双逢鬼
第十四話（最終話）
こんな幸せな朝が自分に訪れることは、もうないと思っていた。
愛する人が与えてくれる温もりに包まれ、規則正しい寝息と鼓動に耳を澄ませつつ気怠い微睡みに沈む。夢と現の境界に広がる浅瀬で戯れながら、そろそろ目を覚ましてみようか、いやもうちょっとだけこうしていようと、贅沢な葛藤に悶えるのだ。
「ん……耀月ぅ………」
片時も離れることがなかったあの頃、芙蓉は目を覚ますとすぐに甘えた声で耀月の名を呟いた。そして今、三十年に及ぶ別離などなかったかのように、芙蓉の口から同じ言葉が自然とこぼれた。
「ここにおりますよ、芙蓉様」
耀月もまた、あの頃と同じ包み込むような柔らかく気品に満ちた声で応じ、腕の中の芙蓉を抱き締める。
やっと、ようやく“ここ”に戻ってくることができたと、二人とも同じ感慨を心中で反芻した。やがて芙蓉はぱちぱちと瞬きして、
「何だかとっても眩しいね」
「ええ、雪がやんだようですね。日光を受けて結晶が輝いているのでしょう」
「積もったかなあ」
無邪気な問いを唇に乗せてもそもそと起き上がろうとする芙蓉を、耀月は素早く引き止めた。
「いけません。雪がやんだ後の朝は特に冷えます。いつも申し上げているでしょう？ ちゃんと羽織物を用意して、私が火を起こしてから布団を出るように、と」
まるで昨日も一昨日も同じことを言っていたかのような口調でそう言って、昨夜自分が着ていた羽織を手に取り、
「さ、芙蓉様、肩を冷やさぬようこれをお召しになって。今すぐ火を起こしますからね。私がいいと言うまで、芙蓉様は布団からは―――」
「違う、耀月」
突然強い口調で遮られて、耀月は大きく瞬きしつつ見返した。芙蓉は起き上がって耀月の顔を正面から見据え、
「耀月はもう使用人ではないし、僕は耀月の主人ではないんだよ」
芙蓉の言わんとすることを察した耀月だったが、穏やかに首を振り、
「あなたが主人であるとか私が使用人であるとか、そういった関係性が私の行動を決めているのではありません。私の行動は、あなたへの愛情に基づいております。芙蓉様がただ幸せで、健やかで、笑顔でいられるようにと。それは昔も今も変わりません」
芙蓉はむすっと黙り込んだものの、耀月の言葉に取り敢えず納得した様子で頷いた。しかし僅かに身を乗り出して、
「じ、じゃあ……芙蓉様、って呼ぶのはやめて」
「いや、それは……」
「僕たちは対等な関係なんだから。“様”はおかしいでしょう？」
甘い咎めを滲ませた声で問い掛けつつ、耀月の胸にとろりと抱き着く。そして罠に誘い込むような上目使いで見上げて、
「僕は耀月の何？」
耀月は微かに震える声で答えた。
「私の大切な伴侶です。芙蓉……」
そして嬉しそうに微笑む芙蓉に、熱烈な抱擁を与えた。
「よく眠れたか？」
さらりと訊ねた劉幻だったが、すぐに肩を竦めて「野暮な質問だったな」と呟きにやりと笑った。途端にぽぉっと紅くなる芙蓉。対して耀月は冷ややかに目を細めて、
「仏に帰依する者が、そのような下世話なことを言うものではありません」
「はは。坊主だって愛人を持つ時代だ。固いことを言うな」
劉幻はそう言って笑い飛ばしたが、すぐに真顔になって、
「耀月、芙蓉。私と共に明王院までご足労願いたい。私の師であり、宗幻が来るまで明王院を統括していた覚幻大師が、ぜひ会いたいと仰っているのだ」
「そう…ですか……」
濃厚な戸惑いとともに口ごもる耀月に、何度も頷いてみせて、
「いや、おぬしらが躊躇するのも分かる。しかし覚幻大師に底意や害意がないことは私が保証する。あの方は僧としてではなく、一人の人間として会いたいと仰っている。聞き入れてはもらえないだろうか」
耀月はそっと芙蓉に視線を送った。すると芙蓉は柔らかな笑みを返した。耀月は静かに視線を戻して、
「承知いたしました。できることならあの場には戻りたくありませんが、己が犯した罪の跡から目を背けず、受け入れることが今の私に唯一できることですから」
「耀月だけの……罪ではないよ」
芙蓉は小さな声で、しかしはっきりと呟いて耀月の腕にしがみついた。寄り添う二人に温かな視線を送った劉幻は、「では、参ろう」と言って歩き出した。耀月と芙蓉もその後に続く。前を行く大きな背中を見詰めながら、耀月はふと訊ねた。
「劉幻、あなたはこれからどうするのですか？」
「私か？ そうだな……特に決めてはいない。暫くは諸国を旅して、いずれは……」
濁した言葉の先に何があるのか、聞かずとも耀月には分かる気がした。いずれは迦陵の許へ行く、と。
「……明王院に戻る気はないのですか？」
耀月の問いに、劉幻はきっぱりと首を振った。
「私は破戒僧だ。今さら仏道に戻ることなどできん」
「そう……ですか……」
これ以上、耀月に言う言葉はなかった。黙って劉幻の後に続く。やがて、明王院の壮麗な山門が見えてきた。それをくぐって進むと、本堂の前に見覚えのある人物が。
「ああ……あなたでしたか……」
耀月の呟きに、劉幻は眉を吊り上げて、
「おぬし、覚幻大師を知っているのか？」
「ええ、存じております。この明王院の闇の歴史について教えてくださったのが、こちらのお方なのです」
覚幻はにこにこ笑って頷くと、「ついて来なさい」と言ってくるりと背を向けた。その矍鑠（かくしゃく）とした歩みに、耀月たちも慌ててついて行く。
「お前さんたちを呼んだのは他でもない、見せたいものがあったからじゃ」
そう言って覚幻が向かったのは、鬼門の方角にある例の蔵だった。罪なき人々を攫い、閉じ込めて執拗な拷問を与えた忌わしき鬼作りの舞台。
そしてその前には、桜の巨木がある。不動明王呪による鬼の封滅がその樹下で行われたことで、幾多の嘆きや怨嗟を受け止めることになった桜は、十五年前から蕾も葉も付けず、生ける屍の如き惨姿を晒すばかりだった。が―――
「こ、これは……まさかっ………」
目の前の光景に、劉幻は瞬きも呼吸も忘れて見入った。
「何ということでしょう、これは……」
「なんてきれい……」
耀月も芙蓉も同じく、ただひたすらに眼前の奇蹟を見上げた。満開の花を咲かせた、桜の樹を。
「十五年分の生が解き放たれたのだろうな。見事なものよ。雪景色に舞う桜を見られるとは、長生きはするもんじゃなあ」
覚幻は春風のようにおっとりした口調でそう言って、耀月に向き直り、
「ゆうべな、鬼が復讐に来おったのだ。それにより、ここで命を奪われた無念の魂が救われ、桜の呪縛も解けたのじゃろう」
「あ、あなたは……知って………」
絶句する耀月に、覚幻はにこにこ笑って頷いて見せた。何もかも全部知っているよ、と。そしてまだ呆然と桜を見上げている劉幻に向かい、
「劉幻よ、鬼となった迦陵の魂はそう易々とは救われんだろう。だからこそ、お前さんの供養が必要なのじゃ。ここで一から修行をし直し、迦陵を含め鬼に堕とされた哀れな魂を弔うことこそ、お前さんの為すべきことではないか？」
「覚幻……様………」
劉幻はその場にがくりと膝をつき、そして―――
「お、おお、おおおおお…………」
奈落をも震わせるような慟哭を吐き出した。ここにも一つ、切実に救いを求めて彷徨っていた魂が。今、ようやく救われたのだろう。耀月が心からの安堵を覚えてほっと息をつくと、背後から名前を呼ばれた。
「……耀月さん」
耀月ははっと息を呑み、振り向く。そこには、黒い着物をまとった鈴音の姿が。
「鈴音さん……」
言葉を失い、ただ黙って見返す耀月に、鈴音は哀しげに微笑んで、
「ゆうべ明王院に鬼が現れて、村人たちを殺してしまったの。その中にはあたしの父さんと母さんも……」
喉を詰まらせながらも、彼女は言葉を続けた。
「その鬼は憎いわ。でもね、覚幻様から全て聞いたの。この鬼無里の由来、明王院や村人たちがしてきたこと……」
鈴音はふぅっと息を吐き、澄んだ瞳で耀月を見据えた。
「耀月さんは言ったわよね。人はみな、鬼の因子を魂の内に抱えていると。愛する者を喪った時、哀しみや憎悪に囚われた時、人は容易く鬼になる。だからあたし、その鬼を赦すわ。憎悪の連鎖はもうたくさん。ここで、覚幻様の許で一生懸命働いて、この村を真の鬼無里にしてみせる」
鈴音の言葉も悲壮なほど晴れやかな笑顔も、耀月の胸を深く抉った。彼女は知らないのだろうか。すぐ目の前にいる男が、肉親を殺した鬼であることを。
今さら良心などと言うのもおこがましいが、このまま黙って去ることがどうしても耀月にはできなかった。
「鈴音さん、実は―――」
「さ、お前さんたち、そろそろ出立なさるがいい」
耀月を遮るように、覚幻大師が声を掛けた。驚いて見返す耀月に、覚幻は笑顔とともに小さく首を振った。
「………鈴音さん、どうぞお元気で」
「ええ、耀月さんもね」
耀月は深く一礼すると、芙蓉を促して明王院を去ったのだった。
「さて、これからどう致しましょうか」
耀月の問いに、芙蓉は即答を返した。
「暖かい国へ行きたいなあ。それでね、桜の下で＜桜挿頭の舞＞を舞うんだ」
耀月はふわりと笑って頷き、手を差し出した。
「では、芙蓉。行きましょうか」
芙蓉はその手をきゅっと掴み、頬を染めて「はい」と答える。そうして二人は寄り添いつつ、共に歩む新たな道へと踏み出したのだった。
その後、あらゆる国々のあらゆる場所で、観る者を悉く酔夢の境地へ誘うという舞の名手が目撃された。
それは翠翹のごとき黒髪に黒水晶の瞳、雪華を想わせる白い肌が眩い美少年で、舞ううちに頬が上気してほんのり紅く染まることから、宵に色づく酔芙蓉と詠われ皆に愛でられた。
そしてその傍らには必ず絢爛たる銀髪の青年の姿があり、艶やかに舞う少年を優しく見守っているという―――
＜終＞
※最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。
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