DECISION
１.
最初に聞こえたのは、ぷつ、というささやかな音だった。そして次の瞬間、この後宮に最も相応しくない匂い、濃厚な血臭が瑠羽の鼻孔を生々しく染め上げた。
「ぃ……ゃぁぁぁぁ…………」
悲鳴とも嗚咽ともつかぬかすれた声が、瑠羽の喉奥から這い上がってきた。何が起きたのか分からないながらも、瑠羽は慌てて手を翳して治癒を試みようとする。血に塗れた遼牙の左手を。しかし、
「案ずるな。これは傷ではない」
遼牙は穏やかに制し、さらに左手に力を込める。すると鮮血に導かれるかのように、白銀の耀きを宿した鋭い刃先が大きな掌から突き出てきた。
「ぁ……ぁ……りょ…きさま………」
余りの出来事に、瑠羽は祈るように手を組んでガタガタ震えるしかできない。そう、遼牙の左手から一振りの太刀が、まさに生えてきたのだ。
鮮血を滴らせ、不穏な光沢を放つこの剣こそ、戦場の遼牙と共に闘い、そして遼牙を＜狂える龍神＞と言わしめた名刀＜龍舌刀＞だった。
真朱は「ほう」と素直な感嘆を表し、
「なるほど。龍舌刀は所有者の肉体を鞘とし、そして召還には血の供出を強いると聞いてはいたが、実物は噂以上に禍々しいものだな。お目にかかれて光栄だ」
「確かに、噂の域を出んだろうな。これを目にして生き残った者はいないのだから」
遼牙は重々しく言い置いて、手にした刀を軽く振った。するとこびり付いていた血の残滓が全て払われ、銀色の刀身が月光を受けてぬらりと輝いた。
それに呼応するかのように、真朱は人差し指で虚空に何か図形のようなものを描き、低い声で「ゾダー・セー」と唱えた。と同時に空間が歪み、耳障りな音響と共に紅の焔が吹き上がり、真朱の身体を包み込む。
瑠羽は全ての成り行きをただ震えて傍観しているしかできない。一体、何が起きているのかも分からない。
しかし遼牙には、たった今真朱が上位＜アィテール＞への扉を開いたことが分かっていた。どうやら、本気で向かってくるつもりらしい。
「受けて立つぞ、＜炎帝＞よ」
遼牙は龍舌刀を振り上げ、真朱に向かって真っ直ぐ突進する。すると真朱の身体を包んでいた炎は竜巻のように天を衝き、次の瞬間、遼牙目がけて襲い掛かった。
「くッ…………」
遼牙は身体の前に翳した龍舌刀で炎の襲撃を受け止めた。後方から、瑠羽の悲鳴が聞こえる。
「いやあッ、遼牙さまぁっ」
「瑠羽、来るな！」
襲い掛かる炎が龍舌刀の波動と押し合い、二人共に進むことも退くこともできない。
確かに戦場では出遭ったことのない強大な魔力ではあるが、しかし遼牙は違和感を覚えていた。神聖高位魔族の力とは、こんなものではないはずだ。しかも真朱は、最も攻撃力に優れた火の一族の族長なのだ。
―――手加減をしているのか……いや、違うな。これは………
遼牙は炎の圧力に耐えながら、ゆるりと顔を上げた。すると闇より黒い真朱の翼が目に入った。
突然変異で、生まれながらに黒い翼を与えられた者がいることは知っている。が、真朱がそうではないことは、翼の先端のみ白いことから分かる。
「おまえ……まさか………」
遼牙は両手で柄を握り、四肢に漲る力の全てを龍舌刀に託して炎を押し戻した。
グォン、と空気が鳴り、自らの炎に煽られて真朱は大きく後退し、その場にがくりと膝をついた。遼牙がゆっくり近付くと、真朱は顔を上げて蒼褪めた笑いを浮かべ、
「ハスマルの炎を押し戻すとは。恐ろしい男だ」
「お前が本来の魔力を出せていれば、私など到底敵わなかっただろう。……その翼、黒壊病だな？」
真朱は驚いたように大きく目を見開いたが、やがて喉の奥でくくっと笑い、
「さすが、アム・アザゼルの生態に詳しいな。しかし負けは負けだ」
覚悟を決めたのか、澄み切った瞳で遼牙をじっと見詰める。その時、複数の足音と叫び声が近付くのが聞こえた。
「遼牙様ッ、ご無事ですか！？ 一体何事が―――」
王宮の警備に当たっている近衛兵が駆け付けた。が、遼牙は森の方を指差して、
「侵入したと思しき賊はあちらへ逃げていった。すぐに追え。しかし、余り深追いはするな。よいな？」
衛兵らはすぐに方向転換して、暗い森に向かっていった。真朱は遼牙を見上げたまま、
「何故、俺を庇った？」
「架越で、瑠羽が世話になったらしいな。借りを返しただけだ」
遼牙の言葉をじっと反芻すると、ひと言「そうか」と短く返して立ち上がった。
「遼牙さま！ まそお！」
ようやく恐慌状態から抜け出た瑠羽が、叫びながら駆け寄ってきた。そして二人の腕をぎゅっと掴むと、顔をくしゃりと歪めてふにふに泣き出した。
「やッ……ヤダ………ケンカしちゃやだぁ………ぇっ、ぇぇっ…………」
遼牙と真朱は顔を見合わせ、無言で頷きを交わした。そして二人で瑠羽の頭をぐりぐり撫で回し、
「驚かせて済まなかったな。もう喧嘩はしないよ」
「王の言う通りだ。瑠羽、安心してくれ」
瑠羽は肩を上下させて嗚咽をこらえながら、涙でぐしゃぐしゃの顔を交互に向けた。そして尚もえぐえぐ泣きつつも、こっくりと頷く。
遼牙はその身体を抱き上げて、部屋に戻ろうと真朱に背を向けた。
「待ってくれ。瑠羽に伝えねばならないことがある。少しでいい、話をさせてくれないか」
「負けは負けだと言ったのはお前だ」
背中を向けたまま冷たく言い放つ遼牙に、真朱は誠真込めて懇願した。
「瑠羽の意志を無視して無理やり連れて行くようなことはしない。ただ、どうしても伝えねばならぬことがある。俺しか知らないことが…。頼む、俺にはもう……時間がないんだ………」
遼牙は迷った。ここで断ち切ってしまえば、これまで通り平穏で楽しい生活が送れるのかもしれない。
知ってしまったが最後、大きな運命の歯車に否応なく巻き込まれてしまうのではなかろうか………しかし―――
「瑠羽よ、彼の話に耳を傾けるか否かは、お前自身が決めなさい」
遼牙の諭しを受け、腕の中でちぢこまって胸にすがり付いていた瑠羽がそろそろと顔を上げた。そして真っ直ぐな眼差しを遼牙へ向ける。
「この男は恐らく、自分の都合のいいように話を歪めたりせず、真実をありのまま伝えてくれるだろう。お前の知りたいこと、父や母の話も聞くことができるに違いない。しかし真実とは時に酷なもの。聞かなければ良かったと後悔するかもしれん。受け入れるか否かはお前次第だ」
遼牙の言葉ひとつひとつを噛み締め、そして瑠羽は自ら結論を出した。
「一人なら、真実の重みに潰されてしまうかもしれません。でも遼牙さまと一緒なら乗り越えられます。僕と一緒に、真朱の話を聞いてくださいますか？」
遼牙は柔らかな微笑みと共に頷きを返し、後ろを振り返った。
「真朱と言ったな。付いて来るがいい」
真朱は神妙な表情で頭を下げると、黙って二人の後に続いていった。
「ここは私の私室だ。安心して寛ぐといい」
そう言ってごく淡い笑みを浮かべる遼牙を、真朱は改めて正面から見据えた。
―――この男が……紫衛那の賢王、遼牙………
噂なら、これまで嫌というほど耳にした。戦場での恐るべき殺傷能力、数々の武勲。
と同時に、小国紫衛那の繁栄を築いた手腕などは、遠国でも羨望をもって囁かれるほどだった。曰く、うちの王様も紫衛那王のような方だったらねえ……と。
そしてもうひとつの誉れ。男も女も惹き込まれ酔わされずにはいられない、妖しいまでの美貌。この手の噂には尾ひれが付きやすいものだが、遼牙に関しては真実が噂を超えていた。
しかし、完璧な人間など存在しないことの証左なのか、彼にも瑕はあった。そう、彼はシェアールとアム・アザゼルのハーフ、影道なのだ。
それゆえ神殿庁からは目を付けられ、自由に妻を娶ることもできず、しきたりや因習に縛られた孤独な魂は賢王という仮面の下で喘いでいた。一人の男として誰も愛することなく、誰からも愛されず―――
「遼牙さまぁ、あの、手は？ 手は痛くないの……？」
眉間に似合わない縦皺を刻んだ瑠羽が、遼牙の左手をしきりに気にしている。その小さな手でそっと握っては、手のひらをぺたぺたと触って首を傾げる。
あれほどの出血があったというのに、傷ひとつ残っていないのが不思議でならないようだ。
遼牙は幸せそうに口許を綻ばせて、そんな瑠羽の姿を優しく見つめる。そして頭のてっぺんにふわりと口付けを落とし、
「大丈夫だよ。ちっとも痛くない。だからほら、そんな難しそうな顔をしなくていい」
笑いを含んだ声でそう諭すと、瑠羽の眉間の皺を指先でそっと撫でた。瑠羽はぱちぱちと大きく瞬きをして遼牙の指を見つめたが、納得したのか笑顔と共に頷き、遼牙の左手にちゅ、と可愛いキスを贈った。
誰も愛さず誰からも愛されぬ孤高の王、遼牙―――それはもはや過去の幻影だった。こうした何気ない戯れを見ているだけで、互いがどれほど深く想い合っているか伝わって、こちらまで温かな気持ちになってくる。
運命により孤独を強いられた二つの魂は、欠けたる半身を埋めるかのように強く引き合ったのだ。
―――俺は……間違っているのだろうか………
初めて真朱の中に迷いが生じた。瑠羽を引き込むべきではないのかもしれない。瑠羽にとって、遼牙の傍にいることが全てなのだろう。それ以外は何も望まない。
そんなささやかな悦びを、これまで辛い境遇を耐え忍んできたに違いない瑠羽がようやく手にした幸せを、自分は奪ってしまうことになるかもしれないのだ。
それは果たして、颯舞が望んでいることなのだろうか………
「お前が思い悩む必要はない」
遼牙に突然声を掛けられて、真朱は我に返った。見れば遼牙は、労わりすら感じられる穏やかな表情で、真朱の顔をじっと見ていた。
「瑠羽が自分で決めたことだ。決めた以上はきちんと受け入れる。お前は何も心配せず、ありのままを話してくれ」
真朱は思わず息を呑む。自分の憂慮は全て見透かされていたようだ。真朱は「恐ろしい人だ」と呟いて、ようやく笑顔を見せた。そして揺るぎない瞳を真っ直ぐ向けて言葉を待っている瑠羽に向き直り、
「颯舞、それが瑠羽の父親の名前だ。そして母親の名は、琴悠という」
「そうま……ことちか………」
大事な宝物を受け取ったかのように瑠羽は胸の前で手を組んで、たった今教えられた名を、初めて知った両親の名を繰り返し呟いた。そして潤んだ眼差しで遼牙を見上げた。
言葉にならぬ瑠羽の想いを汲み取った遼牙は、優しく目を細めてその頬を撫でる。しかしそうしながらも、胸の奥では重苦しい思案を巡らせていた。
神聖高位魔族、風の一族の族長、いや、嘗ての族長颯舞。そしてその妻であり高名な女戦士、シェアールの神威軍からは＜悪魔の情婦＞と恐れられた琴悠。それが瑠羽の両親なのだ。
そのような星のもとに生を受けた瑠羽に、これからどのような運命が待ち受けているのだろうか……
「瑠羽が何より知りたいのは、何故自分は二人のもとで育てられなかったのかということだろう。それを理解するには、まず『瑠璃の彼方』と呼ばれる古文書について説明をせなばならない」
「こもんじょ？ えと……『聖典』とは違うの？」
聞き慣れぬ言葉に首を傾げる瑠羽に、真朱は口調を緩めて説明を継いだ。
「ああ、違うよ。『聖典』は、この世界や種族の成り立ちを説明したものだ。それも、シェアールに都合のいいようにね」
最後の言葉の真意がよく分からず、ますます考え込む瑠羽に、遼牙がそっと教え諭した。
「堕天使アザゼルが神の命に背いて人間に様々な知識を与え、さらに女を孕ませて自らの魔力を受け継ぐ半人半天使の種族アム・アザゼルを生み出した。そのせいで神は怒り、世界は混乱を極めることとなった―――これが『聖典』の内容だが、これはシェアール側の論理に過ぎない。
アム・アザゼルから見れば、父なるアザゼルは何の知識も持たず獣同然の生活をしていた人間を救った救世主ということになる。分かるかな？」
瑠羽は必死に遼牙の言葉を反芻し、やがてぱぁっと顔を輝かせて「はいっ」と頷き、
「正しさというものは、それぞれの立場によって変わる、ということですね？」
「その通りだ。ああ、真朱、話の腰を折って済まない。続けてくれ」
真朱はそっと首を振り、「あなたのような人ばかりだったら、世界はここまで腐敗しなかっただろうに」と溜め息混じりに呟いた。が、すぐに顔を引き締めて、
「その古文書は、古代について書かれた史書だった。それには―――」
「何だって！？ そんな、まさか……」
驚きを隠そうともせず、身を乗り出して真朱に詰め寄る遼牙を、瑠羽は不思議そうに見上げる。
しかし、遼牙の反応も尤もだった。神の創世からアム・アザゼル誕生までの超古代と、血と戦乱の暗黒時代と呼ばれた中世の間に位置する古代は謎多き時代と言われ、古代について書かれた書物、資料の類は皆無なのだ。
「そのまさか、だ。『瑠璃の彼方』には、古代世界について詳細に記されていた。この古文書を偶然見つけたのが、俺と瑠羽の父親だったんだ」
「僕と……真朱のお父さん………」
「そうだ。俺の親父、緋鞘（ひさや）は火の一族の族長。瑠羽の父親である颯舞とは幼馴染みであり戦友であり、そして……恋人同士だった」
その瞬間、遼牙の眉根が微かに寄ったが、真朱は気付かぬふりをして言葉を続けた。
「二人は古文書を持ち帰り、独自に解読した。その結果、古代世界こそがこの地上に実現した＜理想郷（ガン・エデン）＞そのものであることが分かったんだ」
「それは……どういうことだ？」
真朱の話にただならぬ関心を抱き始めた遼牙は、率先して問いをぶつけた。真朱はそれに対して丁寧に答えた。
二つの種族の融和、協力体制、輝かしい平和と繁栄―――これまで父から幾度となく語り聞かされた古文書の文言をそのまま、歌うようにすらすらと口にした。
その言葉たちが織り成す世界の美しさに瑠羽は陶然と酔い、遼牙は目を見開いてひと言「信じられん」と呟いた。真朱は淡く笑って、
「あなたの気持ちも分かる。暗黒の中世と余りにかけ離れている。もしかしたらこれは、史書などではなくただのお伽話なのかもしれない。それを確かめるため、颯舞は星辰の運行を司る大天使オファニエルの先導により大規模な＜溯行＞の術を行って、自ら過去の世界に赴いた。そして実際に自分の目で確かめてきたんだ。そこで彼が見たものは―――」
真朱はいったん、苦しそうに黙り込んだ。まるで、颯舞が見た世界の重みに耐えるかのように。やがて徐に口を開き、ぽつりと言った。
「―――天国と地獄、そのものだった」
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