Love Over the Back
―背中越しの愛―
１５.＜最終話＞
カーテンの隙間から射し込む眩い朝日に覚醒を促され、片瀬は低く呻きながらゆるりと目を開けた。
枕許の時計で時間を確認し、「まだこんな時間か…」と呟く。するとその呟きに応えるように、腕の中の薫がうにうに言いながら頬を胸に押し付けてきた。
丸い頬は潰れて、その分唇がぷくっと膨れる。夢の中で誰かに語りかけているのか、その唇は微かに動いていた。
願わくば、夢の中の話し相手が自分でありますように。そして夢の中でも、あの天真爛漫な笑顔を浮かべていますようにと、願わずにはいられない。
片瀬は、淡いピンク色をした砂糖菓子のような頬をつんつんつつきながら、今さらながらの感慨に耽った。まったく、こんな愛らしい生き物が存在するなんて、未だに信じられない。
「ん………やっ……やぁ………」
それまで天使の寝顔を見せていた薫が、突然ぐずり出した。眉間に浅い皺を刻み、切なげに顔をしかめてもごもごと呟く。
「薫……？ どうした？」
驚かさないよう、優しく声をたわめて綿毛のような問いを耳へ送る。しかし薫は尚も苦しげに眉根を寄せて、
「け…すけ……待っ…て―――」
「薫……」
「行っちゃ……や…ぁ………」
聞いているだけで胸が締め付けられるほどに切実な訴えが、ぷっくりあどけない唇からこぼれる。その落差がさらに片瀬の心痛を煽った。
夢の中へ飛び込んで、恐らく薫に冷淡な態度を見せているに違いない自分の幻影を叩きのめしてやりたい。
とはいえそんなファンタジーは実現不可能。自分にできることといったら、ぷるぷる震えながら悪夢に耐えている華奢な身体をぎゅっと抱き締めて、ささやかな温もりを与えてやるくらいだった。
「薫、俺はここにいる………どこにも行かない、ずっとお前の傍に―――」
片瀬の言葉と温もりが届いたのか、薫は震えながらもそろそろと目を開けた。涙の菲膜に覆われた瞳が悲しげに揺れつつ、片瀬の姿を捉えた。
「圭祐ぇ……」
薫は明らかにほっとした様子で、片瀬の胸に頬をぺたぺたくっつけた。夢の中では遠ざかってしまった身体、その感触や体温を確かめるかのように。
「恐い夢を見たんだな？」
何気なさを装った片瀬の問い掛けに、薫はふわふわと頷いた。が、すぐに慌てて言葉を付け加える。
「こ、今度は猿じゃなくて、カエルに追い掛けられる夢を見ちゃったぁ。へへっ」
そして目をこしこしこすり、涙の残滓を拭い去る。にっこり笑って見上げる顔はいつもの薫だったが、瞳に不安の翳が揺らめいているのを片瀬は見逃さなかった。
「薫、誤魔化さなくてもいいんだぞ。本当はどんな夢を見たんだ？」
「な、なにゆってんだよぉ、圭祐―――」
「“圭祐、待って。行っちゃいや…”。寝言でそう言ってたんだぞ」
薫は目を大きく見開いて一心に片瀬を見つめ、こくんと喉を鳴らした。その瞳から大粒の涙がこぼれるのに、時間はかからなかった。
「“もういい、じゃあな”って……そう言って圭祐………俺に背中を向けて行っちゃうんだ………」
鼻をぐずぐずとすすり上げて、震える声で続ける。
「いっしょけんめ追い掛けても……ぜんぜん追いつけなくて……俺、俺っ―――」
「そして夢の中の俺は……お前を一人置いて去ってしまうんだな？」
薫は一瞬黙り込んだが、やがてためらいがちに口を開いた。
「俺だけじゃないよ。俺の後ろには明良やサッカー部の連中もいる。それに……圭祐が前の学校で一緒にプレーした仲間とか、応援してくれた人、それに―――」
「この前手紙を拒んだ女もいたんだな？」
薫は小さく頷いて、片瀬の腕の中でちぢこまる。これまで彼が関わってきた人々、仲間、女性―――全てを置き去りにして片瀬は背中を向け、一人でどこかへ行ってしまう。もちろんその中には、自分も含まれていた。
「圭祐の背中……おっきくて逞しくて好きだけど、でも……恐いんだ。いつか永遠に……背中を向けられる時が来るんじゃないかって。だから俺………」
片瀬は「ああ…」と複雑な思いの絡まった声を上げ、そして深い溜息をついた。ようやく分かったのだ。薫が何故いつもいつも、背中にじゃれ付きたがるのかが。
いつか置いていかれるのではという恐怖を、打ち消すためだったのだ。
「薫、俺は……」
“どこにも行かない、ずっと傍にいる”―――それは偽りない本心からの言葉だった。しかし薫が不安を覚えている不確定の“未来”を明るく照らすには、まだ力が足りなかった。
だから片瀬は、もうひとつの本心を告げることにした。自分を鼓舞するようにふっと息を吐き、
「俺も……恐いよ」
丸まっていた薫の肩が、ぴくんと揺れた。予想もしていなかった言葉とらしくない弱々しい声に驚きつつ、そおっと顔を上げて片瀬を見る。言葉を裏付けるように、片瀬は不安げに項垂れていた。
「俺も、恐い。いつかお前に捨てられるんじゃないかと」
「なに……言ってんだよ、圭祐―――」
「時々思うんだ。俺みたいな人間がお前の傍にいていいのかと」
信じられない告白に、薫は返す言葉を失ってただ瞬きを繰り返すばかり。
「お前は家族からも友人からも愛され、大事に大事にされてきた。お前がいるだけでみんなが笑顔になり、心に温かい火がともる。太陽に向かって真直ぐ伸びる無垢な向日葵みたいなお前を、俺が……俺みたいな歪んだ人間が愛していいのか………」
薫は嗚咽が漏れるのをこらえるように唇を噛み締めながら、必死に首を振る。そうすることで、片瀬を蝕む不安の全てを否定したかった。しかし片瀬は尚も項垂れたまま、
「親父に言われたよ。あの子は俺にはふさわしくないってな。あいつも馬鹿じゃねえ。短い時間接しただけで分かったんだろう。お前がどれほどの愛情を受けて真直ぐ育ってきたかが。それに引き換え自分の息子は、誰も愛さず誰からも愛されない冷淡な人間だと。だから―――」
「そ、そんなことないっ。俺は知ってる、圭祐はほんとは優しくて―――」
片瀬は憂いを帯びた眼差しで薫を見つめ、そして悲しげに微笑んだ。
「それでも、これまでたくさんの人を傷付けてきたことは否定できない。彼女、星野みどりも……あそこまで追い詰めたのは親父かもしれないが、俺に全く責任がないとは言えない」
双眸に熱い涙をいっぱい溜め、口をへの字に曲げて尚も首を振る薫に、片瀬は愛しさと胸の痛みを感じた。
ああ、また自分のことで泣かせてしまった。一体いつになったら、明良との約束を果たすことができるのだろうか。
「薫、悪かった。こんな話をしちまって………」
片瀬は痛みをこらえるように顔を歪めて詫び、溢れる涙をおそるおそる拭ってやった。すると薫は、涙膜の向こうから強い眼差しを向け、泣いているとは思えぬ明晰な声で、
「昔のことはもういいんだ。俺は、これからの道を圭祐と一緒に進んでいきたいんだから。圭祐さえいてくれればいい。他にはなんにもいらない」
これ以上ない鮮烈な告白に、片瀬は思わず目を瞠る。薫はきゅっと目をこすり、再び片瀬の顔を見つめて、
「家族も友だちも大事だよ。でも、圭祐を大事と思う気持ちとは違うんだ。明良が自分の道を歩き始めたように、俺もいずれはそういう道を見つけて進んでゆくと思う。その時、隣にいるのが圭祐だったらいいなって、心からそう思うんだ」
「薫……」
「圭祐が、そんな気持ちを抱えていたなんて気付かなかったよ。俺、自分の不安に囚われてばっかしで……」
薫は小さい声で「ごめん…」と伝えて、片瀬の胸にぎゅっと抱きついた。薫の言葉を噛み締めるのに気を取られていた片瀬は、慌てて抱き返す。
「こういう不安てさ、簡単には解消できないと思う。でも、これから時間はたっぷりあるんだから、少しずつ歩み寄っていけばいいさ。なっ？」
「ああ……そうだな」
素っ気ない返答だったが、その表情が何より雄弁に片瀬の気持ちを語っていた。澄み渡った笑顔。酷薄な印象を与えてしまいがちな淡色の瞳は、優しい輝きに浸されて美しく揺らめいていた。薫も屈託ない笑顔を返し、
「圭祐の背中、やっぱりまだちょっと恐いけど、でもいいんだ。背中向けられても、いっしょけんめ追いかけるからっ。そんで、小猿って言われてもいいからしつこくまとわり付いて、ぎゅってして、すりすりするんだからっ」
「………あんまりしつこかったら、腕ん中に拘束するからな」
「いいよお。そしたら胸にすりすりするからっ」
そして言葉通り、胸に顔を押し付けてぐりぐりする。片瀬は喉の奥で楽しげな笑いを転がし、ふわふわハネる栗色の髪に指を滑り込ませて優しく梳いた。
「薫、ありがとう……」
やはり、守られているのは自分の方だった。薫という太陽がもたらす暖かな陽だまりでこそ、自分は自分らしく生きられる。片瀬はそんな感慨に耽りつつ、腕の中の身体を抱き締め続けたのだった。
「ほら、掴まれ。やっぱり教室まで送ってやる」
昨夜の行為が祟ってふらつき気味の薫に手を貸そうとしたが、薫はぷくっと膨れて上目使いで見上げ、
「へ、い、きっ。一人で大丈夫だって。俺は日誌を取りに職員室へ寄るから、圭祐は先に教室へ行ってろよ」
そう言って、片瀬の背中をぐいぐいと押す。
「分かった分かった。けど、無理するんじゃねえぞ。ゆっくり歩けよ」
片瀬は何度も念を押して教室へ向かった。「圭祐ってば過保護だよなあ」と笑いつつ、薫は言われた通りゆっくり歩き出そうとした。
すると、ちょうど目の前を横切ろうとした人とぶつかってしまった。薫がすぐさま謝ると、相手も穏やかに「ごめんね」と返してくれた。
「あ、あなたは……」
ぶつかった相手は他でもない、片瀬に手紙を渡したけれど読まれないまま突き返された、あの女性だった。
薫は頭で判断するより先に、「あのっ」と声を掛ける。びっくりしたようにこちらを見つめ返す彼女の顔を見てから、薫はしまったと後悔した。また、ちゃんとした考えもなく勢いで声を掛けてしまった、と。
しかし後戻りはできない。ふぅっと息を吐いてから、
「すみません、突然……。あの、俺がこんなこと言うのはヘンだって分かってるんですけど……圭祐のこと、嫌いにならないでください」
「……え？」
「あいつは本当は、優しくてイイ奴なんです。そういう部分を表現するのが下手くそだから、無愛想だとか冷たいとか誤解されてしまうけど、ほんとは―――」
喉の奥から熱い塊が込み上げてくる。薫はそれを必死に呑み込んで、伝えるべき言葉を探した。
「ほんとは、人の気持ちが分かるあったかい奴なんですっ」
こんな拙い表現でちゃんと伝わっただろうか。でも、これ以外に言葉が見つからなかった。薫は顔を真っ赤にして、目の前の女性にすがるような視線を送る。
彼女はまだ驚いた様子で瞬きを繰り返していたが、やがてにっこり笑って薫に近付き、
「ずっと、気にしていたの？」
「は、はい…。だってあいつ、あなたが想いを込めて書いた手紙を―――」
彼女はあの時のことを思い出したように大きく頷いた。
「そうか、全部見られていたのね」
「す、すいませんっ」
「ううん、いいの。確かに手紙は受け取ってもらえなかったけど、でもね、片瀬君はとても優しかった」
意表を衝く彼女の言葉に、薫はぽわんと口を開けて見返し、
「優し…かった？」
「ええ。その手紙を受け取ることはできないけれど、でも気持ちは嬉しい、ありがとうって温かな声で応えてくれたの」
「圭祐が……」
彼女は「そうよ」と返してくすぐったそうに笑い、
「同じクラスの藤崎薫ってヤツにどうしようもないくらい惚れてて、彼のこと以外は考えられないんだって少し照れ臭そうに言ってた。受け取ってもらえなかったのは悲しかったけれど、でも泣いた後に込み上げてきた感情は決して嫌なものではなかった。胸がほんのり温まるような……。
フラれちゃったけど、でも彼のことを好きになって良かったと思ったわ」
清々しいとさえ言える表情でそう言うと、彼女は腕をにゅっと突き出して薫の頭をコツン、と叩いた。
「もっと、彼のことを信用してあげなくちゃ」
薫は今にも泣き出しそうになるのを必死でこらえ、彼女の言葉に何度も何度も頷いたのだった。
教室の戸を勢いよく開けると、真っ先に見慣れた広い背中が視界に飛び込んできた。まるで、薫からの抱擁を待ち構えるかのように。
そう、誰よりもよく知っていたはずじゃないか。たとえ背中を向けていても、決して触れ合うことを拒絶してはいないことを。無機質な淡色の瞳は、柔らかな輝きを湛えていることを。ぶっきらぼうな態度の中には、温かな人間性が息づいていることを。
それが、片瀬圭祐という人間なのだと。
「圭祐ぇ〜〜っ」
薫は名前を呼びながらぱたぱたと駆け寄って、背中にわしっと抱きついた。片瀬は溜息をついて、
「来たな、小猿」
「へへっ、小猿だよ〜〜ん」
片瀬は苦笑を浮かべながらも、薫の頭をよしよしと撫でてやる。
「身体は大丈夫か？」
「うん、全然へいきっ」
そう言って、肩にぐりぐりと顔を押し付ける。「こら、くすぐったいぞ」と窘める声が余りに優しくて、薫は溢れる想いを抑えることができなかった。
「圭祐、だいすき……」
「………お前、まだ朝だぞ。空腹で壊れるには早い」
冷たい声でそう言って、ふいと顔を背ける片瀬。しかし態度とは裏腹に、頬は微かに赤らんでいた。
薫は背中越しの温もりを味わいながら、自分に言い聞かせる。大丈夫、この人はもう二度と独りぼっちになんかならない。誰とも喜びを分かち合えないような、悲しいサッカーをすることはない。何故なら―――
「あ〜あ、腹減ったぁ。ゆうべ誰かのせいで、いっぱい運動させられたからなあ」
「………分かったよ。後でパン買ってきてやるから」
「えへっ、やったぁ」
―――自分がずっとずっと傍にいるのだから。
（Fin）
★最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
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