―40万ヒット記念小説―
１.
「遼牙様、怪しげな手紙が届いておりますが」
いつもにも増して感情を覚らせない顔つきで、鴇津が報告をしてきた。遼牙はデスクの上から視線を外してちらと一瞥し、
「今手が離せん。構わんから読んでくれ」
「かしこまりました」
軽く一礼してからコホ、と空咳をして、端整な声で文面通りに読み上げた。
「やっほー、遼牙。相変わらずムッツリとした顔でいやらしいこと考えてる？
えー、このたび、我が国璃州（りしゅう）独立・建国３００年を祝う式典を催すことになりました。つきましては、紫衛那国王である遼牙にもぜひ式典に参加していただきたく、ここに招待状を送ります。ただしっ、あなたの酒姫をぜったい、ぜーったいに連れて来てください。でないとお城に入れてあげません。分かった？ 楽しみに待ってるからねー。
可愛い甥っ子を心から愛している優しく聡明で美しい叔母、夕凪（ゆうなぎ）より」
読み終わった鴇津は再び空咳をして、目の前で額を押さえている主人に封筒の中身を掲げて、
「どうやらこれが、正式な招待状のようです」
見れば、公的文書であることを証明する璃州の国章、海竜（リヴァイアサン）が透かし彫りになった紙一面に、ぶちゅっと紅いキスマークが広がっている。
「……引っ込めてくれ。頭が腐る」
鴇津は無言で封筒に収めると、「夕凪様、相変わらずでございますね」と苦笑を漏らした。
夕凪は、遼牙の父親の妹、つまり叔母にあたる。末っ子で唯一の女児ということで、兄たちから大事に甘やかされて育ったか…と思いきや、男勝りで気性も激しく、乗馬や狩りの腕は兄弟一だったという。
しかも正義感が強く、曲がったことが大嫌い。遼牙が生まれた時も兄弟の中でただ一人庇い、紫衛那の恥だと言い募る兄たちに向かって「あなたたちこそ紫衛那の恥だ、この子は私が育ててもいい」と堂々啖呵を切った。
遼牙が王位を継承した時にはすでに璃州に嫁いだ後だったが、ぶちぶちと不満を漏らす兄たちを長兄である先王の墓前へ引きずって、「文句があるなら兄上に言いなさい」と一喝して墓を掘り返そうとした。とにかくぶっ飛んだ女性なのである。
もちろん遼牙も彼女のことが嫌いではないし感謝もしているが、その言動に悩まされることが多々あるのも事実だった。
「一国の王妃が書く文章とは思えん。それに、そんな事務的なことは書記官に任せておけばよいものを……」
「遼牙様は特別なのでございましょう。で、どうされますか？ 式典への出席はいいとして、瑠羽を連れて行くか否か―――」
「うむ……。連れて行けない理由はないが………」
あの叔母のことだ。連れて行ったらそれこそ大はしゃぎで、瑠羽に要らぬことを色々吹き込むに違いない。特に自分の幼い頃のこと。
初めて馬に乗った時、恐くて叔母の胸にずっとしがみついていたこととか、お化けなんて恐くないさと嘯いた日の夜、白い布をかぶった叔母に驚かされて腰を抜かしてしまったこととか、それから―――
はっと我に返って正面を見ると、鴇津が笑いを噛み殺して震えていた。
「……何が可笑しい」
「いえ、遼牙様も気苦労が絶えませんねえ……くくく………」
悶えんばかりの鴇津を氷の視線で突き刺すと、
「ご招待、謹んでお受けすると返信を送っておけ。お前のキスマーク付きで構わんぞ。それから旅籠の手配を」
「お供には誰を？」
「そうだな……身の回りの世話は、鞘葉一人で充分だ。あとは護衛の者だけで結構」
「かしこまりました。早速手配を。ご進物については……」
「お前に任せる」
鴇津は頷いて微笑みを浮かべ、
「瑠羽は喜ぶでしょうね。遼牙様と二人で旅行だなんて。尤も―――」
さらに笑みを深めて主人に温かい眼差しを送った。
「あの子にとっては遼牙様のお傍が、何処にも勝る悦びの園なのでしょうが」
「瑠羽、るーう、おいで」
執務室から自室に戻った遼牙は、どこへともなく声を掛けて瑠羽を呼んだ。
すると、ぱたぱたと可愛らしい足音と共に瑠羽が駆け寄り、ぴょんと跳びはねて遼牙の膝の上にちょこんと座った。
どこにいても何をしていても、遼牙の声だけは必ず聞き分ける。そして嬉しそうに顔を綻ばせて駆け寄ってくるのだ。
そんな全身全霊をかけた信頼と愛情を見せつけられるたびに、遼牙の胸は感動の熱渦でざわざわと鳴った。
そして今も、自分の呼びかけに真っ直ぐ応えてあっという間に膝の上に乗り、蜂蜜色の瞳を輝かせてじっと見つめてくる。
遼牙は愛しさの余り、伝えるべきことを忘れて激しい抱擁を与えた。中庭にいたのか、瑠羽の髪からは太陽の匂いがした。それを思い切り吸い込むと、喉の奥に甘い疼きが灯った。
「りょうきさまぁ………」
瑠羽も甘えた声を出して、遼牙の胸に顔をすり付ける。その顎に手を掛けてそっと上向かせ、
「瑠羽は、異国へ行ったことはあるのかな？」
瑠羽はちょっと首を傾げて、「ありません」と答える。
「そうか。ならばちょうどいい。異国へ行ってみないか？」
穏やかに微笑みかける遼牙とは対照的に、瑠羽の顔はみるみるうちに歪んで蒼褪めていった。
「い…や、いやぁ……行かない、異国になんか行かないもんっ」
「る、瑠羽っ」
「ずっと…お傍に……いるんだもん……やだあぁ………っく、
ぇっ、ぇっ………」
遼牙は慌てて濡れた頬にキスをして、早口で事情を説明した。
「違う、違うのだ、瑠羽。誰がお前だけを異国へ行かせるものか。私の叔母が嫁いだ璃州という国で、建国記念の式典が行われる。そこへ私と共に行かないか、と―――」
瑠羽はこしこしと目をこすって、鼻をすすり上げる。
「ほらほら、鼻をチンしなさい」
遼牙は瑠羽の鼻に柔らかな布をあてがう。瑠羽はチン、と噛んでくしゅくしゅと鼻を鳴らした。そして紅潮した顔を上げて遼牙を見つめ、
「りょうきさまも、一緒なの……？」
「当たり前だ。一緒に馬車に乗って一緒に旅籠に宿泊して、そして式典後の祝宴では私の酒姫を務めてもらう」
「ぼく…が………」
「当たり前だろう？ 私の酒姫はお前だけだ。しかし、どうしても異国へ行くのが嫌なら仕方がない。誰か他の者に代わって―――」
もちろん本気ではなく、ちょっとしたいじわるのつもりで言ったのだが、再び瑠羽の瞳がうるうると潤んでくると、遼牙はあたふたと否定した。
「じょ、冗談だよ瑠羽。私と一緒に来てくれ。そして祝宴では私の傍で、その愛らしい笑顔を見せてくれ」
瑠羽はこくこくと頷いて、遼牙の胸にしがみつく。その頭を優しく撫でると、瑠羽がそっと顔を上げてはにかむように笑い、
「遼牙さまと…お出かけするの初めて。ちょっとどきどきします……」
「そうだな。異国の風景も、お前と一緒ならまた違って見えるだろう。きっと楽しい旅になるはずだ」
「はいっ」
ようやく笑顔全開で元気な返事を返す瑠羽。遼牙は苦笑を浮かべてその頬をつつき、
「さっきまで泣いていたのに、もうこの笑顔か。お姫様のご機嫌取りは大変だ」
瑠羽は真っ赤になって恐縮し、
「ごめんなさい、遼牙さまぁ。僕、勝手に思い込んで……」
「いいんだよ、瑠羽。私の言い方が悪かった」
しかし瑠羽は俯いたまま、遼牙の膝の上で小さく固まっている。
「どうした？ 瑠羽―――」
「あの、僕、異国のお作法とか知らないし、そんなすごい酒宴でお傍について、もし失敗したら……遼牙さまの叔母上様もいらっしゃるのに………」
遼牙は破顔して「ああ」と大きく息を吐き、
「気にしなくていい。私の叔母はな、作法は破るためにある、と豪語するような人だ。いつもの素直で飾らない瑠羽でいなさい。それに―――」
遼牙は瑠羽の耳許に唇を寄せて、いたずらっぽく囁いた。
「――私の目的はお前と二人で楽しく道中を過ごすことなのだ。式典も祝宴もどーでもいい」
鴇津が聞いたら眉を吊り上げて怒るだろうなと、遼牙は笑いを噛み殺した。
「うわぁ、すごいオリーブ畑。斜面が銀色にきらきら光って見えますー」
瑠羽は馬車の窓から大きく身を乗り出して、きゃっきゃとはしゃいでいる。遼牙はハラハラしながらその腰に腕を回して、落ちないよう押さえていた。
「あっ、野生の鹿の群れだっ。かわいい〜」
遼牙の心配などどこ吹く風で、瑠羽はますます身を乗り出して、刻々と流れ行く風景に見入っている。
「瑠羽、そろそろちゃんと座りなさい。ここからは道が狭くなってくるから」
「はぁい」
瑠羽は名残り惜しそうにゆっくりと身体を戻して、遼牙の傍に座った。
「楽しかったか？」
「はいっ。紫衛那がこんなに緑豊かで、光に溢れていて、美しい国だということに改めて気付きました」
「瑠羽……」
「小国の紫衛那が豊かで平和で、みんなが幸せに暮せるのは遼牙さまのお陰だと、よく界淵さまが仰っていました。そんなすごい方のお傍にいられるなんて、僕―――」
畏敬のこもった熱い眼差しで見つめられて、遼牙はどうしてよいか分からず、力任せに瑠羽を抱き寄せた。
「何を言うか。瑠羽の前では私はただの男だ。それに、お前だっていつも素晴らしい働きをしているではないか。お前がいてくれるからこそ、私は心安らかに公務に勤しむことができるのだ」
「ほんと…？ 僕もお役に立ってるの？」
遼牙の胸にしがみついて、おそるおそる訊ねる瑠羽。一旦腕を緩めてからその頬を掌で包み込み、
「もちろんだ。感謝しているよ。だからこの旅では余り気を張らずに、のんびりと楽しく過ごそう。ごちそうをたくさん食べて、璃月（りげつ）城の美しい庭を一緒に散策して―――」
きらきらと目を輝かせる瑠羽が可愛くて、遼牙はそのまま顔を近づけて唇を重ねようとした。が―――
「わーい。ごちそうだよぉ。くるみちゃん、良かったねぇ」
「キキッ、キキッ」
いつの間にか瑠羽の膝の上にいたくるみちゃんが、ぴょんぴょん跳ねて瑠羽の胸に抱きついた。そのまま二人（？）で楽しそうにじゃれ合う。
―――くそぉ、この仔猿を連れてくるつもりはなかったんだっ
馬車に乗る時、当然のようにくるみちゃんを肩に乗せてきた瑠羽に、置いてきなさいとは言えなかった。
狭く密な空間で長時間二人きり。あんないたずらやこんな戯れで楽しい道中を満喫しようと思ったのに、この仔猿のせいで全ては儚き夢。何とも健全な旅になってしまった。
遼牙は情けない溜め息をついて、はしゃぎ疲れて膝の上でうとうととし始めた瑠羽の頬を指ですっと撫でた。くすぐったかったのか、「あぁん」と鳴いて腰をもぞもぞくねらす瑠羽の、無意識の媚態を物欲しそうに眺める。
すると、膝の上のくるみちゃんが“いやらしいことすんなよ”という目で睨んできた（遼牙目線）。思わず肩を落として自分に言い聞かせる。旅籠に着くまで我慢しろ、と。
遼牙たち一行が宿泊するのは王侯貴族専用の旅籠で、無駄に豪華で無駄に立派だった。遼牙のように、城を離れた時ぐらい華美なものから解放されたいと思う人間は、息苦しさを感じてしまう。
しかし、高い天井からぶら下がる水晶のシャンデリアや金箔の貼られた壁、豪華なつづれ織りなどが己れの権力、栄光への敬意だと思い込んで疑わない人間は、こういった金ピカに囲まれていないと安心できないのかもしれない。
しかし、瑠羽の無邪気なひと言で、遼牙の息苦しさは吹っ飛んだ。
「遼牙さまぁ、目がチカチカしますね」
美貌の賢王の令名高い紫衛那王一行が訪れたということで、支配人は張り切って最も豪奢な部屋に恭しく通した。
が、その支配人ご自慢の部屋に入って一番に瑠羽が漏らしたのが、このひと言だった。思わずぷっと吹き出して、瑠羽の頭を優しく撫でる。
「そうだな。お前の言う通りだ」
紫衛那城の瑠羽の居室にある家具や装飾品は、この部屋の数十倍の価値があるものなのだ。しかしそれらは高価であるがゆえにぎらぎらと自己主張することなく、各々の分を弁えつつ極上の癒しと寛ぎを部屋の主に提供していた。
瑠羽は幼いながらも、本物と偽物の違いがちゃんと分かっていたのだ。
これでもかこれでもかと輝きを放つ家具や水差し、ランプなどをこわごわ眺めながら部屋の奥へ進んだが、瑠羽は急にぱあっと顔を輝かせて駆け出した。
「見てっ、遼牙さまぁ。ほら、お庭がきれーい。さんざしの花が満開ですぅ」
にこにこと笑いながら歌うように自分の発見を告げる瑠羽。その声に誘われたのか、肩に小鳥が舞い降りてチチチ……と清らかに囀り、瑠羽の喜びに同調した。
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