＜安息＞・４２
翌朝早く、裸の四肢を絡めて幸せな眠りを貪る二人を、電話の呼び出し音が起こした。
雅人は「うう…」とおっさん臭く唸って何とか受話器に手を伸ばし、思い切り寝起きの声で「相楽です…」と答えた。すると啓吾の元気すぎる声が。
『雅人、今日一日遊びに行こう。もちろん純くんも一緒に』
「ほえ…？ どこに行くんすかあ？」
『まだ寝惚けてるねえ。ブライトンだよ。クルーザーを借りたんだ。海に出よう。いい天気だよ』
クルーザー、海、ブライトンという単語のお陰か、雅人の頭も急に冴え始めた。
「うわっ、行きます。もしかして、わざわざ借りてくれたんですか？」
『ああ。君たちに世話になったお礼がしたくてね。これから車で迎えに行くから、仕度して待っててくれ。それじゃ』
電話が切れると同時に雅人はがばと起き上がり、まずは自分の仕度を終えた。そしてまだ熟睡中の純に器用な手付きで服を着せる。この時間では純は起きないと分かっていたから、敢えて無理やり起こさないようにしたのだ。
泳げるかどうか分からなかったけれど、一応水着も詰めて、荷物も準備完了。唯一準備が整ってないのは純の頭だけ。まだふわふわ夢の中だった。
「純、そろそろ起きろ。海だぞ。出かけるんだぞ」
純はうにうに言いつつも、目をこすって起き出した。
「う…み…？」
「そう。車の中で寝てていいから、取り敢えず今は起きろ」
純は何がなんだか分からないながらも「はぁい」と素直に頷いて、雅人にぎゅっと抱き付いた。その時ちょうど呼び鈴が鳴り、啓吾の朗らかな声が。
雅人は片手に荷物、片手にヴァンス、胸に純を抱き付かせて部屋を出た。
「しかし純くんはよく眠ってるねえ。もうすぐ学校が始まるのに、大丈夫なのかい？」
「そ、そうですね。そろそろ生活を戻さないと……」
純は当然のように雅人の胸に頬をぺったり付けて、くーくーとあどけない寝息をたてている。
そうしている間にも車は順調に進み、イギリスでも数少ない海辺のリゾート地、ブライトンに近付いてきた。雅人は純の肩をそっと揺らして、
「ほら純。もうすぐ海が見えるぞ」
純は眉根を寄せてぐずりつつ、「ここどこぉ？」と甘えたように訊ねる。
「さあ、どこでしょう。少なくともアパートのベッドの上じゃねえな。おお、そうだ。その前にこれを―――」
雅人は荷物をごそごそ漁って、薬を取り出した。
「船に乗るから、一応酔い止めを呑んでおいた方がいいな。純、ほら」
用意周到というか過保護というか。しかし純はむっと膨れて「やっ、お薬嫌い」とそっぽを向く。
「こら。知らねえぞ、船酔いしても」
純の顔をぐいとこちらへ向けて、白い錠剤を無理やり口に押し込む。そしてちらと運転席に目をやって見られていないことを確かめると、ペットボトルの水を口移しで純に飲ませた。
こくん、と喉が鳴ったのを確かめて口を離すと、運転席からわざとらしい空咳が聞こえてきた。
「み、見てました？」
「まあまあ仲のいいことで。あんまり刺激しないでくれよ。こっちは独り者なんだから」
「は、はあ……すみません………」
このくらいの触れ合いで“刺激しないでくれ”なんて言われるとは思わなかった。雅人は改めて、純との行為にどっぷり浸かっている自分を自覚した。
「純？ どうした？」
突然純が鼻をくんくんさせ始めた。
「海の匂いがするんじゃないのか？ もうすぐ見えるよ…………ほらっ」
啓吾の掛け声と共に視界が開け、太陽を反射してちかちか瞬く水平線が現れた。
「うわあっ、海だ、海だぁ」
純は興奮した様子で窓を全開にし、そこから身を乗り出してはしゃぐ。
「うわっ、危ねえぞ、純。窓から顔出すなっ」
慌てて純の腰を掴んで座席に引き戻す。しかし純は尚も興奮した面持ちで「雅人、海だよぅ」と嬉しそうに笑う。
「ああ、俺も久しぶりだ。お前と一緒に来れるなんて思ってなかった」
「うん、うれしーね。雅人、ありがと……」
雅人にぎゅっとしがみつく純。啓吾は運転に徹しつつ、連れてきたの僕なんだけどなあ……と少し大人気ない感慨を呑み込んだのだった。
ブライトンといえば、海上にせり出した遊園地パレス・ピアーが有名である。しかし遊園地は素通りして、小さなヨットハーバーに向かった。
「えっ、叔父さんが操縦するんですか？」
「そうだよ。安心なさい。ちゃんと船舶免許持ってるから」
すでに話はつけてあったのか、真っ白なクルーザーが３人を待っていた。船主と親しげに話す啓吾を見ながら、雅人はちょっとした違和感を覚えていた。何かやたらと視線を感じるのだ。
「雅人、どうしたの？」
「い、いや。何となく誰かに見られているようで……気のせいかな」
すると戻ってきた啓吾が意味深な笑みを浮かべ、
「ああ、ブライトンはゲイの街としても有名だからね。彼らの好みからしたら、純くんは少し幼いのかもしれないね。雅人みたいなのがそそられるんだろう」
思わず凍りつく雅人。純はキッと眦を決して周囲を睨み付け、
「雅人は僕が守るっ。指一本触れさせないんだからっ」
腕を広げて雅人を庇う。雅人ははあ、と溜め息をついて肩を落とし、
「ありがとな、純。嬉しいよ………」
啓吾は込み上げる笑いを抑えるのに難儀した。
「うわーい、きもちいいっ。叔父さん、もっと、もっと早くぅ」
「お前……スピード狂だとは知らなかった。しかも海の」
船首に立ってぴょんぴょん跳びはね、もっと早くとせかす純。その周りでヴァンスも一緒にはしゃいでいる。対して雅人はといえば、そんな一人と一匹が海に落ちやしないかとハラハラし通しだった。
俺って苦労性だよな……と今さらながらにたそがれる雅人。すると急に船が失速し、やがて完全に止まった。啓吾が運転室から上がってきて、
「せっかくだから魚釣りでもしようか」
啓吾の提案に大賛成の二人と一匹は、さっそく船べりに陣取って釣り糸を垂らす。
「ホントに釣れるの？」
初めての経験に半信半疑の純は、海面をじぃっと睨む。すると―――
「あれ？ なんか引っ張られてるような………」
「おいっ、引いてるじゃねえかっ。早く上げろっ」
「えっ、えっ？」
雅人は自分の釣竿を置いて、おろおろする純の釣竿を掴む。そして二人で引き上げると―――
「すごぉいっ、魚が付いてきたよぉ」
「付いてきたんじゃなくて、釣れたんだ…………って、おい、こらヴァンス、やめろ、やめろって」
突如現れた生き物に興味津々のヴァンス。ぴちぴち跳ねる魚に唸り声を上げて飛びかかって格闘を始めた。結局魚はよれよれに。
「可哀想……ヴァンスがお魚殺しちゃった………」
「まあ、食うつもりで釣ったんだけどな。いずれにせよ殺すことにはなる」
「でも、でも……」
しゅんと萎れて、死んでしまった魚を見詰める純。啓吾は宥めるように笑って、
「魚釣りはやめようか。食材は用意してあるから、船上バーベキューにしよう」
「お、いいですねえ。ほら、純も仕度手伝えよ。働かざる者食うべからず」
こくんと頷いて顔を上げると、二人の優しい視線にぶつかった。自分がどれほど甘やかされているかを実感して、純の心は申し訳なさでいっぱいになった。
すると雅人の大きな手が頭に乗って、わしわしと撫でられた。
「ほら、行くぞ純」
「うんっ」
雅人の胸にぎゅっとしがみ付き、幸せそうに笑う純を見た時、何故か啓吾の胸裏に暗い翳がよぎった。
この二人がもし、万が一離れ離れになることがあったら一体どうなってしまうのだろうか―――
しかし啓吾は頭を振って、その不安の悪魔を追い払った。
大丈夫、そんなことあるはずない。彼らはこれからも、ずっと、こうして寄り添っていくに違いないのだから。
「楽しかったね……」
「ああ」
二人は船べりに並んで座り、水平線に近付きつつある杏色の太陽を眺めていた。
船は真っ直ぐ港に向かっており、あと少しで到着するだろう。この美しい景色を、夏の思い出を目に灼き付けておこう。二人の想いは同じだった。
「雅人……少し焼けたね」
美しい褐色の二の腕にそっと指を這わせる。
「ん、そうか？ 逞しくてカッコいいだろ」
「自分で言う？」
雅人は笑って純の腰を引き寄せ、
「お前も、鼻の頭が少し赤くなってるぞ。カッコわりい」
ちょん、と鼻にキスを落とす。純はむーっと膨れて、
「もおっ、雅人のいじわるっ。嫌い」
「嘘だよ、純。すげえ可愛い。トナカイみたいで」
頬を撫でてそのまま顔を近付け、唇を重ねる。潮風を受けたせいかほんの少ししょっぱい唇も、夏の思い出として胸の中に留まり続けるだろう。
「んんっ………しょっぱいキス…………」
「ああ、海の味だな」
純は楽しそうにふふ、と笑うと、もう一度唇を突き出してキスをねだった。今度は舌を挿し込み、ゆったりと絡め合う。もう海の味はせず、いつもの甘い純の味だった。
そのまま二人は港に着くまで深い口付けに没頭し、夏の最後の思い出に秘めやかな光沢を添えた。
「それじゃあ、雅人、純。また会おう。それまで元気でな」
二人を海に連れて行った翌日、啓吾はロンドンを発っていった。次はシンガポールへ行くらしい。
空港行きのバス発着所まで見送りに来た二人に人懐こい笑顔を残して、大袈裟に手を振って去っていった。
「僕………あのおじさん好き」
「そうか？ 嬉しいけど妬けるな」
二人は顔を見合わせて笑みを交わし、どちらからともなくそっと指を繋いだ。
「帰るか」
「うん。お腹すいちゃった」
寄り添いつつアパートへ戻る二人の姿を、偶然通りかかった車の中からじっと見つめる男がいた。
その視線は陰湿な敵意と生々しい情欲に満ちて、二人の背中を視界から消えるまで追い続けた。
「純、ほら、もう起きろ。間に合わねえぞ」
「う……ん、やぁだ………もうすこしねてるの…………」
「だぁめだ。ぎりぎりまで寝かしてやったんだぞ。新学期初日から遅刻なんて―――」
純はむくれつつも両腕を差し伸べて、
「じゃあ抱っこ。抱っこしてくれたら起きるぅ」
「……あのなあ。そんなことしたら止まらなくなるだろ」
純は半目で睨んで、
「止まらなかったのはゆうべの雅人でしょ？」
まさに仰る通り。何も言い返せない雅人。明日から新学期。つまり昼間はずっと純に触れられないんだと思ったらもう止まらず、何度も体位を変えては深く濃厚な交接に没頭した。
涙をこぼして「もうゆるして…」と哀願する純は余りに艶めかしく、欲望の核をダイレクトに刺激する色香を振りまいて雅人を絡め取った。
そして気が付けば、半ば意識が飛んでぐったりした身体を執拗に犯していたのだった。
「い、いや……それはその…悪かった。確かに止まらなかった」
純は表情を和らげてふふっと笑い、
「許してあげるから、抱っこして。早くぅ」
雅人は観念して下腹に力を入れ、昨夜愛し抜いたとろける身体を抱き上げた。
「本当に…ごめんな。立てるか？」
「ん、だいじょうぶ。雅人に鍛えられたもん」
悪戯っぽく笑って首にぎゅっと抱き付く純に「これからもっともっと鍛えてやるからな」と低い声で囁いて、雅人はにやりと笑った。
「仕度できたか？」
「うん」
久しぶりの制服は、何だかくすぐったい。自分の肌に馴染んでいないからというよりも、制服姿の恋人が眩しくて、どきどきしてしまうから。
「雅人……やっぱりかっこいいね。黒豹みたい」
「黒豹って……どんな連想だよ。猛獣ってことか？」
「そうだよぉ。いっつも食べられてるもん」
雅人は「どうせ節操なしだよ」とぶつぶつ言いつつも、部屋の扉を大きく開けて純に手を差し出した。
「さあ、行こう。純」
二カ月前、夏の初め、素直にこの手を掴めなかった頃のことを思い出す。
しかし今は―――
「うん、雅人」
何のためらいもなくその手をぎゅっと掴む。そして顔を上げると、優しく潤んだ黒瞳に映る自分の笑顔が見えた。
―――色んなことが…あった……
辛くて苦しくて、死を望んだこともあった。でもこの優しい瞳に支えられて、今自分は心からの笑顔を浮かべている。
イギリスの夏は短い。けれどこの夏の日々は、自分にとってかけがえのない宝石となった。雅人と過ごした初めての夏を、一生忘れはしない。そして来年も再来年も、ずっと一緒に過ごすのだ。
「ずっと……一緒にいようね………」
綿毛のような小さな小さな呟きは、ちゃんと雅人の耳に届いた。雅人は握った手に力を込めると、
「ずっと一緒にいよう」
誠実さと愛情溢れる声で返したのだった。
こうして二人の初めての、最後の夏が終わった―――――
BACK TOP NEXT