自分と冴季の拙い歩みは、そこから始まっていたのだ。
『入学したてで不安も多く必要以上に張り詰めていた私を、先輩は優しく受け入れてくれました。いえ、ただ優しいだけではなく、顔を背けようとする私に時には厳しく正論をぶつけ、過ちを指摘し、光射す方向へ導いてくれました』
「皇……っ」
泰水はようやく気付いた。この送辞は、泰水へ向けた冴季からのメッセージなのだ。
この一年ありがとう、そして卒業おめでとうと、面と向かって言うのは照れ臭い。そんな冴季が講じた策、それは在校生代表という公的役割を隠れ蓑に、私的なメッセージを送るというものだった。
『その桜に導かれた出会いがあったからこそ、私がこの楼星高校で過ごした一年間は、これまでの生涯で最も充実した、幸福な時間となったのです。どれほど感謝しても、感謝し足りません』
僕の方こそ、と泰水は言葉にならない言葉を返す。那津との不毛な関係を清算したことで空っぽになっていた自分を、深い愛情で満たしてくれた。
『愛されるというのがどういうことなのか教えてやる』―――その宣告通り、追い掛ける切なさしか知らなかった自分に、愛される悦びを教えてくれたのだ。
『先輩はひと足先に、新しい世界へ踏み出して行きます。正直なところ、先輩の傍にいられなくなる不安や淋しさも大きいです。けれど後ろを振り返るのではなく、この一年間で築いた絆を支えに前進することが先輩への恩返しになる、そう自分に言い聞かせつつ、笑顔で見送りたいと思います。本当に……ありがとうございました』
冴季が結語とともにお辞儀をすると、講堂全体から拍手が湧き起こった。この中で一体何人が、これが私信だと気付いているだろうか。途中で、一人称が『私たち』から『私』に変わったことに。
泰水は拍手をしながら那津を視界に捉えた。彼も他の生徒と同じように拍手していたが、その顔には呆れたような苦笑いが浮かんでいた。那津も気付いたのだろう。冴季の目論見に。
「皇ってば、ほんとにもう……」
自分中心なんだから、と喉の奥で続け、壇上から降りる冴季を目で追う。こちらを見てニヤリと笑ったような気がしたが、潤み始めた瞳のせいで視界が霞んではっきり確認することはできなかった。
泰水と那津しか気付いていない秘めやかなアクシデントはあったものの、その後式は滞りなく進行し無事終了した。
最後のホームルームを終えて教室から中庭に出ると、待ち構えていた後輩たちが各々のクラブの先輩たちに駆け寄る。花束を渡す者もいれば、何人か集まって卒業生を胴上げするクラブもあった。
女子生徒がいないから華やかさには欠けるものの、祝祭的な空気に別れの淋しさが混じった、独特の高揚感に満ちていた。
しかしその中で、泰水と那津はまるで部外者のようにぽつんとしていた。泰水はぷぅっと膨れ、
「まったくもー、胴上げは無理でもさ、せめて花束ぐらい用意しててくれたっていいのにっ」
そう言って、後輩に囲まれたクラスメートらを羨ましげに眺める。那津は笑って宥め、
「まあまあ。特にこの時期は花の世話が忙しいから、余裕がないんだよ。斯く言う俺も、春留先輩の卒業式は何も渡せなかった」
「那津は、美しく再生させた花壇を贈ったじゃないか。ほんとにさあ、皇はお金持ちなんだから、こう、開店祝いみたいなでっかい花輪とかどーんと……」
続く言葉を呑み込んで、泰水は思わず空を見上げた。桜の花びらがひらりと、目の前を軽やかに流れていったからだ。
「え？ 桜……？」
まだ三月半ば。桜前線は遥か南方だ。しかし、
「うわぁ、やっぱり桜だぁ！」
春特有の霞んだ青空を、桜色の花びらが染め上げる。泰水は歓声を上げて手を伸ばした。中庭に集う生徒らも、口々に「桜だ、すげえ」と言って空を仰いだ。その時、
「泰水ぃ！」
頭上から冴季の声が。見上げると、冴季を含む園芸部の部員三人が、教室のベランダから中庭に向けて桜の花びらを、否、桜色の紙吹雪をまき散らしていた。
「こっ、皇？！ 太田くん、葛西くんっ？」
「那津先輩、泰水先輩、卒業おめでとうございます！」
「この桜で、卒業するお二人を送ります！」
叫びながらも、次々と花びらを飛ばす。冴季はベランダから身を乗り出し、
「泰水っ、ほら、花びら掴めよ。桜のジンクスだぞ！」
「う、うん！」
泰水はあわあわしつつ花びらを追い掛けたが、芝生に躓いて転び、その場にべたっと座り込んでしまった。それを見た冴季はげらげら笑い、
「相変わらずどんくせえ。一年前からちっとも成長してねえな」
「う、うるさぁい……もおっ……」
泰水は赤くなって不貞腐れたが、空を見上げるとすぐに顔は綻んだ。
「きれーい……本物の桜より綺麗だよ、皇……」
うっとりと呟く泰水の傍らで、那津はぼそっとひと言。
「これ、掃除どうするんだよ……」
それから泰水は謝恩会に出席したが、途中でこっそり抜け出して温室へ急いだ。そこで、冴季が待っているはずだった。
はあはあと息を切らせて温室の扉を開けると、待ちくたびれたのか冴季が長椅子の上でうたた寝していた。
荒れた呼吸のまま近づき、上から顔を覗き込む。無防備なはずの寝顔すら端整で美しく、泰水はつい見蕩れてしまう。すると気配を察したのかいきなり冴季の目が開いた。
泰水の視界に突如現れた、双つの黒い宝石。その魔性に搦め捕られ硬直していると、抱擁を誘う腕が伸びてきた。泰水はためらうことなく身を委ね、甘い温もりに憩う。冴季はその背中を撫で、
「走って、きたのか？」
寝起きのかすれた声は、凶悪なほど色っぽい。泰水は首の後ろがさわりと総毛立つのを意識しつつ、「早く会いたかったから…」と正直に答えた。
「また転ばなかったか？」
低く笑み含んだ声に、泰水は唇を尖らせた。するとそこに、温かく柔らかいものが重ねられる。
「ん……」
唇の感触を楽しむように、開かないまましばらくすり合わせる。やがて、徐々に高まる熱に煽られるように泰水が唇を開けると、熱い舌が滑り込んできた。
いつの間にか体勢は逆転し、冴季の上にかぶさったはずの泰水は組み敷かれ、上から唇を塞がれていた。
雄々しくうねる肉厚の舌に口内をくまなく舐め回され、気持ちよさに震える舌を吸い上げられる。そのたびに快感で腰が浮き上がり、重なった唇の隙間から蜜状の喘ぎが漏れてしまう。
「あ……ん……も、ぅ……」
長く濃密な口づけにほとんど舌がとろけかけた頃、冴季はようやく粘膜の絡まりをほどいた。くちゅっと儚い音を立てて離れた唇から、泰水は官能の余韻に濡れた吐息をこぼした。
冴季はその最後のひと雫を吸い取るように軽く唇を合わせると、泰水の身体をそっと抱き起こした。そして肩に腕を回して抱き寄せる。全ての動作が優しくて甘くて、その受け皿である泰水の身体は今にも溶け崩れてしまいそうだった。
「皇のバカ……あ、あんなことして……」
咎める言葉にも、どこか甘えたような響きがあった。冴季はふっと目を細め、
「ん？ 何がだ？」
「何がって、送辞っ」
「ああ、感動的だったろ？」
口端を吊り上げて確信的な笑みを見せる冴季に、泰水は軽く頭突きした。
「痛えよ、こら」
笑いながら抗議する冴季の胸に、泰水は頭を押し付けたまま固まった。すると頭上から、「どうした？」と心配そうな声が降ってきた。泰水は無意識のうちに冴季の胸にすがり、
「僕も、不安なんだ。一人でやっていけるのか」
未知の大学生活。中学から一緒だった那津も、大学からは違う学校だ。傍にいて守ってくれる人はいない。
「僕はずっと、誰かに頼ってばかりだったから……」
高校生活の最初の二年は、那津の庇護下にいた。残り一年については言うまでもない。そんな依存体質から抜け出したくて、敢えて那津と違う大学を選んだという意図もあった。
それは、泰水にとっては大きな賭けだった。結果が吉と出るか凶と出るか自分でも分からないが、とにかく前へ進むしかないのだ。
「ごめん、この期に及んで弱音吐くなんて……うん、だいじょうぶ、がんばるよっ」
多少作為の痕跡はあるものの、泰水は明るい声でそう言ってぱっと顔を上げた。と同時に背中が軋むほどきつく抱き締められ、驚きと困惑に言葉を失う。
「泰水、あと二年待っててくれ……」
「皇……」
「俺が高校を卒業したら、誰にも何も言わせねえ。お前を傍に置いて、何があっても俺が守る。だからそれまでの間、弱さを見せず毅然としていろ。お前の繊細さや純粋さを見抜いて、不埒な目的で近づいてくる奴がいるかもしれない。頼むからそんな奴らに傷つけられないでくれ。今のその笑顔を失わないでくれ」
背中に回された腕は、小刻みに震えていた。いつもふてぶてしいほど堂々として、王者然たる態度を崩さぬ冴季が見せる戦き。彼はある意味、泰水以上に泰水の大学生活に不安を抱いていたのだ。
それを知った泰水の中に湧き上がるのは―――
「大丈夫だよ、皇。僕が自分で選んだんだ。那津に頼らず、一人で新しい世界に飛び込むという道を」
さっきの引きつった『だいじょうぶ』とは異なる、本心からの言葉だった。こんなにも、自分のことを心配してくれる人がいる。自分が抱えている不安に寄り添ってくれる人がいる。その事実だけで強くなれるような気がした。いや、強くなるのだ。
「だから不安にならないで。道の先で待ってるから。それで皇が卒業したら、一緒に、あの……」
さすがにこの先は恥ずかしくて畏れ多くて、容易に口に出せない。しかし泰水は心の中でえいっと助走をつけて、
「一緒に、暮らそ……」
かすれた語尾は、冴季の胸に吸い込まれた。再び骨が軋むような抱擁を与えられ、泰水は息も絶え絶えだったが最高に幸せだった。やがてわずかに抱擁が緩み、
「先に言わせろよ、ったく……」
「年上だもーん」
泰水はおどけた口調で返し、そろりと顔を上げた。こちらを見下ろす冴季は、何だか泣きそうな顔をしている。
そうだ、自分の方が二つも年上なのだから、しっかりしなくては。それに冴季は、自分とは比較にならぬほどの重いものを背負っているのだ。
「皇、僕がいるからね」
「は、何だよ。急に大人ぶりやがって」
情けない顔を見せてしまったという自覚があるのだろう、冴季は珍しく顔を赤らめてふいと横を向く。するとその動きに合わせて、冴季の襟元から桜色のかけらがはらりと落ちた。泰水は咄嗟に手を差し出し、それを受け止める。
「やったぁ、桜のジンクスゲット」
「あ、なんか狡くねえか？ それ俺のだろ」
泰水はぷるんと首を振り、桜色の紙片を定期入れにしまった。願い事は、決まっている。
―――園芸部に、新入生がたくさん入りますように
本物の桜が咲く頃にはきっと、この温室にも新入生たちが訪れているだろう。そして自分は、新しい世界への第一歩を踏み出しているはずだ。
「桜が咲いたら、花見に行こうな。とっておきの場所があるんだ」
「うんっ」
冴季の言葉に、泰水は笑顔で頷いた。が、それでも、と泰水は思う。本物の桜が開花して、どんなに美しく繚乱と咲き誇ろうとも、今日冴季たちが見せてくれた光景には敵わないだろう、と。
春の空に舞い上がる、手作りの桜吹雪には。
（Fin）
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