愛しさと、切なさと

呼び鈴が鳴ると同時に純はぱたぱたと玄関に駆け出し、扉を大きく開けて来訪者を迎え入れた。

「純、久しぶりね。お邪魔します」
「こちらこそお久しぶりです。さあどうぞどうぞ」

幾何学模様の派手なワンピースを着た桐生朱音は、とても中学生の息子がいるとは思えぬほど若々しく艶やかだった。

純は笑顔で挨拶すると、その隣で神妙な顔付きのまま突っ立っている雪仁にさらに親しげな微笑みを向け、

「雪仁くんも、いらっしゃい。家に来てくれるのは久しぶりだね。嬉しいよ」
「あ……はい、あの―――」

屈託ない笑顔が余りに眩しくて、目を細めて口ごもる。すると隣からにゅっと腕が伸びてきて、頭をぐいと押さえ付けられた。

「ほらっ、ちゃんと挨拶なさい。ぼーっと突っ立ってないで！」
「う、うるせえな！　言われなくたって挨拶ぐらいするっ！」

母親の手を少し乱暴に払い、怨めしげにじろりと睨む。対して朱音は純に向かって肩を竦めてみせ、

「ホントに、この年頃のガキは扱いにくくて」

純はクスクス笑いつつも、

「でも雪仁くんはとても素直でいい子ですから」
「そう言ってくれるのは純だけよ。ほら、雪仁も感謝なさい」
「だからうるせえっつうんだよ！」

雪仁は怒鳴ってそっぽを向くと、素早く靴を脱いでどかどかと家の中に入っていった。朱音はやれやれと溜め息をついて、

「まったくあの子ったら、何を赤くなってんだか」

ぶつぶつ呟きながら純の後に付いて部屋に上がったのだった。




「何だ、お前も来たのか」
「………来ちゃ悪いのかよ」
「別に」

尭村は優雅に脚を組んだまま、ククッとこもった笑いを浮かべる。

冷笑でも嘲笑でも窃笑でもない、況してや親愛込めた微笑でもない。彼独特のこの笑いを向けられるたびに、雪仁は言いようのない敗北感のようなもやもやした苦しさに襲われるのだ。

それを無理に押し込めて平静を装い、尭村の向かいにどっかり腰を下ろす。

「どうだ？　学校は」
「何だよその、いかにも久しぶりに会った親戚のおじさん、みたいな質問」
「一番穏当なこと訊いてやったんだぜ。それとも、女はできたか、とか訊いて欲しかったか？」

そう言ってまた、あの不敵な陰翳を帯びた笑みを浮かべ、冷たい知性と熱い激情が綯い交ぜになった黒瞳で真っ直ぐ見つめてくる。自分ですら思わず引き込まれそうになってしまうのだから、彼に射竦められた女性は一体どうなってしまうのだろう。

もちろん、尭村の関心や愛情が他に注がれることなどあり得ないことは、分かり切っているのだが。

雪仁は悔しさを噛み締めつつも目を逸らす。この透徹した眼差しの前では、これまで培ってきた鉄壁のポーカーフェイスなど無きに等しい。心の奥に隠匿している想いなど、あっという間に引きずり出されてしまうに違いない。

いや、もう遅いのかもしれないが。

「成仁、久しぶりねぇ。相変わらずふてぶてしいことで」
「おう。相変わらず無駄に若作りしてるな」

部屋に入ってきた朱音と親愛のこもった挨拶を交わし、尭村は立ち上がってキッチンへ向かった。お茶の用意をしている純を手伝うためだ。

「ふぅん、家事も分担してやってくれるって純が言ってたけど、どうやら本当のようね。雪仁も見習いなさい」

もちろん雪仁は返事をせず、むすっと黙り込んだまま。やがて、涼しげなガラス器にお茶と冷菓子を用意した純が部屋に入ってきた。

「外は暑かったでしょう？　さあ、どうぞ」

朱音は出された茶色のゼリーを物珍しげに眺め、つるんと口に運んだ。

「あら美味しい。これって手作り？」
「はい。ウーロン茶のゼリーです。さっぱりするでしょう？」
「仄かな甘みがいいわねえ。今度レシピ教えてね」

和やかな会話が続いたが、朱音は突然「あ、」と声を上げ、

「忘れるとこだった。今日来たのは、これを純にプレゼントするためなの。もらってくれる？」

傍らの風呂敷包みをいそいそと開けた。中から出てきたのは―――

「ゆ、浴衣ですか……？」
「そうよお。純に浴衣を贈るのはこれで二度目ね。知り合いの染物作家さんから頂いたの。ね、ね、ちょっと当ててみて」

深くて渋みのある留紺地ではあるが、ひと目で女物だと分かる。淡い色彩の糸菊が咲き乱れ、大小の蝶がひらりと舞っている。

純は戸惑いも露わに尭村の顔をちらと窺ったが、尭村が柔らかく目を細めて頷くのを見ると、そっと立ち上がって身体に添わせてみた。

朱音は満足げにうんうん頷いて、

「薄鼠の糸菊の、落ち着いた華やかさがよく似合ってる。派手すぎず、かと言って地味でもない。やっぱり私の見立てに間違いはないわねっ。純、もらってくれる？」
「あの……は、はい………」

朱音の勢いに半ば押し切られる形で、純はかくかくと頷いた。朱音はさらに下駄や帯を取り出しながら、

「あーあ、私も女の子が欲しかったなあ〜」

純は男だ、などと今さら指摘する者などいるはずもなく。朱音は唇を尖らせて誰にともなくぶつぶつ文句を垂れる。

「雪仁が小さい時は、たまに女の子の格好とかさせて遊べたけど、さすがにもうできないしなあ。なぁんでこんなでかくなっちゃったんだか……」
「なっ……ふざけんなよ、だれがっ―――」
「うわああ。雪仁くんが？　見たかったなあ。きっとすっごく可愛かったでしょうね」

目をきらきらさせて身を乗り出す純に、朱音は「まあね」と返し、

「女の子の浴衣も着せたことあるのよ。けっこう似合ってたわね。まあ、純には敵わないけど」
「そんなあ。きっと雪仁くんの方が―――」
「あんたらいい加減にしろよッ」

首まで真っ赤になった雪仁が、怒り心頭の形相で叫んだ。そして母親の顔をじろと睨み、

「大体なあ、おかしいんだよ、あんたは。男に女物の浴衣着せようなんて。いくら純さんだからって、似合うはずねえだろ。それに、」

今度は純の方へ険しい視線を送り、

「純さんも純さんだ。そんなもの受け取ってどうするんですか。本当に着るつもりですか？　やめてください、恥ずかしい」

雪仁に厳しく詰られて、思わず俯いてしまう。尭村は黙ってことの成り行きを傍観していたが、対して朱音は怒りも露わに立ち上がり、

「そこまで言うんなら、見てもらいましょうか。本当に似合わないかどうか。純、浴衣に着替えて、このバカ息子に見せ付けてやりましょう」
「えっ？　今、ですか？」
「もちろんよっ。成仁も、いいわね？」
「ああ、どうぞ。奥の部屋を使うといい」

朱音はまだあわあわしている純の腕を引っ張って、ずかずかと奥の部屋へ消えていった。

尭村と二人、部屋に残された雪仁は覚悟を決める。きっと、純になんであんな酷いこと言ったんだと非難されるに違いない。しかし、

「お前の母ちゃん、しょうがねえな」

尭村はそう言って淡く笑っただけで、雪仁の言動を責めることはしなかった。

「……それだけかよ。俺の大事な純に酷いこと言いやがってとか―――」
「言った本人が一番後悔してるのに、改めて俺が追及する必要もないだろう」

ああ、まただ。また全て見透かされている。雪仁は返す言葉もなく、黙って奥の部屋へ耳を澄ませる。

そして３０分後、朱音の先導でしずしずと姿を現した純は―――

「ああ……綺麗だ。よく似合う」

尭村は感嘆の溜め息を捧げると、すっと立ち上がって純の手を取った。対して雪仁はぽかんと口を開け、その姿を貪るように眺める。夏の明るい光に満たされたリビングは、濡れた光沢を帯びた艶花によって妖しく染め上げられた。

濃い紺地が映ったのか、白皙の生肌は微かに蒼みを帯びて頽廃の彩りを添える。糸菊の細い花弁の上を舞う蝶たちは、純という蜜花に吸い寄せられたに違いない。

無造作に上げた髪がぱらぱら落ちて首筋を這うさまは、快楽に酔い惑う官能の夜を連想させる。細い腰やうなじ、裸足の爪先などどこを見ても悩ましげで、はっと我に返った雪仁は慌てて目を逸らした。

朱音は勝ち誇った口調で「どお？　似合わないかしら」と問い詰める。雪仁はそっぽを向いたまま「似合わねえよ」と吐き捨て、続けて「なにムキになってんだよ、バカじゃねえの」と切り捨てた。

朱音はずいと詰め寄り、

「ちゃんと見なさいよ」
「うるせえ！　似合わねえものは似合わねえんだよ」
「ムキになってんのはあんたじゃないの」

言い合いを始めた桐生親子を純は慌てて宥めた。そして淋しそうな笑みを雪仁に向けて、

「ごめんね、ヘンなもの見せちゃって。雪仁くんの言う通りだよね。こんな、女物の浴衣着て……僕ってば………」

しゅんと項垂れる純の肩を、尭村がさりげなく抱き寄せる。そして耳許に唇を寄せ、

「女物だとか男物だとか関係ない。俺が似合うって言ったんだ。それで十分だろう？」
「成仁……」

純は微かに頬を染めてふわりと微笑み、尭村の首筋に顔を埋める。そんな二人を見ていることができず、雪仁は俯いたまま、ぎゅっと握った己れの拳を睨み続けた。




「純てば淋しそうだったわねえ、あんたに似合わないって言われて」

帰りの車中、朱音は聞こえよがしに呟いて溜め息をついた。雪仁は胸の痛みを無視して鼻先で嗤い、

「成仁兄に似合うって言われたんだから満足だろ。別に俺の意見なんか……」
「バカねえ。あんたにも似合うって言って欲しかったに決まってるじゃない。それが乙女心ってものよ」

反論する気も起こらない。とはいえ、似合わないと言った時の淋しそうな顔がちらちら頭を掠めるのは事実だった。

苦しげに黙り込んでしまった息子に意味深な一瞥を投げると、朱音は「あ、」と声を上げ、

「そう言えば、あの浴衣にぴったりの髪飾りを見つけたのよねえ。天然石をちりばめた蝶が翅（はね）を広げた意匠のかんざし。純の柔らかな髪に挿したら、きっと素敵でしょうねえ」
「……それ、どこの店にあるんだよ」

俯いたまま低い声で質す雪仁に、朱音は笑いを噛み殺しつつ店の場所を教えたのだった。




その数日後―――

保健室で日誌をつけている純の耳に、控え目なノックの音が届いた。純は「はいっ」と返事をして、カラカラと戸を開ける。しかしそこには誰の姿も見えず、首を傾げつつ室内に戻ろうとした。その時、

「あれ？　なんだろ、あの袋……」

＜在室中＞のプレートと一緒に、小さな紙袋が掛かっていた。純は取り敢えず外して部屋に戻り、中をそっと覗き込む。そこには細いリボンが掛かった箱と、折り畳まれたカードのようなものが。

そのカードを開いた純は大きく目を見開き、やがて「ふふっ」とはにかむように笑った。小さな箱を開けると、中には繊細な蝶の造形が美しいかんざしが。光にかざすと、翅に施された天然石がきらきら瞬く。

「ありがと、雪仁くん……」

純はかんざしとカードをそっと胸に押し当て、そこから伝わる雪仁の想いをじっと噛み締めたのだった。



―――本当はすげえ似合ってた　　　雪仁
（Fin）

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