聖夜の奇蹟
＜4＞
「おじさーん、トナカイのおじさん。一緒にゲームやろうよ」
「だめだよぉ、僕とレゴでかいじゅう作るんだからっ」
「トナカイさーん、鬼ごっこしよ！」
子供たちはトナカイのおじさんが気に入ったらしく、燠亥の周りに集まっていた。遼牙はそれを遠巻きに眺めながら、
「人気者だな。燠亥があんなに子供好かれるとは意外だ」
「精神年齢が近いのでしょう。子供は人を見ますから」
「身も蓋もないことを言うな、お前は」
遼牙は思わず苦笑を漏らし、ウーロン茶で喉を潤した。鴇津はちらと横目で一瞥し、
「クリスマスイブにウーロン茶ですか。健全なのか不健全なのか分かりませんね」
「仕方ないだろう。ここにアルコールを持ち込むわけにもいくまい」
「それはそうですが……よろしかったのですか？ 婚約後の初めてのクリスマスなのに」
遼牙は呆れたように肩を竦めて、
「企画したのはお前だろう。大人の男に見えなければいいなどと言って、サンタクロースの扮装をさせて……」
「ああ、そうでした。失礼いたしました」
あっさり引き下がって謝罪する鴇津から、遼牙はそっと目を逸らした。これは、遼牙がプライベートな本音を打ち明ける時の癖だった。
それ自体が稀なことであるから、この癖に気付いている者は多くない。というよりほとんどいない。その稀有な一人である鴇津は、黙って言葉を待った。
「謝ることはない。むしろ、感謝している。私の頭では、こんなことは思い付かなかった」
遼牙は手の中でグラスを弄びながら、ぽつりぽつりと本音の吐露を続ける。
「初めて、あの子が正面から私を見てくれた。プレゼントを渡した時だ。これまでの、怯えの翳で濁った瞳とは違って、あの時私に向けられた瞳はこれ以上ないほど澄み切っていた。その奥で揺らめく優しさ、純粋さ……あれこそが、あの子の持つ生来の輝きなのだろう」
そしてふっと甘い自嘲を漏らし、
「あんな風に懐いてくれるなら、ずっとサンタクロースの格好のままでもいいと思ったぞ」
「それは困ります。取引先は必ずしもキリスト教圏とは限りません」
真面目なのかふざけているのか判別しづらい鴇津の返しを、遼牙は苦笑で流した。
「まあ、幸か不幸かすぐにばれてしまったな。全く、最近の子供は大人に対して容赦ない。かと思えば、天使のような歌声を聞かせてくれる。不思議なものだ」
「そうですね。子供は天使にも悪魔にもなれる」
鴇津が答えて口を閉ざすと、どこか作為的な肌触りのする沈黙が支配した。遼牙も鴇津もあるひとつの話題を避けている、それがゆえの不自然さだった。
やがて鴇津は、引きつった空気を取りなすようにふっと口許を緩め、
「あの歌声は……脅威でした」
「……ああ」
「あれ以上聴いていたら、多幸感に溺れて我を見失っていたでしょう。正直、ゾッとします」
鴇津の言いたいことは分かる。薬物がもたらす多幸感や酩酊感に近いものを、確かに遼牙も体験した。もしずっと聴き続けていたらどうなっていたか、予測もつかない。
それにもうひとつ、歌に関して気になる事実があった。黒淵の屋敷で“黒ミサ”が行われている間、瑠羽はずっと歌っていたと証言している。
もし、あの不可解な自殺が歌と関係しているとしたら。そして、誰かにその奇妙な因果関係が知られてしまったら……
遼牙の重い沈黙に何を感じたのか、鴇津は口調を軽くして、
「あの子は、自分の歌の力に気付いていないと思います。さっきは、自分も遼牙様にプレゼントのお礼をしたい一心で合唱に飛び込んだのでしょう」
鴇津の言葉に、遼牙は怪訝な表情を浮かべて聞き返す。
「お礼？ 私に？」
「…………」
鴇津は冷ややかな沈黙を返したが、すぐに額を押さえて溜め息をつき、
「遼牙様はもう少し、人心の機微というものを学んだ方がいいですね。いや、ビジネスの面では人心掌握に長けているのだから、それを恋愛の方面でも発揮するようにですね―――」
「鴇津、何を一人でぶつぶつ言っているのだ。言いたいことがあるならはっきり言え」
苛立ちを隠さず詰め寄る遼牙に、鴇津は「ではお言葉に甘えて」と前置きして、
「あなたに恋する人は苦労するでしょうね」
「……どういう意味だ、それは」
「別に、言葉の通りですよ。それからもうひとつ、これは私からの提案なのですが、ちょっと外に出て夜の散歩でもしてみたらいかがですか？ きっといいことがありますよ」
鴇津の確信的な物言いに、遼牙は思い切り眉根を寄せた。
「なんだそれは。いいこととは何だ」
すると鴇津は軽く片目を閉じて、
「聖夜の奇蹟、です」
パーティーの余韻で賑わっているホームから一歩外に出ると、凍った夜の静寂に包囲された。すっと息を吸い込むと、気管から肺がキリキリと音を立てて氷結するような錯覚に襲われる。
「なんだ、鴇津め。いいことがあるなどと思わせぶりなことを。ただ寒いだけじゃないか」
それでもすぐに戻るのは癪だったから、言われた通り軽く夜の散歩でもしてから帰ろうと歩き始めた時だった。
「あ、あのっ……」
背後からかすれた声が届き、遼牙は驚きとともに振り返った。やはり。しかしなぜ。息を切らせて追い掛けてくる瑠羽に、無言の戸惑いを投げかける。
それに気付いているのかいないのか、瑠羽は3メートルほど手前でぴたりと足を止め、はあはあと荒い呼吸を繰り返した。ふわりふわりと咲く白い吐息の綿花に見蕩れているうちに、つい近づこうと遼牙の身体が動いてしまった。
その瞬間、瑠羽はビクッと身じろいだが、これまでのように逃げようとはしなかった。遼牙はできる限りの柔らかな声で、
「大丈夫。これ以上近づかないから安心しなさい」
遼牙の心遣いに恐縮したのか、瑠羽は肩をすぼめて下を向いた。が、すぐに顔を上げ、
「あのっ、さっきはありがとうございました。僕にまで、あんな素敵なプレゼントを……」
「気に入ってもらえたかな？」
瑠羽は何度も何度も頷いた。が、再び下を向いて項垂れてしまう。
「僕……ちゃんとお礼もできなくて。今回だけじゃない、これまで何度も優しくしてもらったのに……」
「お礼ならもらったぞ。さっきの歌、本当に素晴らしかった」
遼牙の称賛に実感が湧かないらしく、瑠羽はちょんと首を傾げて瞬きを繰り返す。そのあどけない仕草に心の柔らかい部分を撫でられた遼牙は、意識的に鳩尾に力を入れた。そうしないと、先走った四肢が勝手な行動を起こしてしまいそうで。
「そうだ、瑠羽。今ここで、もう一曲だけ歌ってくれないか？ 私のために」
そこには自分のためだけに歌ってほしいという感傷と、もう一度あの奇蹟の歌声に触れてみたいという好奇心があった。瑠羽は再び熱烈に頷いて、
「どんな歌がいいですか？」
「君の好きな歌で構わない。短い歌でいい」
瑠羽はくるんと目を見開いた。どうやら何にしようか考えているようだ。が、すぐに息を吸い込み、唇と喉を震わせた。
薔薇の杯、菫の衣
風の竪琴、妙なる調べ
乙女は翅の袂を色に染め
石の褥に汝を誘わん―――
歌の余韻を白い息とともに吐き出して、瑠羽はふわりと唇を閉じた。が、すぐにその唇はぽかんと開き、戸惑いが溢れ出る。
「あ、あの……」
瑠羽の困惑も尤もだった。遼牙は泣いていたのだ。両の瞳から、涙が連なって流れ落ちる。それを見た瞬間、瑠羽の胸は音を立てて軋んだ。
「泣か……ないで……」
瑠羽はふらふらと、引き寄せられるように近づく。そしてついに遼牙の眼前に立ち、皙い指先で濡れた目尻を撫でた。
「泣かないで、遼牙さま……」
次の瞬間、冷えきった瑠羽の身体が温かいものに包まれた。遼牙の腕に抱き締められていると気付いた時にはすでに、身体も心もこのとろけるような温もりを享受していた。いつもの反射的な拒絶反応は、起きる気配もない。
身体を拘束する腕の強さも、男性的な甘さのある纏い香も、耳元をくすぐる熱い呼吸も、封印したい過去の記憶を呼び起こす劇薬だったはず。なのに今は劇薬どころか媚薬のように、瑠羽の全感覚を甘く高ぶらせた。
「……っ、済まない」
遼牙はかすれた声で詫びると、素早く抱擁を解いて瑠羽の身体を押し返した。しかし瑠羽は咄嗟に手を伸ばし、遼牙の襟元をきつく掴んだ。そして自分のほとんど無意識の行動に驚きつつも、胸の奥から迸る想いを言葉に乗せた。
「い、いやです……もっとぎゅっとしてください、遼牙さま………」
すると、涙の残滓をまとった貴石の瞳、その漆黒の瞳孔が驚きに縮んだ。さらに、精悍な喉仏がゆっくり上下する。
「瑠羽……頼む、もう一度私の名を呼んでくれ」
このささやかな、それでいて切なる願いを誰が拒めるだろうか。瑠羽はこくんと頷いて、
「遼牙さま……」
「もう一度」
「遼牙さま」
「もっと、もっと……」
「遼牙さまぁ……」
甘えた響きが余韻となって遼牙の鼓膜を撫でると同時に、瑠羽が続けた。
「遼牙さま、ずぅっとおそばにおります……」
その瞬間、遼牙は己の存在を根底から揺さぶられるような激しい眩暈に見舞われた。
「何ということだ、ああ……」
瑠羽の放つ不可視の光に吸い込まれるように両手を伸ばし、その華奢な身体を再び胸に掻き抱く。
間違いない、自分は以前にもこうして瑠羽を抱き締め、甘い睦言を交わしたことがある。甘えた口調で名を呼ばれたことがある。あの夢はただの妄想ではなく、輪廻を繰り返した魂に刻まれた彼岸の記憶なのだ。
先刻、瑠羽が自分のためだけに歌ってくれた歌も然り。嘗て自分は同じ歌に耳を傾け、そして心震えるまま涙を流した。そう、瑠羽との出遭いから今に至るまで、全てが強烈な既視感を伴って遼牙の心に鮮やかすぎる痕跡を残していたのだ。
「瑠羽、お前もあの夢を見ていたのだな」
遼牙の言葉に、瑠羽はひゅっと息を呑んだ。そしてこわごわ顔を上げる。すると遼牙は、冷ややかな夜の女王も赤面するほどの美しい笑みを向けて、
「怖がることはない。それに、恐らくもう……」
もう、あの夢を見ることはないだろう。遼牙には、深層意識の奥深くで何者かがこう言っているのが聞こえた。あとは自分たちの力で絆を深め、未来を切り拓いていきなさい、と。
「遼牙さま……僕っ………」
何か言いかけた瑠羽だったが、途中で小さなくしゃみに遮られた。それで遼牙はようやく、瑠羽が上着を着ていないことに気付いた。
「馬鹿者、こんな薄着で外に出て、風邪をひいたらどうする」
軽くたしなめながらも、自分を追い掛けるため慌てて飛び出してきたに違いないと思い、その健気さに胸が締め付けられた。
「さ、これを着なさい」
そう言ってコートを脱ごうとした遼牙の胸に、瑠羽は顔を押し付けてぷるぷると横に振った。
「こうしてる方が、ずっと暖かいです……」
遼牙はさも『仕方ないな』と言わんばかりに肩を竦めて困惑と嬉しさを隠しつつ、コートを大きく広げて瑠羽の身体をすっぽり包み込んだ。
瑠羽はほぅっと溜め息をつくと、おずおずと遠慮がちに腕を腰に巻き付けてきた。これまでにないほど密着した身体は熱を帯び、あらゆる刺激に敏感になっているのが分かる。
瑠羽の髪の匂い、柔らかな吐息、一途な律動を刻む鼓動、シャツ越しの体温その全てが、遼牙の感覚を淫らに爪弾いた。それらが重なり合い、美しい和音を奏でた時、遼牙は生まれて初めて『愛しい』という感情を知った。
「瑠羽、私が……怖くはないか？」
『怖い』と言われたところでもうどうにもならない、この身体を手放すなんてできないと分かっていながらついそんなことを訊いてしまうのは、瑠羽への思い遣りなのか己の臆病さゆえなのか。しかし、そんな遼牙の慎慮を吹き飛ばすように、瑠羽ははっきり答えた。
「怖くありません」
遼牙はふっと息を吐くと、瑠羽の額に唇を押し当てた。そして、
「今のは、怖くなかったか？」
瑠羽はふふっとはにかむように笑い、
「怖くありません」
「そうか……では、怖かったら遠慮せずすぐに言いなさい。いいね？」
神妙な前置きをしてから、遼牙はまぶたの薄い皮膚をちゅっと吸った。そして愛らしい膨らみを見せる小鼻から薔薇色に潤む頬へキスを落とし、わずかな躊躇を経てゆっくり唇へ移動した。
「んふっ……」
瑠羽はさすがに驚いたのか、小さく身じろいで上目使いに見上げた。遼牙は苦笑を浮かべ、
「すまない。今のは怖かったな」
すると瑠羽は一度だけぷるんと首を振って、
「怖く……ないもん」
「……本当に？」
瑠羽はこくんと頷いて、
「もっと……して欲しい、です」
その控え目な、それでいて鼓膜が燃え上がるような言葉に、遼牙は軽い眩暈を覚えた。暴走するなよと自分を戒めてから、瑠羽の顎にそっと手を添えて上を向かせ、
「瑠羽、力を抜いて。唇を緩めてごらん」
思わず微笑がこぼれるほど素直に、瑠羽は唇を緩めた。五分咲きに綻んで、ふっくらとした質感を見せつける唇に、遼牙は己のそれを押し当てた。そして粘膜同士の触れ合いに慣れてきた頃を見計らって、舌をするりと滑り込ませる。
瑠羽の口内は甘くとろりとして、掻き回したい欲求に突き上げられたが、何とかこらえてそのまま舌を引こうとした。すると温かく濡れたものがちょんと触れてきて、遼牙は慌ててそれを追った。
瑠羽の精一杯の意志表示だったのか、恥ずかしそうに奥に引っ込んでしまったそれを搦め捕り、遼牙は優しく吸い上げた。
瑠羽の喉から「くぅん」と仔犬の鳴くような声が出て、手のひらに収めた小さな尻がひくひくと揺れる。これ以上はまずいと崩壊寸前の理性が警告を発し、ようやく遼牙は口づけをほどいた。
「あ、ふ…ぅ……」
濡れた唇から口づけの余韻を滴らせる瑠羽はひどく艶めいて、ほころびかけた官能の蕾を想わせた。しかし遼牙は敢えて目を逸らした。まだだ、まだ早い、何もかもが……
「遼牙さまぁ、雪、雪ですぅ……」
月も星もない漆黒の空から、白く儚げな結晶がひらりひらりと舞い降りてきた。まるで、『少し頭を冷やしなさい』と言われているようだと、遼牙は密かに苦笑した。
「ああ、雪だな。ホワイトクリスマスか……」
二人は抱き合ったまま、静かに雪降る夜空を見上げた。
―――聖夜の奇蹟、か。鴇津、お前の言う通りだったな
願わくば、これがただ一度きりの奇蹟で終わりませんように。腕の中の愛しい存在を、失うことがありませんように―――
凍える聖夜。遼牙は生涯で初めて『神』なるものに祈りを捧げたのだった。
（Fin）
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