Cool Fire
１.
今でも目を閉じれば鮮明に浮かび上がる。
神に疎まれた“堕天使”の末裔であるアム・アザゼルと、神に祝福されしシェアール（残された者）が、互いの長所を褒め称え、欠点を補い合って共に手を取り、平和と繁栄を謳歌する輝かしき光景が―――
そう、嘗てはこの地上こそが＜理想郷＞であったのだ。
「風が……強いな」
最近の風は特に冷たく乾いて、時折轟音と共に木々の枝を揺さぶる。まるであいつの苦悩や迷いをそのまま反映しているかのようだ―――緋鞘（ひさや）はそう呟いて、屋敷の中に戻ろうとした。
これ以上この乾ききった風に当たっていたら、苦しくて不安で叫び出したくなってしまう。
が、ふと足を止めて遠方に目を凝らす。常闇の向こうから、白く儚い人影が近付くのを見とめたからだ。
「ごめん、こんな時間に……」
「構わないぜ。いつだって大歓迎だ。ほら、早く入れよ。風が……痛い」
颯舞（そうま）はこっくりと頷いて上着を脱ぎ、淡い微笑みと共に緋鞘の後に続いた。
「最近―――」
最近よく来るな、と言いかけて口を噤む。理由を質したところで彼が本心を打ち明けるとは思えない。
尤も、颯舞の胸の裡など疾うにお見通しではあるが。
「琴悠（ことちか）はどうしてる？」
緋鞘の問いを、颯舞は艶やかな笑みで払った。
「ずいぶん、無粋なこと訊くんだね」
「あ、ああ。そうだな。悪かった……」
申し訳なさそうに肩を竦めて、長めの前髪をさらりと掻き上げる。神聖高位魔族（カドゥーシュ）の中でも最も攻撃的で気性が荒いと言われる火の一族。その族長とは思えぬほど穏やかで飾らない、こんな彼の仕草が颯舞は何より好きだった。
もちろん、内に秘めた激しさを、炎の属性を露わにした時の緋鞘もぞっとするほど魅力的だった。
その目眩く落差に颯舞は魂ごと揺さぶられる。何度この腕の中で燃え尽きたいと願ったことだろう。
緋鞘は部屋に招き入れ、
「寒かっただろ？ 今、何か温かいものを持ってくる」
しかし颯舞は上着を長椅子の上に投げ出して、「要らない」と苛立たしげに答える。緋鞘は踵を返して颯舞に近付き、微動だにせず真っ直ぐ自分を見据える蜂蜜色の瞳を見返した。
ああ、こいつはいつもそうだ。他の人間には柔和な笑顔を向けるくせに、いつも俺に対しては容赦ない。
「何が欲しいんだ？」
「分からない？」
「分かる。お前のことなら何でも分かる」
「それはすごいね。じゃあ、僕が今何を考えているか当ててみて」
「抱いて欲しい」
「………当たり」
颯舞は悪戯っぽく笑って、自ら寝室へ赴こうと一歩踏み出した。が、緋鞘に腰を抱き寄せられ、よろめきながらその胸の中に倒れ込む。
「ひさ…や……」
「主導権を取ろうなんて十年早い」
欲望の燠が爆ぜる低音で囁くと、自分よりずっと細身の身体を難なく抱き上げた。そして濃厚なジャスミンの芳気に酔い痴れながら、焦らすような重々しい歩みで寝室に向かった。
「ひさっ……ぁ、ぁぁっ………もっと、ふか…く………」
酷使されたスプリングがギシギシと嫌な音をたてる。しかし緋鞘は構わず、颯舞の脚を大きく広げて上からのしかかり、勢いをつけて激しく打ち込む。
あっという間に、スプリングの鳴き声は結合部が漏らす淫らな喘ぎに駆逐された。
「ああ……緋鞘……緋鞘……もっと犯して………」
濡れた艶を帯びた黒髪を乱して激しい注挿に没頭する緋鞘を、颯舞は大いなる悦びとそれに匹敵する悲しみに悶えながら凝視する。
そして、快楽による昂ぶりのため盛り上がった肩や逞しい二の腕に指を這わせ、もうすぐ別れることになる愛しい男の輪郭を感覚に刻み込もうとした。
その時、別の視線を感じた。颯舞は快楽に四肢を震わせつつも、ゆったりと横を向いて視線の主を探した。
すると、隣のベッドの上に小さな人影が。正座をしてこちらをじっと見つめている。颯舞は思わず苦笑を漏らし、
「ねえ……っん……真朱（まそお）が……見てるよ………」
「ん？ ああ……構わないさ」
「まだ分からないから？」
緋鞘はにやりと笑い、角度をつけて颯舞の核を抉った。すると颯舞の腰は面白いくらいびくびくと跳ね上がり、鈴口から透明の汁珠をいくつも吐き出して胸を濡らした。
いきなりの激しい突き上げに、颯舞は啜り泣きとも悲鳴ともつかぬ掠れ声を放つ。そして怨めしげに緋鞘を睨み付けた。
緋鞘は溢れ出た蜜を嬉しそうに指ですくって舐め取り、
「逆だ。あいつは全て分かっている。これが、愛し合う究極の姿であることを」
「愛し合う……究極の………」
「そうだ。俺は全て真朱に話した。誰よりもお前を、お前だけを愛していることを。だから何も隠すことはない」
そう言って、颯舞の奥に自身を沈めたまま腕を伸ばし、真っ赤に膨れ上がった胸の果実をぎゅっと押し潰す。颯舞は「んぁっ」と鼻にかかる喘ぎを漏らして、背中を弓なりに反らした。
緋鞘は尚もつまんだり引っ掻いたりして嬲りながら、腰を巧みに揺らして奥を掻き回しつつ、
「そんなことより、ずい分余裕じゃないか。他人の視線が気になるなんて。まだまだ足りないようだな。ん？」
奥の方から、たぷたぷとこもった音が聞こえてくる。颯舞の蜜壷に溜まった緋鞘の先走りが騒ぐ音。
「んっ……ぜんぜん、足りない………」
「言ってくれるじゃないか」
緋鞘は暴力的な情欲を漲らせた低音で囁くと、颯舞の腰をがっしり掴んだ。そして、これまで見せていた激しさすら序幕に過ぎなかったのかと思えるほど、狂おしい交合に没頭し始めた。
「ああっ、あっ、緋鞘……もっと、もっとして………」
先端ぎりぎりまで引き抜いたと思ったら、ためらうことなく一気に奥まで突き入れる。その瞬間、颯舞も腰を跳ね上げると、ぐちゃっ、と生々しい音がして内臓がせり上がるような圧迫感に襲われる。
「あああああーーーッ、ああ、ああっ、すごい、すごい……緋鞘っ………熱い…………」
「この……熱さを知っているのはお前だけだっ………」
「んぅっ……ぅ、うそ、だ…………」
緋鞘はにやりと笑い、
「ああ、嘘だ。お前と……そして俺の魔力に灼かれた奴らしか知らん」
颯舞が慄えと共に見上げると、緋鞘の虹彩は血の煮凝りのような燻朱のぬめりを帯びて、ぎらぎらと輝いていた。灼かれたい、燃やされたい。この熱情に、彼が放つ魔性の焔に―――
「ああ、緋鞘、緋鞘ぁ………」
獲物を貪るようにがつがつと動く腰に脚を絡ませ、力を込める。そんな催促に応えるかのように、暴徒と化した緋鞘の雄が奥の膨らみをぐり、と抉った。
その瞬間、颯舞は悲鳴を上げる代わりにぶるぶると四肢を波打たせて、悶える先端から白い糸を吐き出した。
「ぅっ………」
雄々しい動きには不似合いな低い呻きと共に、緋鞘も颯舞の中に放った。股間に押し付けた腰を小刻みに揺らしながら、煮え立つ精をびゅくびゅくと注ぎ込む。
下肢全体に熱いものがじゅわっと広がるのを感じて、錯覚だと分かっていながらも颯舞はうっとりとその熱を味わった。
「相変わらず……お前のここは凄いな………」
緋鞘は深く息をつき、まだ自身を呑み込んだままの花唇を慈しみを込めて指でなぞる。赤く腫れ上がったそこは微かな刺激にも敏感で、颯舞は思わず腰を揺らして喘いだ。
「なんだ、まだ足りないのか」
緋鞘は抜こうとしたものを再び押し込んで、緩やかな注挿を再開した。
―――温かい……。さっきの全てを焼き尽くすような熱さとは違う心地よい温もり………
颯舞は疾うに目を覚ましていたが、緋鞘が与えてくれる温もりをもう少し感じていたいという欲求のまま、じっと目を閉じていた。
全てを捨てる時が近付いている。この温もりだけではない。大事な家族も、一族も、族長としての誇りも責任も。そしてたった一人、勝つ見込みもない果てしなく孤独な闘いに飛び込まねばならないのだ。
もちろん誰に強制されたわけでもない。自分で決めたこと。だから決意を翻すこともできる。
でも僕はやる。僕がやらねばならないのだから―――
「後悔はしてないのか？」
「……ぇっ………」
まるで心の中を見透かしたかのような問いをいきなりぶつけられ、颯舞は激しく狼狽した。お前のことなら何でも分かる、先刻の緋鞘の言葉が頭をよぎる。
「何…を……」
「あれを見つけてしまったことだ。『瑠璃の彼方』を」
「あ、ああ……」
颯舞はほっと息をつく。大丈夫、ばれていない。全てを捨ててこの地を離れ、封印された＜記憶＞を解放しようとしていること―――
「後悔はしてないよ。寧ろ感謝している。この偶然に、この巡り合わせに……」
緋鞘は「そうか」と短く返して、蜂蜜色の柔らかな髪を撫でた。すると、胸の上に置かれた颯舞の手が痛みに耐えるかのようにぎゅっと握られた。
しかし緋鞘は何も言わず、髪に指を滑り込ませて優しい愛撫を続ける。
駄目だ。これ以上こうしていたら、別れの決意を融かされてしまう。颯舞はちぢこまる舌を駆り立てて、言葉を絞り出した。
「ひ…さや……僕はもう帰るよ。琴悠が待ってるから……」
そして緋鞘が返事をする前に身体を起こし、温もりと愛撫の余韻を断ち切って寝台を下りた。濃厚な視線を背中で感じつつ、無言のまま服を着る。泣いては駄目だと自分を叱咤しつつ。
今泣いたら必ず理由を問われる。そうしたら、嘘を貫き通す自信がない。涙なら、屋敷への帰り道に嫌というほど流せばいい。
颯舞はなるべく自然な風を装って帰り仕度を整えた。ふと目を落とすと、真朱がお腹を出してくうくう眠っていた。颯舞は温かな眼差しを向けて、足下の毛布を掛けてやった。
「それじゃ、緋鞘。………また来る、から」
「ああ、またな。琴悠とお腹の子供によろしく」
颯舞は頷いて、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。恐らく、もう二度と現世で会うことはないだろう。今日が最後。その覚悟で訪れて、身体を合わせたのだ。
颯舞は外に出ると同時に、双眸から熱い涙を溢れさせた。
「どうせ今ごろ、泣いているのだろう？」
緋鞘はベッドの上で、誰にともなく問い掛ける。そしてシーツの上に手を伸ばし、颯舞が残した温もりを指先に写し取った。
ついさっきまでこの上で激しい交合に耽っていたとは思えぬほど、シーツに染み込んだ颯舞の余韻は儚いものだった。
「まったく、俺も見くびられたものだ」
緋鞘はがばと起き上がって素早く服を着ると、領地や屋敷の譲渡に関する書類のチェックを始めた。颯舞のあの様子なら、出立の日は近いに違いない。緋鞘は肩を震わせて笑い、
「お前の考えてることなんて、全てお見通しなんだよ……」
愛情と苛立ちをこめて呟いた。
「んっ……ぅ、ぅぅっ………」
後悔していないと言えば嘘になるかもしれない。何も知らずにいられたらよかった。
自分たちは神に背いた輝かしき天使の末裔で、シェアールらは神に媚びを売ることで何とか生き長らえた可哀想な虫けらだと、二つの種族は永遠に争い続けるしかないのだと、これからもずっと信じていられればよかった。
でも―――
―――『瑠璃の彼方』を読み、そして溯行の術で過去を見てきた以上、そんなことはもう信じられない……
颯舞は自らを鼓舞するように頷き、溢れる涙を乱暴に拭った。幼き頃より共に精進し、共に学び、共に戦い、深く愛し合った緋鞘との別離は想像以上の痛みを心身にもたらしたけれど、何とか乗り越えることができた。
もう後戻りはできない。あとは妻に別れを告げるだけ。緋鞘との関係を知りながら、全てを受け入れて自分のもとに嫁いでくれた彼女を幸せにするどころか、一人残して立ち去ろうとしている。
「琴悠、僕を許してくれ………」
力ない声で許しを乞いながら翼を広げ、琴悠の待つ屋敷へ急ぐべく飛翔を始めた。
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