第二十話＜最終話＞
呼吸も許さないと言わんばかりの激しい口づけの後に待っていたのは、胸が潰れるほどの、骨が軋むほどの抱擁だった。
何よりも蒼舞の身体を気遣ってくれた鷲塚らしくない荒っぽい振る舞いには、これまで抑え込んでいた激情が満ちていた。やっと、あの憎むべき鎧を叩き壊すことができたのだ。
「くそっ、覚悟を決めてここへ来たのに、こんなことに……」
「鷲塚さん……」
「感情を抑え込み、自分を偽り抜く自信はあった。たとえ今つらくとも、その方が君のためだと分かっている。だからそれを遂行すればいいと自分に言い聞かせた。それがこのザマだ」
鷲塚の言葉は、これまでにない熱を発していた。おそらくそれは、自身に対する苛立ちなのだろう。そんな灼ける感情を隠そうともせず、鷲塚は尚も蒼舞に訴える。
「君は今、感情的になっているだけだ。冷静になって考えれば分かるはずだ。元軍人、元朱衛隊の男など、今後のキャリアを考える上で害にしかならないと」
蒼舞は取り敢えず最後まで聞いた上で、挑むような口調で言い返した。
「僕の望みはさっき伝えた。今さら何度考えても答えは変わらない。冷静に考えて答えを出すべきなのはあんたの方だ。僕が要らないのなら、この抱擁を解いて突き放せばいい。もともと、そのつもりでここへ来たんだろ？」
「そうだ。そのつもりでここに来た。しかし……くそっ」
鷲塚は苦々しげに吐き捨てると、抱擁をわずかに緩めた。しかし、蒼舞の腰に回した手は離そうとしない。蒼舞は深く息をついてから鷲塚を見上げ、
「思惑通りにいかなくて残念だったね。でも僕のせいじゃない」
「いいや、君のせいだ。下にいるマネージャーを呼んでこいだと？ ふざけるにも程がある」
「ふざけてない。本気だ。彼、イヴァンには前から口説かれてた。公私ともにパートナーになってくれないかと。だから、鷲塚さんに振られて傷ついた心と身体を彼に癒してもらおうと思ったんだ」
蒼舞が言い終わらぬうちに、鷲塚の額に険しい翳が差した。と同時に、腰に回されていた腕が抱擁から拘束へ変わる。そこには生々しい所有欲が凝結していた。そして、本能を剥き出しにしたオスに相応しい低音で、
「他の男とは二度と寝るな」
鷲塚の命令口調には慣れているはずだった。三年前に護衛されていた間もよく、ああしろこうしろ、これはするなと命令された。
しかし、自制心のフィルターを通さず我欲からダイレクトに放たれた命令の威力は、三年前の比ではなかった。それをまともに食らった蒼舞だったが、簡単に屈するものかと意地になり、
「あ、あんたに命令する権利はもうないはずだ」
しかし鷲塚は意に介さない。それどころか、目を逸らすのも許さないとばかりに蒼舞のうなじを片手で引き寄せ、
「権利など関係ない。俺が許さない、それだけだ」
厳然と宣告して、間髪いれず蒼舞の唇に噛みついた。
「んっ……ん……」
初めて聞いた鷲塚の粗野な一人称や、これで会話は終わりだと言わんばかりの激しい口づけ、喉の奥まで犯すような舌の動きなどが、蒼舞の下腹部を妖しく疼かせる。すると兆し始めた微熱を察知したのか、鷲塚の手が下半身に伸びてきた。
かすかな膨らみを確かめるように撫でられただけで、そこにかあっと熱が凝集するのが分かる。鷲塚は躊躇せず前を寛げ、骨太ながら優美な指を下着の中に滑り込ませてきた。
「や…めっ……ぅ、んっ……」
蒼舞の両手は自由だったから、すぐさま鷲塚の手を引き抜こうとした。しかしそれはびくともせず、蒼舞の濡れそぼった先端をあやすようにこすり、そのままさらに奥へ潜り込んでくる。
「ん…はっ、は……ぁっ………」
抗議の声は舌とともに吸い上げられ、代わりに唾液が注がれた。それをうっとりと飲み干している間に、指はいともたやすく辿り着いた。
奥に快楽の泉を秘めた肉のあわい。細かな襞を作る薄い膜が、蒼舞の意思とは関係なくざわめきながら、鷲塚の指に吸着する。まるで、早くここを暴いてとねだるかのように。
「やッ……鷲塚さ……あ、ああ……！」
粘液でコーティングされた指先が、ぬるんと勢いよく入り込んだ。と同時に、筒肉全体がきゅぅっと収縮して指を締めつけるのが嫌でも分かる。
まるですすり上げるような粘膜の動きは酷く卑猥で且つ物欲しげで、蒼舞を羞恥の色に染め上げたが、自分ではどうすることもできない。唯一抵抗を見せていた両手も、今では鷲塚の胸にしがみつくので精いっぱいだった。
「中が、熱い」
鷲塚は言葉こそ冷静だったが、合間に漏れる呼吸は乱れていた。ぬるぬると行き来して中を広げる指の動きも、己の欲望を優先させているのか荒っぽい。
これまでずっと自分を抑えてきた鷲塚が欲望を優先させることは、蒼舞にとって喜ばしいことなのは間違いない。
しかし身体がはっきりと抵抗のそぶりを見せているのは、無意識の反射でも作為的な焦らしでもなかった。それは──
「こういうのは……嫌だ。あの時のこと思い出すからっ……」
鷲塚の動きがぴたりと止まった。蒼舞が言わんとすることを察したのだろう。
「面会終了時間を気にしながら、追い立てられるように狭い独房で身体を繋げた。だから今度逢った時は、ベッドの上でじっくり愛してもらおうって思っ…て……」
いつの間にか溢れていた涙を、鷲塚の唇が優しく吸い取ってくれた。同じ唇が「すまなかった」とかすれた謝罪を紡ぎ、そして互いの柔らかさを確かめ合うようにふわりと重ねられた。
これまでにない甘いキスで、身も心もすっかり和らいだ蒼舞だったが、すぐに許すのは癪だったから唇をつんと尖らせ、
「だいたい、鷲塚さんてば振り幅大きすぎだろ」
「ああ。自分でもそう思う。けれど」
鷲塚は蒼舞の身体を軽々と抱き上げ、静かな獣の目で見下ろした。
「私がおかしくなるのは、君の前でだけだ」
そう言って、憎らしいほど優美な歩みで寝室へ向かった。
じっくり愛してもらいたいと言ったけれど、まさかここまで丁寧に、さらに言えば執拗にされるとは思っていなかった。
全身の輪郭をなぞるような鷲塚の愛撫に、もともと刺激に弱い蒼舞の肌はますます過敏になり、身体のあらゆる先端がぴりぴりと尖ってゆくような感覚に陥る。うつ伏せの姿勢で、胸のささやかな突起がシーツに触れただけで、痛痒い快感が肌の上を滑る。
さっきまで散々舐められ舌先で転がされた乳頭は、赤く腫れて剥き出しの粘膜みたいに敏感な器官になっていた。
「鷲塚さ…ぁん……も、いいから……はや…く……」
シーツの波間に、甘ったるい哀願と性器から滴る愛液が染み込んでゆく。しかし鷲塚は、じりじりと追い詰めるような愛撫をやめようとしない。
蒼舞の奮い立つものを絶妙の力加減でしごきながら、尻の狭間に顔をうずめて秘処に舌先をねじ込む。
ぬるりと触手めいたものが浅い部分で蠢く感触は酷く淫らで、ぞくぞくするようなほの昏い情動を喚起した。
舌とともに染み込んでくる唾液で、内壁が温かく潤ってゆく。そのせいで、快感からひくひくと下腹部が痙攣するのに連動して中がとろんと波打つのが分かる。
ここをあの太いもので掻き回されたら、どんなに気持ちいいだろう。ついさっき、愛撫の合間にちらと目にした鷲塚の屹立が脳裡に浮かび、まだ暴かれていない蜜壺の奥がずくんと疼くのを感じた。
「あっ……く……ぅ！」
舌が抜かれると、間髪いれず指が入ってきた。内側から捏ねるように揉んで、丁寧になかを広げてゆく。と同時に、蒼舞の内股に舌を這わせきつく吸い上げてきた。ちりっとした痛みにくぐもった声を上げると、今度は同じ場所を優しく舐められた。
「痕を付けた。君が私のものである刻印だ」
明日もレッスンがある蒼舞を気遣って、首筋など見える場所は避けたのだろう。蒼舞は自ら脚を開いてさらに尻を突き出し、「もっと付けて」とねだる。
すると鷲塚は、やんわり歯を立てて甘咬みし、吸い上げては舌を這わせ、身体の最も奥まった場所に淡い花を次々と咲かせていった。
内股の薄い皮膚は性感帯とも呼び得るほど敏感で、鷲塚に食まれるたびにびくびくと腰が浮き上がってしまう。秘処はきゅんとすくんで鷲塚の指を締めつけ、指の本数や動きまではっきり分かるほどだった。
「もう挿れてっ……が、がまんできな……」
「じっくり愛してほしいと言ったのは君だぞ」
「も、十分だからっ……ていうか、あんた分かってて焦らしてるんだろ！」
蒼舞の非難に応えるように指が勢いよく抜かれ、息つく間もなくそこを凄まじい圧迫感が襲った。張り詰めた肉の熱さに、十分とろけたはずの入口が一瞬すくむ。
「馬鹿なことを言うな。焦らす余裕などあるはずないだろう」
苛立たしげに吐き捨てた鷲塚は、一緒に紳士の仮面も捨てたのだろう。閉じてしまった肉をねちねちと力任せにこじ開けて、押し込んでくる。前回独房で交わった時以上の大きさに、蒼舞はまず驚いた。
「あ……す、ごっ……鷲塚さ……あ、あっ、こんなの……ひ、ぃっ……」
急がずかといって焦らすこともなく、鷲塚は適度なペースを保って己のそそり立つものを蒼舞の中に押し込んでゆく。異物に怯える粘膜に、じっくりなじませるように。
シーツに爪立ててひぃひぃ言っていた蒼舞も、気がつけば官能の色濃い喘ぎを漏らしていた。
「ああ……んっ、きもちいい……もっと奥、きて…ぇ……」
「まったく君はっ……」
呆れたような物言いとは裏腹に、その声には爆ぜるような劣情が満ちていた。鷲塚は蒼舞の腰を両手で抱え直し、ぐっと引き寄せる。それに合わせて自らも腰を突き出せば、二つの淫らな器官はぐちゅっと音をたてて絡み合った。
蒼舞の中に全て収まった鷲塚のものは、腰に響くほど激しく脈打っている。肌がざわぁっと粟立ち、血流が一気に速まる。
「いっ…いい！ そこぉ……」
全身を包む浮遊感につられて腰を高く持ち上げると、弓なりに反った背中の筋を鷲塚の指が慈しむようになぞった。
「やはり、この身体は芸術そのものだ。舞踊の神に捧げられるべきものなのだろう。しかし今は──」
鷲塚は再び蒼舞の腰をがっしり掴み、
「──今は私のものだ」
重々しい宣告とともに、激しく身体を揺さぶってきた。不意打ちの抽挿に、とろんと微睡んでいた筒肉は一斉にざわつき、蠢き、悶えては鷲塚のものをしゃぶるように締めつける。
「はっ……これは、すごい……」
鷲塚の感嘆は、快楽に甘くひずんでいた。成熟した男性の色気が凝縮したその声に、蒼舞は恍惚と聞き入る。
「んっ、あ、あぁん、そこいいっ……いっぱい突いてっ………」
それに引き替え、自分の声の子供じみていること。なのに鷲塚は「いい声だ」と言って、さらに激しく深みを穿つ。前後の動きだけでなく、深く突き刺したまま側面をぬるりと絡め取るように腰を使ってくる。
「う、うそつきっ……あ、んっ……！」
「嘘じゃない。最高だ」
「嘘だっ、だって……ヘンな声……してるっ……ぅ、あ、やっ、そんなにしたらっ……」
「したら？」
「溶ける、からだ……溶け…るぅっ……」
言葉通り、身体の輪郭が溶けてなくなってしまいそうだった。快楽の坩堝と化した蒼舞は、唯一のよすがであるシーツに爪立て噛みついて必死に己を保つ。
その健気さと淫乱さの共存した姿態が、鷲塚の目にどのように映るかなどもちろん考える余裕などなかった。
「蒼舞っ……」
切ないほど切羽詰まった声で名前を呼ばれ、蒼舞の胸に快楽とは別の甘さが広がる。それは鷲塚を愛しいと思う感情。
これまでは、照れや意地などが邪魔をして素直に表現することができなかった。しかしようやく──
「んっ、すき、好きっ……鷲塚さん……」
喘ぎの形に綻んだ唇から、結晶のように澄んだ告白がぽろりとこぼれ落ちた。その瞬間、蒼舞の中にあるものがさらに体積を増してぐんっと伸び上がった。
「んあっ、あっ、おっきい……も、だめっ……」
「いくか？」
「ん、いくっ、いく…ぅ……」
それまで縦横無尽に打ち込んでいた鷲塚が、狙いすますように角度をつけて奥の一点をずんっと突いた。すると内部が複雑な蠕動を始め、鷲塚のものをすすり上げるように締めつける。
「あっ、ああっ、ああああ………っ！」
「……っ！」
火傷しそうに熱いものが、自分の先端からびゅく、びゅく、と飛び出してゆく。それと同時に、身体の中が温かく濡れていく感覚に襲われる。鷲塚が放つ熱精は、凄まじい勢いで蒼舞の体内を満たしてゆく。
「あ、ああ……すごい、まだ出て…る………」
射精が快感なのはもちろん分かるが、まさか注がれるのが気持ちいいなんて。疾うに達したはずなのに、蒼舞の下半身は物欲しそうに揺れている。
引き伸ばされた快感は爪先まで染み渡り、自分で制御できない痙攣を引き起こした。
「ど…しよ……止まらない……」
「もっと欲しいのか？」
蒼舞はシーツにしがみ付いたまま、ぶんぶんかぶりを振った。たった今絶頂を極めたばかりですぐねだるなんて、そんなはしたないことはしたくない。しかし、
「しようのない子だ」
鷲塚はずるっと自身を引き抜いて蒼舞の身体を軽く抱え、仰向けにした。そして蒼舞の脚を掴み、大きく開かせる。
あまりにあからさまな姿勢が恥ずかしくて、蒼舞は思わず顔を覆ってしまう。しかし鷲塚は構うことなく、くぷくぷと白いものを溢れさせて喘ぐ淫らな口に突き刺した。
「いあっ！ あ、ああっ、ん、や、やめっ……」
全身に行き渡った甘い甘い愉悦がまだ引かぬうちに襲ってきた快楽の波濤は、何倍もの体感となって蒼舞を魂ごと揺さぶった。
自分が自分でなくなる感覚が怖くて、蒼舞は顔を覆ったままいやいやと頭を振った。すると手首を掴まれ、圧倒的な力でシーツに縫い留められる。
「顔を見せろ。私に犯されて、悦び乱れ涙を振りまく君が見たい」
「あ……」
「私が怖いか？」
「怖い……けど……」
蒼舞は気付いた。自分はずっと、こういう風にされたかったのだと。どんなに乱暴にされてもいいから、全部食べ尽くすと言わんばかりに抱かれたかった。本能のまま貪欲に求められたかった。
「けど、すごく幸せだ」
蒼舞がはっきり答えると、鷲塚の目は愛しさを映して優しく光った。しかしそれも束の間、すぐに獰猛な翳が差し、がつがつと貪るような抽挿に没頭する。
蒼舞は鷲塚の目論見通り、シーツにしがみ付いて涙を振りまき、淫奔なまでに乱れた。結合部は派手な水音を弾かせ、蒼舞の体内からはぐちゃぐちゃとぬかるんだ音が響く。
鷲塚がぐっと腰を送り込めば、蒼舞は美しい弧を描く背中をがくんがくんとバウンドさせ、もっともっととねだった。やがて、
「あ……ああーー、い、いい………」
いく、という言葉すら失うほどの快楽が、一気に絶頂を引き寄せる。瞼裏で七色の光が瞬いた時、激しすぎる脈で遠くなった耳に鷲塚の声が届いた。
「蒼舞、愛している」
そうか、もう過去形じゃないんだ、そんな喜びを噛み締めると同時に、蒼舞は柔らかな闇の中に吸い込まれていった。
──時間だぞ。そろそろ起きなさい。
ああ、懐かしい。あの人の声だ。亡命後は、なるべく思い出さないようにしていた。気を緩めた瞬間、思い出に溺れてしまうと分かっていたから。
──リハーサルに遅れるぞ。起きなさい。
はいはい、今起きますよ。ほんとにあんたはいっつも小言ばっかりで……。
「ん……んっ……」
重い瞼をこじ開けると、飴色の光が視界のそこかしこで弾けた。思わず「まぶしい…」と呟き、布団を引っ張り上げて潜り込もうとする。しかし、
「起きなさい。今何時だと思っている」
厳しい言葉とともに布団を剥がされた蒼舞は、いやいやながら起き上がった。そして、ベッドの傍らに立つ鷲塚を一瞥する。
すでに身支度を整えた彼は、隙のない完璧な紳士として蒼舞を見下ろしていた。蒼舞ははあっと大仰な溜め息をつき、
「再会して愛を確かめ合い、そして激しくも狂おしいセックス。その翌朝なんだから、裸で抱き合ったまま照れ臭そうにおはよう、なんて甘い空気感漂わせるくらいの芸当できないのかよ」
そう言って鷲塚をじろりと睨んだ。すると鷲塚は理解できないとばかりに眉をひそめ、
「ぎりぎりまで寝ていたのは君の方だろう。あと三十分早く起きていれば、君が言うところの甘い空気感とやらも生まれていたかもしれん」
「ああもういいっ。いいよ、分かりました！ あんたに恋愛の機微を求めた僕がバカだった」
「分かったなら早く仕度をしなさい。主役が遅刻したら示しがつかない」
「はいはい」
まるで三年前に戻ったみたいだった。あの頃もよくこうして、いかにもお目付け役といった鹿爪らしい口調で小言を言われた。が、
「朝の挨拶がまだだったな。おはよう、蒼舞」
三年前と違うところがあった。あの頃は、一度も名前を呼んでくれなかった。きっと彼なりに、距離感を保とうとしていたのだろう。
「お、おはよ………理人」
口にしてから急激に恥ずかしさがこみ上げ、蒼舞はたまらず布団をかぶった。もちろん、問答無用で引っ剥がされたが。
超特急で仕度をしてホテルのロビーに下りると、蒼舞のマネージャー、イヴァンが待っていた。蒼舞の顔を見るなり、豪快に跳ね上がった寝癖を指差して「相変わらずだな」と笑う。続けて「遅刻しなかっただけでも大したものだ」と言って、「彼のお陰かな」と思わせぶりに目配せした。
蒼舞はふいっと横を向いて、
「僕はれっきとした社会人だ。遅刻なんてするわけないだろ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
マネージャーに軽くいなされ、蒼舞はむっつり膨れる。そんな二人のやりとりを、鷲塚は一歩引いたところから見守っていた。
自分はもう蒼舞の護衛でもお目付け役でもないのだから、仕事の話に立ち入るべきではないと考えたのだろう。しかし、
「イヴァン、今まで本当に世話になった。それから、僕の我がままを聞き入れてくれてありがとう」
「構わないさ。我がままはアーティストの専売特許だからね。蒼舞、元気でな。年に最低でも一回は、こっちで踊ってくれよ」
これでお別れと言わんばかりの会話に、鷲塚は眉をひそめた。するとイヴァンは、鷲塚の疑問を察したのか視線を向け、
「蒼舞は日本のバレエの振興に尽力するため、活動拠点を欧州から日本へ移すことにしました。いずれ、国立帝都バレエ団の芸術監督に就任するでしょう」
そして驚く鷲塚に歩み寄って、分厚い革の手帳を差し出した。
「ここに、今後半年分の蒼舞のスケジュールが書いてあります」
「なぜ、私に？」
「なぜって、細かいスケジュール管理とか、蒼舞が自分でできると思いますか？ 鷲塚サン」
「いや、無理だな」
鷲塚は即答を返し、手帳を受け取った。と同時に蒼舞がわめく。
「ちょっ……何だよそれ！ 自分のスケジュールくらい自分でちゃんと管理できるっ」
しかし鷲塚は無視して、手帳をパラパラとめくった。そしてパタンと音をたてて閉じ、
「今日はリハーサルの後、記者クラブでの共同インタビューが入っている。スーツは当然用意してあるな？」
「な、ないよ、そんなの」
鷲塚は大仰な溜め息をつき、
「仕方ない。私が用意しておこう。さ、急ぐぞ。リハーサルに遅れてしまう」
「わわっ、待てよ！ 朝ご飯食べてないからお腹すいた！」
「途中でパン屋に寄ってやる。車の中で食べればいいだろう」
「うん！」
すたすたと歩く鷲塚の後を嬉しそうに飛び跳ねつつ付いていく蒼舞を、イヴァンは目を細めて見送った。
「蒼舞、幸せにな」
愛と自由を手に入れた鳥は、これからも翔び続けるだろう。美しく、華麗に。
＜幕＞
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