Home Sweet Home
１.
リバーサイドに建つ瀟洒な新築マンション。その最上階に、冴季の部屋はあった。
いや、“愛の巣”と言い換えるべきか。週末になれば待ち構えていたように泰水を連れ込み、一日中拘束してはその柔らかな肌に酔い、濃密な交渉に溺れる。そうして一週間分溜め込まれた欲望全てを、愛しい身体に注ぎ込むのだ。
もはやこの部屋の中で、泰水の痕跡が染み付いていない場所などなかった。ベッドやソファはもちろん、テラスの長椅子やリビングの絨毯に到るまで、しっかりと刻み込まれている。
いや、そういった目に見える跡だけでなく、この空間に漂う空気そのものに泰水の濡れた喘ぎや吐息が混じり込んで、甘く爛れていた。それを肺腑いっぱい吸い込むだけで、身体の芯に疼きが灯るのだ。
そのどうしようもない疼き、飢餓感を鎮める方法はたったひとつ。それは言うまでもなく―――
「やっ…だ…ぁ……皇のバカぁ………こんなとこで………ぁ、ぁぁっ………」
広い窓に面したリビングは、沈む寸前の太陽が放つ燃えるような赫光を浴びて紅く染まっている。そこで繰り広げられる痴態は情熱と頽廃の彩りを帯びて、冴季の獣慾に油を注いだ。
泰水は下半身だけ剥かれた状態で、テーブルの上にうつ伏せに押さえ付けられている。冴季はソファに座ったまま泰水の腰をがっしり掴み、上下に激しく揺さぶりつつ自身の腰もリズミカルに突き上げた。
もちろん、二人の陰部がしっかり繋がっていることは言うまでもない。
「お前が……煽るようなこと言うからだろっ………」
「煽ってなんか…ないもんっ………ただ、僕たち新婚さんみたいだよね、って………ゃッ、そこだめぇ………」
角度を付けて奥をグゥンと突き上げると、手の中の腰が悶えるように震えた。さらにガツガツと二度打ち付けると、「きゃふっ」という愛らしい悲鳴と共に冴季自身を包み込む柔肉全体がきゅぅっと収縮した。
「クッ………出る…………」
掠れた宣告とほぼ同時に、泰水の丸い尻が潰れるほど強く股間を押し付けた。そしてドクドクと音が聞こえそうなほどの勢いで、煮え立つ精を注ぎ込む。
「ぁ………はァ…ン……んっ………」
見れば泰水も達ったようで、ガラステーブルに白く濁った液体が飛び散っている。微かに湯気が立っているのが何とも生々しく煽情的だった。
冴季は深く息を吐いてゆっくりと引き抜き、とろんとろんになった泰水の身体を抱き起こして腕の中に収めた。そして赤ちゃんをあやすように揺らしながら、背中を撫でてやる。
気持ち良さそうに目を閉じて顔をすり寄せる泰水を、「でかい赤ん坊だな」と言ってからかうと、途端に泰水はむっくり膨れ、冴季の首筋にぱく、と噛み付いた。
「生意気だぞっ。僕は２コも年上の先輩なんだからっ」
「年上のくせに可愛すぎるお前が悪い」
「年下のくせにふてぶてしい皇が悪いっ」
すでに定番となりつつあるやり取りだったが、そこに含まれる甘さが薄れる気配はなかった。
冴季は「分かった分かった」と言って笑い、泰水の尖った唇にぷちゅ、と口付けた。そして下半身に付着した色んな液体をティッシュで拭ってやると、耳許に口を寄せて、
「まだまだ足りねえけど、続きは夜にな。覚悟しとけよ」
「ん、もぉ………ばか………」
甘い抗議をこぼして上目使いで見上げ、“覚悟してます”の意志表示なのかお尻をふにふにと押し付けてくる泰水に、冴季は心の中で白旗を挙げたのだった。
簡単にシャワーを浴びて衣服を整えた泰水は、一人でキッチンにいた。そしてこっそりと持ち込んで冷蔵庫に仕舞っておいた材料を、もう一度確認する。
「……牛肉、玉ねぎ、マッシュルーム、サワークリーム……よし、完璧」
そう、今夜は初めて冴季に手料理を振る舞うのだ。家で練習を重ね、材料もばっちり用意して、特製ビーフストロガノフを冴季に味わってもらうつもりだった。
「よおっし、がんばるぞ！」
気合い十分で持参したエプロンに腕を通そうとした時、キッチンの扉が開いて冴季が姿を現わした。
「泰水？ こんな所で何してるんだ」
「あ、うん。あのね……」
もじもじしながらも、これから夕食を拵えるつもりであることを告げようとする。皇ってばびっくりするかな、喜んでくれるかな―――
「あ、夕食はケータリングを頼んでおいたからな」
「え？ ケータリング……？」
「ああ。せっかく二人きりなのに、外に食いに行くのは嫌だろ？ だからって出前ってのも侘しいし。家でたまに呼ぶシェフがいるんだよ。彼を呼んで作ってもらえば、ゆっくり旨い飯が食える。いいだろ？」
「う、うんっ。いいね、それ。楽しみ〜」
泰水はエプロンをそっと後ろ手に隠し、笑顔を拵えて頷いた。
確かに冴季家お抱えの料理人だけあって、テーブルに並んだ料理はどれもこれも素晴らしかった。
泰水も思わずうっとりと味わい、呑み込んでから小さく溜息をつく。冷蔵庫の中の、ビーフストロガノフになれなかった食材たちが哀れだったけれど、もちろんそんなことを冴季に言うつもりはなかった。
レストランではなく、部屋で二人、美味しいものが食べられるようにという彼の心遣いはとても嬉しかったし、よくよく考えてみれば美食に慣れた彼の舌を満足させるものが自分に作れるはずもなかった。
せめて後片付けだけでも思ったのだが、冴季に「そんなことしなくていい」と言われ、すごすごとキッチンから戻る。人から奉仕されることが日常的な冴季と自分の違いを改めて思い知り、ほんの少し落ち込んでしまった。
もちろん、そんな負の感情は柔らかな絹のシーツに沈められた瞬間から薄れ、冴季の執拗な愛撫が与える快楽の漣に呑まれ消えていった。
夜通し続いた冴季の求めに積極的に応じる泰水は、愛されているという実感を心と身体で幾度も反芻しては幸せに溺れたのだった。
「……やべ、もうこんな時間か………」
冴季はベッドの上から時計を確認し、掠れた声で呟いた。泰水が泊まった翌日、遅い朝食をとってからも何をするでもなくベッドの上でごろごろしていたのだが、時間だけは容赦なく過ぎていった。
泰水も時計を覗き込み、同意するように溜息をついて、
「しあわせな時間て、あっという間に過ぎていっちゃうんだね……」
沈んだ声でそう言って、もそもそと身体を起こした。本当ならもっとゆっくりできるはずなのだが、冴季は実家の用事があって帰らねばならないのだ。遅くとも夕方には仕度を整えて、部屋を出なくてはならない。
「くっそ、何でこういう時に限って……」
冴季は悔しそうにぶつぶつ言っている。もちろん泰水も別れるのは淋しかったけれど、ぐっとこらえてベッドから下りた。
「先にシャワー浴びてくるね。皇もそろそろ起きなくちゃ」
「ああ、分かってるよ」
不貞腐れた声で返してごろんと横になる冴季の頭をよしよしと宥めて、泰水はシャワールームへ向かった。簡単に汗を流して着替え、冴季にシャワー室が空いたことを伝える。
そしてそのまま真直ぐキッチンへ向かった。冷蔵庫に入れっぱなしの食材を回収するためだ。思わず溜息が出てしまうが、ともかくてきぱきと取り出して袋へ入れようとした。その時、
「泰水？ こんなとこで何やってるんだ」
「ひぇっ」
泰水はびっくぅんと飛び上がり、あわあわしつつも食材の上に袋をかぶせて隠した。そして「何でもないよっ」と強張った声で答える。
その不審な挙動を冴季が見過ごすはずもなく、荒々しい歩みで近付いて「何を隠したんだ」と強い口調で問い詰める。泰水はくるりと振り向いて引き攣った笑顔を見せ、
「な、なに言ってるの？ 何も隠してなんか―――」
「なら、そのテーブルの上にあるものは何だ。見せろ」
泰水は何も言えず、ただぷるぷると首を振って拒絶を表す。途端に冴季の表情は険しく尖り、
「俺に隠し事か？ いい度胸してんじゃねえか」
怒気を孕んだ低音が、腹の底にビリビリと響く。泰水はどうしてよいか分からず、すがるような眼差しと共に首を振り続けた。業を煮やした冴季は力づくで泰水をどかして、被せてある袋を取り除いた。
「なんだ？ これは………」
袋に入った玉ねぎ、マッシュルームの缶詰、そして牛肉―――それらを冴季はぽかんと見つめる。
何で泰水は、こんなものを必死で隠そうとしたのか―――
「これ、お前が持ってきたのか？」
悪戯がばれた子供みたいに項垂れていた泰水は、冴季の問いにこくんと頷いた。冴季は訳が分からないとばかりに眉をひそめ、
「こんなもの持ってきて、どうするつもりだったんだ」
手料理、という考えが全く浮かばないのか、冴季は訝しげに問いを重ねる。泰水はくすんと鼻をすすり上げ、
「ビーフ……ストロガノフ………」
「は？」
「夕食に……ビーフストロガノフを作ろうと思って………」
冴季は大きく目を見開いて、
「お前が？」
「うん」
「ここで？」
「うん」
「俺の……ために？」
「他に誰がいるの？」
泰水は少し怒ったようにそう言って、怨めしげに冴季を見上げた。が、すぐに視線を落とし、テーブル上のものを黙って袋に入れようとした。すると、
「なんで言わねえんだよッ！」
「……えっ？」
「なんでそれを言わないんだお前はッ」
冴季の剣幕に驚き、ぽかんと口を開けて見つめる泰水。やがて困惑した口調で、
「だ、だってせっかく皇がシェフを呼んでくれたのに―――」
「阿呆か！ あんなもんよりお前が作ったものの方がずっとずっと………」
冴季ははたと口を閉じた。見れば泰水はさらに困惑を深め、瞳をじんわり潤ませておろおろしていた。どうやら、きちんと説明しないと理解してもらえないようだ。冴季はがりがりと頭を掻いて、
「ああああ〜〜〜〜ッ、まっったくお前はぁ〜〜〜〜〜」
がっくりと肩を落として心からの叫びを漏らす。
「こ、皇……？」
おそるおそる顔を覗き込んでくる泰水をじっと見つめ返すと、冴季はその身体をいきなり抱き上げた。そしてリビングのソファに抱いたままどさりと座り込み、改めて泰水の顔を見つめて、
「あのな、泰水。恋人の手料理より、会ったこともねえおっさんが作った飯の方を喜ぶ男がいると思うか？」
泰水は大きく瞬きしつつ、冴季の言葉を反芻した。が、くしゃりと顔を歪めたと思ったら、大きな飴色の瞳から透明の珠がひとつ、ふたつとこぼれ落ちた。
冴季は慌てて生まれたての宝石を指先で受け止める。泰水はぐずっと音を立てて鼻をすすってから、
「だって……だって………冴季家お抱えの……一流のシェフでっ………」
「だからなんだよ。一流だろうが何だろうが、会ったこともねえおっさんに変わりはないだろ」
「でもっ……僕が……作るものなんかより……ずっとずっとおいしいもん………僕の……ビーフストロガノフみたいな謎の料理なんかより………」
冴季はフッと笑みを浮かべて泰水の背中に腕を回し、愛しさを込めて抱き締めた。
「ああ……食いたかったな。お前の作った“ビーフストロガノフみたいな謎の料理”」
「なんだよぉ、ばかぁ………」
「自分が言ったんじゃねえか」
冴季は呆れたようにそう言って、膝の上でもぞもぞと暴れる身体を拘束した。泰水は不貞腐れつつも大人しくなったが、やがてそろそろと顔を上げて、
「皇は……小さい頃からずっと、ああいう人たちが作る美味しいものばかり食べてきた。テーブルセッティングも、食べた後の片付けも全部人がやってくれる。そうだよね？」
「あ、ああ……」
「でも、僕は違う。僕は普通の家庭で、お母さんが作る料理を食べて育った。外食なんてたまにしかしないし、それこそフルコースを出すレストランなんて一年に一度くらいしか行かない」
泰水の瞳が不安げに揺れた。一瞬躊躇したが、すぐに口を開き、
「食事だけじゃない。僕と皇が育ってきた環境は……余りに違う。だから今後、皇を苛立たせたり戸惑わせたり………もしかしたら恥ずかしい思いをさせることもあるかもしれない」
泰水の言葉を静かに噛み締めた冴季は、やがてそっと首を振った。
「恥ずかしいのは……俺だ。黙っていれば人が何でもしてくれる、それが当然のことだと思い込んで………」
「ううん、そうじゃない。どっちが正しいとか間違ってるとかじゃないんだ。ただ、僕と皇でずれがあることは確かだから、そのせいで……嫌われちゃったらどうしよう、って―――」
「この馬鹿」
ぶっきらぼうな言葉にありったけの想いを込めて、冴季は腕の中の身体を締め付けた。
「そんなこと……考えるな。頼むから………」
顔を胸に押し付けられているからその表情は窺えないけれど、何だか涙声に聞こえた。泰水は「うん…」と呟いて、胸にぎゅっとしがみつく。
そのままどのくらいの時間が流れただろう、二人はどちらからともなく固い抱擁を解いて互いを見つめた。
先に口を開いたのは泰水だった。このまま温もりに包まれていたら、別れるのが辛くなってしまう。
「皇……そろそろ仕度しなくちゃ。家の用事に遅れちゃうよ」
冴季は暫し考える振りをしたが、答えは疾うに出ていた。
「やめた。行かね」
「え、えっ？ そんな、だめだよ………」
「嫌だ。お前の謎の料理を食わずに帰れるか」
泰水は嬉しかったけれど明らさまに喜ぶわけにもいかず、「でも、家の人にはなんて…」と戸惑いを見せる。冴季はちらと肩を竦め、
「具合が悪くなったことにすりゃいい」
泰水は呆れたと言わんばかりに、
「その年で仮病を使うの？ 子供みたい」
「仮病とも限らないぜ。本当に腹を壊すかもしれねえしな」
途端に泰水は真っ赤に膨れ、冴季の胸をぽかぽか叩く。冴季は笑いながら宥めつつ、小野寺に連絡を入れたのだった。
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