ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
１０.
「え？ 着信が６件も……」
清々しい朝だった。これから起きることも、既に起きてしまったこともまだ何も知らない那津は、目覚めてすぐに顔を洗い、時間を確認するため携帯を手に取った。そこに、６件の着信履歴が残っていたのだ。
確かめると、全て織田からだった。朝７時半ぴったりに１回目の着信があり、それから１０分ごとに５回。
那津は首を傾げ、花壇に何かあったのかなと呟いた。
泰水に旅行へ誘われて、二泊くらいならと了承した那津だったが、結局泰水が組んだスケジュールは四泊五日の旅だった。
今さら話が違うと言ったところで泰水が聞き入れるとも思えなかったから、渋々承知したものの、問題は花壇の水やりだった。温室には自作の灌水システムを取り付けたから問題ないとして、花壇にはスプリンクラーもない。
悩んだ挙句、那津はダメもとで織田に頼んでみたのだ。
困ったことがあったら力になるとは言ってくれたものの、夏休みにわざわざ学校へ来て花に水やりなんて冗談じゃないとばかりに、理由を付けて断ってくるに違いない、そう思っていたのだが、予想に反して織田は快諾してくれた。
しかも率先して、水やりに最適な時間帯や注意点などの教えを乞い、「安心して旅行に行ってこいよ」と送り出してくれたのだ。
那津は深く反省した。泰水のことがあるとはいえ、他人なんか当てにならないと自ら遠ざけて殻に閉じこもっていた。
いつか春留が指摘した通り、最初からあらゆる出遭いを排除して、孤独を引き寄せていたのだ。
そんな思いをくゆらせながら、那津は織田の番号を呼び出してかけようとした。するとタイミングよく向こうからかかってきた。
『もしもしっ、織田だけど―――』
「ああ、明神だ。何度もかけさせて悪いな。で、どうしたんだ？」
電話の向こうで、織田が深呼吸するのが分かった。やがて明晰な声で、『紫堂先輩が大変なんだ』という返答。
那津が勢い込んで訊ねようとするのに先んじて、『落ち着いて聞いてくれ』という前置きの後、織田が整然と話し始めた。
花壇で倒れている春留を発見したこと、その身体に散った痕跡、生徒会室の異変、そして宇野を酔わせて聞き出したおぞましい事実の全てを―――
『―――惣領先輩の、紫堂先輩に対する執着は凄かったんだ。口にこそ出さないものの、どんな手を使ってでも自分のものにしたいと考えていることは、生徒会の役員はみんな知っていた。園芸部を廃部にしろと指示したのも、惣領先輩なんだよ。明神が、紫堂先輩と仲がいいのを嫉んでのことだ』
ここまでひと息に話した織田は、深く息を吐いた。そしてずっと黙りこくったままの那津に痺れを切らし、
『おい明神、聞いてるのか？ お前―――』
「………すぐそちらへ戻る」
織田はハッと息を呑んだ。今のひと言で、那津の心の状態が手に取るように分かった。
織田はそれ以上は余計なことを言わず、ただ『頼んだぞ』とひと言残して自分から電話を切った。
電話が切れた後も、那津は暫しそのまま立ち尽くしていた。清々しい風と透明な朝日を浴びながら、那津は今、深い奈落にいた。
四肢の震えに連動して、奥歯がカチカチと鳴る。外へ向かう怒りはもちろんだが、春留にそんなことをさせてしまった自分に対する怒りも激しく、不可視の闇の中で、春留をちゃんと掴まえておかなかった自分を激しく呪う。
しかし停滞は長く続かず、すぐに今すべきことに行動を移した。素早く着替えて、荷物をまとめる。すると今起き出したのか、襖を隔てた隣の部屋から泰水が現れた。
「那津ぅ……どしたの？ 誰かから電話があったみたいだけど………」
「お早う。俺はこれから東京へ戻る。泰水はゆっくりしてるといい」
早口でそう言いながら、荷物をまとめる手を忙しく動かしている。泰水は呆然とその様子を眺めていたが、やがて甲高い声で、
「なんでッ……もう一泊して、明日帰る予定なんだよ」
「知ってる。でも事情が変わったんだ」
泰水の方を見ようともせず、帰り仕度を続ける那津。泰水は額に剣呑な翳を落とし、強張った口調で、
「さっきの電話、あの人からじゃないの？ ねえ、そうなんでしょ？」
那津はいったん手を止め、落ち着けと自分に言い聞かせた。今は泰水の癇癪に付き合っている隙はないのだ。最大限の穏やかな対応を見せなければ。
「違う、織田からだ。花壇の花に異変が現れたと。織田の話だけでは虫なのか病気なのか分からないけど、かなり切迫した状況であることは間違いないようだ。ともかく戻って、対処を考えなければ」
しかし泰水はまだ疑わしい表情をしている。那津は携帯を開いて、着信履歴を見せた。そこには織田の名前と、数分前に着信があったことが表示されていた。
ようやく納得した泰水は、無理やり四泊のスケジュールを組んだ後ろめたさもあってか、渋々ながら承知した。そして「僕も一緒に帰るよ」と言って着替えようとした。那津は精一杯の笑顔を拵えて、
「せっかくここまで来たんだ。知らない旅館じゃないし、泰水はもう少しゆっくりしていったらどうだ？」
那津の言う通り、ここは二人が家族ぐるみの付き合いをしていた頃よく訪れた旅館で、知り合いもいた。
「でも……」
「俺たち二人がいきなり帰ったら、女将さんも悲しむぞ。どうせあと一泊なんだし、お前まで慌てて帰ることはないだろう」
泰水は考えていたが、明日になればまた那津に会えるんだと思って了承した。
「分かったよ。じゃあ、また明日ね」
「ああ。また明日な」
那津は鞄を手にすると、旅館を飛び出したのだった。
電話が鳴ると、春留はほとんど条件反射的に受話器を取った。
『僕だよ、春留』
「……昨日の行為がまだ響いている。今日ぐらい休ませてくれねえか？」
『安心するといい。今日は昨日みたいな激しいことはさせないから。まあ温室でちょっと楽しく戯れようじゃないか』
何を言っても無駄だと思い、春留は「分かったよ」と投げやりに答えた。そしてのろのろと立ち上がり、外出の仕度を始めた。
外に出ると日はすでに翳り、心地よい風がさらりと吹き抜けた。
「また……あの温室を穢すのか………」
春留は心の中で那津に詫び、学校へ向かって歩き出した。
何度呼び鈴を鳴らしても、誰も出てこない。表札は出ていないが、住所はここで合っているはずだった。ドアを強めに叩いても結果は同じ。
「まさか………先輩っ………」
那津はその場に鞄を投げ出し、春留の部屋があるマンションから飛び出した。
「くそっ……もっと早く戻れればっ―――」
列車の乗り継ぎがうまくいかず、思った以上に時間がかかってしまった。明るいうちに帰ってこれると思っていたのに、ようやく到着したのは日が落ち始めたころだった。
しかし、今さら悔やんでも仕方がない。那津は黄昏の中を、学校へ向かって走り続けた。
「やあ春留。昨日は楽しかったね。大平も宇野も大喜びだったよ。宇野は今日、二日酔いとかで来れないそうだが」
「そうかい。そいつは残念だな」
春留らしい受け答えだったが、その声にはいつもの覇気がなかった。
まるで自分が温室の主ででもあるかのように、奥の長椅子にどっかり腰を下ろしてにやにや笑っている惣領に、殺意にも似た凶暴な感情が湧き上がる。
どけ、ここは那津の楽園だ、そこは那津の場所だ―――斯様な言葉を必死に呑み込んで、春留は何とか平静を装った。
「春留、そんなところで突っ立ってないで、僕の傍へおいでよ」
春留は返事もせず、ただ言われた通り惣領の許へ。そして隣に座った。すると惣領はポケットから銀色に光る輪を取り出し、春留の両手首にカチャリとはめた。
何かと問うまでもなかった。手錠で拘束された春留をうっとりと眺めつつ、シャツのボタンを外してゆく。
「春留……今日は何をして遊ぼうか……ん？」
「好きにしろよ」
惣領は愉しげに目を細め、
「それじゃあ、天井の鉄パイプに手錠ごと君を吊るした状態で、後ろから犯そうかな。どうだい？ 楽しそうだろう？」
「わくわくするね」
そんなことはやめてくれと、春留が泣き叫ぶわけはないと分かってはいる。分かってはいるのだが、実際にこうして醒め切った一瞥を投げ付けられると、自分という存在がますます卑小なものに貶められてゆくような錯覚に襲われる。
いや、錯覚ではないのかもしれない。春留の身体を嬲れば嬲るほどその存在はより崇高さを増し、それと比例して自分は惨めになってゆく。
一体どうしたら、彼の全てを征服することができるのか。自分に泣いてすがらせることができるのか―――
「そうか。ではさっそくお楽しみを始めるとするか」
しかしもう後戻りはできない。それに、まだ始まったばかりなのだ。諦めるのは早い。
惣領は立ち上がり、片手で手錠を掴み上げ、片手で春留の腰を抱いて無理やり立たせた。そして大平に向かい、「天井からロープを吊るせ」と命令した。
大平が言われた通りにしている間、惣領は春留の股間に手を突っ込んでペニスを弄りながら、くちゅくちゅ音をたてて唇を吸い上げた。
「惣領、用意ができたぜ」
大平の呼びかけに応じて唇を離し、ロープに吊り下げようと手錠ごと春留の腕を持ち上げた。金属の輪が手首に食い込んで、鈍い痛みが走る。しかし春留は決して声を上げるまいと、歯を食いしばって耐えた。
その時、何の前触れもなく突然温室の扉が開いた。誰もがハッと息を呑み、次の瞬間、驚きの余り言葉を失った。
温室の本物の主が、普段の彼からは想像もつかない険しい表情で飛び込んできたのだ。
「明神……何故ここに………」
茫漠たる口調で惣領は呟いたが、すぐに我に返って嫌らしい笑みを向け、
「悪いな、明神。僕の可愛い恋人は、こういうプレイが好きなんだよ。僕は止めたんだが、どうしても君の温室がいいって言われてね。そうだな？ 春留」
「………ああ」
さすがに那津と目を合わせることができず、春留は俯いたまま力ない声で同意した。
「そう……ですか―――」
那津の声は微かに震えていたが、その表情に比べれば穏やかだった。惣領は那津を与しやすいと判断したのか、阿るような笑顔を貼り付けたまま「悪かったね。僕らは出ていくから」と言って大平に目配せをした。
その瞬間―――
「ぅぐッ………」
那津の拳が惣領の頬にめり込み、身体ごと吹っ飛ばされて背後の用具入れに叩きつけられた。ぽたぽたと垂れる鼻血を見てパニックになった惣領は、四つん這いになって逃げ出そうとする。
しかし那津は許さず、首根っこを掴んで力任せに引きずった。大平は惣領を助けようとしたが、那津の静かな剣幕に圧倒されて立ち尽くした。その剣幕に驚いたのは、春留も同様だった。
「お…おい、明神！」
那津は温室のビニールシートを捲り上げ、そこから惣領の身体を表てに引きずり出した。春留も慌てて外に出る。
「待てッ、明神！ どこへ―――」
那津はそのまま温室の北側へ回る。そこには、春留を脅迫するために用意された、石油入りのポリタンクが置いてあった。
那津は惣領の身体を投げ飛ばし、
「温室に火を点けたければ、点ければいい」
ぞっとするほど冴えた声でそう言うと、自ら石油をぶちまけた。温室だけではなく、惣領の身体にも。そしてポケットからライターを取り出した。
それを見た惣領の顔はみるみるうちに蒼褪め、歯がカチカチと鳴り出した。
「や……やめ……やめろっ…………」
「どうした？ 点けろよ、ほら。これで紫堂先輩を脅迫したんだろう？ ただのハッタリだったのか？」
那津はライターをずいと突き出し、
「それとも、俺が点けてやろうか？」
「ぅ……ぅぅぁ………うわああああッ」
惣領は恐怖に我を失ったのか、叫びながら那津を突き飛ばし、そのまま逃げ出した。
「そ、惣領っ、待ってくれよぉぉ………」
大平も情けない声を上げて、惣領の後を追って走り去っていった。那津は後を追うことも惨めな後ろ姿を見送ることもせず、ライターを握り締めたまま温室をじっと見つめるばかり。
「明神、お前どうして―――」
旅行へ行っているはずの那津が何故ここに来たのか、そして脅迫について何故知っているのか。分からないことばかりで春留は戸惑いながらも、項垂れる那津にそっと声を掛けた。
すると那津は春留の方を見ようともせず、真っ直ぐ温室に近付く。そしてライターを点火した。
「なっ………何してんだ明神！ 危ねえだろっ」
「温室に火をつけます」
「おまえ……何言って―――」
春留の顔は一気に蒼褪めた。惣領からどんな行為を強いられても顔色を変えず、平然と受け入れてきた春留だったが、那津の常軌を逸した行動にはうろたえた。
「や、やめろ……明神………」
「嫌です」
迷いなくきっぱりと答える那津の手は、しかし、震えていた。丹精込めて世話してきた温室に、火を放とうというのだ。いくら揺るぎない決意を持っていたとしても、やはり苦しいに違いない。
それでも那津は手を引っ込めることなく、ライターの火をビニールシートへ近付ける。
「明神ッ、何故だ！？ この温室はお前が蘇らせ、愛情もって―――」
「だって、こうしなければあなたは分かってくれないでしょう！？」
那津は泣いていた。両目からとめどなく溢れる涙が、ライターの炎を受けてきらきら輝く。那津は涙を拭うことなく、声を嗄らして叫んだ。
「温室よりあなたの方がずっと大事だって、こうでもしなきゃ分かってくれないんだ！ だからッ―――」
そしてビニールシートに火を近付けた。が―――
「やめろっ」
春留が飛び出して、温室を庇うように立ち塞がった。両手は手錠で拘束されたまま。それでも強い目で見上げ、
「やめるんだ、那津」
柔らかく深みのある声で名前を呼ばれた那津は、ライターを消してだらりと手を下げた。そしてさっきまでの凶暴さなど微塵も感じさせぬ、迷い子のような眼差しを送る。
春留は優しく微笑んで那津の胸に顔を寄せ、
「この温室には、お前との楽しい思い出が詰まっている。だから燃やさないでくれ」
「先輩……」
那津はライターをぽとりと落とし、震える両手で春留の身体を抱き締めた。言葉にならぬ想いを込めて。
春留も抱き返したかった。けれど拘束された手では、シャツにしがみ付くことしかできない。仄かな汗の匂いに心地よく酔いながら、春留はぽつりと呟いた。
「……お帰り、那津」
「ただいま………春留」
そうして二人は抱き合ったまま、互いの温もりにどれだけ飢えていたかを思い知った。
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